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秘儀


 荒れるに任せた広大な庭園は、ただ金木犀の花の香りだけが生命力を放ち一面に立ち込めていた。

 半分泣きじゃくりながら当て所無く彷徨っている、生まれて初めて訪れたこの場所からは、しかし、何故だか懐かしい想いもこみ上げてくる。

 そう、感じ取った時、風に乗って漂う声を聴いた。

 ──こっちへ…

 たった今、手厳しく拒絶された私を甘く誘うように招くその言葉に、導かれるがまま庭の奥へ奥へと、じっとりと湿気を帯びた苔むす土の上を迷わずに歩く。

 声がふっとかき消えたので、仕方なくあたりを見回すと、木立の向こうに古びた祠が一宇ひっそりと建っている。他に目ぼしい建物も無いので、そのまま祠に近づく。

<こんな庭の片隅に…一体誰がお参りするのだろうか?>

 ここだけ時が凍りついたように、静寂が辺りを包んでいた。目の前の重々しい木の扉に恐る恐る触れてみると、それは何の抵抗も無くすっと開かれた。

 中はほの暗い空間が広がっているだけだったが、外光が入り込んだ為、奥から何かが入り口にいる私目掛けて光を反射して来た。

<あれは…鏡?>

 上がりこんではいけないだろうと理性では自重しつつも、湧き上がる好奇心を抑えきれずに近寄ろうとした。その時、


「ふん…ここの封印を容易く解く事が出来たのか。まぁ、当然といえば当然だがな」

 背後から突然、少年の声が響いてくる。

「ご…ごめんなさい…。ここが神聖な場所だとは思ったけれど…」

 射すくめられたように身動きも取れず、ただ怯えている私に、少年はぞくっとするような表情で笑いかけた。
 私とほぼ同年齢と思われるその少年の瞳は、彼の一族に特徴的な、他者を魅了せずにはいられない位、吸い込むような魔力を秘めた瞳だった。

「いいさ。お前にはこれを見る権利、いや義務があるからな。もっとも俺も初めて見る事になるが…」

 少年の言葉の意味が今一つ理解できないまま、彼の導くのに任せて祠の奥に歩を進める。
 想像通り奥に安置されていたのは鏡だった。ただし、現在の私たちが用いているものとは明らかに異なる形状をしている。

「これは…?」
「…景初三年、魏の国から賜った銅鏡の内の一つ。俗に言う、邪馬台国の女王卑弥呼が使っていた鏡だ」
「そんなすごい物が…」

 少年の説明に私は二の句が告げられなかった。父が学者をしている関係上、我が家にはそういった書籍や、また話を聞く機会も多かったので、私は年齢の割には歴史や伝承といったものには詳しかった。

「実物は初めてか。だが、これから見ることになる光景は、こんなモノではないぜ。…何せ本物の……が見られるんだからな」

 耳元を掠めていったその言葉に違和感を覚え、鏡に手を触れようとしない私の手首を、少年はさっと掴むと、強引に鏡の縁に触れさせる。

 すると古びた鏡の紋様が明滅し、やがては全体に青白い光が発せられると、その鏡面には不可思議な光景が写し出された。


 漆黒の闇に篝火(かがりび)だけが灯りとして焚かれている。その火影に浮かび上がるように、女性が二人だけ座っていた。いずれも現代とは異なる、喩えるならば巫女装束のような白い着物を身に纏っている。
 こちらを向いて座っているのは銀髪の老女だった。だが、彼女は私たちに気づく様子は無く、一心不乱に祈りを捧げていた。その首に掛けられた首飾りの色とりどりの水晶の光は、彼女自身から立ち昇る《氣》と相乗して、時折不気味な輝きを放っていた。


「あの女の首に掛けられている…アレが何か分かるか?」

 抑えた声でそっと訊ねられたその質問に私は左右に首を振る。

「アレは…八尺瓊曲玉だ」
「やさかにのまがたま…それは…」

 皇室に悠久の年月を経て伝えられてきた三種の神器の一つとして名高い、その首飾りの名に聞き覚えはあった。

「でも、どうして?」

 それがなぜ、鏡の向こう側の世界の映し出されているのかが分からず、首を傾げる。
 だが、少年は私の疑問には答えず、食い入るような目で鏡を見つめていた。私も仕方なく、再び奥の世界を垣間見る。


