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その夏、一番暑かった日


「なぁ…」
「……え?」

 不意の問い掛けに龍麻が何気なく顔を上げれば、いつにもまして真剣な表情の京一と目線がぶつかった。

「もうそろそろお許しもらってもイイだろ?ひーちゃん」
「………ッ?!」

 龍麻は一瞬息を詰まらせた後、皆にばれたらどうするのかと、京一を必死に説得し始める。

「大丈夫。ここはひーちゃんちだし。それに今は俺と二人っきりだろ。ひーちゃんさえ黙ってりゃバレやしないぜ」
「………で、でも……」
「俺にしちゃここまで結構頑張ったじゃねェか…けどよ、ガマンもそろそろ限界に近づきそうだぜ…。何せこんだけタメこんじまったからな」
「それは………」

 残酷な事実を突きつけられ、掛けるべき言葉を見失う。

「とにかく、このままじゃ俺は眠れねェんだッ!!」
「…………」
「そういう訳で、ありがたく頂くぜッ、ひーちゃん…」
「京一ッ。だめッ、やめてッ!!」

 京一は龍麻の悲鳴にも耳を貸さず、一気に詰め寄ると、


「───!!」




 龍麻の手元から、夏休みの課題のプリントを奪い去った。


 そして、その直後───
 新宿にある高級マンションの、とある一室で、鈍い爆音が発生した。





「………にしても、いきなり掌底・発剄ってのはねェだろうが…」

 反撃の結果、乱雑になった部屋の後始末をしている龍麻の背中へ、その片付けの邪魔だからと強制的にサイドテーブルの上に移動させられた京一がやや不機嫌な口調で問いかける。

「………………だって……京一があんなマネをするから…」

 が、龍麻も負けず劣らず、振り向きもせずにそっけなく答える。

「まだ怒ってんのか、ひーちゃん?」
「…怒ってはいないけれど、でもね」

 ここでようやく京一の方に向き直った龍麻の表情からは【悲】と【怒】いう二文字が入り混じっていた。

「二学期が二日後に迫ってきているにも関わらず、今の今まで全然宿題をしなかった京一が悪いんじゃない」

 それに京一の場合、通常の宿題の他に補習で出された課題もあるのに…と龍麻がため息をつく。

「けどよぉ、こんだけ目の敵みたく鬼のように宿題を出されちまったら、俺じゃなくたってヤル気が一気に萎えるって。それに、ひーちゃんはもう全部終わらせたんだろ。だったら、ちょっと位見せてくれてもいいじゃねェか〜」
「でも、勉強は自分でやらなかったら身に付かないでしょ。そうなると、将来困るのは京一よ」
「別に俺は大学なんて行かねェし、第一、学校の勉強がダメでも普段の生活で困るようなことはなかったぜ」
「………それは……」

 皆にはただの言い訳にしか聞こえないであろう京一の言葉を、けれども、龍麻はなぜか否定することが出来なかった。

「……確かに…そうかもしれないわ…。京一の言う通りよね。学校の勉強なんて……一体どれ程役に立つっていうのかしら…」
「ひーちゃん…」

 つと近寄ろうとする京一をかわすように、龍麻はまた黙々と作業を開始するが、

「だったら、俺が一つ学校の勉強でも役立つものが有るってのを教えてやろうか」

 気が付けばソファに押し倒され、

「え?」

 ただ呆然と見上げるしかない龍麻の耳元に、京一が噛み殺した笑い声と共に低く囁く。

「オトナの『保健体育』…ってヤツをな」
「─────────!!!」





 そして────





「………この調子じゃいつまでたっても宿題、終わらないわよ」
「………っていうか、俺的にはもうこの夏は終わったも同然だぜ……」

 あの後、諸般の事情から更に崩壊が進んだ部屋の片付けに邁進する龍麻と、強制的に宿題を片付けさせられている京一が、同時に盛大なため息をつく。


「いいから、黙って手を動かして。あ、それともそろそろ夕食にしましょうか?」

 壁にかかった時計を見上げるや、龍麻がぱたぱたとキッチンに去っていった。

「……はぁぁ…こういう状態を『据え膳食わずは…』っていうんだろうなぁ、畜生ッ」

 これまでの二人にはない美味しいシチュエーションなのに、たかが宿題をしていなかったせいで、お預けを喰らう羽目になるとはと、慣用句の本来の意味を激しく履き違えながら、京一は血の涙を滂沱と流したそうな。
まだ続きがあります…
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