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挽歌 前編



  ≪壱≫

 土砂降りの雨の中、5人は車を降り、桜ケ丘中央病院の急患窓口のランプが灯っている方角に足早に向う。

 京一の腕の中で、無心に目を閉じている龍麻の様子は、この雨の中に溶けて消えてしまうほど儚く、弱々しかった。

<いつも戦闘の時は、背中越しに伝わってくる強さに安心しきっていたんだけどな>


「いったいこんな時間に、珍しい顔ぶれがぞろぞろとやってきて」

 口の悪い岩山も龍麻の具合を一目見て、すぐに治療の準備に取り掛かる。

「これは…相当きつい麻酔を使われていたようだね。身体も精神もぼろぼろになっておる。ここからはわしと、そうだなあんた、ええと…そう美里葵。あんたの治癒術の《力》も貸して貰おうか。生憎高見沢はもう仕事を上がってしまってるんでね」

 岩山に指名され、葵も渡された白衣を着込んですぐさま診療室に入る。
 残りの3人と鳴瀧は、邪魔にならないようロビーで待機していた。

「何だかさ、この間の葵の時を思い出すよね…」

 小蒔は誰にともなく話し掛ける。

 でも、あの時は龍麻がそこに立って自分達を、いつもの優しい瞳で見守っていてくれた。それだけで昂ぶる気持ちが落ち着いた。

「あの時も、いつも、ひーちゃんが居てくれるだけで心強かった…。だからボク、さっきはすごくショックだったんだ。もちろん、比良坂さんが死んじゃった事もなんだけれど、あのひーちゃんが、いつも冷静で優しいひーちゃんが、あんなに取り乱している姿を見て」

 醍醐の脳裏には、前に小蒔が行方不明になった時、龍麻と2人新宿の街を捜し回った時の情景が浮かび上がっていた。
 自分の心が不安な余り龍麻に尋ねてしまった『友を裏切った事はあるか』という言葉、その言葉を聞いたときの龍麻の表情は自分が想像もしなかった位悲痛の色が強かった。

「桜井、龍麻は一人の、まだ高校生だ。あいつだって、俺たちと同じ様に時に悩んだり、憤りを感じる事も有るだろう…だから」
「うん…そうだね…。ありがとう醍醐クン」


 京一は小蒔と醍醐の会話に、ただじっと耳を傾けていた。
 いつもは誰よりも陽気で、暗くなりがちな雰囲気を和ませる男も、いまは誰よりも静かに診療室の扉を見詰めていた。

 京一の記憶の中で、龍麻と初めて出会った日の出来事が蘇ってくる。

 あの日、屋上で見かけたあいつは、人と交わるのを避けていたように見えた。一人でも平気だ、という顔をして見せていたが、京一にはその態度は、他人とは違う《力》を持っている事を隠す為の擬態だと思っていた。
 だが、本当にそれだけだったのだろうか。

「…結局、俺たちは誰もあいつの事を分かってなかった、って事か」

 自嘲気味に口の中で呟く。

 いや、違う。龍麻の抱えてた《哀しみ》っていうのを理解していた人がいた。今はもう、過去形に変わってしまったが…。

<比良坂紗夜だけが、本当の龍麻を知っていたのかも知れねェ。だから龍麻もあれだけ心惹かれて、そして失った哀しみに心が引き裂かれちまったんだろう>


「君は龍麻君の事が、そんなに心配なのか」

 鳴瀧がそっと京一に声を掛け、隣に座ってもいいかと尋ねてきた。無言な事を了承と受け取って、同じソファに腰掛ける。

「彼女は、昔から自分の気持ちを押さえ付ける性癖の子でね…。だから彼女を理解するのは誰しも一苦労するんだよ。特に《力》に目覚めてからは、その傾向に拍車が掛かってしまった…」

 彼女は自分の犯した罪を償う為に、《力》を使う事を誓った。その為に、辛い修行も厭わず、短期間であれだけ強い武道家と化したのだった。

「だが、それは同時に自分の《力》に怯える心との葛藤の日々でもあったに違いない…。実際彼女の持つ《力》は桁違いに強い。それを自分でも認識しているからこそ、今まではつとめて必要最小限の《力》を振るうように心掛けていたんだ」

 京一には鳴瀧の言葉の意味を、朧気ながらも理解する事が出来た。
 先程の闘いで、死蝋に立ち向って行った時の龍麻は、いつもの彼女とは全く違っていた。殺気とは異なる、もっと圧倒的な、誰をも畏怖させる《氣》を黄金色の光を放ちながら発していた。

