眠りユズリ葉作 |
「ッ!」 影が射したと思った瞬間、自分に倒れこんできたその体を、とっさに支えられたのは、普段から慣らしている反射神経の賜物。 但しその後、実際に両腕に掛かった重みと大きさに耐え切れなくて。 背に当たった壁に寄りかかるよう、ずるずると尻餅を付いてしまったのは、仕方のない事と言っても良いと思う。 懸命に、怪我一つ負わせず受け止めたその体の主。 胸に抱き込んだ相手を、冷たい板の間に尻をつけた私が、そっと伺えば…。 「弥勒?」 彼は、静かに目を閉じている。 くぅくぅ…と、乗っているのがやっとと言った狭い私の肩を枕に、彼は静かに寝息を立てていた…―――――――― 私が弥勒の家に訪れるのは、村でも結構有名な話で。 朝に夕にと、時間を見つけては、彼の家を訪ねていた。 私への任務がない日は、それこそ一日中彼の家で過ごす事もあったけど…特に何か彼と会話するのではなく、ただ空間を共有するだけ。 夕方、仕事を一段落させた彼が、母屋に送ってくれるその時だけ、ゆっくりと様々な話をする。 大抵は任務上、村の出入りをする事の多い私が、見てきた町内の様子や、村での出来事などを聞かせて。 彼は私のそんな話に相槌を打ったり、時々は自分の話をしてくれた。 他人にとってはきっと些細なものだけど、普段物静かな彼が私にと語ってくれる言葉の数々は、貴重で。 一緒に家で過ごす時間と共に、その時間を私は、とても大切にしていた。 …でも。 弥勒の事も。そして、そんな時間も…村にとっては、私事だから。 自分への任務が来たら、後回しになる。 私へとそれを知らせるのは大抵は、桔梗や澳継。 それに天戒だったけど、彼らが一様に一種申し訳なさそうにそれを告げる時、私は反対に恐縮もしていた。 一度、天戒自身に言われたことがある。 『前線を外れるなら、外れても構わないぞ』と。 私が驚いて直ぐにと聞き返せば、天戒は苦笑して…私にと言ったのだ。 「俺には、皆を幸せにする義務がある。だが、今の鬼道衆で…復讐にと燃える我らで、本当に多くの者が幸せになるのだろうか?」 「天戒…」 「…それに、気付かせたのはお前だ、真」 「私?」 「ああ。…村に来た当初に比べ、ずっと明るくなったお前を見て、俺も考えさせられたのだ。真に人を幸せにするには、決して目標を達成する事、悲願を成就させるだけが術では無いと、な」 「……」 「そういう意味では、真には感謝している。お前がこの村に来てくれたこと。そして、こういう転機や、発想を与えてくれた事に…一種、運命させ感じさせられるさ」 「天戒…」 「だから、そんなお前が弥勒の側に居ると言うなら…居たいと言うのなら、それで構わない。自分の幸せ、大切なものを見つけた者を『鬼道衆』に縛り付けて置く気は、俺には無いからな」 「……」 そう言って、穏やかに笑った天戒を私は、暫しと見つめ返し…彼の背負っている重さに感じ入っていた。 上に立つ者の持つ重責。 多くの命が、この人の肩の上に乗っているのだと、初めて理解したのだった。 …結局は、その言葉に辞退させてもらったが…辞退させてもらう際に、私はそっと決める。 こんなにも余所者であった私を受け入れ、その身…その生き方を尊重してくれる彼の…彼らの<力>に、これからもなって行こう。 彼らが私の<力>を求める限り、その身を注ぎ、最後の一人になるまで、鬼道衆として力を尽くそう、と。 そう、その瞬間、誓ったから…任務を突っぱねる事も、厭う気も私には一切なかった。 結果。 私が弥勒の家に訪れる時間も、少なくなってしまったのだが…それはそれと納得して時々ある、数日掛けての任務には、遠く彼を想って過ごす事になった。 かく言う、今朝も三日振りにと村に戻って来たところで。 