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此花


日が中天を少し傾きかけた頃、綻んだ冷気は道行く男の息を白く染めることはなく。
朝まだきに生まれた霜柱は今やぬかるみと化し、ただでさえ目の前の坂道をより急峻なものとする。

それでも男の歩みはいささかも軽快さを失わず────最近こちらに引越したばかりの友の住居までひた登る。やがて茶渋色の籬(まがき)が竹林の緑の間にちらほらと映り始め、程無く友とその幼子がたった二人で暮らしている鄙びた佇まいのその家は、訪れた者をやさしく迎え入れた。


「よく来たな、京士浪」

 使い込まれた引き戸を開けると、足早に主である緋勇弦麻がにこやかな顔で現われる。

「昼からはすっかりとこの陽気だし、大変だったんじゃないか、ここまでの道は」
「ああ…いや、大したことはない」
「そうか、ならば良いが…ここへ来る道には初めての来訪者を拒むちょっとしたからくりがあるからな」
「……結界か」
「まあ、お前ほどの男ならば造作も無いとは思っていたが…っと、こんな所で話すのもなんだ、早く上がれよ」

 今の時代では珍しい囲炉裏が中央に据えられた部屋に通された神夷はもう一人の住人について訊ねる。

「龍麻はどうしている?」
「奥で眠っている」

 熱く煎れた茶を神夷の前に置くと、弦麻も囲炉裏端に腰を下ろした。

「やはりここの空気が肌に合うのか、最近はすっかり落ち着いた様子だ」

 生まれてから度々、龍麻は高熱に襲われることがあった。幼子特有の癇(かん)の強さというよりは敏感に周囲の氣に反応してしまう体質がそうさせるのだとは、彼らの知己である桜ヶ丘中央病院の若き女医、岩山たか子の見立てであり、そこで龍山が自らの庵を彼ら親子に提供したという訳だった。

「先生を追い出す形になるので迷ったのだが、勧めに従いこちらに移り住んで良かった」
「あのじいさんに対する気兼ねは無用だぜ。あっちこっちの大物筋の客から日々歓待を受けてるみたいだしよ」
「相変わらず口の悪いヤツだな、お前は。龍山先生から仕事を紹介してもらってるくせに」
「俺はこれで生きているからな、昔も今も…そしてこれからもそいつに変わりはねェ」

 脇に置かれた木刀を手に神夷は口元だけ笑みを浮かべる。

「そういうお前はどうなんだ」
「俺か…そうだなぁ、龍麻相手に日々悪戦苦闘って感じだな」

 未だかつてない強敵だぞと笑い飛ばす弦麻にはいささかの屈託もなく、

「気を遣わせているようだが、俺なら大丈夫だ、京士浪。あれが居なくて寂しいと感じる余裕なんてない…いやむしろ…」

 その時、襖越しに泣き声が小さく伝わってきた。

「やれやれ、目を覚ましたようだな。すまんが、ちょっと席を外すぞ」
「ああ、好きに過ごさせてもらうぜ」



 襖の奥へと弦麻を見送ると、神夷は深々とため息をつく。

<初めての来訪者か────>

 さっきの弦麻の言葉を思い起こしながら、囲炉裏に揺らめく焔を見つめる。

<確かに、この時代ではそうだな>

 周囲の街並みは激しく変われども、この地を包み込む穏やかな空気はあの頃と同じくして。

<けれども…あの頃俺は、幾度となくこの庵へと足を運んだ>

 人目を避けるようひっそりと住まう人に逢う為に────。


 感傷を振り払うべく陽の降り注ぐ庭先へと目を転じれば、そこはまるで時がとまったかのように変わらない……静かでやわらかな光景。
 こじんまりとした庭の片隅に植えられているのは、在りし日、彼女が愛でていた白梅の古木だった。

 ────『春の夜の闇はあやなし梅の花…』と古人も歌っておりますからでしょうか。私はこの花をことさら床しく感じてしまうのです…。



「なかなか見事な梅の木だろう?」

 龍麻を腕に抱いた弦麻に背後から声を掛けられ、神夷は自分が無意識の内にその枝に手を触れていたことに気付いた。

「そうだな」

 すると弦麻が目を丸くする。

「おッ、花が咲き始めているじゃないか。昨夜まではまだ蕾も固かったというのに…。うーん、ひょっとしてお前が来るのに合せて梅が咲いたのかもしれないな」
「そんな訳があるか」
「いやいや、花にも心はあると言うし…。よし、少しだけ龍麻を頼むぞ」

