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学ビテ時ニ… |
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![]() ≪壱≫ 来週に控えた一学期期末テストに備え、少しでもいい点数を取って夏休みをエンジョイしようという京一から、明日の日曜日に龍麻の家で勉強を一緒にしようと提案が持ち込まれた。勿論先生役は龍麻で、というリクエストである。 「…マジ、京一」 その話を聞いた小蒔の顔は、正直引きつった物であった。 「ボク、京一が勉強している姿を生きてる間に見るコトが出来るなんて、想像もしてなかったよ」 「お前、俺を一体どんな奴だと…」 「真神一の問題児。成績最悪、素行不良、女好き、喧嘩好き、ラーメン好き…」 すらすらと淀みなく小蒔の口から、京一の批評が飛び出してくる。 「それって、ちょっと言い過ぎなんじゃないの」 苦笑した龍麻が、軽く小蒔を窘める。それにラーメン好きは別に問題児とは結びつかないと思うが…。 「相変わらず京一に甘いなぁ、ひーちゃんは。ボク、3年間京一と同じクラスだったけど、京一が一度だって休み中の補講を免れたの見たこと無いんだよッ」 真神学園の校則では、全教科中3つ以上の赤点を取った場合、原則として約一週間の補講が実施される事になっている。 「それに今から勉強したところで、もう補講が決定してるかもしれないけれどさ」 「うるせー。まだ崖っぷちに留まってるぜッ!!」 最早見得など、どこかに捨て去ったのか、京一は小蒔を大声で怒鳴りつける。 「それに、お前だって英語と数学、正直言ってヤバいんじゃねェのか」 「うッ、そ…それは」 小蒔は京一に逆襲されて、言葉に詰まる。小蒔は成績的には中の下といったラインをほぼキープしていたのだが、ここ一月余り、相次ぐ事件に巻き込まれるうちに、すっかり勉強がお留守になっていた事に気付く。 小蒔は、京一と自分とのやり取りを、いつものように黙って眺めていた龍麻の方に身体をくるっと向けると、両手を祈るように合わせ、 「お願い!ボクにも勉強教えてッ!!」 縋りつくような視線で龍麻を見つめる。 「でぇえーッ、俺の方が先約済みだぜッ!!」 内心、龍麻と2人っきりで過ごす甘い休日というシチュエーションを想定しての、今回の勉強会である。当然その目的は題目の勉強以外にあった京一は、思いがけない闖入者を何とか駆除しようと試みる。 「いいじゃないかッ。君一人のひーちゃんじゃないだろッ」 そんな京一の邪な考えを知ってか知らずか、それとも本気で今度の期末はマズいと自覚しているのか、京一の剣幕にも小蒔は一歩も引こうとしない。 ぎゃあぎゃあと龍麻の目の前で繰り広げられる2人の口喧嘩(しかも当の龍麻の意見は聞きもせずに、既に日曜日に勉強会を開くことを勝手に決めている)を聴いて、周囲のクラスメートらは、さすがの龍麻もこめかみの当りに青筋を立てるのではないかとはらはらと見守っていた。 だがその周囲の予想と裏腹に、龍麻は突然何か閃いたかのような顔でにっこりと微笑む。 『ひーちゃん?』 2人はその見惚れてしまうほど見事な笑顔に、一時バトルを中断する。 「ごめん、2人とも。実は明日なんだけれど…既に先約が有るのよ。もしその先約の人が良いって言ってくれたら一緒に勉強しましょう」 既に予約済みという言葉に京一は狼狽し、小蒔もその相手が誰なのか非常に気になったが、龍麻はその人に意志を確認するまで待ってときっぱり言い放つと、教室からすっと姿を消した。 ────10分程経過した所で、龍麻はより晴れやかな笑顔を浮べつつ戻って来た。 「OK。そしたら、明日の9時に我が家に集合してね。各自教科書とノートその他を持参のこと。当然勉強以外の行為は禁止だから、やる気の無い方は強制退去の可能性も有るので、そこの所はキチンと理解しておいてね…以上、質問は?……無いようね」 それじゃあ明日と、龍麻は狐につままれたような2人を残して、さっさと教室を出て行った。 「ゴメンね、葵、醍醐君」 教室を出て、足早に向った1階の玄関口で龍麻を待っていた2人の人影を見つけると、龍麻は近寄ってしきりに頭を下げる。 「いいのよ龍麻。私も勉強会には賛成だわ。最近は事件に追われていて、ゆっくりと勉強をする機会も持てなかったのだし」 「そうだぞ。俺もお願いしたい所だったから、願ったり叶ったりといった感じだ。それにあの2人を龍麻1人で相手させるのは、龍麻自身の勉強の邪魔にしか為らないからな」 あの時、龍麻はこの事態を収拾するには葵と醍醐に協力してもらう他無いと判断し、生徒会室にいた葵と、部室にいた醍醐にそれぞれ事情を説明した。 無論この2人は龍麻の願い事を二つ返事で快く了承してくれたのだった。 ≪弐≫ 「何だかハメられた気分だぜ…」 ブツブツと文句を言いながら、京一はそれでも龍麻から指示された英語の問題を解こうと奮闘している。小蒔も横で同じ問題をやらされているが、こちらはもう少しシャープペンシルの動くスピードが速い様子だ。 龍麻と葵は昨日の帰り道に相談した上で、龍麻が英語・数学・理科を、葵が国語と社会科をメインに教師役を務めることに決めた。 龍麻が一人暮らしをしている高級マンションの広い居間に置かれたダイニングテーブルでは、目下英語の授業が展開していた。同じ部屋のベランダ側にあるリビングテーブルでは、葵が古文のテキストを使って醍醐に試験範囲の所を丁寧に指導していた。 葵の、その手馴れた様子を離れた場所から見つつ、龍麻はぼそっと独り言を言う。 「葵の方が遥かに先生に向いているかな〜。私って結構厳しい先生かも知れない」 それでも龍麻は京一の間違った箇所を容赦なくチェックする手は緩めない。 「それって、ひーちゃんが勉強出来すぎるからだよ。よく言うじゃない、先生って頭良すぎると駄目だって。出来ない子の気持ちが理解出来ないんだってさ」 小蒔の言葉が、妙に龍麻の頭に響いてくる。 「私だって…」 「??」 不思議そうに見返す小蒔に、ここで中断しようかと龍麻が切り出す。時計は丁度お昼の時間に差し掛かっていた。 葵と小蒔が家から少しずつおかずを持ち寄ってくれたので、龍麻は奈良の親戚から送ってもらった三輪素麺を少し多めに湯掻き、それに物足らないだろうと、男性陣の為に冷蔵庫の残り物を使って簡単な炒飯を作って食卓に並べた。 「やっと飯だぜ〜、いっただきまーす」 水を得た魚の如く急に生き生きとして、京一は目の前の食べ物をはぐはぐと食べ始めた。 がっつくな見苦しい、と醍醐に注意されても全くお構いなしだった。 「あんまり勢い良く食べると、咽喉を詰まらせるわよ」 龍麻の忠告にも、京一は言葉を返す代わりに食べ物を詰め込んでいる。 <ひーちゃんの手料理初めて食ったんだぜ〜至福。けどよ、これだけ人数がいるんだからのんびり食ってられるゆとりがあるのかって…ちッ、余計なお邪魔虫がいなけりゃ…> まるでビデオの早送りを再現しているような京一のハイピッチな食べっぷりを、しばし呆気に取られて見ていた4人は、自分たちの食べる分が無くなるのはマズイと気付き、一斉に箸を伸ばす。 「でもひーちゃんって偉いよね。いつも自炊してるんだ」 その言葉も一緒に飲み込むようにして、小蒔が素麺を啜る。 