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Watermark 京一編 |
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![]() ≪壱≫ 京一は軽く声を上げてから、腕を伸ばし空を見上げた。 雲ひとつ無い、抜けるような青空。青天白日とはこういった空を指すのではないかと言うぐらい、見事な青色だった。 だが、それを見上げる者の口から洩れるのは溜息とぼやきであった。 「俺達は17歳、遊びたい盛りなのに…。見ろよ醍醐、空が青いぜ」 鬱陶しいと返事する醍醐に構わず、京一の言葉は益々エスカレートする。 「青い空といえば海。海といえば──水着のひーちゃん。二人で仲良く泳いでよー、ビーチバレーして、バーベキューの後、花火して…そして燃え上がる浜辺の恋。そんな二人のめくるめく甘い一夜が──」 「妄想に逃げるのもいいが、京一、お前、ここが何処だが分かっているのか」 「んなこたぁ、分かってるよ」 醍醐の冷静な言葉に、京一はむすっとして返事する。そして、空を眺める為に窓の方を見ていた顔を後ろに向ける。 「夏休みだってのに、このクソ暑い教室で、俺たちゃ英語の補習の真っ最中」 「その通りだ。分かってるんだったらさっさと──」 その言葉を無視して、京一は自分の机をがたがたと揺すって、まるで小さな子供が駄々をこねるような動作をする。 「うおォォォォッ!俺の夏を─、俺の青春を返せ──!!太陽のバカやろ────ッ!!」 うだる暑さの上に、京一の傍若無人な態度に、流石の醍醐も怒りが込み上げてきたのか、さっさと手を動かせと、拳をみしっと机の上に押し付けながら命令する。 「…。あ〜あ〜、たかがテストの成績がちょっと悪かっただけなのによォ」 「それは俺の台詞だ。事件続きで勉強が疎かになっていたツケは払わなきゃいかん。だが、お前は──遅刻は常習、無断欠席は多い、授業はサボる。おまけにカンニングだッ。よく退学にならなかったもんだ…」 「ふん、そんなコトぐらいで退学にされてたまるかッ。あん時、ひーちゃんがちょこっとでも俺に答え教えてくれりゃー、こんなトコで野郎と二人、暑苦しく勉強なんかしないで済んだのに。あーあ、帰りてェ…。喉が渇いた──、腹減った───ッ」 ついに醍醐はプチッと音を立てて、自分の中の我慢の糸が切れたのを自覚した。 「うるさいッ!!少しは自分の行動を振り返り反省しろッ!大体、龍麻がカンニングなんか許すわけ無いだろう。それに、同じ様に事件続きだったにも関わらず、龍麻は学年一番の成績、他の二人にしても然りだ。それだけでも、己の今の状況を恥と思い、自業自得と反省して大人しく補習を──?」 京一の様子を見て、醍醐は驚愕の余り言葉を詰まらせる。 「お前、何してんだ?」 やっとの事で言葉を発する事が出来た醍醐に、京一は例の愛嬌のある笑顔を頬の当りに浮べて答える。 「い、いやァ、マリア先生が戻ってくる前に、窓からそーッと…な」 3−Cの教室が三階に有るという事も大した問題でないといった気軽さで、京一は窓から外の木を伝って脱出し様とする。 「お前、逃げる気だな!!」 怒鳴る醍醐に、声がデカイと京一は眉を顰める。 「だって、暑いんだよ〜。それにひーちゃんが…」 京一は昨夜の龍麻との電話を思い返していた。 ≪弐≫ 夜の11時過ぎ、家族と同居している女の子の家に掛けるのには度胸がいる時間だが、幸いひーちゃんは一人暮らしだ。俺は、掛け慣れた番号を素早く押し、彼女の声が受話器に出るのを待つ。 「もしもし、京一?」 3コール目で、ひーちゃんの透き通るように甘い声が俺の耳に流れてくる。どうやら俺の電話は着信メロディが別になっているらしく、この電話は俺からだと分かっているような口調に、何だか恋人同士みたいだなと、ちょっぴり感激したりした。 「こんな時間にどうしたの、もしかして…」 確かにこんなに夜遅くに掛ける事は滅多に無い。ちょっと心配げな彼女の声は、しかし次の言葉で俺の甘い気持ちを粉々にしてくれた。 「鬼道衆に襲われてるの?それで、助っ人に来て欲しいって訳?」 たかだか17歳の花の女子高生が言う台詞かーッ、俺は受話器を持ったまま、がっくりと首を曲げた。 