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餓狼 第拾八話其ノ壱

  げにや人の親の心は闇にあらねども
  子を思ふ道に迷いぬるとは────  (謡曲『隅田川』より)


 ≪壱≫

 館長室への扉を開ける瞬間、得も知れぬ緊張が総身を突き抜ける。それは彼が始めてこの部屋に足を踏み入れた時から今日まで、まるで儀礼のように変わらなかった。

「失礼します────」
「ほぅ、てめぇも呼ばれてるとはな。壬生よぉ」
「………八剣」

 部屋の中央には彼の同輩である八剣と武蔵山、そして奥の執務机には黒衣の男が座して待ち構えていた。男は樫で作られた重厚な執務机の引き出しから5枚の写真を取り出し、無造作に机の上に並べる。

「八剣、武蔵山、壬生────全員揃ったようだな。今回はお前たち3人で仕事にあたってもらう。これが次の標的だ」
「うへへへッ、次の獲物でごわすか」
「この制服、新宿、真神か…。で、任務の内容は?脅す程度にチョイといたぶる位でいいのかい?それとも、一生、病院生活か?」

 男は手をあごの下に組んだ姿勢を微動だにせず、淡々とした口調で言い放つ。

「いや、依頼されている内容は────抹殺だ」

 窓を打つ初冬の風がまるで部屋の中まで浸食したかと感ずるのはほんの一瞬。

「ククッ、そいつはおもしれぇ。一時に5人も抹殺できるとは…久々に血の臭いを存分に浴びれるなぁ。それにうち3人は女だぜ。こいつは殺す前に愉しませてもらうとするか」
「こ、こんなに楽しい仕事は久しぶりでごわす。グヘッ、グヘヘヘヘヘッ」

 俄然色めく八剣と武蔵山とは対照的に、表情を押し殺したまま壬生がつぶやく。

「………下衆が……」
「なんだぁ?なんか文句あんのかよ?」
「別に。それより────標的が高校生ということですが、これは…この仕事を引き受けたのは、館長のご意向ですか?副館長殿」
「…………。貴様らは余計なことを考えずに、ただ与えられた任務を速やかに遂行すればよい。それから────私の言葉は全て館長の御言葉と同じと思え」
「………」
「我等が名に懸けて、必ず息の根を止めよ」

 冷厳な言葉を響かせる副館長に対し、壬生もまた氷の面を崩すことなくただ一言で答えた。

「御意────」



「昨日から俺たち2人は結局徹夜か」

 その後、いくつかの報告等を済ませ副館長の元を辞した直後、八剣は大仰にあくびをしてみせる。

「それにひきかえ一般生徒は今頃登校と。……ったく、羨ましいご身分だなぁ」

館長室のあるこの辺りの区画は一般生徒はおろか教職員でさえも立ち入りを厳しく制限されているが、それでも続々と登校してくる生徒たちの様子は廊下までざわめきとなって伝わってくる。

「この学校の秘密を何も知らないでいるあいつらの平和ボケした間抜けな面を見てると、無性にむかっ腹が立ってくるぜ。なぁ、お前はそう思わねェか、壬生」
「…………別に」
「ふん、館長の一番のお気に入りらしい相変わらずの優等生発言だな。けどよ────お前が俺たちをどう思おうと、あいつらから見れば俺たちは同じ穴のムジナってヤツさ」

 皮肉めいた笑いを浮かべると八剣は武蔵山を伴い、そのまま教室とは反対に向かって歩き始める。壬生はそんな彼らを肩で見送ると、朝日の差し込む窓辺をほんの少しだけ眩しげに見やり…そして彼にとっては偽りと安らぎの混在する日常へと無言のまま戻っていった。




 ≪弐≫

「龍麻────ようやく今日も授業が終わったわね」

 放課後。帰り支度を整えている龍麻に、生徒会の用事を済ませて教室に戻ってきた葵が声を掛ける。

「今、体育倉庫へ行ってきたのだけど、風があんまり冷たいからびっくりしたわ」

 そう言われ改めて目を屋外に転ずれば、校舎を取り囲むように植えられた桜の木々の、すっかりと落葉が進んでいることに驚かされる。

「季節はもうすっかり冬なのね…」
「…ねえ、龍麻。よかったらみんなで一緒に帰らない?」
「ええ、いいわよ」

 龍麻はにこやかに立ち上がると、葵と共に窓際の席に座る小蒔に声を掛けた。親友らの誘いに小蒔は二つ返事で了承する。

「うふふ、このところいつもみんなで一緒だから、なんだかその方が落ち着くようになっちゃったわね」
「ほんとだよ、まったく不毛なくらい友情に厚いよねッ、ボクたちって」
「あら、みんなで一緒に帰るの、私、結構楽しみなのに…小蒔はそうじゃないの?」

