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reach for the moon



 それはいつものように、夕べの鍛錬に出かけようとした時のこと。


「…俺にか?」

 うなずく村人から手渡されたのは、一通の手紙。
 真っ白な封筒の裏に書かれた差出人の名前は

 ─── 緋勇 龍麻


 京一は手短に礼を言うと、それをズボンのポケットに押し込んだ。





 京一が身を寄せている村は、かつての仲間の一人、劉弦月の故郷の村。7年前、復活した柳生宗崇によって壊滅状態にまで陥れられたが、今は元の静けさを取り戻しつつある。
 この村を選んだのは、ここに住む客家の人々が代々伝えてきた符術を学びたいというのが第一の理由であったが、もう一つ、彼の恋人である緋勇龍麻にとって、この地が因縁浅からぬ場所であるというのも大きな理由だった。


「だからかも知れねェな…」

 まるで、この村を第二の故郷のように感じてしまう時が有るのはと、京一はひとりごちる。



 それでも自分の根底にあるのは、やはりあの街──新宿だった。


 ここと比べれば、人が多すぎて、物で溢れ帰っていて、騒然としていて、ともするとそれらに押し流されてしまいそうな街。

 だが、そこには自分にとって大切なものも沢山詰まっている。

 人、思い出…。
 それらを護る為、文字通り命を掛けて闘った日々は、さて何年前だったか…。





 思いにふける内、気が付けばいつもの場所に辿り着いていた。
 剣の修練の時は誰にも邪魔されたくない、そんな条件に適ったのは、村から十数分ほど歩いた先にある、小高い丘。


 まずはと、草むらに腰を下ろしポケットにしのばせていた手紙を取り出す。
 幸い今夜は満月で、月明かりが冴え冴えと肩越しに射し込んでくる。

「蓬莱寺京一様…か…」

 他人行儀な言葉遣いに苦笑いしつつ、封を開けた。
 懐かしくも端正な龍麻の字で綴られた手紙は、だが、必ず同じフレーズで始まっている。



『お誕生日おめでとう。京一』



 毎年この時期にしか龍麻からの手紙は届かない。
 それが3年前、一足先に日本に帰国した龍麻と別れの前夜に結んだ約束だった。







『京一からの手紙は要らない。私からも手紙を書かない』

 なぜだと聞き返す京一に、龍麻は穏やかに答える。

『私たち、出会って以来、ずっと離れず傍にいたのよね…。だから、手紙を書くなんてことをすれば、今は離れ離れに暮らしているんだなぁって実感して、心寂しくなりそうで…。それに、お世辞にも筆まめとは言えない京一からの手紙を待ちわびるのも辛いし…。だったら最初から書かないと決めた方が、お互い気持ちが楽でしょう?』

 そうだなと京一が笑って同意すると、龍麻も柔らかく微笑み返すが、

『でも…』

 先の言葉を紡ぐ声は、微かに震えを帯びていた。


『…京一の誕生日は特別な日だから…。
 この日にあなたへの手紙を書くのだけは…許してね………』


 その時初めて双眸から零れ落ちた涙に、龍麻の想いが痛い程伝わってきて…、無性にこみあげてくる愛おしさに、京一は龍麻を抱き締めるしかなかった。








 手紙を読み終えるとおもむろに立ち上がり、手に馴染みきった愛用の木刀を構えた。


 深呼吸を一つ、《氣》を全身に巡らす。
 型をなぞる切っ先は鮮やかな軌跡を虚空に描く。


 その姿を目にした村人たちは、轟き落ちる滝の如き荒々しさと同時に、深遠さをも既に兼ね備えてると、京一の剣技を口を揃えて誉めそやすのだが…。



 京一はかぶりを振る。

「周りが何と言おうと、俺はまだ納得出来ねェんだッ」

 気合一閃、膝下の草は易々と薙ぎ払われていった───





 一時間近く鍛錬を続ければ、真冬とはいえ身体全体が火照ってくる。
 額髪を濡らす汗をぬぐいつつ、京一は夜空を振り仰ぐ。


「俺だって今、この月をひーちゃんと一緒に眺めたいんだぜ…」

 手を伸ばせば届きそうな位、くっきりと夜空に映える月輪に見惚れれば、浮んでくるのは、彼女もきっと同じ月を同じ気持ちで眺めているに違いないという不思議な予感。



「けどよ…俺の望みはそれ以上に途方も無いことだからな…」




───あいつを護り抜きたいんだ
     自分の命が尽きるその日まで───
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