「…ちょっと京一、私の声が聞こえているのッ」 「ああ、バッチリ聞こえてるぜ…」 俺の溜息も向こうにははっきり聞こえたのか、ひーちゃんもようやく自分の考えが思い違いだった事に気が付いてくれたようだ。 「ゴメンね、早とちりして。それで、何か私に用でも有るの?」 その口調に、用でも無けりゃ電話を掛けちゃマズイのかと内心ドキッとする。 俺は、ただ夏休みに入ってからひーちゃんと顔を合わせる事が無かった為、ただ何となく声を聞きたかっただけだったんだが。 「い、いやあ、その、明日から学校で補講が始まるんだけど、その、何だったらひーちゃんも一緒に受けねェかなって」 「…………」 無言の反応が返って怖い。俺は頭をフル回転させて、もっと自然な理由を捻り出そうとした。 「べ、別に勉強のほうじゃなくて…えっと、そう、修行。旧校舎で修行を一緒にしないかって事だよ。お前、道場の方にはしばらく通えないって言ってただろッ」 こういう時の頭の回転の良さは、我ながらほれぼれとする位だ。これが醍醐だったら、きっとこの時点で撃沈して電話を切っている筈だ。 だが、その返答は俺の言葉を簡単に撃破した。 「ああ、それだったら心配いらないわ。実はね、雨紋君から自分が稽古に通っている龍蔵院に今度一緒に稽古に行かないかって誘われたの」 「何ィー」 あの電撃バリバリのピ○チュー野郎。年下の分際で、ちゃっかりひーちゃんに取り入りやがって。奴はひーちゃんの前では、可愛い後輩を気取ってるからな、油断大敵。 「でも、奴は槍使いだろう?ひーちゃんとはまったく闘い方が違うぜ」 俺は内心の動揺をひた隠しにし、表面的にはあくまで硬派に武道の話に持っていく。 「あら、京一からそんな言葉を聞くとは思わなかったわ。だって、異種格闘技大好きでしょう。あの時だって、私が嫌だって言ったのに席を外してくれなかったじゃない」 どうやら醍醐と初めてサシで闘った時の事を、まだ少し根に持っていたらしい。あれは俺じゃなくて、醍醐が言い出したことなんだから、悪いのは醍醐の方だ、と言いたかったが、ぐっと堪える。 「それに、これからの闘いに備えて、色々なスタイルの人と稽古するのはとても大切だと思うの」 「…おっしゃる通りです」 「それにね…」 おいおい、まだ続きが有るのかいと、俺は心の中でちっと舌打ちをした。 「紫暮君からも、実家の道場だったらいつでも稽古に来てくれて構わない、歓迎するぞって連絡をくれたの」 あの堅物からもかーー。あいつは醍醐以上に色恋沙汰とは無縁に思っていたんだが、人は見かけに寄らないとは奴の事か。あのドッペル君、実は存在だけではなくて性格も二重だったのか? 「皆、友達思いのいい人ばっかりだよね」 しかもひーちゃんにかかったら、下心丸出しの仲間の奴等までも皆『いい人』になってしまう。危険だ、実に危険だッ。 「ひーちゃんッ!」 俺は思わず声を大きくしてしまった。 「はいッ」 その声に驚いたのか、受話器の向こうのひーちゃんの声も少し緊張した物に変化した。 「ひーちゃんとその友達が、互いに思いやりがあるという事は、俺も骨身にしみて感じ入ったぜ。それだったら、奴等に俺なりに礼をしようと思ってさ」 俺の中に、邪悪な、もといある種純真な気持ちからの作戦が浮かんだ。 「旧校舎の地下って、色々と昔のスゲエ武器が転がってたじゃねェか。それを回収して、ここは一つ、日頃お世話になっている仲間の皆さんにプレゼントしようじゃないか」 「えーッ?それだったら…」 ひーちゃんは、それだったら皆と一緒に旧校舎に行けば済む事じゃないと言って来た。それじゃ、俺の計画が台無しだ。 これはあくまで、俺とひーちゃん二人きりになる事が狙いなんだから<すでに考えが外道レベル> 「こういう事はこっそり隠れてやった方が、効果はデカイんだぜ」 「う…ん、そういうものなのね。分かったわ」 俺の熱意が通じたのか、ひーちゃんは快く応じてくれた。だが、話はそれで終らなかった。 「あ、やっぱり明日は駄目!」 俺は大きな音を立てて、その場に倒れた。そん時受話器を手放さなかった所だけは根性有ると褒めて欲しいくらいだ。 「な、何で…」 「明日は如月君のお店に行く事を前から約束してたの。