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Watermark 龍麻編


≪壱≫

「これでよし、と」

 龍麻はコンロの上にかけていたお鍋を台から降ろし、用意しておいたパレットに流し入れる。

「後は冷水で冷やし固めれば出来上がりね」

 久方ぶりにお菓子作りに励んでいるようであった。1人分にしては大分多い量からして、恐らく何処かに差し入れするつもりで作ったのであろう。

 使った道具を粗方洗い終えると、

「あッ、もう出かける時間になってる」

 そのまま細く冷水を流し冷やす作業を続行させておき、龍麻は付けていたエプロンを手早く外し、自分の寝室のほうまでパタパタと走り去った。

 15分後、生成りの麻のワンピースに着替えた龍麻は、半ば固まりかけたそれをタッパーに移し、それと幾つかの道具類を大切に風呂敷で包むと、風呂敷を右手に、左手には日傘を持って家を出発した。


 外に出た瞬間、うだるような暑さに一瞬眩暈(めまい)を覚える。

<はあ…どうして東京ってこんなに暑いのかしら…>

 幼少時代より比較的乾燥した風土で過ごして来た龍麻にとって、このモンスーン気候特有のじめじめとした暑さは何よりも耐え難いものだった。

<こんな中、学校で補習を受けている京一と醍醐君、さぞ辛いだろうな…>

 2人は午前10時現在、3年C組の教室で補習を受けているはずである。半ば自業自得とも言えるが、4月から7月にかけて起こった一連の事件が、彼らの勉学の妨げの要因の一つであることは疑いようが無い。

 それでも高校最後の夏休みは楽しく過ごすんだと、京一は今までになく<当社比>勉強をしたのだが、ちょっとした行き違いが天国と地獄の分け目を彼に垣間見させた。そしてその原因の一端に龍麻が繋がっていることも…間違いではなかった。

<それに、昨日京一を怒らせちゃったから…醍醐君さぞかし八つ当たりされてるんだろうな…>

 龍麻はなるべく日陰を探しつつふらふらと力なく歩きながら、夕べの京一からの電話を思い返していた───




  ≪弐≫

「ふわぁぁ…ねむ…」

 私は先日図書館で見知らぬ男子高校生と交換の形で借りてきた本から顔を上げると、大きく欠伸(あくび)をした。
 机の上にはカルアミルクの注がれたマグカップ。こちらは先日遊びに来た藤咲の置き土産だった。
 甘くてちょっぴりほろ苦いコーヒー風味の口当たりの良さにつられ、ついつい飲み干してしまった時には、酔いでふわふわと意識が身体から離れ飛んでいた。

<このままソファで寝てしまいそう…、もうベットに行かなきゃ…>

 本に栞<しおり>を挿むと、リビングの明かりのスイッチの明度を一番下の段階に落とす<真っ暗なのは気分的に滅入って嫌だから>

<うん?>

 部屋が薄暗くなったと同時に、リビングボードに置いていた携帯電話がピカピカと光る。
 続いて、パッヘルベルの『カノン』のメロディが私の耳に流れ込んできた。

<このメロディは京一から!>

 思わずドキンと胸が高鳴り、顔がやや赤くなったのが自分でも分かる。
 目線をビデオデッキの時計に飛ばすと、もう午後11時を廻っている。

<こんな夜遅くに電話をかけて来られた例が無い、もしかして───>

 私は最悪の事態に備えて、深呼吸を一つすると恐る恐る携帯を取った。

「もしもし、京一?」

「ひーちゃんか…夜遅くに悪いな」

 いつも聞き慣れているよりも少し声音を落としている京一の声が耳元で聞こえ、その常とは違う大人っぽい様子に、私は思わずゾクッと身震いをしてしまった。


 いけないッ、今はそれどころじゃないのだからと自分に必死に言い聞かせ、動揺する気持ちを鎮め、

「こんな時簡にどうしたの、もしかして…」

 出来るだけ心配しているような声を作り、自分から先制する。

「鬼道衆に襲われてるの?それで助っ人に来て欲しいって訳?」

 常日頃、こういった事件が起きた際──それは大抵夕方から夜にかけてなのだが──私たちのリーダーである醍醐君は、他の女の子たちが居残るのを極端に嫌がる。でも、私はいつもその中には含まれていない。
 頼りにされているのは嬉しいのだけれど、何だか自分は女の子として扱われていないようで、時々ちょっと寂しい気持ちが心の中を通り抜けるのも事実だった。

