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魂極る


 ≪壱≫

 早春のある夜、弦麻は珍しく妻である迦代を伴って、近くの梅園へと足を運んだ。
 生憎と月は雲間に隠れ、とぎれとぎれにしかその光を地上に降り注ぐことは無かったが、視覚に頼らない分、より一層馥郁(ふくいく)たる梅の香りが2人を押し包むように漂っていた。

「あなた…それで、お話とは何でしょうか」

 柔らかく微笑む妻の表情は、夫の考えを全て承知の上で、それでも敢えて当人の口から話を聞きたいといった風であった。

「……今一度、今一度だけ確かめさせて欲しい。本当に良いのか、迦代…」
「…………」

「…緋勇の血と≪力≫は絶やしてはならない。それは古から代々我が家に伝えられていた言葉だ。だがそれは…」

「…妻の命と引き換えにしてもとは望んではいない…そうおっしゃいたいのでしょう」

 普段から饒舌ではない夫がやはり言い難そうにしているのを見て、結局妻の方が言葉を補ってしまう。
 一番言いたくて…しかし言葉にするには躊躇われた台詞を妻に言わせてしまったことに、弦麻は自分の不甲斐なさに顔を顰める。

「俺には幸い兄も弟もいる。兄は生来身体が丈夫では無かったから、≪力≫は俺が引き継ぐことになったが、血は絶えることは無い。俺が居なくなっても必ず継承する者が現れる筈だ、だから…」

 生きていて欲しい…と弦麻は呟きながら妻を抱き寄せた。

 いつものようにやや不器用ながらも、しっかりと自分を受け止めてくれる夫の温もりに、迦代はしばらく目を閉じて身を委ねていた。


「……あなた」
「俺は怖いんだ、迦代。お前を喪った悲しみに絶えていけるのか、そして、その引き換えに生まれた子供に父親としての愛情を注ぐことが出来るのか…」

 数日前、妻から懐妊したということを告げられてから、弦麻はずっと考え込んでいた。

 己の血の中にある≪力≫と使命、そして妻の背負っている宿星…。
 それは2人が結ばれる前から知っていたことであった。それらを知って尚、全てを負う覚悟で、半ば強引に迦代と結ばれたのであったのだが…。
 しかし、いざそういう事態に直面すると、覚悟という物がどういった物であったのかが分からなくなる位脆く感じられてしまう。

 いくら己の身体を鍛え、技を磨いても、結局≪力≫が強いということが、即ち心の強さに直接つながるものではないのだと、弦麻は今更ながら思い知らされた。

「俺がお前の夫でなければ、こんな目にお前を会わせることも無かったのかと」
「弦麻様」

 迦代は敢えて夫を名指しで呼ぶと、不思議な虹彩を放つ黒い瞳で夫を真っ直ぐに見詰めた。

「情けないことをおっしゃらないで。まさかあなたは、私以外の女性を妻にすれば良かったとお思いですの?」
「そんなことは断じて無い」

 そう考えることが出来るのならば、今こんなに苦しんだりはしないと、弦麻は言った。

「私も、弦麻様以外の方を夫になどと思ったことは一度たりとて御座いません。………弦麻様、私、最近つくづくとこう思いますの」

 私ほど幸せな女は居ないのではないか───と

「!?迦代……」

「菩薩眼の歴史は戦乱の歴史…その言葉は我が家に代々語り継がれてまいりました。
 菩薩眼の女を巡って、時には悲劇が繰り返されたと───
 そしてどれだけの菩薩眼の女が、時代という流れに呑まれ、消えていったのか…」

 でも…と、迦代は夫に向けた笑顔を絶やさないまま言葉を続けた。

「私は、こうして愛する方と結ばれ、そして愛する方との間に子まで為すことが出来たのです。これほど幸せなことってあるのでしょうか…。弦麻様は私の宿星をご存知で、それでも愛しているとおっしゃってくれましたね、あの日…」

 黙って頷く弦麻の脳裏には、まだ結婚前、妻が自分の宿星が故に他人と交わるのを拒絶していた頃が蘇る。

 ───私に関わると、皆不幸になるのです。ですから、もう私に近寄らないで下さい!