何でも私に用が有るんですって」 何ですとーーーッ!あの出歯亀の所へ、一人で、遊びに行くッ!!(注:この場合の意味は、変態的なことをする男、好色な男を指しています。京一には如月の宿星の事なんて、まだちっとも分かってません) よりによって、旧校舎よりももっと危険なスポットへ…。 「それにね、この前買い物した時お金が足りなかったでしょう。あの時のお金も清算しようと思って。この間皆で旧校舎行った時拾った道具を下取りするのをすっかり忘れていたから…。京一のお陰で忘れていた約束を思い出せたわ、本当にありがとう」 「………どういたしまして」 ひーちゃんは爽やかな声で俺に礼を言うと、夜も遅いから京一のお宅にも迷惑になるしもう電話切るねと言って会話は終了した。 ≪参≫ 「あの野郎…」 思い出すだけでムカムカとしてきた京一は、思わず独り言を漏らす。 「何訳分からん事を言っているんだ」 京一の考えていた事なんて、まったく想像出来ない醍醐は、京一の顔が百面相にころころと変わった挙句、意味不明の言葉まで飛び出てくるので、既に理解不能状態だった。 「醍醐〜。そうだッ、お前も一緒に行こうぜッ!今からでも(まだ、如月の毒牙から護れるハズだ)遅くない。俺と夏の思い出を作りに行こうぜッ」 「京一、お前…、暑くてどうかなってるな。さっさと課題を終らせてから、何処かへ涼みに行こう」 醍醐は余りにも意味不明な事を繰り返す京一を、いよいよ補習の為におかしくなったのかと気の毒に感じ始め、少し同情を覚えた。 京一は急に優しくなった醍醐の様子に、とまどって硬直する。その二人の耳に気持ちを現実に戻すチャイムの音が流れ込む。 「ちェッ、第一よォ、やろうにも問題が分かんねェんだよ。日本人は日本語だけ喋りゃいいんだ。学校で英語なんて教える方がおかしいんだよ。なァ醍醐、終ったら見せてくれよ」 「懲りない奴だな…。時間的にもそろそろマリア先生が戻ってくるぞ。真面目な振りをしているだけでも、印象は雲泥の差だぞ」 せめて振りだけでもしろと諭され、京一の不機嫌さの水位は再び上昇し、ふんッと鼻から荒々しく息を出す。 「それにしてもセンセー遅ェなァ。俺がまたカンニングしたらどうするつもりなんだッ」 「今、していただろう…」 「人聞きが悪りィな、まだ、してねェよッ!」 「まだ、か。やれやれ、京一に監視は不可欠だな」 「マリアセンセーがつきっきりで、手取り足取り──いろんなコトを教えてくれんなら、補習も大歓迎なんだけどなァ」 <ひーちゃんじゃ、こんな事を言ったら龍星脚を一発喰らって昇天するのがオチだがな> 妄想が既に大暴走し始めている京一だった。 「あのなァ京一。マリア先生だって貴重な時間を割いて付き合ってくれてるんだ。余り失礼な事を言うとバチが当るぞ。いいから、少しでもプリントをやっておけ」 醍醐の言葉に間髪を入れず、扉がすっと開かれ、マリアが二人きりしかいない教室に入ってきた。醍醐はその気配に、自分の席にきちんと座りなおす。 「うわッ、やべェ」 京一は今の自分の会話が筒抜けだったんじゃないかと、内心ヒヤヒヤしながら同じ様に自分の席に真面目に座る。 「フフフッ、何がヤバイのかしら?蓬莱寺クン」 「えッ、い、いや、その…セ、センセーと海になんか行ったら、そのセクシーバディに悩殺されちゃって、俺なんかもーーヤバイかなって…、あ、あはは…」 誤魔化し笑いをする京一だが、マリアは真面目な表情に変わる。 「蓬莱寺クン。どうやら、手元のプリントは真っ白のようね?」 京一は引きつった笑顔をつくる。 <やべェ、マジでマリア先生を怒らせちまったかーー!> 「笑って誤魔化しても、ダメよ。来週早々、もう一度来てもらいますからね」 京一の補習延長決定の瞬間である。 「嘘だろ〜?!!」 「あきらめて、この夏は勉強に専念なさい。心配しないで、私も付き合ってあげるから」 マリアの言葉に、醍醐はよかったじゃないかと先程の京一の台詞を茶化して笑う。 当の京一は、どうせセンセーが付き合ってくれるんだったら、他の所に行きてェよとぼやく。 「フフッ、あら醍醐クンは一応全部埋まっているみたいね」 「何ィ〜?きッたねェぞ、醍醐。お前、いつの間に終わってやがったんだ!!」 