「実家にいた頃も今と変わらず食事担当だったから別に苦ではないわ」 「ご両親がお仕事で忙しかったから?」 「まあ、それも有るけれども、一番の原因は母が味覚オンチだったってことね。殆ど自衛の目的で料理を覚えたから…」 4人は以前に会った、龍麻の義理の母親である眞百合を思い出していた。特に変わった人には見受けられなかったが、人は見かけに寄らないといった所だろうか。 「だから『お袋の味』て云う物が、私の中では今一つピンと来ないの。だって………甘い味噌汁とか、舌が痺れる肉じゃがって、普通じゃないでしょ」 という事情から実家の父がここ1年近くの間どのような食生活を送っているのか娘として内心心配しつつ、龍麻は葵が持参した筑前煮を美味しそうに頬張る。 「小蒔の持って来てくれた竜田揚げもいいお味だったわ」 葵と小蒔、それぞれの家庭の味を心から堪能している龍麻は、自然うっとりとした表情に変わっていた。 「2人とも料理の上手な母親がいて羨ましいな」 「えッと、実はボクの家の場合はね…」 小蒔は、自分の家も両親はお店の仕事で忙しいから、料理は専らおばあちゃんが作ってるんだと打ち明けた。 「でも、葵のお母さんは本当にお料理上手だよ。葵も上手だけど」 「うふふ、褒めてくれてありがとう、小蒔、龍麻」 自分の母は元々学校で家庭科の先生をしていたこともあり、それで今でも近所の主婦を相手に時々料理を教えたりしているのだと葵は言う。 葵や小蒔との間で家庭の味という話題で盛り上がる一方、醍醐が神妙な顔をして食事をしていることに龍麻は気に掛かった。 「…醍醐君、食事口に合わなかった?」 いつもは京一よりも旺盛な食欲を見せる醍醐が、今日はどういう訳だか箸が進んでいないように見受けられた。 「いや、上手いぞ。うん。…」 そう醍醐は慌てて答えるが、それでも女子3人から心配そうな視線を浴びたので、醍醐は今自分が考えていたことを正直に話した。 「…実は俺も龍麻と一緒で、『お袋の味』って物に縁が薄かったもので、ちょっと感激に浸っていただけだ」 醍醐の母親は元々体が丈夫ではない人だった為、彼が幼少の頃から病の床に臥せっていることの方が多い位だった。 そして醍醐が小学生の時に、そのままはかなく亡くなってしまったのだ。 「…俺の親父は仕事人間だったし、再婚もしなかったから、物心付いた頃から外食中心の生活になってしまったな。今は健康を考えて、少しは自炊するようには心掛けているが」 「そうなの…、私ったら無神経なことを言っていたのね」 自分の不用意な言動に沈み込む龍麻に、醍醐はそんなに気にするなと笑いかける。 「そうだぜ、ひーちゃん。俺の家なんか、お袋は俺を家族の中に数えてねェから、しょっちゅう食事なんか抜かされまくってるぜ」 「…それはお前の日頃の行いの悪さからだろう」 醍醐に冷たく言い切られ、京一はむくれた顔を作ると、再び黙って食事を続ける。 「それだったら、今度からボクたちが醍醐クンの為におかずを作ってきてあげるよ。ね、ひーちゃん、葵」 「そうね、私達も料理の腕を磨く励みにもなるし、それはいい考えだわ」 「うん、賛成。私も1人分の食事を作るのは味気ないから、そうさせてもらうわ。…構わないかな、醍醐君」 3人のそれぞれの思い遣りの言葉に感謝しつつ醍醐は残りのおかずを食べながら、同時に心の中に温かい空気がふわっと流れ込んでくるのを感じた <こういう無償で相手を思いやる気持ちがこもったものを『お袋の味』と言うのかも知れんな…> ≪参≫ 「それじゃあ、食事の後片づけが終ったらまたお勉強会を再開するわよ」 龍麻が宣言すると、女子3人はてきぱきと後片付けを始めた。