連日連夜に続く情報収集や探索に、疲労困憊の体を引きずりながらも、一目だけでも…と、この家に訪れたのだった。 トントンッ… 木で出来た引き戸を軽く叩き、相手が出てくるのを待つ。 ドキドキと自然と動悸が高鳴るのは、三日振りという状況だからなのか。 彼の顔を見たら、どんな顔をしよう?…そんな事を朧気に考えながら、私は戸が開くのを待つ。 …が。 何時まで経っても、一向に開かない目の前の扉に、首を傾げた。 「寝てるの、かな?」 未だ未だ朝早い時刻である。 何時もなら早くから起きて居る彼も、もしかしたら未だその体を休めているのかもしれない。 そう考えると、こんな朝早くから起こすのは忍びないか…と、私は、扉の前で逡巡するが…。 「ちょっとだけ…」 三日振りと言う状況に、自分の気持ちを優先させてもらう。 少しだけ中を伺ってみて、彼が予想通り未だ眠り就いているのなら、その顔を見て母屋に戻ろうと、扉に手を掛けた。 だが…。 「?」 木戸を開けてみると、寝ていると思っていた彼は起きているのか、土間の先にある居間からは、僅かな音が響いている。 障子一枚の隔たりしかない、小さな土間の先から木戸を叩いた音さえ、彼には聞こえなかったのだろうか?と、私は首を傾げつつも家の中に入って…。 「弥勒?起きてるの?」 と、居間の障子を開けると共に尋ねた。 「っ」 瞬間、飛び込んできた光景に、私は障子を開けた手を止める。 「な、何…これ…?」 目に映った様子に目を暫し、瞬かせた。 三日前。最後に此処を訪れた時は、整然と片されていた筈のそこは、今はそれが嘘であったかのように見る影もなく、散乱していた。 部屋全体にと降り積もった細々とした木屑で、足の踏み場すらない状況だったのだ。 「……」 目を瞬かせ、立ち尽くす私に、その部屋の中心…木屑の中心とも言うべき所に、座していた弥勒は、その時になってやっと気付いたようで、顔を上げ声を掛けた。 「真」 「っ」 呼ばれた声に、彼を見つめ返せば…私は、今度はそこで息を詰める。 久方ぶりにと見る彼は、もうずっと見ていなかったようにやつれていた。 「み…弥勒…」 驚いて、表情を顰める私に対し、彼自身は何も気に留めないのか、手にしていた自分の作品にまたと視線を落としながら尋ねる。 「もう朝か?」 何時も通りと言えば、何時も通り過ぎるそんな様子に、躊躇っていた足を進めると、彼の脇に座り、その顔を覗きんだ。 「大丈夫?弥勒」 「…何がだ?」 だが、尋ねた彼は私が何を心配するのか、心底解らないらしく…首を傾げると、肩を竦め、作品を見つめ続ける。 「それより、見てくれるか?久方振りに、自分でも納得の行く作品が、仕上がりそうなんだ」 「……」 「見てくれ。この、彫りの角度。これに後は…」 何処か嬉しそうに語るそんな彼の横顔を私は、複雑な表情で見つめれば…。 「興味は、ないか?」 と、話途中の言葉を途切らせた。 それに、私はじっと彼の顔を見つめる。 「……」 間近にと見ても、彼がやつれたのは目に見えて解るものだった。 「真?」 自分を見つめ続ける私の視線を不審に思ってか、弥勒は眉間に皺を寄せる。 「どうかしたか?」 「…弥勒。少し休んだ方が良いんじゃない?」 その怪訝そうな顔に、そう言えば、彼は驚いたように目を瞬かせる。 「何故だ?時間が惜しいと思える、こんな時に?」 「……」 「休むのは何時でも出来る。…もう、一筆二筆というところなんだ。これに、あとは数筆加えれば…」 と、言って席を立つと、道具棚に歩いて行く。 私は、そんな彼を追いかけるよう付いて行き、棚の前に立つ彼の後ろに立つと、その背に言った。 「…ねぇ、本当に顔色悪いよ?」 