「お前が海だ、山だと騒いでいる間に…だ」 京一が醍醐のプリントを除くと、確かに問題を最後まで終らせている。 「補習は意欲の問題だから、醍醐クンは合格ね」 マリアは、出来不出来は不問にして、と前置きしてから醍醐のプリントを受け取る。 「それじゃ、途中で逃げ出さずに最後まで頑張ったのだから、今日は良しとしましょう」 やったぜッと喜ぶ京一を指差して、醍醐はここにさっき、逃亡しようとした奴がとマリアに報告する。 京一は焦って、馬鹿、余計なコト言うんじゃねェと醍醐を睨みつける。 「フフフ、英語はマスターしておいて損は無いわよ、蓬莱寺クン」 「…ひーちゃんと同じコト言ってる」 京一は先だっての、龍麻の家での勉強会で、同様の事を彼女から言われたのを思い出した。 マリアは、緋勇サン?と言ってから、少し考え込んでいる表情をする。 「まァいいわ。もうお昼も回っているし、今日はこれまでにしましょう」 部活動で学校に来ている者以外、人少ない校舎の廊下を醍醐と二人で下駄箱に向って歩いていると、醍醐がそう言えば、来週生物の補習も無かったかと訊いてくる。 「そういうお前だって数学の補習あるだろッ。あ〜あ、そういや犬神の所に問題集を取りに行かなきゃなんねェ」 最悪だなと言いながら、渋々京一は職員室に方向転換する。 「蓬莱寺、入りま〜す」 だれきったセリフで職員室の扉をガラッと開けると、中には犬神だけが残っていた。 「どうやら忘れずに来たようだな、大方醍醐に言われてだろうが」 図星を指された京一は、それでもさっさと帰りたいが為、反論する事無く大人しく問題集を受け取る。 「来週までに20ページやってくるように」 「20ッ!マジかよー」 「…それでお前の壊滅的なテストの点数を清算してやるんだ。感謝こそされ、不服を言われる筋合いでは無いと思うんだがな」 「………」 威圧的な犬神の言葉に、京一は黙って課題を受け入れる事に決めた。 <まあ、またひーちゃんに教えてもらえばイイか…> そんな京一の心の中が見えたのか、犬神は自力で解けよと釘を刺し、最後に忠告を言う。 「夏休みだからと、余り浮かれないようにな…」 ≪四≫ 「こんなん一人で解けるかーーッ」 犬神から渡された問題集を前に、俺は自分の部屋の中で絶叫した。 「やっぱりひーちゃんに聞いた方が…」 ちらっと机の上の時計を見る。時間は夕方の6時を回ったところだ。 彼女の携帯に助けを求めようかと思ったが、もしかしたらまだ如月の店に居る可能性もある。そんな所に掛けたら俺の恥を公にするだけだと判断し、仕方なくそのまま床にゴロっと寝転がる。 「俺だって中学の頃は、もうちょっと成績良かったんだけどな〜」 中学時代は、大した努力をしてた訳じゃなかったが、それでも真ん中位の成績は確保していた記憶がある。そうじゃなきゃ、都立の学校になんか合格できない。 尤も、俺も醍醐も5教科以外の成績が抜群に良かったから内申点の関係で、学科のテストはそれ程いい成績を弾き出さなくても合格できたのかもしれないが…。 それに、戦前からある都立の学校の、いわゆるナンバースクールって奴は、戦前の男子校・女子高の校風が色濃く残ってるらしく、真神の場合は戦前は府立高女だった関係で、圧倒的に女子生徒の方が優秀な奴が多い。 <それでも同じ位の学力の奴等が合格している学校で、また優劣が付けられるってのも、ある意味怖い世界だぜ> 俺は別に自分の今の成績を、特に悲観している訳じゃない。努力していないから、その見返りなんて奴も期待してないだけだ。 だが、この学校に来ている奴等は、中学時代はそこそこ勉強が出来た奴も多いはずだ。 そんな奴が、高校に来て下の方の成績に位置付けされりゃ、それこそ立ち直れない位落ち込むか、もしくは道を踏み外すか…。 <もしかして、佐久間のアホもそういう輩だったりしたのかもな> あッ、今、俺佐久間のゴリラ面を想像した!いかん、もっと美しい物を連想しよう…。 「…ひーちゃんはそう考えると、やっぱスゲェよな。どんな所でもトップに立っちまうんだから」 何でもアメリカじゃ、2年も早く高校の勉強を終了させてたり、挙句の果てにゃ、何とかっていう有名大学に通ってたり、俺とは雲泥の差って感じだよな。 第一、勉強が楽しいっていうのが、既に違う。 