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薄花桜 其ノ弐

「…ところで…僕が指南役というのは、どういう意味ですか」

 僕はソファー正面に座っている館長に向かって、まずは軽い質問からぶつけてみた。
 彼女はといえば館長の左隣で、今は涼しげな顔で特選の玉露を満喫している。
 先程までは、散々に騒いでいたくせに……。

『な、なんじゃッ、この泥水はッ。おぬし、このようなモノをわらわに飲ませるつもりか〜〜ッ』

 泥水とは…僕が淹れたコーヒーのことを指すらしい。失礼なッ、こう見えてもコーヒーを淹れるのは結構得意にしているのに…。

 いや、コーヒーだけではない。家事一般に関しては並みの男よりもずっと得手にしている。というのも物心ついた頃、既に父は亡くなっており、家計を支える母に代わって僕が家事を担当していたからだ。
 でも、あの頃はまだ良かった。

『紅葉…ありがとう』

 手伝いをしてくれた褒美に、母は疲れているのにもかかわらず満面の笑みを浮かべて報いてくれたから。その笑顔を見ると、僕の心は自然と温かく、くすぐったく…。だから手伝いが嫌だとは思わなかった。

 今は…といえば、母は無理がたたってもう何年も病院に入院している。
 代わりに僕が家計を支え…、その為に拳武館の門を叩いたのだ。
 暗殺組に所属するのと引き換えに、学費はおろか生活費まで一切面倒見てくれた。館長は、だから僕ら親子にとって文字通りの恩人だった。その恩に報いるべく稽古には人一倍精進し、いつの間にか館長の一番弟子と呼ばれるまでになっていた。
 その僕が指南役を務めるということは……ひょっとすると、彼女も?

 すっと目を細めた僕に、館長はそういう意味ではないと表情を和らげる。

「むしろ、武道に関しては我々の方が指南を請わねばならんかもな」

 何だって?まさか、見た目は楚々とした印象を与えるこの少女が…。…武道を…それも館長をしてそう言わしめる位の達人だって?

「……到底、信じられません…」

 僕としたことが、珍しく館長の言葉に異を唱えてしまった。
 言い放ってから後悔する僕を館長は咎めるどころか、そうだろう、実は私もまだ信じられん位だよと笑うと、それから彼女との邂逅の一部始終を説明してくれた。


 その話は…時間にしたら結構長かったのだろう。
 事実、窓の外は暮れなずみ始め、すっかりとお茶を飲み干した彼女は────柔らかなソファーに身を委ね、安らかな寝息を立てていた。
 当事者だというのに呆れたものだ…。それとも大したものだというべきかな。
 何せ、彼女は…

「この時代の人間ではない───」
「うむ…。幕末の世と言うから、今からざっと130年程遡った時代から、突然この時代にやって来てしまったらしい」

 そんな無茶苦茶な話が有るものか…と思うが、館長は到って真剣で。

「…紅葉、『人ならざるモノ』の存在というのは以前話したことがあったな」
「はい」

 僕も負けず劣らず真剣に頷いた。

『人ならざるモノ』

 それらの存在は、僕が館長から武術を教わるようになって数年後、ようやく奥義の一つを教わるようになった時に初めて語り聞かされた。

 ───いいか、紅葉。この《力》は無闇に振るうものではない。

 夢中になってその技を学ぶ内に、僕は少しずつ館長のおっしゃる『人ならざるモノ』について…そして、時折出現するそれらを館長が密かに追っていることを知るようになった。

「今回もそうだった。ある高校で奇妙な事件が起こっていると。その報告を元に駆けつけたのだが…」

 《力》に溺れ、陰気に呑み込まれ、ついには人ならざる存在と化した少年が、同じ高校の少年・少女に襲いかからんとした、まさにその時───

「【目覚めよ】と言われたから大人しく目を覚ましたら……何やらやかましいことになってての」

 ここでようやく彼女が、未だ眠たげに目をこすりながらも話に加わった。

「寝起きはむしゃくしゃするゆえ、その…つい、いつもの要領でお灸を据えてやっただけなのじゃが…」
「……ただの一撃だった」

 彼女がたった一撃蹴りを放っただけで、『人ならざるモノ』は光へと消えてしまったのだと。

「うーむ…澳継ならば、わらわの【流星脚】にも充分耐えてくれるのにのぉ」

 しかも当人には、行き掛かり上とはいえ人の命を一つ葬ったという点に対する反省の色は全く無い。
 ……というか、澳継って誰だ?

「澳継は澳継じゃ。それ以外の何者でもない」

 それじゃ答えになっていないと思うのだが…。それよりも気になったのは、次の館長の言葉だ。

「【流星脚】とは…我々の陰の流派とは対になる、陽の流派で体得する蹴り技の一つだ」
「陽の流派…」
「元は根源を同じくする流派だったのだが、時の流れと共にいつしか二派に分かたれ、そして現在、我々が継承するのが陰の《力》をより濃く継承した流派の方という訳だ。だが…」

 陽の流派は17年前の事件をきっかけに断絶した筈だと、館長は呟く。
 その瞬間、普段は滅多なことで穏やかな面差しを崩さない館長が顔を曇らせた。その表情の裏に潜む事情を窺い知るなど僕には出来ないが、少なくとも館長が彼女に興味を抱く経緯はすっかり理解できた。

「分りました…僕に出来ることでしたら、何なりと」
「そうか。ならば改めてお前に彼女の指南役を頼みたい」
「指南役……一体何を?」
「ようするにじゃ、突然右も左も分らない世界に呼び出された"か弱き乙女"が、この世界で無事に生きていけるよう優しく教えてたもれ、と、そういうことじゃ」
「……………」

