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青蓮の眼


  ≪壱≫

 十二月中旬、古都奈良の猿沢池のほとりに一人の女の子がたたずんでいた。

 深い緑色の襟が特徴的なセーラー服を着ているので、付近にあるカトリック系の名門『明日香学園』の生徒である事は、地元の人ならばすぐに認識できた。

 だが、学校が休みでもない平日の、しかも午前中に何故ここに居るのかという理由を正確に分かる者はまずいないだろう。


「………」

 『こんな所にじっと立っていたら風邪をひくよ』と幾人か通り過ぎる人が、親切に声を掛けてくれたが、少女は虚ろな笑みを浮かべ、大丈夫ですと首を左右に振るだけであった。

 だが、そんな事が何回も繰り返されるとさすがに少女もうんざりしたのか、静かな場所を求めて目と鼻の先にある興福寺の境内へ移動した。

 観光シーズンを外れているので、境内には数人の参拝客と、そして奈良公園名物の鹿達の群がちらほらと見受けられるだけであった。

<鹿さえもああして群を為して生活しているのに、今の私には…>
 
 数日前の事件、それが自分の日常を全て引っ繰り返してしまった。
 その事に戸惑いを覚えるとともに、周囲の人間の気遣いをも煩わしく感じている。寄る辺を見失った浮き草のような物、それが今の自分の状態だった。


 気が付くと、鹿の一匹が少女に向って近寄って来た。
 無意識の内にその頭を撫ぜようとして、少女ははっとする。

<駄目ッ>

 彼女の怯えを野生の勘で察したのか、鹿はくるりと向きを変えまた群の方につと戻っていった。

<私のこの両の手は…人を殺した手なんだから…>

 自分の両手をじっと見る。折からの寒風で、すっかり蒼白くなっているその手は、他の人から見れば象牙を刻んだような美しいものに見えるだろう。
 だが、今の少女には気が付けば掌から血が滲み出してくるのではないかという妄想が頭からこびり付いて離れない。


「嬢ちゃん、鹿は嫌いなん?」

 境内の片隅でお土産を売っている初老の女性の声がふいに耳に飛び込んできた。

「え、ええ、ちょっと動物は…」

 嘘をついている、そう思いながらも自分の不自然な所作を取り繕う為にとっさに言葉を紡ぐ。

<本当は動物は大好き…、だけど今の私の両の手は穢れているから>

「?!」

 自分の両手が、突然暖かい手に包まれた。

「あんた冷たい手してはるなー、こんなに冷やしたら体を悪くするわ」

 そう女性は言うと、自分のおごりだからと店で売っているホットコーヒーの缶を一つ少女の掌に押し込んだ。

「ご親切にありがとうございます」

 にこにことしている女性の親切に報いる為、少女は貰ったコーヒーを開け、一口こくりと飲む。

「あんた、関東から引っ越してきたばかりだね」
「えッ」
「はは、言葉を聞いたらすぐに分かるわ。それじゃあ、ここに来るのも初めてやろ。そやったら、おばちゃんが少しここの寺の説明したるわ」

 女性は自分の隣に座るように勧めてから、指差しながら境内に残る建物を一つ一つ説明していった。


「ここは南都北嶺(なんとほくれい)と称せられて、中世には京都の比叡山と互いに僧兵と呼ばれる武力を抱えて争そっていた程、勢力のある寺だったんよ」
「仏門の人も武力を使うのですか」
「まあ情けない限りの話やけど、当時はそれだけ世の中が物騒だったちゅう事やろなあ。闘わなければ我が身を護る事すらおぼつかない、でも強い力を持つという事は、それだけ敵も増えるという事にも繋がったんやろ…」


 歴史上幾たびも焼き討ちに有った為、現在創建当初の堂宇は何一つとして残されていないのだと言う。

 それでも現在まで受け継がれている物はいくつかある。
 一つは庶民の信仰の対象としての、西国三十三ヶ所第九番札所としての顔。


 そしてもう一つが

「素晴らしい仏像が沢山残されてる、これは本当に奇蹟的といってもいいやろね。例えば嬢ちゃんの目の前、草っぱらしか見えないと思うけれど、よく見ると石が幾つか転がってるんが分かる?」