京一と醍醐は、所在の無さを感じて、仕方なく居間の中で落ち着き無く視線を泳がせている。 3人で手早く洗い物を済ませ、その後龍麻が5人分の食後のお茶をいれて居間に戻ると、京一が床に座り込んで何かを覗き込んでいる姿と、そしてそれを醍醐らが咎めている場面に遭遇した。 「───?何してるの」 「おい、龍麻に叱られるからもう止めろッ」 醍醐に首根っこ掴まれても、まだ京一は何かを手放そうとしない。 「…京一、何見てるの」 不審そうに眉を顰めつつ龍麻は近寄った。そしてそれが何なのか判明すると、龍麻の顔に焦りと失態という文字がはっきりと浮かび上がる。 <しまった。あんなに目に付きやすい棚に片付けておいたのが運の尽き…> それはアメリカの両親から数日前送られてきた幼少時代のアルバムだった。 「…盗み見したわねー」 押し殺した声からは、微かに怒りの波動を漂わせている。 「いいじゃねェか。アルバムってのは本来観賞する為に存在するんだぜ」 「それはそうだけど…。でも、それは、私の両親が趣味で作っただけで…私は…あんまり自分の写真は…」 途切れがちに話す龍麻に構わず、京一は堂々とアルバムを広げている。 正直、自分の過去の写真を見るのは苦手としている龍麻にとって、送られてきたアルバムをどう扱ったらよいのか目下思案中だったのだ。押入れに片付けてもよかったのだが、それでは何となく育ての両親の愛情を蔑<ないがし>ろにしているように感じられ、結局棚に放置したまま数日間が過ぎていた。 <京一って、こういうのには妙に鼻が利くんだから> 見当違いな怒りだとは思うが、そう心の中で毒づかずにいられない心境だった。 幸い以前に京一と見た、実の両親の写真が載っているアルバムは、自分の寝室の本棚に大切にしまいこんであったので、そちらは無事のようだった。 「あら、可愛らしい」 「…1986年ってコトは、ちょうど6歳の頃だねッ」 いつも間にか、葵と小蒔までが京一と一緒に並んでアルバムを見始めてしまった。 醍醐は龍麻に、皆を止めさせることが出来ずにスマンといった表情を向ける。 龍麻も天を仰ぎ仕方ないなと溜息を1つ洩らすと、ようやく諦めの境地に達するように自分を仕向けた。 「…これを見たら、すぐに勉強始めるわよ」 「分かってるッて、これ見たら今まで以上に張り切って勉強するぜ」 6歳頃だったら、定番の七五三の写真が登場するよな、と京一が予言するようにページを捲ると、果たして振袖姿に千歳飴を手にした龍麻がちょこんと立っている写真があった。 「やっぱり、皆同じ様な写真になるわね」 葵が笑顔でその写真を見る。 「あれ、この子親戚の子?」 複数ある七五三関連の写真の中に、1枚だけ同じ様な年嵩の男の子と一緒に撮った写真が混ざっている。中々に整った顔立ちの男の子は、どことなく龍麻に似ているような雰囲気を持っていた。 「…違う。確か…」 この頃の記憶はかなりあやふやになっているので確信できないけれど、と龍麻は前置きしてから、説明する。 「この着物を作ってくれた人の、息子さんだったような記憶があるんだけれど」 名前も忘れてしまったけどね、と龍麻は照れた笑いを浮べる。 「そうだよね、もう10年以上前の事なんて思い出す方が難しいよ。だからこそ、こうして写真で記憶を残しておこうッて、皆は考えるんだろうけどね」 「成る程、そうか」 小蒔の言葉に、醍醐が力強く頷いて賛同する。 「次は小学校入学式か、って、おいッ、ランドセルじゃねェぜ」 「ランドセルは日本の小学校の風物詩でしょ。