目次に戻る

零桜


「…少し休まねェか」

 京梧は同道している女に声を掛けた。
 目黒から内藤新宿までの道程、男の足ではさほどの遠出でも無いが、女の…しかも目が不自由な身では大変だろうと思うが、

「私の事でしたらお気遣いなさらずに。大丈夫ですわ」

 もうじき宿の入り口ですしと、先刻たつきと名乗った女は涼やかに微笑む。


 ──もうじき…か


 そう、偶々今日出会っただけの縁だ。
 新宿に戻れば、俺には俺のやる事があるように、彼女には彼女の生活が有る。

 京梧の心中に、別れが名残惜しいという気持ちがじわりと滲んでくる。

「でも…そうですね、折角の京梧様のご好意に素直に甘えさせて頂きますわ」
「えッ、って、おい何処に行くんだ」

 突然街道筋から外れた方向へさっさと歩むたつきの後ろ姿を、京梧は慌てて追いかける。




「……桜か……ここの花も満開だな」

 たつきが歩みを止めた場所、そこには優に樹齢は百年を越えている桜の大木が、今まさに盛りの春を謳歌していた。

「にしても…?」
「ふふふ、何故目の不自由な私がこの桜の存在に気がついたのかが不思議だとおっしゃりたいのでしょう」
「ああ、そりゃそーだぜ。おまけに街道筋から外れた場所にこんな見事な桜の木があるなんて、普通全然気がつかねェぜ」

 あっけらかんと訊ねる京梧に、たつきは今度は声を立てずに笑う。

「桜の木は、他の木とは違うの。桜の木は…神が宿る木だから」

 さくらの「さ」というのは穀霊、つまり穀物の霊を表す古語で、「くら」は文字通り神霊が鎮座する場所を表している…

「だから大昔から人々は桜の花が咲いたのをこよなく愛で、花見を催したのです。桜の花の開花は農作業を始める暦代わりであり、その年の豊穣を祈る儀礼でもあった訳で…」
「ふうん…そっか…そんな意味が有るなんて始めて知ったぜ。俺はこんなに綺麗な花だから皆が浮かれ騒ぐんだと思ってた…っと」

 京梧が口をつぐむ。

「……済まねェな」
「どうかお気になさらないで。それに、この木に気がついたのは他ならぬ私の見えない瞳のお陰ですもの。桜の放つ不思議な《氣》が私をここに導いてくれたのですから」
「《氣》…そんなモン詠めるのか…」
「ええ」

 それは何ほどの事でも無いと、たつきは衒(てら)いもせず応える。

「人はこの世に同じ人が居ないのと同様、その人にしかない《氣》をまとっています。貴方様もその人の放つ独特の雰囲気というのを感じ取られる瞬間が御座いましょう?私は目が不自由な分、人よりもそれをはっきりと感じ取れるだけで」
「確かにそんな風に相手の気配を感じ取れる時ってあるな。という事は…そっか、その気になりゃ俺にだって《氣》の一つや二つ詠めるようになるって事か」
「ええ、そうですわ。ほら…」

 たつきは京梧の手をふわりと捕らえると、彼の掌を樹の幹に触れさせた。

「温かいでしょう?」
「温かいな…」


 たつきはそのままじっと目を瞑(つむ)る。
 ──桜の木と対話する如く。

 しばし、京梧はその姿に見惚れた。


 やがて喉の奥に留めていた言葉を低く呟く。

「全く…不思議な女だぜ……」


 その言葉が届いたのか、たつきは薄っすらと微笑むと、見えない筈の双眸を桜の花々に向ける。

「桜とはそれはそれは美しい花を咲かせるのだと、以前兄が申しておりました。だからなのかしら、この国の桜の木の神様は女神なのでしょうね。その名も『木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)』とおっしゃって、桜の花の語源はこの「さくや」が転じたのだという説も有るそうですわ」
「このはな…さくやひめ。…どっかで聞いた事があるような?」
「昨今では富士山を神と仰ぐ浅間信仰・富士講も伊勢詣と並んで盛んですから。京梧様もどこかでこの神様の御名をお聞きになられたのかもしれませんね」