 はッ、私今考え事したから京一の返事を聞いていない、ってアレ?京一返事してくれたっけ…

「…ちょっと京一、私の声が聞こえているのッ」

 必死に呼びかける私に、電話の向こうからため息とともに声が流れてきた。

「ああ、バッチリ聞こえてるぜ…」

 ん?受話器の奥から聞こえてくるのは『筑紫○也のNEWS23』?
 という事は…京一は今、自宅……。

「ゴメンね、早とちりして」

 自分の思い込みの激しさに、より一層顔が赤くなる。ということは、事件とは別件…

「それで、何か私に用でも有るの?」

 気恥ずかしさから、やや口調が固くなってしまったのは自分でも致し方ない。
 京一もそんな私の詰問調の言葉に、少しためらいを覚えたようで、やや間を置いて言葉が返ってきた。

「い、いやあ、その、明日から学校で補講が始まるんだけど、その、何だったらひーちゃんも一緒に受けねェかなって」
「……………」

 そ、そうよね。この間の試験、あんなに頑張って勉強したのに、私の貸したノートがあだとなって全部追試・補講という結果に終わってしまったんですもの…。せめて補講ぐらい一緒に付き合えと京一が思うのは当然だわ。

 そういえば、この間の成績発表の後、アン子が真顔で言っていたわ。『あのバカ、このまんまじゃ本当に卒業できないんじゃない』って。

<どうしよう、そうなったら私──ごめんなさい、京一!>

 だが、京一はそんな私のショックを感じてくれたのか驚いたのか、うろたえた様子で別の話題に切り替えてくれた。

「べ、別に勉強の方じゃなくて…えっと、そう、修行。旧校舎で修行を一緒にしないかって事だよ。お前、道場の方にはしばらく通えないって言ってただろッ」

 やっぱり京一は優しい。こういう時にさり気なく気遣いを見せてくれる。
 それは転校直後からだったけれど。

 でも…今は彼の好意に甘えて、彼自身の勉学の妨げになってはまずい。だから…。

「ああ、それだったら心配いらないわ。実はね、雨紋君から自分が稽古に通っている龍蔵院に今度一緒に稽古に行かないかって誘われたの」

 心苦しい気持ちで、私は京一の好意を断った。
 これは本当の事だった。

 ただし、もう稽古に一緒に行ったけれども。
 でもその時のことを話すと京一が怒るのは分かっていたから、敢えて黙っていた。

<あの時は、最悪の精神状態だったから…紗代を失って…>

 こう言っても、彼が不機嫌になるのは分かっていたから。

「何ィー」

 案の定、既に京一の声は不機嫌な方向に逆戻りしていた。

「でも、奴は槍使いだろう?ひーちゃんとはまったく闘い方が違うぜ」

 それはそう、だけれども私たちの闘いは武道の試合ではない。
 お互いがフィフティー・フィフティーの立場で闘えるという保証は何処にもない。
 
 命と命をやり取りしている、その覚悟を持たなければ…こんな事を言ったら京一もっと怒るだろうな…。
 
 仕方なく私は別の理由を記憶の底から引っ張り上げる。

「あら、京一からそんな言葉を聞くとは思わなかったわ。だって、異種格闘技大好きでしょう。あの時だって、私が嫌だって言ったのに席を外してくれなかったじゃない。それに、これからの闘いに備えて、色々なスタイルの人と稽古するのはとても大切だと思うの」

 えーと、ちょっと待って。私今凄く偉そうな言葉を京一に投げ付けてないかしら?
 京一は全然悪くないのに、これじゃあ彼の方に非が有るように聞こえてしまう。

 私のキツイ言葉の連続に、心なしか京一の声は少し震えていた。

「…おっしゃる通りです」
「それにね…」

 そうだ、紫暮君だったら京一の親友である醍醐君とも親しいし、彼との稽古だったら京一も喜んで参加してくれるかも…。

「紫暮君からも、実家の道場だったらいつでも稽古に来てくれて構わない、(京一も)歓迎するぞって連絡をくれたの」

 これも本当の話だった。私は京一がいつも公園で1人稽古しているのを知り、それでは何かと修行も難しいだろうと、何かあったら京一も紫暮君の道場で稽古させてくれないかと頼んでいたのだった。
 紫暮君は、いつものように豪快に笑って、無論そんなことはお安い御用だと言ってくれた。