 目を凝らしてみると、確かに枯れかかった叢の間から、平べったい白い石が幾つか顔を覗かせている。

「あれは礎石ゆうて、建物の基礎に使われていた石なんよ。建物は焼けても石だけは残ったんね。あそこには、西金堂(さいこんどう)って建物が有った跡でな、天平時代に光明皇后が、母橘三千代の追善供養のために造らせた仏像が安置されてたんよ。その中に有名な阿修羅像も含まれていてな、火災でお堂が焼けた時に皆が必死に運び出したと伝えられてるんよ」

 今は警備上と保管上の問題があるので、近くに作られた国宝館で見る事が出来ると女性は教えてくれた。

「折角ここまで来なさったんだったら、見に行ったらどうやろ。他にも色々見所も有るし」


 少女は女性の言葉にそれ程強い感銘を受けた訳では無かったが、阿修羅ならば教科書でも見た事があるし、どうせ来たのならばついでにという気持ちで、教えてもらった国宝館に立ち寄る事にした。




  ≪弐≫

 入り口で学生一人分の入場料金を払い、やや照明を落としてある場内にそっと入った。さほど広くはない館内だったので、女性に教わった阿修羅像はすぐに見つける事ができた。


 等身大よりもやや小柄な仏像は、三面六臂(さんめんろっぴ=顔が三つ、腕が六本)の複雑な形をとりながらも、あくまでも軽やかに静かに佇んでいた。


「……………」


 少女は凍りついたようにその場を動く事が出来なかった。

 阿修羅像もまた、ガラス越しに自分を見つめる少女を、眉をひそめ憂愁をたたえた表情で見つめ返していた。


「阿修羅とは、本来は闘いの神だったんですよ」

 振り向くと墨染めの衣を身に纏った老僧侶が、優しい笑みを浮かべて立っていた。

「闘いの…ですか」

 そんな猛々しさがまるで無いこの像を、少女はもう一度じっと見る。

「あ…ッ」

 向って左側の顔は、かすかに唇を噛み締め、敵を威嚇しているように見える。

「そう、阿修羅とはもともと梵語(サンスクリット語)で、A(非)SRA(天)、つまり神ではない悪魔であるという意味の言葉から生まれたと言われています」

 仏法の守護者である帝釈天(インドラ)と激しい争いの末敗れ、仏法に帰依したと言われているのだ、と僧侶が話をする。

「日本でも、修羅の道とかという言葉が有りますが、修羅道とは仏教の中の六道の一つで、人間界の下に位置し、常に闘いに明け暮れている世界だと信じられています」
「常に…闘いの世界」

 それは今の人間界、いや自分の置かれた立場がそうなのではないかと感じられた。
 自分は修羅道を歩んでいるのか。それならば、それに相応しい人間に生まれ変わらなければいけないのだろうか。


「これは女の子には相応しい話じゃ有りませんでしたね」

 少女が厳しい顔をしたのを、違う風に解釈したのか、阿修羅には別の面も有るのだと話を更に続けた。

「確かに阿修羅は闘いの神という意味で日本にやってきました、でもあなたはこれを見てそう感じなさいましたか?」

 右側の顔を見て御覧なさいと、指差す。


 少女の瞳には余りにも穏やかな右側の顔、そして、再び正面の深い憂いを瞳に宿した顔の二つが交錯する。

「アスラという言葉には、もう一つ意味が有るのですよ」
「……」
「ASU(生命)RA(生みだす)、つまり太陽神として西方、今のイラク辺りで本来は祀られていた神だったのが、インドの仏教に呑み込まれていつの間にか悪神に変化してしまったという事です」

