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チイサナwonder land


 人気の無い学校の武道場内で、龍麻は1人ぽつんと座り込んでいた。

「………遅いな……」

 何度目かの同じセリフを口にして、龍麻はぼうっと床を眺めていた。もうかれこれ2時間近くはここにじっと座っている。もう最終下校の時刻はとっくに廻っているし、どうしたものかと悩みながらも、この場から動けずにいた。

 何故龍麻がこんなところで1人でいるのか。それは、今日の午後行われた剣道部の交流試合の応援に行ったことから端を発していた…。




 4月最後の土曜日の午後、区立体育館では近隣の高校数校の剣道部による交流試合が行われていた。
 日頃は幽霊部長として悪名高い京一も、この日ばかりは真面目に顔を出さない訳にはいかなくなり、出場が決まったのだったが、余りに急な予定に(それもこれも日頃サボってばかりで、事前まで情報が入って来なかったのが原因だったのだが)結局応援に行けるのは、部活動等に参加していない龍麻ただ1人しかいなかった。

 しかし、そのことに京一はがっかりするどころか、

『ひーちゃんが応援に来てくれるんだったら、是が非でもカッコ良いトコみせてやるぜッ』

 それと試合終わったら一緒にラーメン食いにいこうなッ、といつもと同じセリフを言い置くやいなや、一足先に教室から全身にヤル気をみなぎらせ駆け出して行った。
 その凄まじい勢いにしばし呆然とさせられた龍麻も、葵から手渡されたメモを片手に、試合会場へと後を追うように出かけていった。


 会場内は既に大勢の人で賑わっており、それらの中には龍麻と同じ真神学園の女子生徒の姿もかなりの数見受けられた。これは一体どうしてなのだろうかと首を傾げかけたが、

『今日は蓬莱寺センパイも試合に出てくるんだよねッ』
『アタシ、超楽しみにしてたの〜〜』

 彼女らの辺りはばかることの無いおしゃべりが、その理由を端的に説明してくれる。

<人気が有るって言うのは前々から聞いていたけれど、これ程とはね>

 見れば他の学校からも女子生徒らが同じ目的でわざわざ来ているようで、あらためて彼が人気者であるということを認知させられた。

<そういえば私、京一君が剣道する姿って初めて見るんだわ…>

 仲間としてすでに幾つかの事件を潜り抜けているはずなのに、案外と日常的な姿を知らなかった自分に対して苦笑を浮かべる。
 知らずにいたのは自分も彼らに素の顔を見せまいと構えていたから、ある意味当然のことだったのだが───


 試合は順調に進行し最終試合まで残り数試合という時になって試合場に京一が姿を現すと、一段とどよめきが大きくなった。

 だが京一は普段の軽薄な様子は微塵も見せず、じっと目前の試合の経過を見据えている。そして面をつけると、自分の右側に置いていた竹刀を握り、やおら立ち上がった。


 審判の合図の声のもと、会場中が固唾を呑んで京一の一挙手一投足に注目する。

<普段の戦闘の時とは感じが全然違う…>

 ぼんやりと考えを巡らせたその刹那、京一の竹刀が乾いた派手な音を会場中に響き渡らせた。

 武道で鍛え抜かれた龍麻の瞳には、京一の竹刀が開始早々、相手の面に振り下ろされるまでの正確無比な一連の動き全てを捉えられたが、大半の観客たちは今何が起こったのかを全く理解出来ずにいた。

 それ程までの、目にも留まらぬ鮮やかな速さで繰り出された一太刀だった。

 水を打ったかのように静まり返っている試合場の中央では、何事も無かったかのように試合開始そのままの位置に悠然と立っている京一の姿と、鋭い太刀筋で面を取られた衝撃からずるずると片膝を突きながら崩れ落ちようとする対戦相手の姿とが好対照を成していた。


「一本!」

 審判の判定と同時に、観客たちは一斉に呪縛から解き放たれ、その日一番の歓声が湧き上がった。


 勝者である京一が観客席の方に顔を向けると、女子高生らの黄色い声がさかんに浴びせられる。それらに愛想良く手を振って応えながら、端正な顔に屈託の無い笑顔を浮かべている。
 そんな京一を見ている内に、龍麻は彼の勝利を讃えながらも、心が次第に暗澹たる想いに沈みつつあるのを感じ取る。

 龍麻はその光景に背を向けると、未だ興奮の覚めやらぬ会場を静かに抜け出した。




<あんな京一君、初めて見た…>

 会場の外に一歩出ると、柔らかく視界を新緑に染め上げるように降り注ぐ日差しが、より一層龍麻の気持ちを滅入らせた。

<今日、ここに来なきゃ良かった。だって嫌という程思い知らされたもの…。京一君は、私のような人間に関わるよりも、やっぱりああいう世界でこそ存在するに相応しい人なんだってことを…>