弥勒は私の言葉に棚から私を振り返る。 「顔色?俺のか?」 「うん」 振り返った彼を真摯に見つめれば、弥勒も何か感じたのか、少し黙るが…。 「……」 ふと、私を見つめ直すと左手を上げ、僅かに私の頬に触れた。 「そう言う君こそ、あんまり他人の事を言えた顔を、してないようだが?…どうした?何処か具合でも悪いのか?」 心配していた筈の人から反対にそう言われて、私は戸惑いながらも…気恥ずかしさに俯く。 「あ…これは、三日振りに戻ったから…」 自分の顔色の悪さは、体調云々以上に埃や汚れから来ていることを理解している為だったが…。 ぽろりと口から漏らしたその言葉は、彼にとって意外の物を含んでいたようで、僅かに触れていた手で弥勒は私の顔をもう一度上げさせると、眉間に皺を寄せた。 「三日振り?」 「うん、そうだよ。私、三日間来なかったでしょ?」 何を今更…と、私がそう言えば、弥勒は私が見つめる先で、私の頬に当てていた手を下ろし、訝しむよう私に言った。 「昨晩、君を送って行ったと思ったが…?」 「え…?」 意外な一言に、私の方が今度は黙る。 私が鬼哭村に戻ってきたのは今朝の事。確かに三日前の最後の晩。彼は何時もの通り、私を母屋に送ってくれはしたのだが…。 「……」 「……」 私たちは黙って見つめ合い、弥勒は段々と自分の状況を理解してきたのか…一つ溜め息を吐くと言った。 「どうやら、思ったより時間が経っていたようだな。…そうか、もう三日も経っていたのか」 「…まさか弥勒…私が居ない、この三日間、時間の感覚無かったの?」 と、恐る恐る尋ねれば…。 「そういう事らしい」 と、弥勒は頷き、『道理で夜がいやに長いと思った』と、呟いた。 それに私は、心底驚いて…彼に一歩近寄ると、その腕に触れ、彼の顔を覗き込む。 「じゃあ、食事とかは?ちゃんと摂って無かったんじゃない?」 「…作品に没頭していたから…」 そう、答えとも付かない言葉を呟いた次の瞬間、弥勒の体はふらりと傾く。 それに、私は驚いて…とっさにと手を伸ばした。 ………あとは、前記の通りである。 「急に倒れるって…やっぱり、気が抜けたから…なのかな?」 『怪我はしなくて、良かったけど…』と、今は胸の中に収まっている彼に苦笑する。 以前から作品に没頭すると、何も見えなくなる人だとは、知っていたが…。 まさか自分が外している三日間。時間の感覚もなく…しかも、本人が言うには一夜だと思うぐらいに…作品作りを続けているとは。 決して短い時間とは言えない彼と過ごした日々にも、なかった事だと、苦笑う。 「確か前に…そんな事があった、みたいな話しはしてくれたけど……本当にこうして、倒れるなんて」 腕に抱きしめた彼の重さに、溜め息を吐きつつ、無造作に投げ出された彼の片腕に触れてみた。 この三日間ずっと鑿を握っていただろうその掌は、鑿が当たる箇所が固くなっており、今は赤くなっている。 自分が居ない間、きっと一時も休みを取らずに作業していた彼。 もの凄い集中力に身をやっしていたからこそ、怪我の一つも無かったのかも知れないが…下手したらその鋭い刃物に、大怪我をしていたかも知れない。 「……」 そう思うと、急に怖くなって…私は、弥勒を抱いた腕に力を込めた。 普通そこまで、人は行けない。 数時間なら集中して作業する事も出来るだろう。 だが、数日を数えるほど長く、人は集中し続けるのだろうか? …勿論、途中途中で彼も手を止める事があったようだが…それでも、日数が経つ事を忘れるほどに何かに集中するなど…。 「弥勒…」 私は、言い得ない不安を覚えて、眠っている彼を見つめる。 今まで、そこまで自分を作品作りに費やす彼に不安を覚えた事は、なかった。 