 そう言うなり、おくるみごと龍麻を神夷の腕へ受け渡す。

「おいッ、ちょっと待てッ」

 狼狽する神夷をからかうように笑いながら、弦麻は母屋へと引き返していった。

「大丈夫、すぐに戻ってくるさ。それまで落っことさないようしっかり抱っこしててくれよ」


「弦麻のヤロー…」

 毒づいたところで相手の姿はなく、残された剣士には赤子を抱いた経験など全くない。

「参ったぜ。泣き出したら俺にどうしろっていうんだよ」

 だが、腕の中の龍麻は存外大人しく、ようやく落ち着きを取り戻した神夷が覗き込むと、嬰児の青みを帯びた黒い瞳が自分という存在を瞬きもせずそっくり映し出している。

 友を心から愛した女が自らの命と引き換えに残した、かけがえのない命。
 そして自分が心から愛した女より脈々と受け継がれた、小さな命

「たつ…ま」

 ゆっくりその名を呼べば、真雪を思わせる頬がやわらかく笑んだ。



「なんだ、少しだけと言う割りには遅かったじゃねェか」

 庭に取って返してきた弦麻に、神夷は不機嫌な口調で呼びかける。けれどもそれは単に不機嫌さを装っているだけだと弦麻には分っていた。

「済まなかった。カメラが思っていた場所に見当たらなくってな」

 途端、弦麻が手にしている機器へと神夷が胡乱(うろん)な視線を送る。

「俺は写真ってヤツが苦手なんだけどよ……」

 確かに今まで仲間内で写真を撮ろうとする度、神夷はそう言って逃げていた。

「お前の写真嫌いは知っているが、そう固いこと言うな。我が家の庭で初花が咲いた記念に…」
「こんなもんに頼るから人はその目で物をきちんと見ようとしねェ、そして写真に残すからと言って心に刻むことをおろそかにする、違うか?弦麻」
「…確かにお前の言うことには一理ある。だが俺はな、京士浪。この子が自分の目で物を見つめられる、自分の意思で心に記憶を焼き付けられるその日が来るまでは、この子の為に出来るだけ形ある物を残してやりたいんだ」
「………」
「俺は迦代を失ったが、しかし彼女は俺の中で想い出と共に今も生き続けている。だが、龍麻には…迦代に関する記憶は全くない。だから尚更そう思うのかもしれないが…」
「……成る程、お前の言うことにもまた一理あるな」

 ならばと承諾する神夷に、弦麻は破顔一笑しレンズを向けた。



 その夜、久し振りに神夷と杯を交し合う中で、ふいに不思議なもんだと弦麻は呟く。
「生前、迦代がこの子の名前をよすがに俺たちの元へ『すぐに戻ってくる』と言ってくれた。あれは俺に対する慰めなのだろうと半分思っていたのだが、今、彼女の言葉は本当だったんだと実感できる…」

 弦麻の言葉に深く頷く神夷の胸に、凛とした声が蘇る。

  ────現身(うつしみ)は失われようとも、心はいつもお傍に……

「そう…だったな……」

 しっとりと夜の闇に支配された庭へと向けられた神夷の横顔に、弦麻は驚きを隠せない。

<この男がこんな表情を見せるとはな…>

「………ん?どうした、弦麻」
「いや、別に…。ただ、梅の香に包まれて飲む今夜の酒は格別だなと思っただけさ」

 それでなくともここの所、育児に追われて酒の方はさっぱりだったからと苦笑いする。

「お前もすっかりいい親父になってるしな。いや、むしろ…」
「…先に言っておくが俺は親馬鹿じゃないぞ」

 酒が巡り、すっかりと饒舌さを増した二人からは遠慮のない言葉が飛びかう。

「そう言い張るヤツの方が危ないんだが…ま、いずれにしても、龍麻も大きくなったら大変だろうよ。親父がこんなじゃ、好いた男を紹介するのにも苦労しそうだぜ」
「俺から龍麻を奪おうっていうんだ、一発ぶん殴ってやるのは当然のことだろう!」
「……で、その後、娘を取られたとヤケ酒あおってるお前を見るのを楽しみにしてるぜ」
「京士浪…お前って奴は案外底意地が悪いんだな」
「あのなぁ、俺は好意でヤケ酒に付き合ってやるって言ってるんだぜ」

 拗ねる弦麻をからからと笑い飛ばすと、神夷は徳利に残っている酒を互いの杯になみなみと注ぐ。

「……ああ、そうだな」

 弦麻は杯の酒を飲み干すと、そのまま縁側に仰向けに寝転んだ。

「お前とそんな酒が飲める日が来るのを、俺も楽しみにしている────」








 一体あれから幾度梅の花が咲いては散り過ぎたろう…。
 約束は約束のまま果たされず、月を肴に俺は今日も一人杯を傾ける。




















「師匠、俺もう寝るけど」

 ひょっこりと顔を見せた少年を神夷は一瞥した。

「京一、今日の分の鍛錬は当然全部終えてんだろうな」
「え、ええっと、も、もちろんッ!」
「……またサボりやがったな、このアホ弟子が。寝る前に素振りをするのは日課として言いつけてるだろうが」
「くっそぅ…せっかく自分の誕生日なのに、ホントに鍛錬しかねェのかよ〜」

 今年はお祝いらしいことが何もないとぶつぶつと抗議の声を上げる。

「京一…、お前、今日が誕生日なのか?」
「ああ、そうだよッ!多分世間でもこんな可哀想な誕生日を迎えてる10歳は居ないぜ」
「10歳…そうか…」

<確か弦麻の娘も同じ年頃だったな…>

 あの事件以来直接顔を合せてはいないが、現在は弦麻の兄夫婦に引き取られ渡米しているとの噂は仲間を通じて耳にしていた。

「……師匠?」
「よし、だったらお前に祝いの贈り物として、これから俺が直々に稽古をつけてやろう」
「マジかよ…」

 不平たらたらの京一の背を突き飛ばすように表に出ると、神夷は手にした木刀を構えた。

「いつかお前にも護りたい者が現われる筈だ。その為にも俺の剣術をせいぜい早く盗むんだな」
「畜生〜ッ」

 がむしゃらに向ってくる京一の剣を涼しく受け止めながらも、神夷はそこに確かな手ごたえを感じ取り、我知らず笑みをこぼす。



 弦麻、あの夜交わした約束、俺は決して忘れやしない。だから…。
 いつか果たされるその日が来たら、梅の香を枕に酒を酌み交わそうじゃねェか────

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