 その気持ちを即態度で示そうと、龍麻がこの場からさっさと歩き始めたその時、鞄の中で携帯の着信メロディーが鳴り始めた。

 すぐに聞き分けられる京一からの電話の音にやや逡巡したが、黙って帰るのはいくらなんでも失礼かと思われたので、おずおずと通話ボタンを押す。

 向うから流れ出したのは予想通りやや不機嫌そうな声だった。


『あのさ、ひーちゃん…』
『京一君…』

 勝手に会場を出てごめんなさいと謝ろうとした龍麻の言葉よりも先に、

『副部長のヤツ、これから学校に戻って全員でミーティングをおっぱじめるとかって言い出しやっがって。ったく、サイテーだよな。試合には勝ったんだから、もうそれで解放してくれたっていいじゃねェかッ』

 不満を包み隠さず龍麻にぶちまける京一の言葉が、つらつらと流れ込んでくる。

『でもよ、応援にわざわざ来てくれた礼もしなきゃなんねェしな…。悪いけど、ひーちゃんも一旦学校に戻って待っててくれねェか。あッ、けど教室だと小蒔なんかが嗅ぎ付けてくる可能性もあるな…それはちょっとマズイぜ……』

 うーんと唸りながらも京一は、武道場だったらこの時間ならもうどこの部も練習していないことに思い至り、しかもそこなら部室にも近いから尚更好都合だとうなずくと、じゃあ必ず待っててくれと一方的に約束をして電話を切ってしまった。

『…ひょっとして、これだと私に選択の余地が全く無くなったってこと……?』

 もうッと口を尖らせると、龍麻は仕方なく学校の方に再び足を向けた。




 武道場の入り口を開けると京一の言う通り、そこには全く人気は無く、ただ武道場特有のぴりっとした空気が広がっていた。入り口で靴と、ここが武道場であるという憚りから靴下までも脱ぎ、中に入る。

 ひたひたと素足に伝わる木の床の冷たさが、先程までの興奮に浮ついた会場の熱気を身体から拭い去ってくれるようで、今の龍麻にはひらすら心地よかった。

 やや奥まった場所まで移動して腰を下ろすと、後は何をするということも無いので、先程電話によって途中で打ち切られた思考へと自然に心が傾いていく。



<あんな京一君、初めて見た…>

 教室で小蒔やアン子をからかっている時の表情とも違う──
 醍醐に何やらよからぬことを吹っ掛けて楽しんでいる表情とも違う──
 そして…
 未知の敵を前に、警戒心と好戦的な感情をない交ぜにしている表情とも──

 一方で先程の京一の姿が鮮烈に浮かび上がる。

 闘いを前に、気持ちを落ち着かせようと集中している表情
 そして…勝利の後の、清々しい笑顔…

<闘った末の勝利だったら幾度と無く一緒に味わっている、でも、さっきのような笑顔は見たこと無い…>

 相手を斃した後、京一がわずかに見せるほろ苦い表情。龍麻はその顔なら何度も見ていた。


<私に関わらなければ、あんな表情とは無縁で済んだのに…ごめんなさい…>

 龍麻は目の前にいない京一に謝罪の言葉を呟く。

<京一君は、やっぱり私とは違う世界で生きていくべき人なんだわ…>


 そう思いながらふと自分の足先に目を転じると、指先や足の裏に幾つも出来ている血豆の大半はすでに硬くなり、皮膚の一部と化している。亡き実父の親友であった鳴瀧の元、激しい稽古を積み重ねた、それは何よりの証だった。

<もうすっかり普通の女の子の足じゃなくなっているよね…>

 そして多くの命を葬り去った自分の罪の証でもあるのだと、そっと手を足先のそれらに触れながら喉の奥で押し殺した笑い声を出す。

<辛いな…これから先、こんな気持ちを抱えて京一君と一緒にいるのは…>

 降り注ぐ光が眩しければ眩しいほど、自分の足元に付きまとう影は、よりくっきりと暗さを際立たせるから。
 痛みでひび割れた心は、無意識の内に相手の優しさを求めてしまうから…。


 あの事件以来凍り付いたままの自分自身の心と重ね合わせるかのように、ただひたすら武道場の床の冷たさに身を委ねていた。




「長い間待たせちまって悪いッ」

 ようやく京一が武道場に飛び込んで来たので、龍麻は慌ててその場で立ち上がった。

「済まねェな。思ったより長引いちまって…」

 京一は大股で龍麻に近付くと、突如として歓声を上げる。

「おおッ、珍しいッ!ひーちゃんが生足だぜッ」

 京一の浮かれた様子と自分に向けられた視線の強さに、龍麻は弾かれたように再びその場に座り込み、スカートの裾で自分のつま先まで隠そうとする。

「何だよもったいない、折角綺麗な足してんのに。別に隠す必要ねェだろッ」
「でも……」

 醜くなった足先を京一の目に晒したくないないという羞恥心から、より身を縮こませる龍麻に業を煮やし、京一はスカートの下に隠された龍麻の足先に自身の裸足の足先を忍び込ませ密着させる。