「…あいつの罪って何なんだ?」
「…それは私が語るべきことじゃない。彼女が、自分の口から語る事だ」

 そんな日は果たして来るんだろうか、と京一は思った。

「蓬莱寺君、だったね。私は一週間くらい前、道場で彼女に会ったのだが、その時の彼女は数ヶ月前とは見違えるほど明るくなっていた。そして楽しそうに、君たちの事を話していたよ…」

 驚き目を丸くする京一に、励ますように話す。

「だからね、私は、彼女の頑なになっている心を解きほぐすのは君たちしかいないと信じている。人の心の扉を開けるには、同じように心でぶつかって行くしかないと思う。それが出来るのが、仲間である君達だ。我々大人では到底真似できない」

 鳴瀧は柔らかく微笑むと、京一の手を両手でがしりと握ってきた。
 京一よりも更に一回り大きいその拳からは、暖かい《氣》が溢れ出している。

「護ろうと思ったら、躊躇ってはいけない。周りを気にしていても駄目だ。自分の心に素直になるんだ、私のように後悔したくなければな…」

 そう話すと、右手をスーツのポケットに突っ込み、何か取り出して京一に渡す。

「…私はしばらくしたら日本を離れねばならない。だから彼女を護る事が出来なくなる。これは彼女の部屋の鍵だ。君を信用して預けておく。…受け取ってくれるかな」

 京一は力強く頷いて、龍麻の家の鍵を大事に自分の服のポケットに仕舞いこんだ。


 それからしばらくして、診療室の扉が開かれた。
 岩山も葵も疲労困憊といった表情を見せていたが、術が効いたのでもう心配はいらないと言い、4人を喜ばせた。

「もう夜も遅い。君たちを送って行こう」

 先に駐車場に向う為、鳴瀧が表に出た所で、岩山が背後から声を掛ける。

「…久しぶりだね、冬吾」
「君こそ、相変わらず良い腕をしている」

 ふっと、懐かしい表情を見せる。あの時は他にも4人、同じ年代の若者が仲間だった。

「彼らを見ていると、あの頃の自分たちを思い出す…」
「緋勇龍麻を見ていると、彼女の母親を思い出すのか?」

 岩山は意地悪な口調で、ずばっと言うが、それは彼女にも同じ思いだった。

「初めて会った時は驚いたね。姿かたちが母親に瓜二つだ…。あれじゃあんたもさぞ辛かったんじゃないかい」
「…中身は父親にそっくりでね、油断するとこちらが負ける位だ。もっとも、彼女を護りたいと思う気持ちの中に、自分の感傷が含まれていないとは言い切れんがな」
「お互い、昔を忘れられない諦めの悪い人間だって事か…。だがあの子にはわしらの運命とは無関係であって欲しいと願っていたよ」

 彼女を頼む、と鳴瀧は言い置いて車に向って行った。


 京一ら4人は、葵の家の近くで降ろしてもらった。
 ここでいいのかという鳴瀧に、お互いの家は近いから、もう大丈夫ですと醍醐が丁寧に礼を言って別れた。

「葵、今日遅くなっちゃったし、もし良かったらお家に泊めてくれる?」

 車を見送ってから、うちの親はこんな遅くに帰ったら何言うか分からないけど、葵の家に泊まるって事なら許してくれるからお願い、と小蒔が頼み込む。
 葵は快諾して、2人は美里家の方に帰っていく。

「じゃあ、俺たちも帰るとするか」
「……、醍醐。」
「分かった。俺ん所は、今親父が海外に出張していて留守にしている。お前一人ぐらいなら寝させてやれるさ」
「すまねェな…。何だか今は家で一人でじっと過ごす気分じゃねェんだ…」

 それは実際のところ葵と小蒔も同じ気持ちなんだろうな、と醍醐が言った。

<俺たちの目の前で、人が死んでいったんだ…>

 それを平然と受け止め、日常に戻るという選択肢は4人には浮かばなかった。



「やっぱり葵の部屋は広くて気持ちいい〜。いつも弟や妹が走り回ってやかましい我が家とはエラい違いだよッ」

 小蒔は床に引かれた自分の布団に大の字に飛び込んではしゃいでみせる。

「ふふッ、私は小蒔のお家が大好きよ。いつも誰かがいて、暖かい会話があって」

 一人っ子の葵は、家族の多い桜井家に憧れて止まないのであった。

「葵のお家にだって、優しいご両親がいるじゃん」
「そうね、───だから辛い事が有っても、家族の顔を見ると、声を聞くと、愛情に包まれているのが分かるから、自然と癒されてしまうのね…」
「それは、今までの事件の事?ボクもそうだよ。色々悲しい事があっても、兄弟とじゃれあったり、おじいちゃんやおばあちゃんと話をしたりしていると、段々忘れていっちゃう感じ」
「でも、龍麻は…。事件の有った時も、いつも一人きりの部屋に帰っていたのね」
「ひーちゃんはどうやって、今までの事件の傷を癒していたんだろう…」