倒れたと言う話を聞いた時も、至極彼らしいと思ったぐらいで…なら、自分が側に居る時はそんな事がないように、気を付けなければと、思った程度。 だが…今日初めて、私は思う。 彼の作品作りが、酷く怖いものだと。 『芸術家』と、言えば聞こえが良いが…その言葉の裏には、魂を削ってさえも作品作りに溺れる、そんな仄暗い情念があるのだと。 「……」 やつれ切り、今は自分に寄りかかるよう、ぐったりと眠っている弥勒に私は、複雑な想いを抱きつつ…それを忘れようと、彼を抱きしめた。 そんな折。 弥勒の家の木戸が、開かれる。 「弥勒さん、居ますか?」 そう家主に尋ね、居間にと顔を出したのは…江戸市内でも珍しい洋装姿の宣教師、御神槌で。 「?弥勒さ…ッ!」 彼は、居間に顔を出した瞬間、部屋の様相に驚き、次に私達へと視線をやって、顔を一気に赤らめた。 「し、失礼しました!」 と、泡食ったよう、直ぐに目を伏せ、居間を後にしようとする。 その一種滑稽な姿に私は、自分を取り戻すと、慌てて声を掛けた。 「あ、ちょ、ちょっと待って!…待って、御神槌!!」 大声を上げた後で、自分の腕に居る彼の事を思って、しまったと口を噤むが…呼び止めた御神槌にも、私の声はしっかりと聞こえていたようで。 家を出て行こうとしていた彼はもう一度と、今度はそっと居間を覗き込んだ。 「…真、さん?」 戻って来てくれた彼に、私はほっと息を吐く。 「良かった、戻って来てくれて。ちょっと、困っていたの。…助けてくれる?」 そう言えば、御神槌は訝しむよう首を傾げ…。 「えっと…?」 躊躇いながら、弥勒を抱きかかえる私の隣まで来てくれた。 「実は、弥勒。突然倒れちゃって…」 「え?あ、ああ…弥勒さん、寝ていらっしゃったんですか」 私の言葉に御神槌は、驚いたように目を瞬かせ…。 「何だ、私はてっきり…」 と、そこまで言って言葉を切り、咳払いを一つすると、首を振る。 「…いえ、何でもありません。本当に…失礼しました」 と、苦笑した。 そんな御神槌に彼が何を言いたいのか、大体と察すると私も首を振る。 「ううん。そう思われても仕方ない状況だと思うし、ね」 と、自分の腕に抱いた弥勒の体の重さに、苦笑した。 そうして二人、苦笑し合っていたが、少しして、御神槌は口を開く。 「じゃあ、どうしましょう?」 「…ちゃんとお布団で、寝かせてあげたいなって、思うんだけど…部屋自体が、こんな状態だからね」 と、部屋の様子に言葉を途切る。 …この部屋の惨状に驚いて、弥勒の側に近寄った私だ。 その後、こうして壁に押さえ付けられていたのだから、片付けることもまま成らなかった。 私と弥勒。そして御神槌が申し訳ない程度に今居る場所しか、空間が無く…後は、所狭しと部屋中に作業具やら、作業中に出た木屑やらが散らばっているのである。 それに、御神槌も頷き…。 「そう、ですね」 と、眉間に皺を寄せた。 困りきった私は、そのまま少し部屋の様子を見ていたが…自分の腕の中の彼と見比べ、一つ溜め息を吐くと、御神槌に言う。 「しょうがないから、彼はこのままで良いわ。でも、これだと風邪をひいてしまうから、何か上に羽織れるものを取ってくれる?」 「…重く、ないんですか?」 私の言葉に聞き返した、御神槌に肩を竦める。 「多少は、ね。でも、直ぐにどうこうっていう訳でもないし…動かして起こしちゃうのも可哀想だから、大丈夫」 「真さん…」 御神槌は、少し私の顔を見つめた後、頷く。 「解りました。…それにやっぱり少しは、この部屋を片付けて行きますよ」 「え、でも…」 「さすがに商売道具に触れるのは、気が引けますから…最低限のものだけ、ね。