 木花開耶姫は桜花の女神であると共に、日本一の霊峰・富士を信仰対象とした神社、浅間神社の祭神でもあるのだとたつきは語った。

「…今の世のように先の見えない不穏な状況では、神という超越した存在に縋りたくなるのも無理からぬかもしれませんね。人の心とはかように弱いものですもの。いえ、たとい神であっても…」

 たつきは眉根を寄せて少し考え込むふうだったが、やがて何かを決意したかのように京梧に訊ねてきた。

「京梧様は古い神話には興味など無いと思いますが…それでも…もしよろしければ私の話をお聞き下さいますか?」
「ああ、いいぜ」

 本当は話の中身なんて何でもいい。こうしてここで、二人で向かい合っている時間が少しでも長くなるんだったら…などという不埒な気持ちでの快諾だったのだが。

 たつきは礼を述べると、静かに話を始めた。



 遠い昔。この国が葦原中国(あしはらのなかつくに)と呼ばれていた時代。
 この地を治める為に高天原(たかまがはら)から天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が降り立ちました。彼は葦原中国を彷徨(さまよ)う内に、一人の美しい乙女と出会いました。彼女こそ国つ神(=土着神。高天原の神々を天つ神と呼ぶのに対応)で山の神である大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘の一人で、絶世の美女と言われた木花開耶姫。

 彼女に一目惚れした瓊瓊杵尊は、すぐさま父神に結婚を申し出ます。父神はこの話を大層喜び、姉の磐長姫(イワナガヒメ)も妹姫と一緒に差し出します。


「姉と一緒に?どういう神経を持った父親だか俺にゃ理解に苦しむぜ…」
「当時は今とは違った意味での一夫多妻制ですからね。それに、姉の磐長姫はその名に負うように巌(いわお)の如き長命を司る神。オオヤマツミは天孫である瓊瓊杵尊に最大限の敬意を払っただけですわ」


 ところが、生憎と磐長姫はすこぶる醜女(しこめ)でした。それを嫌った瓊瓊杵尊は姉姫を父神の許に追い返し、美貌の妹姫のみを娶(めと)ったのです。
 その所業を知ったオオヤマツミは大いに憤慨し、嘆き、こう言い放ちました。

『天つ神の御子の御寿(みいのち)は、木の花のように脆く儚いものになるでしょう』


「ですから、木花開耶姫の司るものは満開の桜花の如き繁栄である反面、あえかに散る桜花の如き儚い命…。瓊瓊杵尊は自分の感情のままに振る舞った結果、誰しもが一度は願う永遠の命というものをその手から永久に失ってしまったのです。京梧様はこの話を聞いてどうでしょう。瓊瓊杵尊は愚かだと思われますか?」

 京梧は腕組みをしながら低く唸る。

「でもよぉ、神だ何だっていっても所詮男だろ。俺としては好きな女とだけ一緒に居たいって願う気持ちはよく判る。それって永遠の命とかってヤツよりもずっとずっと大事なんじゃねェか。姉を追い返すってのが穏やかなやり口だとは思わないけどよ」
「兄も同じ様な事を申してましたわ。互いの気持ちが何よりも大切なのだと」

 けれども…とたつきは目を伏せる。

「兄だったら…口ではそう言っても、恐らく黙って自分だけ姿を隠してしまいそうですわ。周囲の人々を慮(おもんぱか)って」
「…兄貴ってのは随分と優しい性分なんだな」
「ええ……優しい兄でした…。私がこんな古い話をしたのは、京梧様から兄のような言葉を聞きたかったからかもしれません…。本当に長々とつまらぬ話をして申し訳有りませんでした…」