 2人は今まで気が付きもしなかった事に、ふと思い至った。

「岩山先生は、今度の土曜日には退院できるとおっしゃってたから、皆で迎えに行きましょう」

 賛成、と小蒔が同意する。




  ≪弐≫

暗い暗い道を一人の少女が歩いている

『私が母様を殺してしまったの…』

涙を流している長い黒髪の少女に、
周囲の大人達から容赦の無い言葉が浴びせられる。

──そうだ、お前が産まれてこなければ
ウチの娘は死ぬ事は無かった

──お前は母親を殺して産まれてきたんだ──


居たたまれず、逃げ去る少女だったが、
どこにも逃げる所は無かった。


<思い出した。これはアメリカに行く前、先に両親が渡米する前に、一度だけ実の母親の実家に連れて行かれた事がある、その時の私>


──大体実の父親は何をしているんだ?
あんたは自分の父親にも捨てられたのか


<私は幼い頃両親を事故で亡くしたと聞いて、養父母に育てられていた。でも、本当は私のせいで両親は…>


涙を流していた少女の体が突然黄金色の光を放ち、周囲の物を薙ぎ払う。

激しい負の感情の余り《力》が暴走したのだ。

──呪わしい《力》を持つ娘よ。
お前の《力》はいつかこの街を破壊させるだろう──



「ダーリン、どうしたの〜随分うなされていたけど〜」

 龍麻は病室のベッドの上で、はっと目を覚ました。
 入院して二日目。治療の甲斐有って体調の方は万全とは言えないが、ほぼ元通りに戻っている。

「今日はお家に帰れるんだよ〜。後で美里ちゃん達も来るって言ってた〜」

 そう、と疲れたような口調で龍麻は答えた。

 あの日以来、彼女は決まって夢を見る。それは少女の頃の自分だったり様々だったのだが、目覚める度に、自分が別のモノに変わり果てたのではないかと恐怖を覚える。

「じゃあ〜舞子別の病室も回らないといけないから〜。また後でね〜」

 龍麻の邪魔にならないよう、そっと高見沢は部屋から出て行った。

 一人取り残された病室に居るのも気が滅入るので、龍麻は中庭まで散歩する事にした。


 表向きは産婦人科として運営している病院だけあって、妊婦の姿や、乳幼児を大事そうに抱っこしている母親の姿が目につく。

<彼女達には自分はどう映っているんだろう…>

 込み上げる不健康な笑いを抑えて、龍麻は木陰のベンチに腰を下ろす。
 幸せそうな笑顔を見せる女性たちが、自分とはかけ離れた遠い存在に感じられる。

「こんな所にいたのかい」

 背後から声を掛けてきたのは岩山だった。

「…幸せそうな光景ですね。女性の幸せって、好きな人と結ばれて、その人の子供を産むことなんでしょうか…」

 龍麻は岩山の答えを期待して語りかけている訳ではなかった。幸せは人それぞれだという事位は自分でも分かっているつもりだ。
 だが、次の問の答えは自分では見つからなかった。

「では、子供を死産した母親と、母親をお産で死なせた子供は、どちらがより罪深いのでしょうか…」

 岩山は表情を険しくする。

「お前、それは正気で言っているのかい」
「…先生なら、こんなお話ご存知ですよね、『古事記』に登場する日本神話を…」


 伊佐那岐命(いざなぎのみこと)と伊佐那美命(いざなみのみこと)は、仲睦まじい夫婦神として次々と国産みをしていった。

 ところが、最後に火の神、火之迦具土(ひのかぐつち)を産んだ為、女神伊佐那美命は炎に包まれ亡くなってしまった。

 その時の夫伊佐那岐命の嘆きは凄まじく

『愛(うつく)しき我が那邇妹(なにも)の命(みこと)を子の一つ木(け)と易(か)へつるかも』
(あわれ愛しいわが妻よ、たぐいなきそなたをあまた数多ある子の中のたかが一人とかえてしまったのか)

 そう嘆くと産まれたばかりの火之迦具土を刀でもって斬り殺してしまった…。


「私も、同じ様に母を殺して生まれてきた。父と母は周囲の反対を押し切って結婚したと聞きました。母を熱愛していた父も、伊佐那岐命と同じように妻を奪った我が子を恨んだのでしょうか…」
「龍麻、そんな風に言うのは、実の両親を侮辱する事になるんだよ」
「…済みません。でも、そう考えずにはいられなかったんです」

<それに何よりも許せないのは、この事をずっと忘れていた自分自身…。あの時紗夜に会わなかったら、私は一生思い出さなかったのかもしれない。こんな薄情な私だから、人を護るなんていう大それた事、出来る訳無い…>