それぐらいなら、問題ないでしょう」 そう言って、手近なものを纏め出す。 上に弥勒が乗って動けない私は、それが申し訳なくて…俯くと一言、呟いた。 「…ごめんなさい」 すると、御神槌はクスリと小さく笑い、首を振る。 「いいえ。困った方の力になるのが、私の務めですから」 そんな彼に、私も俯いていた顔を上げ見つめ直すと、尋ねた。 「御神槌は、何か用事があって此処に来たんでしょ?」 「え?ああ、まぁ…でも、頼むべき弥勒さんがこれでは、ね」 「……」 ちらりと、こちらに視線を流し、苦笑した御神槌に、私は腕の中の弥勒を見つめ直す。 確かに未だ未だ起きそうになかった。 彼の答えが正しいと言外に語ってしまった私に、今度は御神槌が尋ねる。 「それより、真さん村に帰っていたのですね」 「…うん。さっき着いたの」 それに、そう言えば自分も、出先から戻ってきたばかりだった事を思い出す。 村の入り口で別れた桔梗や澳継には、顔を見るだけだから…と言ってあったのだが、思ったより時間が掛かってしまっている。 心配しているかな?と、私が考える横で、御神槌はまた違う事を考えていたようで。 一つ笑うと、言った。 「なるほど。帰ってきた足で、此処に来たという事ですか」 「…うん」 御神槌の言葉に、私は頷き、桔梗や澳継に申し訳ないと思う気持ち以上に、私自身が持っていた気持ちに思いを馳せる。 「彼に逢いたかったから、一目だけ逢って行こうって思って」 と、腕の中の弥勒を見つめた。 「……」 御神槌はそんな私を少し見つめた後、目を細める。 「で、いざ逢いに来たら、帰るに帰れなくなったんですね」 「うん、まぁ…ね」 御神槌にした軽口に、私も一つ笑い、彼に視線を戻した。 「三日間ね。私、ずっと江戸市内に居たでしょ?その間も、ふっと彼の事を、思い出しては…彼にもらった櫛とか、時々取り出して居たの」 そっと、静かに眠る弥勒の体に付いている木屑を払う。 「だから、かな?村に着いたら、彼に逢えるんだって急に実感しちゃって…気が付いたら、この家の前に居て、戸を開けてた」 「……」 「この人の隣って、安心するの。…この家に居る時が私一番、幸せで…受け入れられて居る気分になる」 「真さん…」 「だから…彼に早く逢って、安心したかった。…でも」 顔を上げると、嘲笑した。 「いざ顔を合わせてみれば、こうなんだもん。…不安になっちゃった」 「……」 指に取った木屑を一つふっと息で吹き飛ばすと、私は続ける。 「話には聞いていたのに、いざ目の前で倒れられると、自分は何も出来なくて…ただ、この体を怪我させないよう支えただけ」 最後に、そっと彼を抱き直すと、呟いた。 「きっと何時かまた、この人は…倒れちゃうんだろうな」 「真さん…」 御神槌は私の話を黙って聞いていて…暫くして、止めていた手をまた動かし始めると、言った。 「あまり、気に病まない方が良いですよ」 「御神槌…」 「実際、そうして今日その体を支え、怪我をさせなかったのは貴女自身なんですから。その事に自信を、持たなければ」 「……」 「貴女が今日ここに来なければ、本当に誰も知らないところで倒れていたのかも、知れないですよ?」 『違いますか?』と、尋ねる御神槌に、私は少しの躊躇いと共に頷く。 「…そうだね」 「ね?それに、次を心配するというのなら、次はそうならないよう、倒れる前に貴女が止めれば良いじゃないですか」 にっこりと笑ってそう言った御神槌に対し、私は顔を顰める。 「私…止められるかな」 「何故?」 「私は、彼がどんなに『面打ち』という物に打ち込んでいるのか、解るから…その手を、本当に止められる事が出来るか…解らないよ」 そう言った私に、御神槌は近付いてきて、隣に座ると、一つ頷く。 