 老女に相対するように床に座っている女性に今度は目を向ける。
 こちらから見て、丁度後ろ向きになっているのと、翠なす長い黒髪を無造作に背中から床に届くぐらいに流しているので、年恰好ははっきりとは分からない。
 だが、ちらちらと火影が揺らめく角度によって、そして、こちらの視界が暗闇に慣れてきた加減から、浮かび上がる彼女のか細い体つきで、まだ少女に近い年齢ではないかと察することが出来た。少女は老女とは対照的に、ひたすら身じろぎもせず座っているので、あたかもよく出来た人形を見ている感慨を抱かされる。

 やがて、一段と老女の祈りが激しさを増し、その表情を恍惚としたものに変えると、篝火の炎もそれと共に高く火柱をあげた。
 その時、少女の手にも何か光るものが握られているのに気付く。


「あれは刀…ううん、八尺瓊曲玉の名前が出たということは、ひょっとすると…」

 私の口から自然に零れ出た言葉、それは───

「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」
「流石に詳しいな。そうだ、別名『草薙剣』とも呼ばれている刀だ」

 さも正解して当然というように、少年は冷静な口調で私の答えを肯定する。

「古代において刀剣とは、単なる武具としてだけでなく、神聖な霊力を秘めた祭祀具としての役割も強かった。…古墳に大量の銅剣・銅矛が納められていることからも明らかなようにな。中でも神話に登場するような霊剣・神剣の類は、いずれも神霊を降臨させ、その霊威によってより強力な呪力を持ち主に与えるとされている」

 そして日本最大の霊剣といわれるのが、今、少女が手に持つ天叢雲剣だと話を括る。

 難しい話を淀みなくする少年に感心すると共に、私は拭い去れない疑念を彼にぶつけてみた。

「でもあれは神話の中に登場する……」
「作り話が全て偽りだという訳では無いことは、お前の身を流れる血筋からも容易に理解できるはずだぜ。これは本物の…そして映し出されている光景も本物の儀式だと」
「儀式…いったいそれは何の…」

 と、更なる疑問をここまで口にすると同時に、私の深奥からこれ以上この場面を見てはいけないという警告に似た震えが沸き起こり、思わず鏡から手を離す。

 たちまち光の失せた鏡の向こうには、苛立ちを隠しきれない少年の顔が浮かび上がってきた。

「いっただろう、お前にはこれを見届ける義務が有るんだと」

 射抜くような強い視線で私をじっと見つめてくる。

「知りたくはないか?自分が一体何者なのかを…」
「私、私は───」

 自分の名前を告げようとして、だがその先の言葉を紡ぎ出す事が出来ない。

「当然だ、さっきは大分手ひどく拒絶されたんだからな。自分の存在を…」

 その言葉に、私の全身の震えは益々強くなっていった。

<そうよ、私は…忌まわしい《力》を持っていると…周りに不幸を招くだけの存在だと…>

「だが、俺は知りたい。俺の家に封印されているこの鏡の映し出す光景を…。それを可能にするのは、今はお前しかいない」
「私にしか…」

<この人は私を必要としてくれるのだろうか…。先ほど厄介者扱いされた私を>

 酷薄で美しい笑顔を少年は私に向ける。

「いや、むしろそれを可能に出来るお前の本当の姿を知りたい。その為にも…さあ、もっと遥けき世界を俺に見せてくれ…」

 常に人の上に立つことを要求され、そしてそれが身に付いている者のみが醸し出せる威厳に気圧され、こくりと力なく頷くと、私は呼吸を整えて、再び鏡を手にする。

 鏡の向こうの世界では、先程と変わらずに儀式が繰り広げられていた。


「まだ終わりそうにねェな。そうだ、曲玉の持つ《力》ってのは知ってるか」
「確か…玉は霊剣と同様、古くから精霊や神霊と交信する為に用いられ、その代表的なものが曲玉だって、お父様が前に話してくれたわ」

「そう。だが、それだけじゃねェ、曲玉はその独特の形から、殊に生命力の根源に関わるタマ=霊魂(たま)そのものを象徴すると信じられてきた」

 曲玉の持つ巴形…それは、モノが円形を描くように回る姿を表している。

「日本神話では、天照大神が素盞鳴尊(スサノオノミコト)と誓約(うけい)をする時に、スサノオは天照大神が身につけていた首飾の玉を噛み砕き噴出すことによって神々を次々と生み出した。こうした生成力を秘めた曲玉を使った首飾りには、同時に、肉体から離れた魂を喚(よ)ばう《力》があると古代の人間が考えていたとしても、何の不思議も無い…」

 ましてや、最も霊験あらたかな三種の神器の一つの曲玉であれば、どれ程の霊力が秘められているのか、と、やや期待に満ちた感想を付け加える。

「でも…あれを本当の三種の神器だと言うのなら…あと一つ足りないわ…」

───八咫鏡が。

 三種の神器の中でも最も重要視されている鏡。かつて天照大神が天岩戸に隠れた時に、彼女を引き出すのに神々が作り上げた神鏡。それは日本神話でも有名な話の中の一つに登場する。