「皆、友達思いのいい人ばっかりだよね」

 京一から返事が返ってこない。
 もしかして、感涙にむせんでいる…訳ないわよね。

「ひーちゃんッ!」
「はいッ」

 突然の大声に、私はただ返事を返すだけだった。

<これは本格的に怒らせてしまった…どうしよう>

「ひーちゃんとその友達が、互いに思いやりがあるという事は、俺も骨身にしみて感じ入ったぜ。それだったら、奴等に俺なりに礼をしようと思ってさ」

 気のせいかも知れないけれど、電話越しにも京一から陰の≪氣≫が流れてきている?
 それに皆に礼を…礼、礼ってまさか…お礼参りッ!!

「旧校舎の地下って、色々と昔のスゲエ武器が転がっていたじゃねェか。それを回収して、ここは一つ、日頃お世話になっている仲間の皆さんにプレゼントしようじゃないか」

 本当に、そういう理由で?その割には、京一の声から伝わってくる陰の≪氣≫が益々強くなっているようなんだけれど。

「えーッ?それだったら…」

 私は控え目に、だが京一に皆と一緒に行けばそれで済むのでないかと提案した。
 間違っても、仲間の誰かを京一と一対一で行かせるのは危険だと、どこからかともなく私にそう囁く声が聞こえていた。

「こういう事はこっそり隠れてやった方が、効果がデカイんだぜ」

 やはり闇討ちに…。皆ごめんなさい、私が京一を怒らせてしまったばかりに…。

「うん、そうだね、分かった…」

<ここは私1人が犠牲になればいいんだわ>

 明日は私の命日になる、そう思ってカレンダーを見ると、ふと頭をよぎる約束が…。

「あ、やっぱり明日は駄目!」

 その瞬間、何かが激しくぶつかる音が受話器の向こう側から聞こえてきた。
 まさか、京一家の中で木刀を振り回しているの…。

「な、何で…」

 どうやら悔し涙を流している京一に、私はなけなしの勇気を振り絞り明日は駄目だと告げる。

「明日は如月君のお店に行く事を前から約束していたの。何でも私に用が有るんですって」

 最近私たちの仲間になった如月君は、まだまだ闘うことにかけてヒヨっ子の私たちと違って、代々飛水家の名にかけてこの江戸を護ってきた忍びの末裔。そんな彼が先日の闘いの後、私に用が有るといってきたのも、恐らくは今後の闘いに備えて訓令の1つでもしなければいけないと悟ったからだろう。

 それにもう1つ私は彼に借りがある。せめて命がある内に借りは返しておかなければ。

「それにね、この前買い物した時お金が足りなかったでしょう。あの時のお金も清算しようと思って。この間皆で旧校舎に行った時拾った道具を下取りするのをすっかり忘れていたから…。京一のお陰で忘れていた約束を思い出せたわ、本当にありがとう」