 龍麻はそう言うと、病室の方に一人戻っていった。
 岩山はふうっと溜息をつくと、建物の隅のほうに目線を送り、立ち聞きは感心しないねと一喝する。

 ばつの悪い顔をしながら出て来たのは、京一と醍醐、それに葵と小蒔だった。

「院長先生、あの、今の話って本当なんですか」

 おずおずと小蒔が尋ねる。

「事実だけを言えば、まあ本当の事だね」

 17年前、龍麻はこの桜ケ丘で産まれた。その時立ち会ったのは当時の院長だった自分の父親と、そしてまだ見習をしていた自分だった。

「いいかい、事実と真実ってのは似ているけれど違うものなんだ。あの子はそれを履き違えている。あの子の母親は自分の死も覚悟の上で、あの子を産んだんだ。その行為は当人に責任が有る事で、決して子供に責任を着せる事では無いんだ」
「だったら、何でその事をひーちゃんに言ってあげなかったの?」
「言う必要が有るのかい?事実は17年前で終っているが、真実は今もあの子の周りに転がっている。あの子がその気になれば触れる事が出来るんだ。あの子は自分で自分の未来を可能性を閉ざそうとしているんだ。まあ、もっとも、周囲の大人達の対応が悪かったと言うのも原因かもしれないがね」

 そんな事よりさっさとあの子を迎えにいっておやりと4人を追い払った後、岩山は院長室に戻って電話を掛けはじめた。

<わしも大分過保護になってしまったか…>


 4人が龍麻の病室に入ると、龍麻はもう帰り支度を済ましていた。

「皆、来てくれたの。ありがとう」

 その表情は、先程までの深刻な影が消えていた。
 病院から家に帰る帰途でも、龍麻の様子は普段と殆ど変化が無かった。


 新宿中央公園を通り抜けて、しばらく歩いて行った所に、5階建の高級マンションが建っていた。入り口のボタン入力式のセキュリティを解除して、龍麻は201号室の自室へとすたすたと歩いていく。

 4人は大理石張りのエントランスで既に面食らってしまう。

「ひーちゃんってこんなゴージャスな所に住んでるんだー」

 どうぞ、と言ってドアを開けると、中は2LDKの間取りだが、一部屋一部屋がかなりゆったりと作られている。龍麻は殆どリビングしか使っていないけれど、と述懐する。

「広すぎて落ち着かなくて…」

 その言葉通り、家具もまだ余り揃えていないのか、リビングにも食卓と、ソファ、そしてパソコンデスクとAV機器が目につくくらいで、天井と壁の白が目立ち、やけにがらんとした印象を与える。

 小蒔はお風呂場を覗いて、ジャグジーとテレビがついてるとやや興奮しながら報告しに戻る。
 葵ははしゃぎすぎよと小蒔に小声で注意する。


「はい、京一君も、お茶どうぞ」

 龍麻は台所で煎れてきたお茶を皆にくばり、そしてずっと黙ったままの京一の前にもすっと置く。

「どうしたの、京一。さっきからずっと黙ってるなんて。京一らしくないぞッ」

 京一は小蒔の言葉に、何でもねェよと、ぶっきらぼうに答える。

「もしかして、まだ紗夜の事、気にしているの…」

 躊躇いがちに聞いてきたのは驚いた事に龍麻の方だった。
 全員の視線が、龍麻に注がれる。

「ごめんね、嫌な言い方して。でも紗夜の事は皆が気に病む事では無いから…。もうどんなに嘆いても紗夜は死んでしまった。これは変えようのない事実」

 だから現実を受け止めないと、そう言うと龍麻は、来週からの学校に備えて早めに休みたいからと申し訳無さそうに4人に謝る。

「来週、また学校でね」


 笑顔で話す龍麻に見送られて4人はマンションを出る。

「………。龍麻ってやっぱり強いのかしら…私なら駄目。あんな風に笑顔なんて作れない」

 葵は少し声を湿らせて感想を漏らす。

「俺達もあの精神力を見習わないとな」

 醍醐がお前も元気出せよと励ましながら京一に声を掛ける。

「俺は大丈夫だぜ…」

 京一は無理矢理笑顔を作って、その場を遣り過ごした。




  ≪参≫

 翌週、龍麻はいつもと変わらない姿で登校して来た。心配していた級友や、マリアには風邪をこじらせてしまってと弁解していた。

「それならいいのだけど、今度からはちゃんと連絡をしなさいね」

 マリアにしっかり注意を受けてしまったと、龍麻は葵たちに笑ってみせた。
 そんな龍麻だったが、放課後になると、4人が気が付く前にさっさと教室から姿を消してしまっていた。