 その証拠として一番上に左右に高々と上げられた両の手は、太陽と月を掲げていた名残なのだと言う。

「本来ならば左右の二段目の腕には弓矢を手挟んでいたのですが、それはいつの間にか失われてしまいました。そして残ったのが、この穏やかに合掌し、憂いを秘めた瞳で我々を、いや遥か虚空を見据える美しい仏像だけです」
「…本来は良い神様だったのに、宗教に呑み込まれて悪神に変えられて…。私にはこの顔は阿修羅が我が身を嘆いているように感じられてなりません」

<本来ならば普通の人として生をまっとうできるはずだったのに、《力》が芽生えたが為に異形の者に姿を変え、そして…死んでしまった莎草君…>

「娘さん、あなたが何を悩んでおられるのか、私は踏み込んでまで聞き出そうという野暮な真似はしないつもりです。けれどもこの事は、お節介な年寄りの言葉として覚えていて欲しい」

 老僧侶は少し表情を引き締める。

「仏像と言うのは、所詮人が作った物。そこに宿るのは仏の心ではない。それを作った、そしてそれを仰いで祈りを捧げてきた人々の心が宿っているのですよ」

 僧侶にしては大胆すぎる発言に、俯いていた少女も驚きで顔を上げる。

「これが作られた時代、日本は疫病による被害、貧富の差、貴族による政治闘争と、今の平和な世の中では想像も付かないような、不安と恐怖と絶望に彩られた世の中だったといいます。そんな時代、彼らは戦としての神よりも、生命を育む太陽神としての阿修羅を求めたのだと私は考えています」

 我が苦しみを共にしてくれという願いを込めて、更にはこの苦界を救う為に《力》を使って欲しいという祈りをあの憂愁の表情に変えたのではないかと言った。

「そして強い願い、祈りの気持ちは時として人智の思いもよらない造詣を生み出すことがある。我々が今ここで目にしているのは、貴重なそれらの例の一つでしょう」
「願い、祈りが形となって…そこに宿るのは人の心…」

 僧侶の言葉を口の中で反復する。

<─────!?>

 知らない間に両目の端から涙があたかも真珠の粒のようにぽろりと零れ落ちた。

「ましてや、我々生きている人間にはそれぞれココロを宿しています。時として自分の嫌な面を見、時として傷付く事もあるでしょうが、それだけが全てではないのです。阿修羅が闘いの神として伝えられたが、それでも人はそこに本来の生命の神としての姿を見出したのと同じ様に」

 分かるかなという優しい眼差しに、少女は涙を拭おうともせず正面を向く。

「はい」

 その表情には微かだが、何かを掴みかけた者だけが宿す清々しい光を放っていた。

「…良い表情です。娘さんを見ていると、まさに【青蓮の眼】とはこういう物なのかという気にさせられます」
「しょうれんのまなこ…」
「青蓮の眼とは仏の眼。青い蓮の華を仏の眼に喩えてそう言われるのです。むべなるかな、蓮の華は汚泥より咲き出でる。仏も泥中をもがいてもがいて、そして光を見出したのだと私には思えて為りません」

 すっかり長話をしてしまって申し訳無かったと、老僧侶はそう言い残して立ち去ろうとした。

「あ、あの──」

 咄嗟に呼び止めようとする声に、今度は老僧侶が不思議そうな顔をする。

「色々と教えていただいて、ありがとうございました」

 今日の日の事は忘れません、そう少女は言いながら頭を下げた。

「いやいや、私はただ勝手な事を話していただけで、私の方こそ娘さんとの出会いは忘れないよ」

 僧侶は東大寺の一角に塔中を構えているので、もし機会があれば遊びに来なさいと言ってくれた。

「少し外れの方に有りますが『竜樹院』という名前ですので、探せば見つかると思います。その時はもっと明るいはつらつとした顔を見たいですね」
「いつか…必ず伺わせてもらいます」

 その言葉には、何か覚悟を決めた強さを含んでいた。

「最後に娘さん、あなたの名前を教えてもらえるでしょうか」
「はい──」

 少女は自分の名を告げた。
 その声は風鐸のように玲瓏と堂内を駆け抜けていった。

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