 本当に今までありがとう、と私は心の中で付け足した。

「………どういたしまして」

 京一の押し殺した声に、まだ半分恐怖を抱きながらも、もう夜も遅いしご家族に迷惑がかかってはいけないと思い、電話を終了した。

 その後私は1時間かけ遺書を書き上げ、そのまま床で寝てしまっていた…。




  ≪参≫

 北区にある如月骨董店に行くのはこれが3度目だった。前に訪れた時にも感じたのだが、ここはいつも空気が澄んでいた。

<それに、ここはいつも清澄な水の流れも感じられる>

「やあ、いらっしゃい」

 夏仕立ての縹色<はなだいろ>の和服を着こなしている店主、如月翡翠の様子が、暑い道程を耐えて歩いてきた龍麻の表情を、ほっとゆるめさせる。

 例の如くてきぱきと鑑定をして如月は勘定を済ませたが、最後に残っているモノにふと目線を飛ばす。

「これは…」
 
 空けてみると、中にはプルっと固まったわらびもちが入っていた。

「…東京では余り見かけないから」

 龍麻は自分の大好物であるわらびもちを、元になる粉を父の実家から送ってもらってチャレンジして作ってみたのだという。

「確かに、これは関西辺りで夏場によく食べる和菓子だからね。まさかこれも下取りに出すのかい」

 笑って言う如月に、ただのお土産ですと龍麻は返す。

「第一こんなの下取りしたって一銭にもなりませんよ」
「そんな事は無いよ。ましてや君の手作りだ、それこそ大金はたいてでも買おうとする輩は少なからずいると思うよ」

 だが、折角の心づくしをそんな売り物と同列に扱うのは失礼だと、如月は言い、

「じゃあお礼に僕がお茶を点てるから、奥の和室で待っていてくれるかい」
「如月さんて茶道部の部長さんですものね、それじゃあ、お手並み楽しみにさせてもらいます」

 店の奥の廊下を突き当たった処にある客間まで案内した。


「凄い、これは…」

 床の間や違い棚には、古今の名宝が鎮座していた。それらは全て非売品で、歴史的も貴重な物ばかりなのだと如月は説明してくれた。

 ため息混じりにそれらを眺めていた龍麻は、その中に先日も見た武具を見つけ出す。

「これは、この間…」

 先だって仲間たちと初めてこのお店に来た時に装着した【四神甲】だった。

「本当は非売品だったんだけれどね、君だったら使いこなせるかなと思って出してみたんだよ。どうだい、もう一回付けてみるかな」

 だが龍麻は首を左右に振る。

「いいんです、私にはまだ荷が重過ぎます。それに、そんなに貴重な品物だったなんて知っていたら…」

「使おうとは思わない、と言いたいんだろうけれど、道具はそれを使いこなす人が現れてこそ真の価値が生まれるんだ。僕はいつか君がこれを使ってくれる日が来ることを信じているよ」
「………」

 沈黙する龍麻に、如月は実は1つ見せたいものがあると、次の間から道具を持って来た。


「水鏡…ですか」

 銅で作られた水盤には、清められた水が湛えられ、その底には甲骨文字を髣髴とさせる古代文字がびっしりと掘り込まれていた。
 そして何よりも特徴的なのが、先程の【四神甲】と似通った四神の彫り物が、玄武と朱雀、白虎と青龍がそれぞれ向き合うように、淵を装飾していた。

「これも我が家に代々伝わる卜占(ぼくせん)の道具で、普段は水を張っても何も変化は起こらないんだ。だが」

 如月がその水面(みなも)に手をかざすと、微かな金属音とともに水面に漣(さざなみ)が起こる。

「……まるで吉備津神社の釜鳴りか、古代の探湯(くかたち)を連想しますね。如月さん、この現象はいつからなんですか?」

 その答えは龍麻の予想通り、今年の春頃からだった。

「僕が波立たせる事が出来たのは、前にも話したと思うが飛水家の守護神である玄武を中心とする所だけだったんだ。だが、最近この波動に異変が起きている…」

 もう一度如月が手をかざすと、確かに一番波立っているのは玄武の彫り物が施された場所だったが、もう1つ白虎の彫り物の辺りも微妙だが波動が見られた。それは不規則で不安定なものだったが。

「これって、凶事の前触れなんですか」
「……そうとも言い切れないだろう。これは元来地相と、四神の≪力≫を持つ者を選定する為の道具だと古文書にも残されている。だからこの現象がすぐに凶事に繋がるという訳ではない。今問題なのは、白虎の≪力≫を宿した者が目覚めつつあるという事象だ。それも、この波動からしてかなり不安定な目覚めになるやもしれない…」
「不安定な覚醒…、それはまるで…」

 まるで自分の時と同じではないかと、龍麻は危惧した。

 一体誰が目覚めるというのだろう、そう思いを巡らせた時如月と目が合い、はっと思い至った。

「如月さん、今日私を呼び出してわざわざこのような物を見せて頂いたという理由は、私たちの身近な人たちの中に、白虎の≪力≫を秘めている人がいるから、そうなんですね」
「…その可能性が高いと思う。白虎が反応し始めたのは、君たちと知り合ってからだからね。それで、龍麻君。済まないが君も一度でいい、この水鏡に手をかざしてくれないか」

 龍麻は一度息を飲み込んでから、緊張した面持ちで恐る恐る水鏡に手をかざした。

「あれ?」

 だが、如月のような波動は現れなかった。

 拍子抜けしたのも束の間、突如中央から水柱が上がり、覗き込んでいた龍麻と如月は上半身がずぶ濡れになってしまった。すっかり水がこぼれ出た水鏡を眺めやりながら、呆然と龍麻が訊ねる。