私、この頃もうアメリカに引っ越していたから、残念ながらランドセルも黄色い帽子も経験してないの」 「そっか、あれって日本の小学生だけなんだ」 小蒔は感心したように頷いた。 「大体、こういうのは、じいちゃんばあちゃんから入学祝としてプレゼントされるんだよなッ」 「思い出すわね。入学式の前の日に、革の臭いのする真新しい真っ赤なランドセルを背負った時の、それまでより少しお姉さんになったような気持ちの高まりを」 龍麻以外の4人は、それぞれ小学校入学時の思い出で、少しトリップ状態に入っている。 しかし、ふと小蒔が疑問のような口調で醍醐に語り掛ける。 「ねえねえ、やっぱり醍醐クンもランドセルに黄色い帽子だったの?」 「…当然だ」 憮然とした表情で言う醍醐を見て、4人は溜まらず笑い出してしまう。 今の威風堂々とした体躯の醍醐から、小学校一年生の姿を連想する事が出来なかったからだ。 「俺だって、小学生時代ぐらい存在するぞ」 「ゴメン。ボク何だか想像できなかったから…」 そこまで言うのなら、今度入学時の写真を見せてやると醍醐は半ばヤケクソ気味に約束した。 「…俺は醍醐の写真よりも、やっぱりひーちゃんの写真の方が興味有るぜ」 笑いをようやく沈静化させると、京一はその先のページへさっさと進んでしまう。 次からは、アメリカでの学生生活の写真が、年毎にきちんと整理されて貼られていた。その写真に映っている女子学生を見て、口笛ひとつ吹いてから、 「やっぱりクラスメイトは金髪の女の子かッ。いいねェ〜」 京一がにんまりと笑い、小蒔が京一の頭の中はやっぱり女の子のコトしか占めてないんだと、呆れた口調でコメントする。 一方、クラスメイトと写っている龍麻を見て、葵は何かに気が付いたようである。 「龍麻って、子供の頃は随分と小柄だったのね」 現在の身長は164cmと、標準よりも背は高い方だ。 しかし、今アルバムに写っている龍麻は、周囲の女の子達と比べて、頭一つ分近く身長が引っ込んでいる。 「ていうか、アメリカ人ってやっぱり大柄なんだよ。それに、日本人って外国人から見るとひどく童顔に見えるらしいし」 この間私服で道を歩いてたら、道を訊ねてきた外国人に小学生に間違えられたもんと、小蒔は不満を漏らす。 「でも、龍麻の表情は妙に大人っぽいわよね。何だか今の方が、何て言えばいいのか分からないけれど、年齢相応って感じがするわ」 「この頃は背伸びをしていたから…」 龍麻がポツリと言葉を出す。 4人がその言葉の意味をきちんと理解できたのは、更に数ページ先の写真を見てからである。 「あッ、これ卒業式の写真だ〜」 大人びた表情は相変わらずだが、身に纏ったアメリカの卒業式の定番である黒いマントと学帽には不思議とよく釣り合っている。 「この格好って海外のドラマとかで見たコトあるよ。何だかすっごく賢そうに見えるよね。──って、ひーちゃんは元から頭いいけどさ」 その言葉を証明するかのように、首からは成績優秀者を表彰するメダルが下げられている。そしてその背後には、卒業式であることを示す英文字で書かれた横断幕が張られている。 「1997年…?」 「それって去年の出来事?」 日付の矛盾に4人が気が付いたのを見て、龍麻は慌ててアルバムを取り上げようとする。 だが寸でのところで、京一に気付かれ阻止されてしまう。 「ここまできて隠しごとはいいだろッ。それってお前の悪い癖だぜ」 その顔は、先程までの冗談交じりの表情では無く、先日比良坂紗代を失って半ば自暴自棄になっていた龍麻を心配してくれていた時と同じ真摯な表情に変化していた。 <………私、京一のこの顔に弱いのよね。普段が普段なだけに…> 覚悟を決め、さて、どうみんなに説明しようかと頭を捻っていると、龍麻の説明より先に小蒔が訊ねてくる。 