 そう泣きながら俯く迦代に、

「お前と出会わない人生の方がもっと不幸だ…。俺はあの時そう言ったな」
「そしてこうも言ってくださいました。宿星なんてもの、そんなものどうだっていいと」

 迦代は自身の華奢な指を、弦麻の武道家らしいごつごつとした、それでいて温かみのある指にそっと絡ませた。

「私、あの日に生まれ変わったんです。それまで自分を取り巻く世界を、自分の宿星を恨んで拗ねていた自分を捨て去り、そして新しい自分を知ることが出来たのです。人を愛することの出来る自分を、人に愛してもらえる自分を───願わくは、私の受取った幸せな気持ちを、我が子にも伝えて行きたい…」

 こんなに幸せな生涯を送れた菩薩眼の女が居てもいいんじゃないのかしらと迦代は最後に付け加えた。




  ≪弐≫

「迦代、今年の夏は俺の故郷に行かないか」

 7月に入って間もない日、突然弦麻からある提案が出される。

「それは…嬉しゅう御座いますけれども、でもよろしいんですの」

 迦代の疑問は当然だった。
 弦麻との結婚は、迦代が実家から猛烈な反対を受けた為、半ば駆け落ち同然で結ばれたという経緯があった。故に2人の結婚式には極々親しい友人と、そして親戚からは東京の大学院に通っていた弦麻の兄當麻がただ1人出席というささやかなものだった。

 それが引け目に感じられてか、それとも日常生活にはもともと無頓着な弦麻の性格からか、結婚後夫の実家である奈良の神社に顔を出したことは一度たりとて無かったのである。

「構やしないさ。俺が修行に明け暮れて何年も顔を見せてなくても当然だとお袋たちは思っているし、それに───」
「何か?」

「親子3人の夏休みを満喫するのも悪くは無いだろう。……お前たちに俺の育った土地を見せてやりたいんだ」

 その言葉を聞いた瞬間、迦代は白磁のように白く滑らかな頬をぱっと紅潮させた。




「やっと着いたな」

 8月のお盆よりも少し前の時期、弦麻と迦代は東京から5時間以上かけて、ようやく奈良の玄関口にあたる駅に到着した。

「身体の方は大丈夫か?」
「ええ、もう安定期に入ってますし…それに私、こんなに遠い所に旅行に来るのは初めてですの。もう嬉しくて、嬉しくて…お腹の赤ちゃんまでいっしょに跳ねて喜んでいましたわ」
「そうか──。さてここからはタクシーでも拾って行くか…」

「兄さん、弦麻兄さんッ!!」

 2人がタクシー乗り場に向おうとした時、突然男性の声が掛けられた。

「お前は、拓麻かッ!久し振りだなッ」

 3兄弟の一番下の拓麻が、両手を力いっぱい振りながら小走りに近寄って来た。

「兄さんこそ、相変わらず元気そうで」
「元気なだけが俺の取り柄だからな。お前の方こそ、ちゃんと勉強してるのか?」

「文武両道の弦麻兄さんや、研究室に務めている當麻兄さんには負けるけれど、ちゃんと修行も勉強もしてますよ。初めまして、迦代さん。僕は弦麻兄さんのすぐ下の弟で拓麻といいます。すっかり武道にのめり込んでいる弦麻兄さんや、学問の方にどっぷり浸かっている當麻兄さんに代わって、実家の神社を護ってます」

 よろしくッ、とややはにかみながら握手を求めてきた。
 迦代はこちらこそよろしくお願いしますと言い、2人は握手を交わした。


「しかし、俺たちがこの時間にここに着くって良く分かったな」

 拓麻の運転する車の後部座席から、弦麻は感心した声を上げる。

「當麻兄さんが連絡をくれたんです。おそらく弦麻の奴、いつ頃帰るという連絡を入れたりしてないだろうからって…図星でしょう」
「そうなんですか、あなた?」

 2人から見られて、弦麻はやや照れ臭そうに、そういえばちゃんと連絡を入れていなかったかもと口ごもりながら言う。

「はははッ、やっぱり弦麻兄さんらしいや。お袋たちも楽しみに待ってるから…いったい、あの天然の入っている弦麻兄さんにどんなお嫁さんが来てくれたのかって」

 上機嫌な拓麻の口調から、迦代は内心抱いていた緊張感を少し解すことが出来た。
 そして車で1時間弱程走ったところで、三輪山の山麓に近い弦麻の実家のある神社に到着した。


「まあまあ遠くから、ようこそお越しくださったね。身重の身体で難渋したでしょう」

 この神社の祭主を務めている弦麻の母、洸子(ひろこ)が、車が到着するやいなや直ぐに出迎えに出てきた。

「初めまして、迦代と申します」
「本当に珠のように美しいお嫁さんだよ。弦麻には勿体無い位だわね」

 そう言うと、大切な宝物を扱うように、そっと迦代を母屋の方へ案内する。

「お袋の奴、息子の俺は完全無視か……」

「仕方ないですよ。お袋、この一週間位滅茶苦茶張り切ってたから。緋勇の家にお嫁さんが、しかももうじき生まれる孫まで一緒に来てくれるって…」
「……そうか…」

 予想通りの反応に、皆が喜んでくれて嬉しいと思う気持ちと、その喜んでくれている皆を近い将来哀しませることになるのを黙っている罪悪感とが相成り、弦麻は複雑な思いだった