「………如月さん、この現象は一体…」
「古文書には書かれていない…な」
『………………』

 だが沈黙は長く続かなかった。見事に濡れ鼠になった互いの姿に、2人はたまらず笑い出す。
 ようやく笑いが収まった頃、店の方から人が呼びかけてくる声が聞こえた。

「よッ、如月サン元気にしてたかいッ」

 仲間の1人、雨紋雷人が遠慮無しにづかづかと店の奥まで入り込んできていた。
 聞き慣れた声に、龍麻も店の方に顔を出す。

「雨紋君、久しぶり」
「おッ、龍麻サン。こんなトコで会えるなんて」
「こんなところで悪かったな…」

 威厳を漂わせて如月が雨紋を睨むが、上半身ずぶ濡れの姿では効果半減である。

「2人して水遊びしてた訳でもなさそうだし、そのマヌケな格好はどうしたンです?」
「ちょっとした水の事故でね…。そうだ、龍麻君このままじゃ風邪を引いてしまうな…」

 如月は店の箪笥から浴衣を一枚取り出す。

「女性物の洋服は生憎置いていないので、これでよかったら着てくれないか」
「おッ、ラッキー!」

 今日は来て良かったと、雨紋ははしゃいだ声を上げて喜ぶ。

「やっぱり忍者屋敷にはカラクリが付きモンだからなッ。いつ来ても如月サンちは楽しいぜ」
「…頼むから僕の家を忍者屋敷呼ばわりしないでくれ。知らない人が聞いたら誤解を招く」

 龍麻が着替えている間、上機嫌の雨紋はあれこれと如月に話し掛ける。

「そうかな、忍者って格好いいと思うケドな…俺スゲー憧れてるのに」

 そう言いながら、今度は卓の上に置かれていたわらびもちに遠慮なく手を出す。

「美味いッ」

 ぱくぱくと口を動かし幸せそうな表情の雨紋の手元に、突然手裏剣が投げ込まれる。

「!!!!」
「食べていいと誰が言った…」

 雨紋は如月からの殺気に完全に気圧されていた。

「ふふッ、気に入ってくれたんだったら、今度また作ってくるわね」

 藍色に近い青地に、赤で朝顔の花柄が織り込まれた浴衣に着替えてきた龍麻を見て、如月は素早く手にした手裏剣をいずこともなく隠す。

「最高、すッげー似合ってるぜ」
「ありがとう、久しぶりに浴衣を着られて私もすごく嬉しいわ」
「そんなに喜んでもらえるんだったら、そうだ、それを貸してあげるから今度の土曜日に一緒に隅田川花火大会に行かないか」
 
 常よりも饒舌かつ積極的な如月に、龍麻も雨紋も少し驚いたが、花火大会と聞いて一も二もなく賛同した。

「俺サマも当然一緒に行っていいよな」

 行き掛かり上仕方ない、と如月は呟くと雨紋の同行を許可した。

「京一センパイが知ったら悔しがるだろうな…、今日だってさ」
「雨紋君、京一と会ったの」
「ああ、新宿の駅近くでヤサグレて歩いてる所をバッタリと。何でも龍麻サンにフラれたって言ってたから。それで俺サマはピンと来たんだ。ここに来てるッて…」

 やべ、バラしたと雨紋は口を閉ざした。だが、龍麻はそんな言葉は耳に入っていないような様子だった。

「私が、京一を、フッた…」

<昨日の会話のどこをどうつなげば、そういう結論になるんだろう>

 童話の一休さんのように目を閉じ、電話の前からの状況から冷静に判断を下していく。

<確か私少し酔っ払ってて…>

 約1分後、ようやく夕べの自分が著しくピントのずれた発想をしていたことに気が付いた。

「私、帰ります」

 さっと立ち上がり自分の荷物をまとめると、呆気に取られる男2名を残し龍麻はそそくさと店を出ていった。


「雨紋、貴様…余計な事を…」

 そこへ直れ、と如月は今度は忍刀を手に雨紋を睨みつけていた。

「ひーッ、マジでこえーよッ」


 だが、もう一度龍麻が慌てて店に戻ってきたので、如月は忍びらしく素早く忍刀を懐にしまう。

「ごめんなさい如月君。この浴衣、今度の花火大会の時まで貸してくれる?勿論無料(ただ)でとは言わないから」
「…構わないよ、君がその浴衣を着てくれるんだったら」

 龍麻の後姿を見送りながら、如月も、そして首筋に刃の冷たい感触を感じている雨紋も、今度の花火大会に招かれざる客がもう1人増えることを裏密並みの的中率で予想した。




  ≪四≫

 よし、6時になった。今だったらもう京一も家に戻っているわよね。
 雨紋君の話だと昼過ぎに新宿駅前にいたということは、京一はラーメンを食べに行った後、いつものようにどこかに寄り道しているはずだから<←もしかして歌舞伎町か>