 か弱き…かどうかは僕からのコメントは差し控えたいが、確かに江戸時代から急に平成の世に放り出されれば、右も左も判らないというのは道理だろう。

「住居は彼女の希望で、四月から通う学校の近くである新宿に用意している。差し当たって彼女が今の生活に慣れるまで、紅葉、君も一緒に…」
「……一緒に?」

 ───それは……
 予想だにしていなかった命令に言葉を呑み込む僕に比して、彼女の反応は素早かった。

「鳴瀧、その儀は辞退させてもらたい」
「どうしてかな?君のたっての希望である新宿の真神学園に通うには、それなりに現代の生活習慣を覚えなければならない。それには紅葉の協力が必要だと…」

 困惑する我々に、珍しく済まなそうな口調で彼女が事情を説明する。

「この者が嫌だからでは断じてない。その……殿御と一つ屋根の下で共に住まうのは……わらわの許婚に対し申し訳が立たぬからの」
「い、許婚ッ?」

 思わず声を上げてしまったが、よくよく時代を考えれば17、8歳で結婚など当たり前だし、それに彼女は、どこかしら姫君めいた風格を湛えているし……だから許婚の存在は驚くに値しないのかもしれない。

「そういう訳で、紅葉は暫くの間通ってくれるだけで良い。なに、わらわ一人でも大丈夫じゃ」

 そう強気に宣言した彼女に、その場では館長も僕も異論を挟めなかった。


 だが────

 その宣言はあっけなく撤回された。
 それも、わずか3時間で……


「紅葉〜〜〜助けてたもれ〜〜」

 実に彼女からは30分と間も置かず呼び出される始末だった。
 しかもその内容はといえば、

 ・扉が開けられない(←オートロックの解除の仕方が分らないから)
 ・部屋の明かりの点け方が分らない(←電気の無い生活を送っていたから)

 に始まって、ついにはボヤ騒動まで起こしてしまい……。

「……管理人を随分と激怒させてしまったの〜」

 当たり前だ!よりにもよって部屋の中で【巫炎】という火属性の《氣》を放つ技を使ってしまったんだから。お陰で駆けつけた僕までが、こっぴどく叱られてしまったよ。
 それなのに君ときたら…悪びれも無い笑顔を見せてるんじゃないッ。

「…わらわの時代とは火の点け方が異なるし、つい面倒で…」
「言い訳は無用だよ………それより、ほら、こうすれば簡単に……」

 深くため息をつきながら、彼女にオール電化された最新式キッチンの使い方を教える。理解できているのかは甚だ疑問だが……。

 そんなこんなで彼女の前で実演を兼ね僕が夕食を作った。といっても、騒動の連続で二人ともすっかりお腹が空いていたから、炒飯と野菜スープの二品しか用意出来なかったけれど。
 初めてその目で見る中華料理を前に彼女は最初こそ怪訝そうな顔をしたが、一口食べた途端美味しいと目を輝かせてくれた。

「……紅葉……。お主、迷惑に感じてるのじゃろ?」

 向かい合って食事を取りながら、唐突に彼女が語りかけてきた。

「……いいや……そんなことは…」
「嘘じゃッ」

 きっぱりと僕の言葉を否決すると、口と言うのは食べ物を食する時と本当のことを言う時に使うべきなのじゃと、彼女は自分の意見を付け加える。

「嘘じゃないよ…。少なくとも迷惑になんて感じていない」

 その証拠に…いつもは一人きりで食べる夕食。それが誰かと食べるという、ただそのことだけで、食事が生きる為の義務ではなく権利なんだと思えてしまう。

「そうか、ならば良いが…。でも…鳴瀧に命じられた時、そなたが困ってたような気がしたから…」
「……!」

 それで、咄嗟に彼女が断ったのか…。

 困ったのは………確かに事実だ。
 なぜなら僕はただの高校生じゃない……。

「まぁ、わらわが困ったのも事実じゃ。理由は…無論、許婚に遠慮してというのも有るのじゃが……。でも、今は……紅葉が一緒に居てくれねば、もっと困るというのがよく分った」
「……僕が、必要…」
「そうじゃ、お主が必要なのじゃ」

 誰かから必要とされるなんてことを、今まで他人からここまではっきりと口にして言われたことがなかった。僕の存在を必要としているのは、母だけだったから……。
 その母を助ける必要から僕は拳武館に所属し、見返りとして拳武館は僕の《力》を必要としている。口の悪い言い方をすれば、共存共栄の為に互いを利用し合っている、そんな関係だ。

 だけど今、僕の目の前に座るこの少女と僕の間柄は必ずしもそうじゃない。
 僕の代わりの人間なんて、それこそいくらでも用意できる筈だ。
 それなのに、彼女は何で僕が必要だとそこまで言い切れるんだ?

「……よく判らないのじゃが……そなたが一緒だと安心するでの」
「……理由になってないね…でも…」

 でも僕にも正直分らなくなっている。
 誰かから必要だって言われることが、それも出会ってまだ半日も経っていない彼女から言われて、何となく嬉しく感じてしまう自分の心境の変化ってやつが…。

「君が一人だと心細いっていうのなら、……僕は構わないよ。元々それが館長のご意向でもあるしね」
「……むぅ……素直じゃないのぉ……お主は………昔から」
「昔から?」
「あ、いや、何でも無い。とにかく、そうと決まれば…」

 彼女はテーブルの上に無造作に置かれていた僕の手に、軽く自分の手を重ねた。

「…この先、色々とよろしくお頼み申し上げます」


 真っ白な雪を思わせる、驚く程に華奢な手。
 彼女はこの先、この平成の世で、どんな運命をその小さな手ひらに掴んでいくのだろう?


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