 最初の内は、各自も部活等で忙しかった事も有ったので、さして気にも留めていなかったが、その事が一週間近くも続くと、少し尋常では無いと感じ始めていた。

「ひーちゃん、昨日はどこか出かけてたの?」

 痺れを切らして小蒔が問い詰めるが、龍麻は受験勉強の為に図書館に通っているとか、今日は道場に通う日だからとその度にもっともらしい説明をした。

「絶対、怪しいって」

 小蒔は休み時間に、こっそり葵に相談する。

「葵にだったら本当の事話すかもしれないし、今度は葵が聞いてみてよ」

 分かったわと、葵が龍麻を廊下に呼び出して話をする。しかし答えは小蒔の時と何も変わらなかった。

「本当に2人とも心配性なんだから。私の事は気にしないで」

 苦笑いを浮べ、教室に戻ろうとする龍麻の腕を、反射的に葵は掴んだ。
 その時、葵の心の中に、雷で打たれたように龍麻の感情が入り込んでくる。


「…どうした美里。もう授業始まるぜ」

 京一に声を掛けられるまで、呆然と立っていた葵は、ふいに涙を流し始める。

「おいおいおいッ、こんなトコで泣くなよッ」

 焦る京一は、仕方ねェと授業が始まるのにも構わず、葵を屋上まで連れて行く。


「やれやれ、ここならいいぜ。さっき、ひーちゃんと話してただろ。いったい何があったんだ」

 葵はようやく落ち着きを取り戻すと、

「私の心の中に、龍麻の心が入り込んできたの…。それが、あまりにも哀しい感情だったから、私の方が泣けてきてしまったの…。私には龍麻の姿が痛々しくて、これ以上もう…」

 龍麻の心の中は未だに哀しみの淵を彷徨っていると話す。

「…あの、京一君…。今、私が話した事は龍麻には絶対に内緒にしておいてくれる?」

 何故、と聞き返す京一に、葵は、誰だって他人に自分の心を覗かれるのは気分のいい事じゃないからと説明する。

「ましてや、龍麻のように人に気を遣い過ぎる性格では…」

 ふいにチャイムが鳴り響き、葵はこの時間の授業が終った事を知り、慌てて教室に降りて行く。


「蓬莱寺はともかくとして、美里までエスケープとは、世も末だな」

 給水タンクの方から声がしたかと思うと、犬神が煙草を咥えたまま出てきた。

「相変わらず厭味な奴…」

 犬神は京一の言葉に構わず、最近の龍麻には注意するんだなと言い出した。

「何を…!?」
「緋勇の奴はこの一週間、来る日も放課後に旧校舎に一人で行っているんだ。前に忠告しておいた筈なんだがな。あそこには近寄るなと。蓬莱寺、お前からも注意しておけ」

 旧校舎の地下は不思議な事に、下の階に行けば行くほど強い化け物が現れる場所だった。その為、以前から時折龍麻や醍醐や他の連中と修行に利用していた。
 だが危険を伴うので一人で潜る事は厳禁だと、一番最初に全員で誓約を交わしていたのだった。

「それなのにあいつ───、そんな無茶をしてたのかよッ!」

 龍麻を諌めようと、意気込んで教室に京一は戻っていった。

 ちょうど龍麻は、さっきの授業を放棄した葵を心配している所で。その瞳はいつもと同じように穏やかで優しかった。

「京一君も駄目じゃない。真面目に授業に出ないと、単位落とすわよ」

 柔らかく微笑みながら、話し掛けてきた。
 しかし京一には、さっきの葵の話を聞いていた為か、そんな龍麻の笑顔が痛々しくて、辛かった。

「お前、一人で旧校舎行っているって本当かッ」

 龍麻は一瞬、何で知ってるのという風な表情を作ったが、直ぐに元の笑顔に戻した。

「ええ、だって修行しなきゃ…。もっと強くなりたいから、皆を護る為に」

 心配しないで、そんなに深い所までは潜っていないからと明るく言う。

「…皆を護るっても、まずは自分を大事にする事が先決だろうが」
「どうしたの京一君?あなたらしくないわ。いつも真っ先に無茶をする人なのに」

 俺らしくない──。俺らしいっていうのは、無鉄砲に突っ走る事を指すのかと京一は思った。
 でもそれは他人が勝手に思っているイメージだ。そんな物だけで俺を測って欲しくは無い。

 じゃあ────と、京一は自分の奥底に潜む龍麻に対する本当の気持ちを問い質す。

<じゃあ、龍麻らしいってのは何なんだ?>

 小蒔は龍麻が取り乱すのを見てショックだったと言った。
 葵は龍麻の強さには叶わないと言った。
 醍醐は精神力の強さを見習わないとと言った。
 あの男、鳴瀧冬吾は、彼女は自分の気持ちを抑える子だと言った。