 待ち兼ねたように、電話番号を押す。

「もしもし、蓬莱寺です」

 突然聞こえてきた女性<おそらくお母様>の声に、私は自分が京一の携帯の方にかけなかったことの迂闊さを呪った。

<し、しまった。ついうっかり連絡網の番号を押してしまった…出席番号前後だから>

「あ、あの、私緋勇龍麻と申します。蓬莱寺君のクラスメートなんですが…」
「ああ、京一だったら部屋で昼寝してるわ。待っててね、今叩き起こすから」

 私が二の句を告げる間も与えずに、お母様は電話を保留にしてしまった。
 そしてあっという間に京一が受話器に出てきたので、さすがに京一のお母様だけあってパワフルだと感心してしまった。

「ごめんね、昼寝しているところを…」
 
 けれども京一は昼寝してたンじゃねェから、全然構わないといつもの明るい声で返事をくれた。

「そう、今日は朝から勉強だったから、さぞ疲れただろうなって思ってたから。元気そうで安心したわ」

 私も安心した。京一は怒っていたのは私の勘違いだって分かって。そう思って聞くと、京一の声がとても優しいものに聞こえてくる。

「ひーちゃんこそ、今日は如月の店に行ったんだろ。…元気そうだったか」
「うん、今日は色々と興味深い話も聞かせてもらって…」

 いけない、さっきの出来事を思い出して笑いがこみ上げてきた。
 私は腹筋と奥歯に力を入れて、その笑撃に耐えた。

「それにね、途中で雨紋君も遊びに来たの」

 そうそう、今日の私とあなたの掛け橋になってくれた雨紋君のことも報告しなきゃ。

 でも、京一が落ち込んでいた姿を見たという話を私と如月君にしたことを告げたら、それはあの2人の関係にひびを入れてしまう。
 京一ってアン子も言っていたけれど、意外と鋭い所があるから、雨紋君がお店に行ったという事は自分の噂も撒かれたと気が付くかも。
 それはもっとまずい…。

 ほら、何となくだけれど、京一の≪氣≫が不穏な物に変化していっているような…

「雨紋君てね、何でも大の忍者フリークなんですって。それで、如月君が忍びの家柄だって知って、しょっちゅう遊びに来るようになったそうよ」

 こう言えば、京一の名誉は護られるわよね。それに嘘は付いていないし。うん。

「そ、そうか〜〜。ははは、それは如月の奴の困った顔が目に浮かぶな」

 でもお店にいた時はどちらかというと雨紋君の方が困ったような顔をしていたんだけれど…。

「…これで1人脱落だな」
「…何の事?」

 私には京一の言っている言葉の意味がさっぱり理解できなかった。でも京一の機嫌が一段と良くなったことは理解できた。
 やれやれ。

「ところで、ひーちゃん、俺に何か用か?」
「えッ」

 いけない、京一と話している内にすっかり電話をかけた当初の目的を忘れていた。

「そうだ、肝心なことを伝えてなかったわ」

 呼吸を整えて、さあ一気に言うのよッ龍麻!

「…今度の土曜日の夕方、空いているかしら」
「別に、特に用事はねェぜ」

 やだ、私の心の中の早鐘が段々大きくなってくる。これって、ひょっとして…

「本当、そしたら一緒に隅田川花火大会に行かないッ」

 OKしてくれるかしら、そんな不安も抱きながら京一の答えを待つこと0.5秒。

「行く、絶対行く。たとえ台風が来ようとも行くぜッ」

 そこからは、何を話しかけても上の空。まさか、そこまで花火大会好きだとは思わなかったわ。
 仕方なくたっぷり3分間待ってから、私はもう一度京一に話し掛けた。

「それじゃ、土曜日の夕方ね。待ち合わせ場所はまた連絡するわ」
「おうッ、それじゃあな」

 元気良く別れの挨拶を交わして、電話を切った。

 台風でも行くって言ってるけど、神様、こんなにも楽しみにしている京一の為にも、今度の土曜日はどうか良いお天気になりますように!

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