 小首を傾げる龍麻に、小蒔は人差し指で頬を掻きつつ慌てて弁明する。

「えへへ、わかってるって。ボクも今日一日、がんばって勉強したからね。放課後くらい、気の置けない仲間とのんびり一緒に帰りたいよッ」
「ラーメンでも食って、…だろ?」

 京一はいつの間にか話の輪に加わってくると、小蒔をこづくマネを交えてからかう。

「ったく、小蒔をおとすにゃ努力はいらねェ。ラーメン一杯ありゃあいい…ってか」
「失礼だなッ!一杯くらいじゃ手も握らせないね!!」
「はははッ、そいつは手厳しいな」
「あッ、醍醐クン…」

 今のやり取りを聞かれたかと小蒔は頬を赤らめるが、醍醐は意に介した様子も無く大らかに笑ってみせる。

「まあ桜井もそこまで食い物につられたりはしないか」
「そうだよッ。大体京一は人のコト、バカにしてるよね。いくらなんでもそこまで安くないですよーだ」

 怒る部分が微妙にずれている気もするが、そこがまた小蒔らしいと龍麻と葵はくすっと微笑みあう。

「ま、ほんの冗談だって。それより最近めっきり冷えてきたコトだし、ラーメンってのも悪くはねェな」

 何を今さらと醍醐は京一を軽く皮肉りつつ、所詮は同類の項、

「どうせ俺たちは、間食といえば一年中、ラーメンなんだからな」
「うふふ。確かにそれもそうね。それじゃあ、これからみんなで──」
「ほんとにアンタたちって、悠長なんだから…」
「あら、アン子ちゃん」

 突然のアン子登場にも慌てず騒がず鷹揚な葵に、これじゃ埒が明かないとアン子は露骨にため息をつく。

「そんなんじゃ、この激動の時代は生き抜けないわよッ」
「おッ、久々に音もなく現れたねッ」
「まったく、忍者(きさらぎ)だってもう少しわかりやすく登場するぜ」
「何いってんのよッ!!アンタたちがいつも、話に夢中で気がつかないだけでしょッ!!」
「う、うむ、いわれてみればそうかもしれんな…」

 自分たちの当てこすりの言葉など、この道で百戦錬磨のアン子にかかったら十倍になって返ってくるだけだと悟った醍醐は潔く言い分を認め、その場を収めようとする。

「ところで何かあったのか?遠野」
「ふふッ、そんなの決まってるじゃない。おもしろいネタを手に入れたから商売しにきたのよッ」

 そう言うなりアン子は親指と人差し指で円を象った右手を、5人の中で最も財布の紐がゆるいと見定めた人物に真っ直ぐ突き出す。

「百円コース、千円コース、五千円コース。さッ、どれにする、龍麻?」
「…え、っと…やっぱり五千円コース…?」
「ふふッ、さすがに龍麻はわかってるわ」

 と、ここまではアン子の算盤通りだったのだが、

「それじゃあ、さっそく────」
「おい、ひーちゃん。金なんて払うコトないぜ。こいつは俺たちのおかげで、たんまり儲けたはずだからな」
「?」

 首をかしげる龍麻に代わって小蒔がアン子に詰め寄った。

「何それ?どういうこと、アン子」
「うッ。余計なことを…」
「この前の新聞…すげェ売り行きだったらしいなァ」

 上目遣いで睨みつけるアン子に、忘れたとは言わせねェぜと京一は口元をにやりとさせる。

「この前…?」

 醍醐は眉根をひそめたが、たちまち記憶の中から思い当たる節を拾い出した。

「ああ、そういえば彼女の──舞園さやかの特集をやったんだったな」
「確か、増刷に継ぐ増刷で、他の学校からも、問い合わせがあったって…」
「へェ〜…」

 葵からの補足説明もあり、すっかりと事情を飲み込んだ小蒔は、改めてアン子を問いただす。

「それで一体、どのくらい稼いだのかな〜?」
「ううッ……」

 五方向から一斉に視線の集中砲火を浴び、さしものアン子も白旗を掲げざるを得なかった。

「わ…わかったわよッ!!今日の所は無料奉仕(タダ)にしといてあげるわ」
「へへッ、そうこなくっちゃなッ。で?一体、何があったんだよ」
「しょうがないわね………」

 せめてもの腹いせと、たっぷりともったいをつけてから、アン子は自分が入手した情報を皆に披露する。

 昨日の夜、墨田区の住宅街で発砲事件が発生した。
 直後に開かれた会見の席上、それは暴力団同士の抗争によるもので、ただ運悪く、流れ弾に当たり男性一名が死亡したと、警察は発表した。

「ボク的には何だか全然おもしろい話じゃないんだけど」
「まァまァ、最後まで聞きなさいって」

 口を尖らせた小蒔をなだめるように手をひらひらとかざし、アン子は言葉を続ける。

「その死んだ人っていうのがね、前の建設大臣なのよッ」
「まさか、その建設大臣が死んだってのが、お前の特ダネなのか?一般人じゃないってだけで、よくある話じゃねェか。なァ、ひーちゃん?」

