「さてと…、矢立(=筆箱)は入れたし、教科書も……」
朝食の片づけを終えた僕がキッチンから顔を出すと、ひみこがカバンの中を入念にチェックしていた。そう、今日はいよいよ彼女が真神学園に初登校する日だ。
「ハンカチは持ったかな」
「無論、乙女としての心得じゃからな」
「お弁当は」
「それも…って、ああ、まだ机の上に置いたままだった」
危ない所であったと、そそくさとひみこがカバンに仕舞い込む。
「それと────」
「紅葉…わらわはかように世話を焼かれるような子供ではないぞ」
朝っぱらから僕にあれこれと指示されるのが煩わしいとばかりに、ひみこは豊かな黒髪をぱさりと後ろに靡かせた。
「じゃあ聞くけど、君の誕生日は一体いつ?」
「え、えええと………」
「…時間切れだね。自分の誕生日を聞かれたら10秒以内に答えられるようにって、昨夜あれほど釘を刺しておいたのに」
「うるさい、うるさい、うるさい〜〜。他にも覚えなければならぬことが多すぎて、ちょっと混乱しただけじゃッ」
ひみこは破れるんじゃないかという勢いで僕の眼前に紙を突きつける。それは僕が昨夜彼女に明日の朝までに覚えておくようにと言って渡したメモだった。
「大体なんじゃ、コレは!?」
中身はひみこに関する公の資料。要するにプロフィールというやつだ。
「生まれた日とか星座とか血の型とか、これらが一体何の意味をもたらすというのじゃ」
羅列されたそれらのデータは彼女にとっては理解不能なものも含まれているらしいが、
「必ず役に立つ時がやってくるよ」
確信めいてうなずく僕の様子に、そんなもんなのかと半信半疑のまま再びメモに視線を落とす。
「名前の前に苗字があるのがわらわとしてはどうも馴染めぬのだが」
さすがに苗字無しでは拳武館の力を持ってしても入学手続きは取れず、そこで館長の姪という肩書きで真神学園へ転入することとなった。
「それにしても鳴瀧ひみことは、何ともキテレツな苗字じゃのう」
「いやむしろ、奇天烈なのは……」
「紅葉、言いたいことがあったらはっきりと申してみよ」
「残念ながらこれ以上口論する時間はなさそうだね。まさか初日から遅刻する訳にもいかないだろう」
壁に掛かった時計を見て、ひみこが慌てて立ち上がる。
「そうじゃった。今日は手続きがあるから早目に行かねばならぬのに」
「僕もそろそろ学校に行くよ」
手早く戸締りをすませると、マンションの外までひみこと一緒に出る。
「ここからは君一人で真神まで行けるね」
「大丈夫じゃ。全く、紅葉は心配性じゃの」
そう言いながら力強く一歩踏み出した右足は────
「………やっぱり今日は学校まで送っていくよ」
「………………………………よろしく頼むぞえ」
マンションから二人連れ立って歩くこと15分。目的地である真神に到着した。
これといって特徴のない校門を抜けると、それでもさすがに歴史のある学校らしく校庭は意外にも広く、校舎に沿ってぐるりと植えられた桜の木は時代を経てここで学ぶ生徒たちを見届けてきた年輪をどっしりと感じさせる。
「これはまた綺麗な桜並木じゃな」
「そうだね…」
早目にと心がけて家を出てきたせいで生徒たちの姿はまだほとんど見受けられない代わりに、これらの木々が桜吹雪でもって訪れる者を歓待してくれた。
職員室入口で用件を告げると、ひみこのクラスの担任であるマリア・アルカードという女性が席から立ち上がり、こちらへと手招きした。
「それじゃ、早速なんだけれどこの書類に必要事項を書いてくれるかしら」
「ふむ、仕方あるまいの……」
けれどもひみこは受け取った用紙を、そのまま僕の手へとそっくり手渡す
「(何で僕が)」
「(こういう細かい作業はお主の方が得意じゃろ)」
憮然とする僕を小突きながらひみこが涼しげに言い放つ。
「(…単に自分の住所とか電話番号とかを覚えてないだけだろう)」
「(理由が判ってるなら、話は早いではないか。ほれほれ、早く手続きを済ませぬとそなたが学校に遅れてしまうぞ)」
「(君をここまで送るという選択肢を選んだ段階で、すでに僕は遅刻決定だよ)」
「(それは相済まなかったな)」
ふてぶてしいと表現する他無い笑顔を向けられれば、それ以上反論する気にもならず、仕方なく本人に代わって僕が用紙に必要事項を書いていく。幸い昨夜メモを作っていたお陰で、これらに記入すべき項目は何に頼る必要も無くすらすらと淀みなく書き記せるが…。
「これでいいですか」
「ええ、結構よ。ありがとう。………って…、あら、鳴瀧さんは?」
「ひみこ?」
いつの間にか傍らに立っていたはずの彼女の姿が消えていた。
職員室中をぐるりと見回しても彼女は見当たらず、一体何処に…と呟く僕に、
「あの……。一緒に居られた女の子でしたら、あっちの扉から外に出て行きましたけれど…」
女生徒がその方向を指差しながら教えてくれた。
「あら、美里サン」
「ごめんなさい、私、止めれば良かったようですね」
「いや、悪いのは勝手に出ていく彼女の方ですから。それより僕が直ぐに連れ戻してきます」
「多分、あの扉からだと旧校舎のある裏庭の方に向ったと思うんですけれど…」
「旧校舎?…判りました」
「よろしくお願いね。そうだわ、クラス委員のあなたに先に伝えて…」
担任と女生徒が何やら話を始めたが、早足で職員室を出た僕にはその会話の全てを聞き届けることは出来なかった。
「ひみこ────」
教えてもらった旧校舎に面した裏庭は大して広くなく、程なく彼女の姿を発見できた。
「おお、紅葉か。見よ、これはまた一段と見事な桜の木じゃろう?」
「何を暢気なことを。全く、君って人は…」
勝手に飛び出したと思ったら、桜の花をのんびりと眺めていたなんて。
そう咎めるつもりだったのだが…
「この木の根元にな、以前、わらわは大切なものをこっそりと埋めたのじゃ」
「…大切な…それは一体?」
「まあ、とうの昔に土に返っているとは思うのじゃが…」
しゃがんだまま木の根元をいとおしげに撫でる彼女に僕は掛けるべき適切な言葉がどうにも見つからず、その背をしばらくの間ただ黙って見続けていた。
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