「貴女なら大丈夫です」 「御神槌…」 「貴女は彼を見つめているでしょ?勿論、任務で数日村を離れることはあっても、それでも村に戻れば一番に此処に戻って来て彼を見つめる」 「……」 「なら、大丈夫です。貴女なら、彼をぎりぎりの所で、引き止められますよ」 「御神槌…」 戸惑って彼を見つめる私に、御神槌はそこまで言うと、一つ小さく笑う。 「まぁ、貴女が普通に側に居たら…彼も、そこまでのめり込む事は、ないと思いますけどね」 「?」 その言葉に、今まで明瞭だった彼の言いたい事が、解らなくなって首を傾げる。 「それって、私が彼の邪魔をしているって事?」 「いえいえ、そういう事ではなくて…」 少し迷ったように御神槌は、そう言って言葉を捜していたが…私から視線を外すと、言った。 「誰かの存在が直ぐ近くにあると、言うのは良い事です。人は他人が居てやっと、『自分』を見つけられる生き物ですから」 「……」 「相手を見つめ、自分を見つめる。相手に礼儀を尽くすこと。…主が仰るところの、『隣人愛』とはそこから来ているのかも知れない」 「?」 「…彼にとって、貴女と言う存在も、また欠かすことの出来ないものだと言う事ですよ」 「っ」 「貴女が彼に感謝するように、彼もきっと貴女に感謝している。それは、この村の者なら誰もが知っている事ですよ。…だから、自信をお持ちなさい」 すっと、御神槌は目を細める。 そうして、穏やかに微笑んで言った。 「貴女以上に、彼を理解している人など居ないのだから」 「御神槌…」 暫し、その言葉と彼の笑みに彼を見つめ返していれば…御神槌は、ふっと立ち上がると、脇に置いてあった帽子を被り直す。 先程私が頼んだように、押入れから一枚布団を出して私達に掛け…掛け終ると、言った。 「それでは私は、そろそろ失礼しますね」 「えっ…」 「此処での仕事も終わってしまいましたし、何より用事のあった弥勒さんが、これでは仕方がないですから。…また午後にでも顔を出します」 と、居間を抜けて土間にと歩いていく。 その後ろ姿に私は慌てて声を掛けて…。 「あの、御神槌」 木戸を抜ける際、振り返った彼に、せめてと礼を口にした。 「ありがとう」 「いいえ。…真さんも、その体勢では辛いかも知れませんが…なるべく体を休めた方が、良いですよ。貴女も決して良い顔色をしているとは、言えませんから」 「…うん」 「それでは、また」 「…本当にありがとう」 私の言葉に頷き、木戸が閉じた音に、私は一つ深い溜め息を吐く。 誰かに、自分たちの事を改めてと言われた事はなく、今のが初めてと言っても良い。 普段から、一緒に居る私達が、そういう風に見られていたとは…。 「……」 自分の事は自分が、一番解らない。 それは、客観的に見ることが、どうしても難しいからだが…。 ならば、他人から見た方が、意外に真実が見えているのかも知れない、と。 「弥勒…」 私はそんな事を考えながら…そっと、自分に持たれ掛かった彼の髪に触れてみる。 布に抑えられた彼の髪は、今私が触れている後ろ髪や、脇から流れ出しているだけで…それ以上は自由に動かない。 「……」 少し迷った後、その布を外してみた。 外せば、パラリと空気に流れ…私の肩を優しく包む。 私の髪に比べ、しっかりとした意外に長い、その髪に指を絡めてみる。 「……」 結局は、どんなに私が心配し、悩んでもきっと彼は変わらないだろう。 それでも、彼に私は言わなければ、ならないのだろうか? 『あまり無理をしないで』、と。 「…私達、一度はゆっくりと話しあった方が良いのかな?」 そう、今は意識のない彼に問いかける。 