 たつきの口調から、彼女の兄が行方不明になったのはそれなりに深い事情があったんだろうと京梧はしみじみと感じ取ったが、

「そんなモン俺に言わせりゃ手前勝手な優しさってヤツだぜ。そのたった一人の優しい兄の身の安全を祈る為に、残された妹は目の不自由な身を押して、はるばる目黒の不動参りに来る位心配してるんだからよ…」

 同時に全く知りもしないその男に嫉妬心めいたものも感じてしまうのはどうしようもなかった。

 だが、たつきは京梧が思いもかけなかった事を口にする。

「そうおっしゃる京梧様も充分お優しい方ですわ」
「俺か?!俺は…何かに縛られたくねェと思ってここまで生きてきただけだ」

 心の中を見透かされたような気がして、慌ててたつきの言葉を否定する。


「そうだ、生きている今が大事だから、だから自分が思うがままに精一杯生き抜いてやりたい。そして散る時は……いっそこんな桜の花みたく鮮やかな散り方がいいかもな…」


 折りしも京梧の肩にも、そしてたつきの艶やかな黒髪にも天からの贈り物のように桜の花びらが降りかかる。


「京梧様は桜の花のような散りざまに憧れておられるのですか…。そうですよね、潔く盛りに散る桜の花とは、げにもののふの魂を象徴すると言われておりますものね」

 たつきは白雪を思わせる掌で、薄紅色の花びらをそっと押し包む。

「…ですが私には桜とはつくづく哀れな存在に思えてなりません。花が咲いている時、人々は魅入られたかのように集い騒ぎ、こぞって誉めそやすというのに、それも束の間。花が散って…再び花を咲かせるまでの長い間は誰も顧みようとはしない。この桜の木だって次の春まではすっぱりと忘れさられてしまう……花は無くともそこには確かに在るというのに。神代の昔、瓊瓊杵尊が木花開耶姫を見初めたのも、ほんの気紛れだったのかもしれませんわ…あの話の続きを知る限りでは…」

 神話の続き…それは、たった一夜の契りで身籠った木花開耶姫を瓊瓊杵尊は疑い、開耶姫はその身の証を立てる為に産屋(うぶや)に火を放ち、その中で子供を産むというものだった。

「瓊瓊杵尊の開耶姫に対する想いというのは、その程度のものだったのでしょうか…」

 ──それは自分も同様なのだと、たつきは心の中で呟く。

 彼と私が出会ったのは、互いのささやかな気紛れがきっかけ。そう、ただそれだけの縁だったのだから……そして、この人は私という存在を忘れ、今日の出来事を忘れ、どこまでも前に向かって歩いていくだろう。彼には洋々たる未来が広がっている…

 ──幾重にも縛られ、この場から身動きの取れない私と違って…。



「そうだッ、来年もここに来ようぜ」
「え…?!」

 不意に耳朶(じだ)を打つ京梧の言葉に驚きを隠せなかった。

「二人が出会った記念と、そしてこの花を共に愛でる為にさ。いいだろッ」
「来年の春…も」
「来年も再来年もずっと先もだ。たとえ俺が江戸を離れていようとも、この日にゃ必ず駆けつけてやるさ」
「………私と約束などして良いのですか?何物にも縛られたくないのが貴方の性分なのでしょう」
「そ、それは…そうだけど…」

京一は返事に窮するが、たつきは頬を薄っすらと桜色に染め上げて微笑む。

「ありがとう。とても…嬉しいわ」
「よっしゃ、話は決まりだな。それじゃ、そろそろ帰ろうぜ」
「ええ」

 たつきの手を、京梧が黙って握って先へと導く。
 京梧の手にまだ残っている桜の《氣》の温もりと共に、彼自身の《氣》が静かに穏やかにたつきへと流れ込む。


「温かいわ…」


 この温もりを忘れない。だから迷わずに私は来年もここへやって来られる。
 たとえ、姿や声が失われてしまったとしても…

 必ずあなたに逢いに来る。
 約束するわ

目次に戻る