「キャッ、冷た…」

 京一の足の裏の冷たさに、無意識に身体だけが反応して足を宙に浮かせてしまう。
 その足と床との間に出来た隙間に

「えッ?」

 京一の足が割り込んできたので、龍麻は京一の足の上に自分の足を乗っける格好になってしまった。

「や、やだッ。何するの京一君」

 おまけに京一の大きな掌にすっぽりと自分の足を包まれてしまったので、そこから動かすこともままならない。

「何って、冷たくなってるから俺が温めてやろうと思って…」

 当然のことだととぼけて言い放つ京一に、龍麻は抗議の声を上げる。

「お願い、恥ずかしいから止めて」
「いいじゃねェか、ここにはもう誰も来ねェし」

 いつもの様な人懐こい笑顔を閃かせてから、不意にそれをすっと打ち消す。

「京一君……?」

「悪ぃな。こんな冷え切っちまうまでずっと待たせちまって…」

 珍しくしみじみとした口調の京一だが、次いでやや咎めるような目つきで龍麻を見返す。

「けどよ、何もこんなに冷え切るまでじっとしてることはねェだろ。自分の身体はもっと大切にしろよな」

「………私の足なんて…汚いもの…」
「そうか?俺の目には綺麗に見えるけどよ。ま、ここのボロい床で汚れちまったのかも知れねェが…」
「違うの。そういう意味じゃなくて……」


──私は罪で汚れているの…だから京一君は傍に居ないほうがいい…

 喉の奥まで出かかった言葉を、だが同時に湧き起こった別の気持ちが引き止めさせる。


──私…寒いの…心が……だから本当は傍に居たいの…………


 傍に居ては彼の為にならないと分かっていながら、一方で傍に居たいと願う…。いっそ自分の内面を洗いざらい吐き出してしまえば、こんな矛盾した気持ちから解放されるかもと思いながらも、そうすれば彼が自分から離れていくような気がして、その恐怖に怯えている。

 だから、ようやく口を開いて出た言葉には、自分の本心をほんの僅かしか滲ませられない。


「…………このまま私と一緒にいたら京一君も冷え切っちゃうよ」

 つくづく臆病者なのだと、龍麻はそんな自分自身にあきれ返る。


「そんなことねェって。確かに今、ひーちゃんの足先は冷たく冷え切ってるけど、でもひーちゃんの座ってたトコは、何故だか今も温かいぜ」

 もしかしたら、ひーちゃんの持つ優しい《氣》が、不思議な温かさを生み出したのかもなと口元をほころばせる。

「………嘘だわ…」

 そんな言葉、とてもじゃないけれど信じられないと、俯いてしまう。

「嘘じゃねェって。それに俺としては、あんだけ待たせたのにも関わらず、ひーちゃんは帰らずにじっとここで待ってくれていた、その姿だけでも十分心まで温めさせてもらったけどよ」
「………本当に?…」
「疑り深いな…。そりゃ、まだ出会って1ヶ月も経ってないから、俺をまるまる信用できないってのも無理はねェか…」

 龍麻は京一の言葉を、やはり顔を下に向けたままだったが、きっぱりと首を振って否定する。

「サンキュ。それじゃ1つ、俺から試合に勝ったプレゼント代わりに頼みごとがあるんだが、聞いてくれねェか?」

 龍麻はようやく顔を上げると、何を自分に対して望むのだろうかと思いながら京一をじっと見詰めた。

「ひーちゃん…たとえどんなに小さくでもかまわねェから、俺の居場所を作ってくれ」
「……………」
「ま、あんまり小さいのも考えもんだから…そうだな、せめて足のサイズぐらいでももらえれば、充分だけどよ。そうすりゃ…一緒に歩いてけるからな」

 そこまで言うと、京一は急に顔をまた真顔からくるりと茶目っ気に溢れたモノに変貌させる。

「まずはその第一歩として…さっさとラーメン食いに行こうぜ。俺もう…腹減って今にもブッ倒れそうだし、ひーちゃんだって腹減ったろ?」

 京一が真っ直ぐに差し伸ばした手を、龍麻は柔らかく握り返しながら立ち上がった。

「………………京一君…………ありがとう……」


 龍麻の胸中では、その時、予感めいた想いが密やかに息づき始めた。
  ──この足の下に広がる世界を愛しく感じられる日が来るかもしれない…

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