「ひーちゃんって、もしかして本当はボクたちよりも年下なの?」 「えッ?」 どういう了見なんだと思いながら小蒔を見るが、小蒔は真剣そのものの顔だ。 「だって、去年中学校卒業したって事は、今高校2年生だよね。───ッて、あれ???それじゃ何で…?」 自分の言っていることに無理があると気が付いて、小蒔は脳裏に疑問符を更にたくさん浮かべる。 「桜井、それは違うと思うぞ。龍麻は実は去年高校を卒業している。つまり俺達よりも1つ年上なんだ。そう考えれば、龍麻が俺達よりもしっかりしているのも頷ける」 真剣に小蒔に説明をする醍醐の小蒔の更に上を行くボケぶりに、さては数学の勉強をさせすぎたかと龍麻はいささか心配になってしまった。 「2人とも…、それは間違っているわ。そうでしょ、龍麻」 葵が深い溜息を吐いてから、龍麻の方を向き直す。 「葵は気がついたみたいね。そう、私は正真正銘皆と同じ1980年生まれの17歳。 だけど───隠しててごめんなさい。実は去年高校を卒業していたの」 『へ?』 葵を除く3人の口が同時に同じ言葉を出す。 「アメリカには、その、飛び級という制度があってね、学校で成績優秀だと認められた場合、学年を飛び越すことが出来るの。それで私は通常より2年早く高校を卒業出来たのよ」 照れ臭そうに話す龍麻を前に、4人は感嘆の息を漏らす。 「龍麻が成績優秀なのは分かっていたけれど、凄いわね2年も飛び級するなんて」 「それじゃ、ずっと年上の人間に囲まれて勉強してたってコト?それなら、さっきの写真も納得いくよ。子供の頃の2歳差って今よりもずっと大きいしね。ボクだって、2年前の自分は今よりずっと子供だったし、2年後の自分なんてもっと想像できないもん」 今だって子供みたいじゃないかと、すかさず京一に茶々を入れられて、小蒔はうるさいと拳を1つ京一の頬に叩き込む。 「そういう所が子供だっていうんだよ、ッたく…」 痛そうに右頬をさすりながら、京一は龍麻の方を向く。 「それで、ひーちゃんは卒業してから今年真神に転校するまで、どうしてたんだ?」 「アメリカは5〜6月が卒業シーズンだから、あの写真も去年の5月の物なの。で、9月に入学式っていうのが一般的だから、私も去年の9月に一旦大学に入学したのよ」 「既に大学に入学していたのね。それで何処の大学で何を専攻したの?」 「一応、ハーバード大学の医学部に進学したのだけれど…」 京一・小蒔・醍醐には龍麻が名を上げた大学にピンとこなかったようで、葵にそこって凄いのかと小声で訊ねている。 「ええ、確か医学部としては全米でも有数だって…それは取りも直さず世界的に見てもトップクラスという事になるのよ」 「世界レベルだったのか、ひーちゃんはッ」 騒ぎ出す京一に、龍麻は日本の大学とはシステムが違うからと説明する。 「向うの大学は、一応学部に分かれるんだけれど、最初の2年間は一般教養が殆どなのよ。それに、日本と違って入学は比較的簡単なんだけれど、二ヶ月単位で学期末テストが繰り返されてね、そこで平均70点は取らないと容赦無く落とされてしまうの。しかも留年制度が無いから、赤点は即退学を意味しているのよ。だから、入学よりも卒業の方が数倍も大変だってことなの。別に入学自体には大して箔が付く訳では無いわ」 現に私は二ヶ月足らずで中退したし、だから全然自慢できるような経歴ではないと念を押す。 「それでも、真神の授業なんてさぞ退屈だろ。