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挽歌 後編


 ≪七≫

 一人きりなった龍麻は、帰り掛けに葵と小蒔が手渡してくれた、アルバムに目を通す。

 殆ど開かれる事がなかったのであろう、アルバムの中の写真は撮影された時のまま、瑞々しい色を残していた。

 初めて見る、実の両親の姿。
 その姿に食い入るように見入っていた為、玄関の方で遠慮がちに戸を鳴らす音を認識するのに、大分時間がかかってしまった。


 玄関を開けると、そこには京一が一人立っていた。
 どうしたの?と聞く龍麻に、さっきは皆がいたから話しそびれて、と少し照れながら、龍麻の前に鍵を差し出す。

「これは、この家の鍵?どうして、これを京一君が持っているの」

 京一は、あの事件の直後、鳴瀧に助けられた事、そして彼が別れ際にこの鍵を自分に預けて行った事を話した。

「…一応、お前の許可をもらっとこうと思ってさ。嫌だったら、お前に返す」

 真剣な表情をしながら、龍麻の審判を仰ぐ京一を、龍麻はくすっと笑いながら、持っててくれる?と小声で言った。


「それより、京一君。一緒に、アルバム見てくるかしら」
「えッ、俺なんかが見ていいのかよ」

「うん。何だか一人で見るの、ちょっと怖いし。京一君だったら、私の弱い所も分かってるし、安心出来るから。…京一君に、私の両親を紹介したいの…」

 京一は否も無く、龍麻の言葉に従ってもう一度部屋に入る。

「何だ、まだ1ページ目しか見てなかったのか…。どれどれ、これがお前の実の両親か…」

 その写真は、2人が結婚を上げた直後に撮ったものだろうか。和装姿の夫婦の姿が其処には写し出されていた。長い黒髪の女性は、ちょっと雰囲気が葵に似ているような気もしたが、龍麻と瓜二つの美貌を笑顔で彩っていた。
 傍らの男性は、引き締まった身体と、いかにも武道家というきりりとした風貌の持ち主だった。その真っ直ぐで包容力のある眼差しは、これまた娘である龍麻に引き継がれていた。


「似合いの夫婦、って感じだな。お前の父親もさぞかし強い男だったんだろうな」
「何でそう思うの?」

 訝しげに聞いてくる龍麻に、京一はにやっと笑う。

「だって、こんだけ美人のオネーちゃんと結婚できたんだぜ。さぞかし、ライバルが多かっただろうなって。お前、母親にそっくりだよな〜。俺もライバルを蹴散らさないと」
「もう、ふざけないで」

 ふくれっつらを見せる龍麻を、いとおしげに見やりながら、京一は、俺は褒めたつもりなんだけどなあと言い訳する。

「それより、続き見てみようぜ」

 京一に言われ、次のページを捲る。

 今度は、道場での撮影なのだろうか、両親と若き日の鳴瀧冬吾が共に写っていた。

「へえ〜、鳴瀧さんて、若い頃はこんなにほっそりしていたんだ。今はすごくがっしりしているのに」

 今と同様の黒い胴着に身を包んでいる鳴瀧は、抜き身の太刀のようにしなやかな身体を写真の中に残していた。
 その目付きも、今の包容力に溢れた優しい目とは違い、孤独で淋しげな光を鋭く発していた。


 その後も、友人達と写っている写真が何枚か収められていた。

「あっ、これは父さんと母さんだッ」

 指差した写真には、実の父とその兄である育ての父が肩を組み、その前では実の母に、育ての母である眞百合が無邪気に抱きついている光景が、神社の杜を背景に写されていた。

「母さんらしいな、誰にでも人懐こく抱きつくなんて…」

 生前の親交の深さを窺える、ほほえましい写真に、龍麻も笑顔が知らずに浮かぶ。


 京一は、別の写真に目を通し、その背景に写っている人物にギョッとする。

<まさか、あいつか──!?でもピントがあってねェから、イマイチ確認出来ねェ>

「どうしたの、京一君。何か気になる写真があったの」

 何でもねェよと、京一は次のページを慌てて捲る。



『───!!』

 2人はそのページを見て息を呑む。そのページには見覚えのある場所が写っていたのだった。


 桜ケ丘中央病院の中庭、そこのベンチに腰を掛けて至福の笑みを浮かべる母の姿。
 背後には白衣を纏った同世代位の長身の美女が立っていた。

 その写真の下には、端正な字で書き込みがされていた。

『今日、病院で待望の赤ちゃんを授かった事を知らされました。あの人と私を繋ぐ絆を』

 その後にも、妊娠中の母の姿が収められた写真が、いくつも貼られていた。
 そのどれもが、誇らしげに輝くような笑顔を浮べて写っていた。


「お母さん…」

 龍麻の声が湿り気を帯びてきた。
 もはや龍麻には分娩を控え入院中の病室で撮影された母親の写真を直視する事が出来ない。


「ごめんなさい…。こんなに私の誕生を心待ちにしていたのに…」

 そっと顔を背ける龍麻を、京一が自分の胸元にまで引き寄せる。

「いいんだぜ、泣きたくなったら泣けばいい。俺の薄っぺらな胸でよけりゃ、いつでも貸してやるぜ」

 龍麻の背中をポンポンと、気持ちが落ち着くように叩きながら、京一は病室での写真をじっと見る。
 その写真は、母親はベッドの上で、何やら書き物をしていた所を撮影したもののようだった。女性の手には白い封筒が握られていた。

 その封筒に見覚えがあると思ってふと床を見ると、多少色あせたようだが、それと同じ封筒が未開封のまま置かれていた。学校の校門で、院長先生が龍麻に渡すようにと高見沢に持って来させた封筒だった。