「それの謎解きは後にして、見ろ、儀式が終わろうとしているようだぜ…」

 息を殺し、私と少年はその成り行きをじっと見守る。


 狂乱に近い祈りを捧げていた老女は、やがて雷に撃たれたかのように痙攣を起こすと、その場に仰向けに倒れた。

<神懸り…ううん…違う、もっと異質な、もっと大いなる《力》が…>

 ドクンと全身を貫くように、私の身体も大きく脈打った。何か《力》が近づいてくると直感する。

<身体が…熱い…>

 今まで感じたことのない火照りに、意識が朦朧とし始める。

「おっと、倒れるのはまだ早いぜ」

 気が付けば、全身を震わせている私を背後から少年が支えていた。そして耳元で囁く言葉は、私の意識をこの場に繋ぎ止める力を持っていた。

「見ろ…これからが本番だ。鬼道ってヤツが見せる《力》のな…」


 鏡の奥の世界は、いつの間にか灯りとして焚かれていた炎が掻き消えている。しかし…仄かに光を放つものがあった。

 老女の首に捲かれている八尺瓊曲玉
 それは床に倒れた老女の身体からゆらゆらと半透明に立ち昇る《氣》を吸い取り、一層輝きを増し始めた。

 やがて目も眩むほどの輝きを発するようになると、それまでぴくりとも動こうとはしなかった少女がおもむろに立ち上がった。優雅な動作を描いて腕を伸ばし、それを老女の身体から外すと、今度は自身の首に掛ける。

 その刹那、少女の身体に強い《力》が雪崩れ込み、全身から黄金色の光を発し始める。神々しく…そして何処か禍々しさを感じさせる光…。


「くッ…、も…もう…これ以上は…」

 少女の身体から発せられた光に呼応するように、私の身体の中でも異質なモノが蠢き始め、この先展開するであろう光景を予兆した。

 見たくないと、拒絶する私に、

「駄目だッ、目を逸らすな!」

 少年は私の顎を掴み、強引に鏡を覗かせる。


 この先の光景…それは、少女が手にした神剣を目の前に倒れている老女に振り下ろす場面だった。何のためらいもなく剣を振り下ろされ、次の瞬間には、少女の身体にも驟雨(しゅうう)のごとく鮮血が飛び散った。

「!!!」

 だが、無残にも切り捨てられた老女の身体は霧のようにその場からゆっくりと大気に溶けて消えていった。そして、少女の持つ神剣・天叢雲剣から滴り落ちる血も、いつしか金色の光と化し、空気を漂いながら少女を更に輝きを帯びた存在にせんと包み込む。


「…これも神話通りの展開だな。天照大神の弟、月読尊(ツキヨミノミコト)が保食神(ウケモチノカミ)を叩き斬った時、そして、伊佐那岐命(イザナギノミコト)が伊佐那美命(イザナミノミコト)の命を奪った火之迦具土(ヒノカグツチ)を同じく斬り捨てた時、いずれもその血から神々が生まれている」
「もう…こんな残酷なの…見たくない…」

 強く瞼を閉じると、目尻からは知らずに涙が零れ落ちた。

「そうか…、なら、いよいよ最後の謎解きといこうじゃねェか」
「最後の謎…それは…八咫鏡の事?」

 途切れがちに言葉を返す私に、少年は大きく頷いた。

「八咫鏡が神話の中でどう伝えられてきたのかは、お前の方が詳しいだろう」

 少年の言葉通り、私の実家は代々八咫鏡を護って来た役目を負う一族の子孫なのだからと、両親からも、祖母からも繰り返し天岩戸の神話の話は聞かされていたので、今ではすっかりそらんじていた。

 神々の国、高天原で素盞鳴尊が乱暴狼藉の限りを尽くした事に、憤りの頂点に達した姉の天照大神は、天岩戸の奥に引きこもってしまった。太陽神が隠れた為、地上は闇に覆われ、困った神々は石凝姥女神(イシコリトメノカミ)に八咫鏡(=咫とは長さを表す単位で、本来は大きな鏡を指す言葉であった)を作らせた。そして、岩戸の前で宴を催し、天照大神の注意を惹こうとする。
 果たして天照大神が様子を見ようと、岩戸の隙間から顔を覗かせた時にすかさず鏡面を女神に向ける。天照大神は映し出された自分の姿を、別の尊い神と勘違いし、驚愕の余りもっとよく見ようと身を乗り出した。その時、岩戸の脇に潜んでいた天手力男(アマノタヂカラオノカミ)に手を取られ再び外界に姿を表し、世界は光を取り戻したのだとされている。