その答えは、彼が意識があったとしてもきっと返って来ないだろうと、問い掛けた先から私は考えながら…それでも、と彼を見つめる。 「…馬鹿馬鹿しい。言葉なんて、大して意味がないと知っている私達なのに、ね」 空気を通して、腕を通して、伝わるもの。 この家に満ちているそんな物が、今まで多くの事をお互いに伝えていた。 そんな私達なのだから…。 「……」 さらさらと指にじゃれ付かせる髪の毛から、手を離すと…ギュッと今度は、抱きしめる。 首を振った。 「…何処まで出来るか分からないけど…貴方が怪我しないように、傷付かないように、私は貴方を見つめるから…」 「……」 「どうか、この場所だけは…私だけのもので居させてね」 と、私は笑うと、彼を抱きしめたまま、目を瞑った…―――――――――――――――― 自分の頬に当たる柔らかなものは、何だったか?と。目を瞑った先で考える。 考え始める先で、その感触はきっかけに過ぎなかったのか。段々と上がってくる意識は、頬への感触以上に自分を包む、暖かいものが何であったかと、気になり始めていた。 「……」 億劫な思いをしながら、そっと目を開ける。 開ければ、目に映ったのは、焦点が合ってないながらに…何の変哲も無い土壁と、誰かの首元だと知って。 「?」 それに怪訝な顔をすれば、さっき自分を呼び覚ました頬への柔らかい感触が、再度俺を襲った。 「……」 ゆらり、ゆらりと…触れては返す、波のように、俺の頬に触れるもの。 「?」 一体、何だ?と、俺はそっと目だけでそれを確かめる。 すると、それは誰かの髪の毛で…俺は今、自分が誰かに寄り掛かるようにしている事に、やっとと気が付いた。 「……」 寝起きの頭は、回転が悪いのか、誰かに寄り添っている状況なのに、漫然としてしまう。 何より、自分を包むその体の主の体温が気持ち良くて、再度眠気が襲って来そうになる。 だが、それは拙いだろうと…意識をもう一度奮い立たせると、首を少し回して、その人物の横顔に目をやった。 目をやった先で間もなく俺は、そこに良く見知った顔を見つける。 それに俺は驚き、驚きが去った後、確かめるよう今度は彼女の名前を、口にした。 「…真…?」 名前を呼んでみれば、俺を抱きしめた相手…真は、僅かに身じろぐ。 「…ぅ…ん…」 返事を返しはしないが、彼女の口から洩れ出た声に…次第にと、意識がはっきりして来る。 どうやら、俺は本当に彼女の腕の中に居て、その肩を枕に今の今まで眠っていたらしい。 しかも、俺を抱く彼女も今は眠ってしまっているのだが…。 「……」 どうしてまた、こんな事になったのだろう? 自分の体を包む暖かい彼女の体温を感じながら、そっと左手を壁に付いて自分の体を起こす。 …が。 俺の体を支える事が、彼女の体の均衡を保っていたのか、ぐらりとその体が傾いたのに驚いて…。 「っ」 俺は、起こそうとしていた体をもう一度、その身に戻す。 今し方まで、していたよう、彼女の腕の中にと体を戻した。 「……」 真は、今ぐらついた自分の体にも気付かないのか、変わらず静かに眠っていて。 ただ、今の事があってか。俺を抱く腕には、若干力が加えられた。 「……」 訳が解らず、身動き一つ取れないながらに、俺はそれでも…と、肩越しに首を動かす。 今、居る場所を確認した。 「俺の家、か?」 見難い状況ながら、目に捉えた部屋の家具にそれを確認する。 多少の散らかりがあっても、幾つも並べられた商売道具である鑿が、それを揺ぎ無いものとしていた。 幾らか見知った環境に安心感を覚えつつ、俺は更にと視線を巡らせる。 「ん?」 巡らせる内に目に映った、床にと置かれた面に視線が止まった。 「あれは、確か…」 確か、ずっとと見つめていた…俺が今朝方まで、打ち込んでいた面ではなかったか? そこまで思い出して、今朝、真が家を訪れた事。 