 彼等の話を統合し、悪い言い方をすれば龍麻は人間らしい感情を排除している人間だという事になる。悩み、怒り、悲しみ、喜び、そんな感情を理性でコントロールしていると…

 そんな馬鹿な、と京一は愕然とする。
 俺の知っている龍麻は、そんな女じゃない。

 誰よりも繊細な感性と、豊かな感情を持っている奴だ。
 それを、周りの奴等が、何より龍麻自身が周囲からのイメージで無理矢理自分らしさを封印してしまっているのでは無いか───。

 そしてその結果がこれだ。
 今回の件であいつが一番苦しんでいるというのに、それを周囲の人間の誰にも打ち明けようとはしない。

<あいつがもっと自分の感情を曝け出す奴だったら…>

 いや、違う。俺たちがあいつを知ろうする努力も足りなかったんじゃないか。
 あいつに嫌われてでも、時として踏み込もうとする勇気が無かったんじゃないか…

 先だっての鳴瀧の言葉が蘇る。

<今こそ、あいつに俺の本心をぶつけなきゃいけねェ…>


「龍麻ッ。俺は、俺たちはそんなに頼りない存在なのか?」
「えッ!?」
「俺たちは、お前を支えてやる事も出来ない位、弱いのか?それとも、お前にとっては取るに足らない存在なのか?」
「京一君、いきなり何を言うの?そんな訳無いじゃない。皆は私の大切な友達で…」

 友達、という言葉を口にして、龍麻の表情に戸惑いが走る。

「だから、皆を傷つけたくないの…」

 黒曜石を思わせる美しい瞳には、その時何かの感情が揺らめいていた。
 しかし、龍麻は笑顔でそれをも紛らわせる。


 京一には、常ならば見惚れてしまうであろう笑みを湛えたその表情が、今は完全に気に入らなかった。
 感情を押し殺した笑顔の中にある瞳は何の感情も映し出さず、そして目の前の自分を映そうとしていない気がしたのだった。

<所詮あいつにとっての俺ってのはその程度なのか…>

 だが京一はそこで引こうという気にもならなかった。
 今、言うしかない。そう決心したのだから─────。


「俺は、そんなン嫌だぜ…。お互い、ぶつかって、傷つけあって、それが人と人の付き合いってもんじゃねェのか!俺は、龍麻とはキレイ事だけで付き合いたいとは思わない!!」

 そう言うと、龍麻を手首を掴んで、自分の方にぐいっと近寄せる。

 予想もしていなかった京一の反応に、龍麻の顔に怯えたような色が浮かび上がる。


「京一君…、痛いから離して」

 それでもまだ、冷静さを装う龍麻に、京一は、まだそんな言い方をするのかと低く呟くと、周囲の目も気にせず、龍麻の唇に自分の唇を重ねた。


「───!!!」

 いくら最近の高校生は進んでいるといっても、教室の中で、キス──それもかなり濃厚なものを見せられては、クラス中の時が止まってしまったかのように凍り付く。


 葵も小蒔も醍醐も、突然の京一の行動を目の前で見ながらも、訳が分からずに、ただ息を止めて見詰めるだけであった。


 当事者である龍麻も又、自分の身に何が起こったのか、最初は分からずに為すがまま、京一の唇を受け入れてしまった。
 しかし、ようやく事態を呑み込むと、両手に力を込めて突き飛ばそうとしたが、いつものような力が入らない。


「や、だ、止め…」

 唇が少し外れた隙に、そう言うのが精一杯で。

 その言葉を聞き、京一はようやく龍麻を自分の腕の中から解放した。
 次の瞬間、龍麻は京一の頬を平手打ちしようとしたが、勢いは鈍く、易々と京一に止められてしまう。

 頬を赤く染め、恥辱と怒りに満ちた目を向ける龍麻に、京一はそれでいいと言う。

「そうだ、そんな風に怒りや憎しみであっても、感情に満ちた目で見てくれる方が、ずっとマシだ」

 京一の満足そうな顔を見て、龍麻は首が折れるのではないかという位の勢いで後を向き、そのまま教室から走り出てしまう。


「京一、お前…」

 やっと呪縛から解放された醍醐が京一に詰め寄る。

「俺は後悔してねェぜ、醍醐。ちょっとやり方は乱暴だったけどよ」

 醍醐は深く首を垂れる。葵と小蒔は龍麻を追い掛けたのだが、もう学校を出てしまったと教室に戻ってくる。

「ったく、京一…」
「あれはいくらなんでも酷すぎるわ、京一君。龍麻…きっと傷ついたわよ」

 女性2人に睨まれ、醍醐からも放課後、龍麻に謝りに行けと言われる。

「俺達も一緒に行く。…そこでゆっくり龍麻と話し合おう」

 その言葉に、京一も逆らう事は出来ず、ただ、黙ってうなずいた。




  ≪四≫

 龍麻は、ただ何も考えられずに走り続けていた。道行く人は、その様子を怪訝そうな目で見ていたが、そんな事に構っている余裕は全く無かった。

「あっ」

 中央公園内の鎮守の杜を横切った時、絡まっている木の根に足下を引っ掛けて、受身を取ることもままならず転倒してしまった。
 自分の無様な姿に口元に歪んだ笑いを浮かばせ、すぐさま立ち上がろうとするが、足首を襲うその痛みに力なく座り込んでしまう。