「八咫鏡は、でも…天岩戸神話で語られている他は、天照大神の名代として孫にあたる邇邇藝命(ニニギノミコト)が地上に降臨する際に、自分の形代(かたしろ)として授けたという記述が有る位で…」

 他に何か特殊な《力》があったのだろうかと、目を瞑ったまま思考を巡らせようとする。あのおぞましい光景を思い出さない為にも、今はこちらに意識を集中させた方が良いと思ったからだ。

「…天岩戸伝説、お前はあれを、ただの姉弟喧嘩の末に天照大神が怒って岩戸に隠れ、それを神々が知恵を絞って表に引き戻した話だと単純に信じていたのか?」

 最初はやや呆れた口調で、だが次には真剣な調子で、少年は話を続けた。

「隠れるという言葉のもう一つ意味、それは『死』だ。そして鏡が持つ形代、すなわち身代わりという役割。つまり、こう考えることも出来るんじゃねェか。天岩戸神話とは、女神が一度死に、そして再び生まれ変わったという事を暗示しているのだと。だから八咫鏡とは────」


 その時、私の頭の中に流れ込んできたのは、最早傍らにいる少年の声ではなかった。

 喩えるならば、自分の内に眠っていた何者かが語りかけてくる感覚…
 それは、自分の心を引き裂くような苦痛を伴って私に襲い掛かってきた。

 ──八咫鏡とは…本来は…神の御魂代(みたましろ=分身)として、最高に強力な“神霊の依り憑く”役割を担う存在を指しているの。

「でも…鏡は…ただの祭祀用の道具ではないの!」

 内から語りかけてくる言葉に意識を掻っ攫われないよう、悲鳴に近い声で私は反論する。

 ───まだ分からないの?
 あなたが今、鏡を通してみた光景を…。そっくりじゃないの、あの神話に…。

「じゃあ、何で…ここには卑弥呼の用いた鏡が伝えられていたの?卑弥呼は、祭祀の際に鏡を用いたって聞いたことがあるわッ」

 ───卑弥呼はね、当時大陸から貢物の褒美に賜った鏡を通常の祭祀に用い、それらを部下に授ける事によって、自らの威厳を保とうとしたのよ。でも、それは鬼道における本来の“鏡”の存在を隠蔽するための政略でもあるの。
 この少年の一族は、特に卑弥呼に側近く仕えていた者の子孫に当たるから、同時に多少詳しい事情も語り伝えられてきたようね。鬼道に纏わる伝承を…

「それじゃ…鏡っていうのは…」

 ───そうよ、あなたの想っている通り。本来は鬼道によって、大いなる《力》を宿らせることの出来るヒトをさすのよ。
 私のようにね…

 私の心を千切んばかりに襲い掛かってくる“意思ある《力》”に、動悸は激しさを増し、既に呼吸も絶え絶えになってきた。

「あなたは…誰…なの…?」

 ───私?私はココよ

 鈴の音を転がすような音色を伴って、耳朶を打つ美しい声。
 それは手許にまだ捧げ持っていた鏡から伝わってくる。

 ───さあ、早く…あなたの目で確かめるのよ…

 この声は…私を最初にここに誘った声と同じだった。
 そして、



 私は…ついに誘惑に負けた。


 知りたい、自分が何者なのかということを。
 …自分に与えられた役割とは何なのかを…。


 ゆっくりと鏡を持ち上げると、再び鏡面を凝視する。
 時を同じくして、鏡の向こうに佇んでいた巫女装束の少女もこちらを振り返った。

 返り血を浴びて微笑む少女は、自分と瓜二つだった。

「……!!」

 鏡の向こうに写る『私』と目と目が合うと、私を貫くように鏡から閃光が発せられた。私の全身は激しい《力》を受け止めかね、ただただ奔流に飲み込まれようとしている自分をぼんやりと知覚するのみであった。

 自我を完全に見失いつつある私に、鏡の向こうの『私』が語りかけてきた。

 ───目覚めなさい…。大いなる《力》に


 その言葉が、それまでの自分自身との決別を宣言する言葉になるとは、当時の私には分からなかった。


 もう…10年以上前の話である。

 あの後何が起こったのか、周囲の大人たちは詳しいことは何も語ってくれないが、忌まわしい《力》を振るったという感覚は、しっかりと心の奥にこびり付いている。

 そしてあの美しくも暗い光を宿した瞳を持つ少年。


 九角天童の面影も…。

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