 その夜は、近くに住む親戚や近隣の人々を招いて盛大な歓迎会が開かれた。



 翌日からというもの洸子は時間の許す限り、迦代を伴っては近くを散策するようになった。『妊婦には適度な運動が必要だ』とは彼女の言だが、あまりの歓待ぶりに弦麻は何日かたってから母親に話が有ると切り出した。

「お袋、迦代に妙なプレッシャーを与えてないでしょうね」

「妙なとは…。私は何も、ただ迦代さんが、この辺りの歴史や、山の名前や川の名前を聞いてくるから、案内しているだけで。……私は別にお前たちの間に生まれてくる子供に、この神社を継いでもらおうなんて、はなから考えてないよ」
「えッ!」

 洸子は真剣な眼差しで息子の方をじっと見る。
 その表情は幼い頃から弦麻が度々目にした、神事に望む時に見せる母の顔そのままだった。

「…私には緋勇の家の巫女としてさほど強い≪力≫を持っている訳ではないが、それでも少しは人というものがそれぞれに背負う宿星とかを視ることが出来る。弦麻…お前はこの神社に収まるだけの器の男ではない。そう思ったからこそ、敢えてお前を外の世界に放り出した。そして迦代さん……彼女もまた大いなる宿星を背負っている。だから、この先何が起こるかも…私には感じることができる。そんな2人の間に生まれようとする子供だ。私たち緋勇の人間だけで独占できるものではない。きっとその子を必要とする人々が現れる。その日の為に、その子にはここに留まるのではなく、広い世界を知り、様々なことを見知って欲しい…」

 それが祖母として私が望む全てだと洸子は言った。

「お前たちが宿星を乗り越えて結ばれ、そしてその運命に立ち向ったように、生まれてくる子供にも決して宿星のみに縛られてはいけないと導いて欲しい……。───私がお前たち夫婦に望むのはそのことだけだよ」




  ≪参≫

 夕刻、弦麻は先程聞いた母親の言葉を伝えようと迦代を捜したが、家の中でその姿を見つけることができなかった。

 もしかしたら1人で近くを散歩しているのかと思い、神社の鬱蒼とした杜を抜ける参道を歩いてみると、それとすぐ分かる妻の≪氣≫を木々の生い茂る彼方から感じ取ることができた。
 子供の頃、自分だけが知っていると思っていた秘密の場所、そこへ通じる抜け道を慣れた足取りで通り抜ける。その先は大和盆地の西側を一望できる小高い丘になっており、折りしも夕日が沈む光景が静かに広がっていた。

 自分の幼少時代と少しも変わらぬ美しい夕日───。違うとすれば、そこには愛しい女の姿を見出せたことであろう。

 身じろぎもせず、静かに眺めている迦代は、頭の先から爪先までも、夕日の茜色に染まっており、その姿はあたかも観音菩薩のように優しい光を放っていた。


「……見事ですわね」

 迦代も夫の≪氣≫を敏感に感じたのか、振り向きもせずに溜息交じりで呟く。

「そうだな。俺もガキの頃ここで夕日を眺めるのが好きだったんだ」

 自分も夕日の色を照り映えらせたまま、同じように感嘆の表情を見せる。

「ええ、お義母さまから伺いました。あの子はよくこの場所から夕日が沈むあの山をじっと眺めていたと。だから私もここが好き…」

 弦麻は妻の傍らに立って、幼少の頃から見慣れた光景を思う心ゆくまで味わうことにした。

 ちょうど奈良と大阪の県境にそびえる、ふたこぶの尾根を持つ二上山、その山に夕日が沈んでいく姿は何度見ても飽くことの無い美しい光景だった。


──うつそみの人なる吾や 明日よりは 二上山を弟世<いろせ>とわが見む

 迦代の口から零れ落ちた歌。それは万葉集の挽歌を集めた中に収められている1首──

「弟大津皇子が謀反の罪に問われ死罪を賜ったため、伊勢の斎宮の任を解かれた大伯皇女(おおくのひめみこ)が、弟の墓のあるあの山を眺め偲んで作った歌。あの山は古来から神聖視されていて、当時の人々はあの山の向こうには常世の国があると考えていたそうですね。あの山は生と死を隔てる山…」
「迦代…」