「痛い…」

 口に出した途端、ぽろぽろと真珠のような涙が、頬を伝い始める。
 涙を止めようとするが、止まるどころかますます涙が激しく零れ落ちる。

 顔を膝の間に埋めて、しばらく肩を震わせて嗚咽する。

<何でこんなに涙が止まらないの…。感情に流されないって誓っていたのに>

 せめて声を抑えようと、手で自分の唇を閉じるように押さえる。
 その時、先程の京一の強烈な口づけを思い出す。

<私、何でこんなに滅茶苦茶になったの…>

 教室の皆の前で、こんな事をされた羞恥心から?それとも、自分のファーストキスをこんな形で奪われた怒りからなのか?それとも…。

<分からない、答えが見つからない…私はこれからどうすればいいのか…>

 ひとしきり泣いてから涙を拭い去ると、龍麻は木に手をかけて再度ゆっくりと立ち上がった。
 しかし足を激しく挫いていた為、そこから一歩も歩く事が出来なかった。


「よう姉ちゃん、昼間っから学校サボってンのかい」

 背後から柄の悪い呼び声が掛けられる。顔をゆっくりと後ろに向ける。
 相手は自分と同じように学校をサボっている近隣の学校の不良が数人、にやにやと笑いながら立っていた。

「こいつは滅多に無い、上玉だぜ」
「ねえ、彼女。俺達とイイコトして、楽しく過ごそうぜッ」

 下卑た下心丸出しの言葉を投げつけてくるが、龍麻は何も聞こえて来ないかのように沈黙を護っている。

<くッ、足を挫いてさえいなければ>

 仕方なく《氣》を使って攻撃しようと、極微量の《氣》を拳から放ち、不良の中のリーダー格の男を転倒させる。不良達は触れもしないで、自分たちのリーダーが攻撃された事に恐慌状態になる。

「な、何者だよコイツッ」
「人間じゃねェ、バケモンだッ」

 その言葉に、龍麻は練っていた《氣》を散らしてしまう。

<そう、そうよね。こんな事するのって普通の人間じゃ考えられないわよね…。それじゃあ、私は一体何者なの…>

──呪わしい《力》を持つ娘よ

 幼少の頃、自分を繰り返し襲った悪夢のような声が頭に流れ込む。

<………!!>

──お前の《力》はいつかこの街を破壊させるだろう

<ち、違う、私は皆を護りたいと…だから…>

 だから、自分の感情を押さえつける事で、《力》を抑制しようと子供の頃から努めて来た。
 感情に流される事は最も愚かな事だと自分に言い聞かせてきた。

<それが皆の為だと信じてきた…>

 心の中で必死に否定しようとするが、しかし感情を抑えようとすればする程比良坂を失った時の哀しみしか浮かび上がってこない。

<紗夜…私何だか自分に疲れてきちゃった…。緋勇龍麻という人間を演じてきた自分に…>


 不良たちはうって変わって大人しくなった龍麻を見て、さっきのは目の錯覚だったのかと判断した。

「何だ、嚇かしやがって…」

<もう、どうだって…いい>

「へへへッ、姉ちゃんも俺達と遊びたいみたいだな。それじゃ、楽しいコトしようぜ」

 不良のリーダー格の男が、龍麻の顎を持ち上げるように指を掛けてきた。
 ぼんやりとした視線を泳がせていた龍麻の瞳が、突然目覚めたかのようにぱっと見開かれる。

<京一君…、何でこんな時に彼の事が頭に浮かぶの?>

 さっきの教室で、彼は私の表情を見て、明らかに傷付いた様子だった。

──俺たちはそんなに頼りにならないのか?

<そんな事ない、大切な友達だからと思っている>

───龍麻とはキレイ事だけで付き合いたいとは思わない!