そして、彼女と何事か話をしていた事まで、何となしに俺は思い出すが…途中からぶっつりと、記憶が抜け落ちている事に、気が付いた。 「………という事は、あのまま俺は寝てしまった…という事か?」 自問自答するよう、呟いた言葉に、妙にしっくりと来るものを感じて、茫然とする。 確かに、江戸市内に居る頃から、突然事切れたように倒れて、数日起きず、起きれば記憶が混乱したような事はあったが…。 今回のように、これまた艶めいた状態で目が覚めたことなど無かった…と、今自分を抱きしめる存在に苦笑した。 「さて、どうするか?」 俺は俺を抱きしめる、真の腕の感触に暫し考える。 胸に、背にと感じるたおやかな感覚。 自分の首元にと彼女が、船を漕ぐよう近づく度に感じる吐息に…暫しと忘れていた感覚が甦ってくる。 「……」 これでは、直ぐににっちもさっちも行かなくなるだろう事を、予想付けると俺は、ふぅっと一つ息を吐いて、彼女を起こす事に決める。 だが…。 「真」 「う…ん…」 「真」 「………まだ、寝てたい…」 「……」 と、数度の呼び掛けの後、返って来た返事にそれが無理である事を察した。 かと言って、自分の体の事や、ましてや俺の体を支え続けている彼女の体を考えれば、今の状況を続けているのも…である。 「ふぅ…」 俺は、一つ意を決すると、一気に体を起こす。 ぐらりと傾く彼女の脇に、その身を入れ、彼女の横にと座り直した。 「…これで少しはましだろう」 と、体を傾けた彼女の体を、片腕に受け止めた。 「…ぅ…ん」 真は、そんな事にも気付かないのか、さっき以上に深い眠りに就いているらしく…ぶるりと寒さに体を震わせ、他人の体温を求めてか、俺へとその身を添わせる。 そんな様子に俺は、今まで肩にと掛かっていた布団を彼女に掛け直す。 彼女の肩を抱きしめ直し、もうすっかりと起きてしまった頭は今更にと、今目の前に広がる自分の部屋の散乱した様子を捕らえ、俺自身を呆れさせた。 「……」 さっき眠りに就く前に彼女と話した話で、俺はどうやら三日間もの間この部屋に閉じこもっていたらしいが…なるほど。 江戸市内にいる頃、何度か経験したそのままに、作業し通しだった様子が、何処か他人事のように、その部屋に理解できた。 「……君が、来ないからな」 そっと、自分に寄りかかる真の寝顔に俺は、苦笑して言う。 そう、何時も…毎日と訪れる彼女が来ないから、俺は日を忘れてしまう。 面打ちに没頭し過ぎて、そっちの世界に行ったきりになってしまう。誰も、此方の世界に引き戻してくれないから…。 「真…」 暖かい彼女の体。 座ってさえ、彼女は俺の肩ほどにも達しないぐらいに小さい。 それでも、俺の体を支えてくれた。 それでも、俺をこっちの世界に何度でも引き戻してくれる。 「君に…何と、言えば良いのだろうな?」 『ありがとう』なのか、それとも『苦労をかけるな』なのか。 「……」 この気持ちは、何だろう? …足りない。何もかもが。 言葉も、気持ちも、感情も。 渇望する自分を、俺は…抑え切れない。 「真…」 そっと触れる彼女の丸み帯びた柔らかい頬。 指の先からじんわりと直に伝わる、彼女の体温。 指先は更にとその先を無意識に求める。 求めるが…俺は、その手を意志の力で外すと握り締めた。 「……」 彼女の肩を抱き直し、その細い肢体を片腕ながらに抱きしめる。 「…今はこれで良い」 自分に言い聞かせるよう、そう呟き…。 「寝た子は寝たままに…」 「…う…ん…」 僅かに身じろぐ彼女を体に感じながら…目を瞑った。 「…起きるのは、未だ早いさ」 未だ…―――――――――――――――――― |