 突然死の国を意味する常世の国のことを話し始める妻に、弦麻は驚愕の色を隠すことが出来なかった。

「でも私は1人で遠くあの山の向こうに行くのは嫌ですわ」
「………」

 くすくすと、愉快そうな笑みを浮かべる迦代の表情は、驚くほど明るかった。

「私は…いつまでもあなたの、そしてこの子の傍に居たい。たとえ姿が変わってしまっても…あなた達の目には私の姿を捉えることが出来なくても…」
「………」

 弦麻は物柔らかに妻の身体を自分の方に引き寄せる。迦代は口を閉ざし、しばらく弦麻の広い肩に自身の頭を預けていた。


「あなた…」

 夕日がほぼ山の端に沈みきった頃、迦代は再び口を開き、

「お願いがありますの」

 真剣そのものの表情で弦麻を見つめる。

「この子の名前なんですけれど…あなたの名前の一文字を使っていただきたいの」
「俺たちの子の名…」

 迦代に引き寄せられるままに、弦麻はそっとふくらみの目立つ腹部に手を当てた。内からはまだ微弱だが、清らかな≪氣≫が感じられた。

「それは…構わないが」

 弦麻はその理由が分からないという。

「うふふッ、私があなたとあの子の所に直ぐに戻って来れるように、目印が欲しいの…」
「!!」

 またしても驚く弦麻だったが、迦代の顔は変わらず真剣そのものであった。彼女は本気で…と思うと一層愛しさがこみ上げて来る。

 その気持ちを内に秘めつつ、だったら今ここで決めてしまおうかと弦麻は迦代に提案した。

「それだったら2人で決められるし…」
「いいえ、それは駄目ですわ」

 きっぱりと迦代はその意見を否定した。

「この子には生まれる前から既に天から定められた宿星が有る。それはどうしても避けようのない未来。だからこそ、私はこの子に名前だけは、必ず生まれてから付けていただきたいの。何もかも全てが生まれる前から定められているなんて、それではこの子が可哀相…」
「……分かった、必ずそうする。だから…」

 何があっても必ず俺たちの所にやって来いと弦麻は言った。

「ええ、楽しみにしていますわ」

 願いが聞き届けられた喜びで表情を輝かせながら、迦代は黄昏の空気に溶けるかのようにゆったりと、そして夢みるような口調で、最後に弦麻ともう1つ約束をした。

「…いつかあなたも私の所に来られて……この子には、心から愛してくれる人が現れて、もう私たちがずっと見守る必要が無くなったら…」

 ───そうしたら、2人であの山の向こうに行きましょう……




  ≪四≫

「……弦麻…弦麻」
「あ、ああ」

 親友であり、武道の道ではよきライバルで自分の半身的存在でもある鳴滝冬吾に数度呼ばれてから、ようやく弦麻は声の主の方を振り返った。

「…大丈夫か。お前まだ…」

 心配そうに覗き込む鳴滝に、弦麻は大丈夫だと笑って答える。

「それなら良いが」

 鳴瀧の視線は、弦麻の方から自然と彼の腕の中に眠る赤子の方に移って行った。

 すやすやと目を閉じ安らいだ表情で眠る赤子は、生後間も無いながらも、誰をも魅了せずにはいられない位愛らしい容貌をしていた。

「……そっくりだな…」
「ああ、迦代に似て美人になるぞ。楽しみだな」

 明るく笑ってみせる弦麻の瞼には、この子が生まれた直後の様子が浮かび上がってきた。


 明け方、呱呱の声を上げて誕生した赤子を、たった今出産という大事を成し遂げたばかりの迦代の元に連れて行くと、弦麻はそっと彼女の腕に抱かせた。

『……ああ、これが…あなたと…私の』

 腕の中に自分が全身全霊を賭して生んだ娘を愛しげに抱きながら、迦代は静かに、本当に静かに眠るように息を引き取っていった。

『……迦代…』

 弦麻はたった今魂を天に召された妻に労わりを以ってそっと呼びかける。

 彼女の透き通るような白い面輪には、事を成し遂げた誇りと共に、母として妻としての優しさと幸福に溢れた最上の笑顔を浮かべていた───


「──それで、名前はもう当然決めてんだろうな」

 弦麻を良く知るもう1人の親友、神夷京士浪が、今日はめでたいお宮参りなんだから、しんみりとした話はもう止めにしようと、まだ深刻な表情をしている鳴瀧を押しのけるようにして話し掛けてきた。

「ああ、決めた」

 龍麻と名付けたと弦麻が答える。

「…いい名前だと思うが、その…」
「…女の子には付けるには、ちょっと勇まし過ぎねェか」

 当惑する鳴瀧と神夷に、弦麻はちゃんと理由はあるさと力強く言う。

「この子が自分の負った運命に負けないように、強くあれ…そして───」

 名に負う龍の如く天高く飛翔し、いつか約束の地に旅立った俺たちに会いに来て欲しい。

 ───弦麻様ったら…

<分かっているさ、迦代。今はまだ…だろう>

「だから今はまだお前も俺たちの傍にいてこの子を、龍麻を見守ってやってくれ」

 秋晴れの目に染みるような青空を眺めながら、弦麻は自分にだけ見える妻に話し掛けた。
 両親に見守られて眠る龍麻はその時、花がほころぶような笑みを浮かべた───

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