<もしかしたら、私は今まで皆にすごく酷い事をしてきたんじゃないのかしら…。大切な友達だなんて言っておきながら、私自身は皆を信じきっていなかった。そしてその事に京一君は気が付いた…>

「京一…君」

 無意識に唇から名前が零れ落ちる。

 しかし不良達は、『彼氏の名前か、可愛い事言ってるぜ』と笑い合うだけだった。

「焦らされるのも良いが、あんましグズグズしてると人が来るからな」
「京一…」

 再度彼の名前を呟いた所で、ようやく龍麻は現実に気持ちが戻ってくる。
 その時、背後から自分が良く知る《氣》の旋風が不良達を弾き飛ばす。

「その薄汚い手で、彼女に指一本でも触れたら、容赦はしねェ…」

 激しい怒気の《氣》を表情に表している京一が、木刀を構えて立っていた。

<嘘、何で今ここに京一君が居るの…>

 驚く龍麻の目の前で、京一は不良達をあっさりと倒してしまう。


「大丈夫か、ひーちゃん…」

 京一は、あの後龍麻の事が気になって、自分も学校を抜け出してきたんだと言う。

 それを黙って聞いている龍麻に、ばつの悪い表情を見せる。

「……そうだよな。さっきあんなコトしたから…。俺と2人っきりでいるの嫌だろ。じゃ、気をつけて帰れよ」

 そう言いながら帰ろうとする京一だったが、龍麻が足を挫いて動けない事に気付いて、どうした物かとしばし考え込む。

「京一君…?」

 京一は、龍麻に背を向けてしゃがみ込む。

「さっきみたいなバカな真似は絶対しない。だから家まで送らせてくれ」

 素直に龍麻はその申し出を受け入れた。

 自宅までの間、2人は終始無言のままだった。
 龍麻は京一の背中の広さと、そして温かさに自然と目尻から涙が溢れてくる。

 静かに泣き続ける龍麻を背後に感じながら、京一は慰めるでも無く、ただそっと歩き続けた。




 京一は龍麻の部屋のソファに、慎重に龍麻を背中から降ろすと、そのまま黙って立ち去ろうとした。

「待って…」

 咄嗟に龍麻が呼び止める。

「お願いだから、これ以上私に優しくしないで欲しいの」

 予想外の事を言ってくる龍麻に、京一は怪訝そうに、何でだと聞いて来た。

「期待してしまうから…、京一君の優しさを」

 龍麻は涙を拭う事もせず話し始める。

「さっき、京一君が助けてくれた時は、すごく嬉しかった。でも、そんな自分が卑怯者に思えて、だんだん悲しくなって来た…。だって、そうでしょ。自分の都合のいい時にしか他人を当てにしない人間なのよ、私は!…それに、私には呪われた宿星故の《力》が有るから」
「宿星…?」

 聞きなれない言葉を耳にして、京一は聞き返す。

「人が生まれながらに背負う《星》の定め…。人はその定めからは抗う事は出来ないと言われているの。私の《星》の定めは、実の両親を死に追いやり、前の学校の生徒を破滅に追いやり…。この学校に来たのも宿星の導き…。その通り、私の周辺では次々と怪奇事件が続いたわ。そしてその影響は皆にも《力》という形で波及してしまった…」

 龍麻はここまで一気に捲くし立てると、最後に重い吐息と言葉を漏らす。

「私がこの学校に来なければ、皆はこんなに嫌な経験をしないで済んだのに…」

 その場で激しく泣き崩れる龍麻を、京一はそっと抱き締める。

 嗚咽で震える背中を優しく撫でながら、低い声で呟く。

「…宿星だか何だか知らねェが、俺はそんなモンに振り回されるのはご免だぜ。俺は、人の運命は自分自身の手で切り開くべきモンだと思いたい」
「………………」
「それにこれだけは信じて欲しい。お前に出会えた事、それが宿星とやらの導きって言うんなら、俺はその事には感謝したい。そして、龍麻、お前を…」

 龍麻をあえてその名前で呼んだ京一は腕の力をふっと緩める。
 顔を上げた龍麻と、しばらく目線が絡み合う。


「お前を好きだって気持ちも…」

 ついに言っちまったなと京一は心の中で一息つく。

「だから、お前が何て思ってようと、俺はお前を護ってやりたい気持ちに変わりは無い」

 龍麻は返事をする事が出来なかった。でも、気持ちを態度で示す事は出来た。

「龍麻…」

 龍麻は頬を赤く染め、瞳に涙を煌めかせながら京一をぎゅっと抱き返してきた。それを京一は柔らかく受け止める。

「…本当に私なんかでいいの?私、京一君を傷付けるだけかも知れないのに…」

 ぽつりと言葉を発する龍麻に、今度は京一が言葉で気持ちを伝える事が出来なかった。

 そんな手段はもどかしいばかりだと、龍麻の涙を指で拭うと、その柔らかい桜色の唇に、自分の気持ちを託すようそっと唇を重ねる。

 今度は龍麻も抵抗を見せず、廻していた手に更に力をいれて身体を密着させて来た。
 そして、そのまま目を閉じると今まで聞こえた事の無い優しい言葉が心の中に流れ込んで来た


『…お前はもう、一人じゃない』──

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