もう一度高校の勉強をさせられてる訳だからな」 「そんなこと無いわ」 龍麻は強い口調で否定してから、今度は一転して独り言のように呟く 「…私にとって、今まで学校の勉強って一種の逃げ場所みたいな物だったの…」 周囲の人間の期待に応えるには、学校で良い成績を取ることが一番手っ取り早かっただけだった。それに優等生の自分だったら、両親も血の繋がっていない自分を見捨てることは無いだろう、そんな打算も働いた上での学問だったのだと龍麻は過去の自分を軽蔑するように話す。 「おまけに、周囲の人間とは一定の距離を保ったままの付き合いしかしない。勿論、皆が年下の私を好奇の目で見ていたことも否定できないけれど、それ以上に私が皆に近付こうとしなかったのね。…本当に最低の学生だったと思う」 「そんな…今の龍麻はそうじゃないわ…」 「日本に戻って来て、普通の学校に行って、同じ年の友達に囲まれて…私、今まで経験したことが余り無かったから、こんな些細なことでもすごく嬉しくって。……でも、自分の≪力≫をはっきりと自覚してからは、やっぱりこんな自分には普通の生活なんて夢なのかなって殆ど諦めていた。そんな気持ちを抱えたまま東京に来たから、最初のうちは真神の皆とも友達になるなんて、これっぽっちも考えていなかったの」 一気呵成に話を続けた龍麻は、ここで深呼吸を一つした。 「でもね、こんな我儘な私を、真神の皆は、特にここにいる4人が暖かく包んでくれたから、私も凍っていた気持ちを溶かすことが出来たの。───だから、今の私にはこの真神での学生生活は何にも替え難い、全てが大切な宝物のような時間なの。本当に皆、ありがとう…」 真っ直ぐな視線を向けて、柔らかく微笑む龍麻の表情は、彼女を知る誰もが一番大好きな表情だった。哀しみも、憤りも、痛みも全てを見つめ乗り越えて来た上で、なお輝きを持つ龍麻の瞳はどこまでも強く、澄んでいた。 「真神の授業だって、日本で初めて習った科目も多いし。国語とか、日本史とか…。 それにね、自分の為の勉強ってこんなに楽しくって、知らないことを知るって本当に素晴らしいことなんだって実感したの。これも初めての経験だわ」 ≪四≫ さて、そろそろ勉強再会しようか、と龍麻に促され、皆はそれぞれの思いを胸に、テーブルに戻る。 「京一は午前中よりも頑張るって宣言したわよね〜」 にやりと口元に笑みを浮べて、龍麻は京一の前にドンと何冊かの問題集とノートを置く。 「まさか、これ全部やれッてか?」 「マークした箇所だけやればいいから楽勝よ。教科書見ても構わないし、さッ頑張ってね」 鬼、悪魔と半分涙目で京一は龍麻を罵りながらも、仕方為しに問題集を開く。 そこには蛍光ペンでマークがつけられた問題1つ1つに、龍麻の字でポイントを解説した文が添えられていた。 <ひーちゃん、昨日学校から帰ってから、これだけの問題集を全部チェックしたのか…。それも俺たちの勉強の為に> ちらっと龍麻を上目遣いで見上げる。 すると龍麻の方は、今度は醍醐の数学を一緒になって再チェックし始めていた。 <結局俺たちって、いつもあいつに甘えてばっかなのかな…> ならば少しでも恩返しって訳じゃないけれど、勉強に身を入れるかと、京一は問題集と格闘を始めた。他の皆も、それぞれ問題を一生懸命解いている。 時は再び穏やかな午後の時間を刻み始め、そして龍麻は静かな幸福感を味わった。 <こういうのって良いよね。皆で一つの目標に向って頑張るって…> 時計の針が五時を廻ったところで、今日の勉強会はお開きになった。 「わりいが、しばらくひーちゃんの古文のノート借りてもいいか?」 「…いいけど、ちゃんと家で勉強するって約束してよ」 えらく殊勝な様子に、これは赤点即退学というアメリカの学校制度の話が京一には強烈過ぎたのだろうかと思いつつ、龍麻は自分の古文のノートを渡す。 