目次に戻る

漂泊


 ほぼ同時だった、互いの姿に驚いたのは。

 息も止まりそうなというのは、まさにこのことで。まさか、この時刻・こんな場所で人と…よりにもよって"彼女"と出会うとは思いもかけなかったから────。


<京…───>

 彼女の唇が象ろうとした名前は、しかし俺の名前じゃない。見れば輝きを放った表情はみるみる萎んでいった。喜びの直後に訪れる失望とは、ややもすれば絶望と同じ感覚へと人を陥れる、こんな風にな……。



 しばしの時が過ぎ、向うの方から先に誰何(すいか)の声が投げかけられた。

「……あなたは誰ですか?」

 人に名を尋ねる時は、まずてめェから名乗りやがれというのが俺の信条なんだが、この時ばかりは素直に答えた。

「………俺の名は神夷京士浪だ。驚かせたようで済まなかったな────」

 それはこの時代での自分の名を名乗ることで、思いがけず小波(さざなみ)だった己の心を落ち着かせたかったからなのだが。

「…あなたが、神夷さん?」
「ほう…俺のことを知ってるのか」
「…お名前だけですけれども…。昔のアルバムの中で、たった一枚だけ私の父と一緒に映っている写真に、あなたのお名前が書かれていましたので……」
「弦麻の娘か」
「はい……緋勇龍麻です」
「成る程…な。道理で似ている訳だ、あの二人…特に母親の方に」
「そうなんですか?前にも生前の両親を知る人からそう言われたんですけれど、でも…」

 自分には写真以外に母親の記憶が無いから、本当にそうなのかはよく判らないのだと彼女は苦笑した。

「ああ、まさに生き写しって感じだな」

 俺は今、嘘をついた……。

 実の母以上にお前に良く似た人を、俺は知っている。
 俺だけが知っている、今は遠い記憶の中に住まう人。

「面差しも、声音も…………何もかもが彼女にそっくりだ。ただ…」
「ただ…?」

  ────瞳が……

「いや…何でもねェ」

 口を閉ざす相手に対し、龍麻もそれ以上は追求せずに黙って微かに俯く。その所作は、やはり彼の人にそっくりで。

 あいつの瞳はそれは類無く美しかったが、しかし、ただの一度たりとて俺の姿を映すことは叶わなかった。だが目の前にいる少女の瞳には、この俺はどう映っているのだろうか?


「私……」

 躊躇(ためら)いがちに龍麻が言葉を発したのは、俺がそんな物思いに浸りかけていた時だった。

「私、ここにある人を捜しに来たんです……」
「…そして、暗がりの中、そいつと俺を勘違いしたと」
「…………ごめんなさい…」

 俺の《氣》が捜しているそいつの《氣》と似通っていたからだと、彼女は述懐した。

「でも…今は判ります。あなたが彼と似通った《氣》をその身に纏っている理由が…。あなたは…………京一に剣の手ほどきをされた方ですよね」
「…ああ、その通りだ。どうしようもないクソ餓鬼だったあいつに剣術を仕込んだのは、この俺だ」

 この時、俺の心の中で失望めいた想いが音も無く滑り落ちた。
 この少女は俺を『蓬莱寺京一の師匠である神夷京士浪』として認識しているのだと判ったからだ。それは至極当たり前なのだが……。

「けれど、お前が今なすべきは、俺を相手にあいつの思い出話で花を咲かすことじゃねェだろ」

 詭弁を口にしていると我ながら思う。だが、彼女からの追求をかわすこれ以上の口実を捻り出せなかった。

「…そうですね。先程よりも瘴気が濃くなってきているようですし…」
「じゃあ、さっさと行くとするか」
「はい」




 それから数刻、俺たちは行く手を遮る魑魅魍魎どもを薙ぎ倒しつつ、今は舊校舎と呼ばれるこの霊場をひたすらに下っていった。
 龍麻が武道を学び出したのは今年に入ってからのことだと聞き及んでいたが、そんな経歴は微塵も感じさせない。これは鳴瀧の教えが良かったと褒め称えるべきか、それともその身を流れている緋勇の血がなせる業と感嘆すべきか……。いずれにせよ当然ながら本人の努力が有ってのことで、その辺りは俺の弟子だったあいつに爪の垢を煎じて飲ませたいと、知らず口元に苦笑いが浮ぶ。