「ひーちゃん。この封筒の中身は、恐らく母親がお前に宛てた手紙だ。…読んでみた方がいい」

 龍麻は京一の胸元から顔をあげ、ゆっくりと封筒に手を伸ばし、震える指先で封を開けた。
 中には、先程の写真に添えられていたのと同じ筆遣いの文章が書かれていた。



 愛しい我が子へ  

 あなたがこの手紙を読んでいる時は、いったい何歳になっているのかしら。

 もしかしたら、まだ文字も分からない子供の時だったりして。
 それとも、私のように、誰かを愛して、その幸せに包まれている時なのでしょうか。


 いずれにしても、あなたがこの手紙を読んでいる時、私はもうこの世にはいないでしょう。

 この日が来る事は前から分かっていました。

 でも、私は自分の命を賭してもあなたを産みたいと頼んだのです。
 あなたのお父様も、私の我儘を分かって下さいました。 
 御免なさい、あなたを抱く事も出来ない身勝手な母親を、どうか許して下さい。

 でも、あなたにも何れ分かって貰える日が来ると、信じています。
 人を愛する事、愛される事の素晴らしさを知る日が来る事を願っています。


 人は死ねば、魂と化して愛しい人を護ると言われています。
 私も、たとえ姿は見えなくとも、何時までもあなたとあなたの父上を見守っています。


   九月、桜ケ丘中央病院にて    緋勇迦代



 龍麻は言葉も出ず、ただぼうっとした面持ちで、手紙を広げている。

 京一は覗き見は悪いなと思いながらも、背後から文面を読み、龍麻の母親の、まだ見ぬ子供に寄せる愛情を窺い、凄い母親だったんだと、改めて敬意を表した。


「ひーちゃん、次のページを見ようか…」

 かなりの時が経って後、京一は次の写真を見ようと、龍麻を促す。


「うん…」

 素直に頷き、龍麻が次のページを捲る。

 今度は生まれたばかりの自分のお宮参りをしている姿が写っていた。真っ白い産着を着ている自分を抱き上げているのは、実の父親だった。

 その写真にも、今度は別の筆跡で文字が添えられていた。

『花園神社にて。妻が遺してくれたたった一つの宝物の、幾久しい無事を祈願する』

 よく見ると、母の死も知らず無邪気に眠っている自分を、父親は優しい目でそっと見守っていた。


「良かったな、龍麻。お前は望まれて生まれてきたんだって事がこれではっきりしたろ」

 京一の言葉に、龍麻は強く頷く。
 嵐が過ぎた後の空のように、澄み切った光を宿す瞳を京一は惚れ惚れと見直す。


「じゃあ、最後のページを見るとすっか」

 最後のページには、見慣れない風景の写真が登場した。
 
 日本なのかどうかも定かではない、どこかの村で龍麻は、父親の足元をしっかりと紅葉のような手で握りしめてはにかんで写っていた。

「やっぱ可愛いな〜。ん、この赤ん坊は誰だ?」

 その中の一枚に、生後間もない赤ん坊の頬っぺたに、自分のふっくらとした白い頬を摺り寄せ、一緒に昼寝をしている写真があった。


「くっそー、添い寝をされるとは、不届きな餓鬼だッ」

 赤ん坊相手に嫉妬するのもどうかと思うが、京一は真剣に赤ん坊に怒っていた。

「この先はもう写真が無いみたい…。そういう事は多分、この後私は今の両親の元に引き取られたんだと思う」

 つまり、お前の実の父親が死んだのがこの頃なんだなと京一は腹の底で呟いた。


「ありがとう」
「ん?」

 わざとすっ呆けて見せる京一に、龍麻はもう一度、ありがとうと繰り返す。

「京一君が一緒に居てくれたから、最後までアルバムを見る事が出来たわ。本当に、私何も知らなくて、何を一人で悩んでいたんだろう…。こんなにも私の周辺には愛情が溢れていたのに…」

 自分の幸運を噛み締めると同時に、薄幸のまま散っていった比良坂兄妹を思い出す。


「…紗夜にはもっと幸せになって欲しかった。もっと早くに気が付いていれば…」

「龍麻、お前の母親の言葉を思い出せ。お前が余り悲しんでいると、先に逝ってしまった奴等が心配して悲しむぞ。紗夜ちゃんだって、お前の笑顔を護りたかったんじゃねェか」

「うん、そうね。京一君の言う通りね。…私、絶対今日の事忘れない。勿論紗夜の事も。でも忘れない事といつまでも悲しんでいる事は別だから。私、皆の笑顔を思い出せるように、頑張るから」
「ああ、それがいいぜ」

 京一は少し照れたような笑顔を見せる。

「それと、も一つ俺から頼みが有るんだが。もういい加減、俺の事名前で呼び捨てしてくんねェか。いつまでも君づけじゃ、余所余所しいぜ」
「うーん、ちょっと照れるけれど…」

 頬をちょっぴり赤らめてから、龍麻は微かに聞き取れる位の小声で、名前を呼んだ。

「京一…」

 聞こえねェなと、京一が顔を近付けて来たので、仕方なくもう一度名前を呼ぼうとしたが、その時、すかさず京一が龍麻の唇をさっと奪ってしまった。

「やっぱ、こっちの方がもっと良いぜッ!」
「京一ッ!!」

 顔を紅潮させて声を張り上げる龍麻に、その調子だぜ、と京一は至極ご満悦の笑みを浮かべ、また学校でな、と一声掛けて部屋から逃げ去っていった。

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