「ちょっと授業とは関係ない物も書いてあるけれど、そこは無視して勉強してね」 「ああ…」 一方、日頃余りしない勉強をし過ぎた<というか恐らくここまでの人生で一番勉強したのがこの日だった>為、少し頭がぼーっとしている京一は生返事気味に言葉を返してきた。 京一は自室の自分の部屋に戻ると、勉強机とは名ばかりの机の前に座った。机の上には、この何ヶ月かまともに教科書も開いた例が無いのをありありと表すように、勉強に関する物がまるで置かれていなかった。 だが、それらには目もくれず、京一は早速龍麻のノートを開いて勉強を始める。 その様子は、夕食を食べにおいでと呼びに来た母親が、明日は吹雪になるんじゃないかと真剣に心配した程だった。 龍麻のノートには端正な字で、学校の教科書の本文がノートの罫線の一行おきにボールペンで記入され、その間に現代訳や文法事項を漏らさずきちんと書き込んであった。更に大事な箇所には、問題集と同じ様に線が引かれていたので、京一は取り敢えずそこを辿って、覚えていくことにした。 すると、あるページには花丸までつけてチェックされている文章が書かれていた <よっしゃー、ここが今回のテストのヤマ場だなッ。サンキュー、ひーちゃん> 数日後、京一は笑顔で今度の古文のテストはバッチリ頂いたぜと言い放ち、龍麻にノートを返してくれた。 「本当?楽しみにしているからね」 「へへ、今年の夏休みこそ思い出とイベントいっぱいの夏休みにしてやるぜッ。 だからよ、ひーちゃん。休みになったらどっか2人で遊びに行こうぜッ」 そして期末テストの古典の時間。 渡された答案用紙を見て、全身硬直させる生徒が3−Cに約1名いた。 「嘘だーーーッ!!!」 「五月蝿いぞ、蓬莱寺」 試験監督の犬神から手に持ったテキストでばこっと頭を殴られる。 その後何事もなかったかのように50分経過し、答案用紙を回収すると犬神は教室から出て行った。 しかし京一は机に突っ伏したままだった。 「どうしたの?」 おずおずと訊ねる龍麻に、京一は涙目で訴える。 「ひーちゃん…。俺もう駄目だー。ひーちゃんが一番リキいれてチェックしてたトコを完璧に覚えてきたのに、ちっとも出題されなかったぜ…」 「えッ、それって何処?」 龍麻は自分のノートを取り出し、ペラペラと急いでめくる。 そして京一がここだ、と指差した箇所を見て呆然とする。 「学ビテ時ニ之ヲ習フ、又説シカラズヤ…」 そこには孔子の論語の中でも有名な一節が書かれていた。 「京一…、ここ、テスト範囲じゃ無いわよ」 「何ィーー?」 大きな音を立てて席を立ち上がった京一のただならぬ様子に、他の3人も何事かと近寄って来た。 「京一君、これって中学校で習った所よ」 葵に指摘されて、京一は、でもひーちゃんがと反論する。 「この一節は私が気に入ったから抜書きしただけなんだけれど…。言わなかったっけ、授業とは関係ない物も混じってるって」 頭の中の空気が真っ白に変わっていくのを京一は感じながら、力なく椅子にすとんと腰掛けた。 <終ったな…全て…> 一週間後の成績発表の掲示板には、京一と醍醐の名前が夏休みの補習の対象者として仲良く張り出されていた。 「俺はひーちゃんと仲良く張り出されたいんだーーー!!」 「それは永遠に無理ね」 今度の真神新聞に載せる記事の取材の為に、同じく掲示板の前に来ていたアン子からきっぱりと言い切られてしまった。 ───龍麻の名前は京一の遥か彼方、一番上に書かれていた。
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