 と、ふいにあることに気付いた。

<……こいつは……>

 俺のような剣士と肩を並べて闘うのに滅法慣れているということに───。


 正直、昔から誰かと共に闘うのは苦手だった。17年前のあの時もそれは同様で。だから、彼女の父親である弦麻と鳴瀧が阿吽の呼吸で技を繰り出すのを横目に、俺は俺なりの流儀で敵陣を切り崩していた。

 しばしば「一人で先走るんじゃない。もっと俺たちを信じろ」と苦言を呈していた弦麻が…、けれど、とどのつまり結局はてめェが一番突っ走りやがって………。


 ───大馬鹿野郎なのは、俺とお前の一体どっちだったのか…。


 相手の様子に気付かずに、俺はいつでも俺自身のことで手一杯で。
 あの時もそうだ。彼女の様子がおかしいことに早くから気付いていれば。
 もっと早くに、"ここ"に駆けつけていれば……。

 度しがたい己に歯噛みしながら、立ち塞がる最後の敵を真一文字に叩き斬った。




「………ここは……」

 弾む息を押し殺し、龍麻がぽつりと呟く。その言葉ががらんと広がる空間に霊<こだま)する。それまでの自然の洞穴を思わせる空間とはまるで違う、異質な場。

「ここは……とある儀式が行なわれた場所だ」
「そうすると、あれは…祭壇………」

 俺の説明に納得したように、龍麻は中央にある石座<いしくら)にそっと近づく。触ればぽろりと石の破片が足元に転がり、

「この様子だと、これはかなり以前に使われた祭壇なんですね……」
「…そうだな…」

 お前にとっては想像もつかない遠い昔の、
 俺にとっては記憶に焼きついている昔の───。

「……この辺り、何か波動が突き抜けた名残を感じます」
「……………そうか…」

 とうに打ち捨てられ今は埃を被った石の表面を、先程まで拳を振るっていたとは思えない程華奢な指がゆっくりと撫ぜる。目を瞑り何かを感じ取ろうとするその横顔は……

「おいッ、どうした。顔色が悪いじゃねェか」

 もしやこの場に漂う濃密な《氣》にあてられた為かと心配したが、当人はただの睡眠不足だから大丈夫だと説明する。

「大丈夫な訳があるか。大方あのバカのせいでろくに寝てねェってトコだろ。ッたく…無茶しやがって……」
「済みません…」
「……ここは俺が見張ってるから、少し横になれ」
「でも……」
「四の五の言うんだったら、当身をくらわせてでも眠らせるぞ」
「はい……」

 龍麻はそのまま床に腰を下ろそうとするが、

「待て、それじゃ汚れるだろ…」

 上に羽織っていた着物を投げて寄越せば、恐縮し切った顔で俺を見返す。しかし俺の眼力に気圧されて、結局は床に敷いたそれの上に素直に座った。



 一方俺は、背後の彼女の様子を常に気にしつつも、付近を隈なく探索した。
 なぜならば、俺の目的地は他ならぬこの場所で…、ここならばあの男の手がかりが得られるかもしれないと踏んでいたからだ。