ただ、普段のひーちゃんは、よくある優等生臭さっていうのが薄い感じがする。 どんな奴とでも気軽に話をするし、どんな奴にでも優しい。 それにしっかりしているようで、意外な所で世間知らずだったり、天然ボケだったりもする。 「そういう所が、俺が護ってやるという保護欲を刺激させるんだよな〜」 いつの間にか、俺の頭の中は生物の課題から、今後のひーちゃんとの付き合い方の対策に切り替えられていた。 また脱線してしまった。まずい、とっととヤな事は終らせないと…。 「京一、電話よ〜ッ」 階下からお袋が大声を張り上げている。 そんなにデカイ家じゃねェんだから、大声出さなくても充分聞こえるぜ、と心の中で言ってから<本人に言ったらどエライ報復が返って来る。蓬莱寺家は男性より女性の方が上位に立っている家だったのだ>俺は部屋の入り口から顔を出して、誰からだよと聞き返す。 「緋勇さんってクラスメートの子からよ」 多分、お袋が最後まで言葉を言い切るか言い切らないかの間に、俺は階段下にある電話の所まで神速の速さで辿り着いていた。目を白黒させているお袋の手から、ぱっと受話器を奪い取る。 「ごめんね、昼寝しているところを…」 お袋め、俺が日中部屋にいる=昼寝と決め付けやがって。 俺は、軽く咳払いをしてお袋を追っ払うように目線で合図すると、別に昼寝してたンじゃないから、全然構わねェぜと返事する。 「そう、今日は朝から勉強だったから、さぞ疲れただろうなって思ってたから。元気そうで安心したわ」 「ひーちゃんこそ、今日は如月の店に行ったんだろ。…元気そうだったか」 別に如月が元気かどうかなんて俺の知ったこっちゃねェが、こういう時は儀礼上聞いて置くのが、大人のオトコってもんだ。 「うん、今日は色々と興味深い話も聞かせてもらって…」 ひーちゃんの言葉に、何か奥歯に物が挟まったようなものを感じたが、それでもひーちゃんの声は明るく元気だったので、俺は別段気に留めなかった。 「それにね、途中で雨紋君も遊びに来たの」 雨紋の奴、あいつはストーカーか?と、受話器の前に拳を突き上げて、見えない相手に怒りの鉄拳を喰らわすポーズを取る。 「雨紋君てね、何でも大の忍者フリークなんですって。それで、如月君が忍びの家柄だって知って、しょっちゅう遊びに来るようになったそうよ」 「そ、そうか〜〜。ははは、それは如月の奴の困った顔が目に浮かぶな」 やっぱあいつはガキだぜと、思わずにんまりとした笑いが口元に浮かぶ。 「…これで一人脱落だな」 「…何の事?」 やべッ、思わず本音を漏らしちまったぜ。不審がるひーちゃんの気をそらさないと…。ッて、何でひーちゃんがわざわざ俺ん家まで電話を掛けてきたんだ?こんな事今まで無かったぞ。 「ところで、ひーちゃん、俺に何か用か?」 「えッ」 電話の向こうの声が、一瞬ひっくり返ったように聞こえた。 「そうだ、肝心な事を伝えて無かったわ。…今度の土曜日の夕方、空いてるかしら」 「別に、特に用事はねェぜ」 俺の心の中の早鐘が段々大きくなってくる。これって、ひょっとして… 「本当、そしたら一緒に隅田川花火大会に行かないッ」 やっぱり、これってデートのお誘いって奴だろッ。しかも、ひーちゃんの方から! 「行く、絶対行く。たとえ台風が来ようとも行くぜッ」 神様サンキューッ。人生楽ありゃ苦もあるさとはよく言ったもんだぜ ひーちゃんが他にも何か言っていたようだが、天にも昇る心地の俺にはよく聞き取れなかった。 「それじゃ、土曜日の夕方ね。待合せ場所はまた連絡するわ」 「おうッ、それじゃあな」 はああー、早く来ねェかなーーー。こんなに週末が待ち遠しい気分になるなんて…。 うっとりした気持ちで、俺は自分の部屋に戻る。 「ん?」 目に入ってきた物を見て、俺は自分の迂闊さを呪わずにはいられなかった。 「やべぇ、せっかくひーちゃんから電話が有ったのに、こいつの事を教えてもらうの忘れてたぜッ」 やっぱし、人生って楽ありゃ苦があるのかーーー。 俺の場合、まずはこの生物の問題集が乗り越えなきゃならねェ壁っていう奴か…。 「格好悪いけど、も一度ひーちゃんに連絡しよう」 |
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