 あの男──柳生宗崇の姿を、俺が日本で見た最後の地だったから…
 あの日──ヤツはここで…彼女と……


  ………京梧様……御免なさい……


 振り返れば、祭壇に背をもたれ静かに目を閉じている龍麻の姿が、一旦火のついた焦燥感をより煽らせる。


  ……どうか………
   ………私の分も…………………生きて


「たつ…き…」

 あの時──どうして俺は───ッ



「……あ」

 けれども、近づく気配を敏感に察した龍麻はゆっくりと睫を上げると、そのまま真っ直ぐに俺を見つめ、

「起こしちまったようだな…」

 その眼差しは、たちまちに刻を現実へと引き戻すに充分だった。



「……今………夢を見ていました。不思議な夢を……」

 俺と二人きりしかいないこの空間で、一体誰に<はばか)る必要が有るのか…。そう問い質したくなる位、龍麻は小さな声で話し始めた。

「…………その夢の中で、私、知らない人の名前を呼んでいて…」
「……………」

 再び波立つ心を押し隠すのに、俺はただ沈黙を決め込む他なかった。

「胸が苦しくなる程懐かしくて哀しくて……でも…目覚めたら…」

 何故か想い出せない…と、力なく呟く。


「けれども……」
「…………ん?」
「これが夢なのか何なのか……曖昧で…。ひょっとして、今もまだ…私にとって都合の良い幻を私は見続けているだけ…なのかも……」

 伏目がちの双眸からは止めどなく涙が溢れ、

「どうして……どうして、どこにも居ないの……。私が見たいのは幻なんかじゃない。私が逢いたいのは……」

 端整な唇は、今はただ一人の人物の名を狂ったように叫び続ける。


「京一、京一……、京一────ッ!!!」


 泣き崩れる彼女を力の限り抱き締めてやりたい。
 そうすればどんなにか楽だろう、お前も俺も────



 だが……それは許されない…。
 それは偽りの安らぎに過ぎない……。

 お前が求めているのは、俺ではない"蓬莱寺京一"で
 俺が心を奪われたのは、既にこの世には居ない"たつき"ただ一人で…。


 お前の望む幻にすらなれない、俺に出来るたった一つのことは…


「龍麻………お前、そんなにあいつのことが好きなのか……」
「────!!」

 泣きじゃくりながらも龍麻ははっきりと頷く。

「だったら……信じろ……、あいつのことを。……あいつは、ガキの頃から自分の大事なものを護るためなら、どんな無茶だってしてのけるヤツだった。たとえ敵わぬ相手であっても、絶望の淵に追い込まれても、必ずまた立ち向かう…そういう男なんだ。だから…信じ続けるんだ………最後まで…諦めるな…」
「………………信じる……」


 俺の言葉を反芻(はんすう)した、その時───
 金色の光が龍麻の全身を静かに覆い始めた。困惑する彼女を他所に、その光は眩さを増すばかりで、やがて小さな悲鳴を上げてぐらりと身体を傾げさせる。

「危ねェッ」

 咄嗟に両の手で受け止めれば、凛とした声が俺の名を耳元で囁く。



 ───……京梧様……


「……たつき……いや、こいつは幻か…?」

 しかし、俺に向けられた双眸はどこまでも深く穏やかで、白皙の頬に浮ぶ柔らかな笑みに、これはただの幻ではないと肌で感じられた。


 ───…………京梧様………

「たつき………………」



 この場が再び闇に閉ざされるまでの間、俺は彼女を壊さぬよう、ただ静かに抱きしめていた。





 程無くして龍麻が意識を取り戻し、俺たちは地上へと舞い戻った。
 別れ際、今回の件で色々と迷惑をかけたと彼女が詫びる

「…本当にありがとうございました」
「………礼を言うのはこっちの方だ…」
「え?」

 思い当たる節が無いと龍麻は訝(いぶか)しげな表情をつくる。

「俺に対する礼の言葉より、あのバカが現れたら『来るのが遅い』と頬の一つや二つ思い切り張り倒してやるんだな。それを楽しみにしてるぜ」
「はい」

 そして先程までの泣き顔は何処へやら、クスっと声を立てて笑うその顔は生気に満ち始め、それを眺める内に俺もまた…久方ぶりに清やかな笑いが腹の底からこみ上げてきた。


「もう大丈夫だな」

 俺もお前も…互いに成すべきことは判っている筈だ。

「それじゃ、俺は行くぜ…」
「あの…。また……逢えますよね…」
「……………ああ、いつか………な」



 ずっとその場から立ち去らずに見送ってくれているのだろう。彼女の視線を背中に感じながら、俺は前へと歩み始める。

 こういう別れは悪くない…、そう呟きながら。

目次に戻る