 肩透かしを食らった京一は龍麻に意見を求める。

「そのニュースは今朝テレビで見たけれど、取り立てて大きく報道されていなかったわね。それって最近では日本でも発砲事件や、それ以上に凶悪な事件が増えているってことを象徴しているのかしら…」
「あァ。ひょっとすると、今の俺たちが巻き込まれてる事態より、世の中は物騒かもしれねェぜ」
「うん…それはいえるかもね。けど流れ弾に当たるなんて不運としかいいようないよね」

 小蒔と同様、醍醐と葵も大きくうなずく。
 だが、アン子一人は小さく鼻先で笑う。

「ふふん、お馬鹿ねェ。あたしの話はここからなのよ」
「えッ……?」
「それ……どういうことなの?アン子ちゃん」
「それがね、偶然じゃないかもしれないのよ。被害者である建設大臣には現役時代から汚職の疑惑が持ち上がっていたわ。あちこちの建設会社から、多額の賄賂(わいろ)を受け取ってたって。で──」

 答弁を続けるアン子の切れ長な瞳が、眼鏡の奥できりりと引き絞られた。

「粛清か、はたまた口封じかは今の所謎だけど、でもこの事件は、流れ弾に見せかけて、実は初めから大臣を狙った…、一種の暗殺──」

 それもその手段から察するに、かなり大がかりな組織の犯行ねと付け加えた。
 大胆かつ突拍子もないアン子の発言を、5人は当惑気味に受け取る。

「それって…この日本に、暗殺の組織があるってコト!?それじゃまるで、TVか漫画だよ、なんか、アン子らしくないなァ」
「もう…、何いってんの、桜井ちゃん」

 アン子は眼鏡のふちを軽く持ち上げると、まるで出来の悪い生徒に対し補習授業を行うかのよう5人に説明を始めた。

「暗殺のない時代なんて、人類の歴史上、存在しないのよ。古代の中国もそう。ローマ帝国にも、大昔の日本にも、いつの世にも、権力の隣には暗殺者が潜んでいる。故に────この贈賄と暴力が横行する世紀末の東京に、謎の暗殺集団が存在するとしても、それほど不思議じゃあない。どう?あたしの推理は…」
「そうね…歴史に『もしも』は禁句だけれど、その『もしも』の中に、暗殺が占める割合は無視することは出来ない。となればアン子の推理を一笑に付することこそ、ナンセンスかもしれないわね」
「ふふッ、そういってもらえると嬉しいわ。だって、それってあたしのこと、信用してるってことだもんね」

 悦に入るアン子に対し、でもさぁと小蒔が人差し指をあごに当てながら尋ねる。

「昔はどうだか知らないけど、人殺しは…犯罪だよ?」
「そう、犯罪は悪いこと。幼稚園児でも知ってることね。でも、暗殺が悪だっていうのは歴史上では大きな間違いよ」

 たとえば、幕末に組織された新撰組────。
 反幕勢力、尊皇派の立場から見れば脅威の暗殺集団ではあるが、正義・大義の名の元の暗殺は、果たして悪と言い切れるのだろうか。

「なるほどねェ。けどまァ、所詮、俺たち一介の高校生にゃあ、関係のねェ話だな」
「アンタねぇ…人の話は、最後まで聞けっていうのよォ〜ッ!!」

 アン子は恫喝するなり京一の襟元をギリギリと締め上げる。

「わ゛……わ゛がっだ……わ゛がっだがら゛、ぞのでを゛ばな゛ぜッで…」
「まったく…人の話の腰をいちいち折らないで欲しいわねッ」

 アン子は鼻を鳴らしてから、青息吐息の京一をぽいっと醍醐の方に投げるように解放した。条件反射的にそれを受け取りつつ、醍醐がしごく生真面目な口調でたずねる。

「なんだ、その話にはまだ続きがあるのか?」
「ふ〜ん…。醍醐君もあたしに締められたいワケ?」
「い、いや、そういうわけじゃ…」

 慌てる醍醐の様子に、内心笑いがこぼれそうになるのを押さえつけるため、アン子はわざと大げさにため息をついた。

「まぁ、いいわ。あたしが何で、わざわざこんな話をアンタたちにしにきたか…」
「金儲けのためだろ?」
「アンタは黙ってなさいっての!!」

 まだ懲りずに茶々を入れる京一を叱りつけるアン子に、葵が控え目な口調ながら自らの考えを打ち明ける。

「もしかして…その暗殺事件は《力》のことと何か関係があるんじゃ…」
「さっすが美里ちゃんね〜。ズバリ──その通りよ。この事件は、発砲事件として報道されてるわ。でも────」

 ようやく我が意を得たアン子は、入手した情報を機嫌良く提示し始める。

「あたしが知り合いの鑑識の人からこっそり入手した情報によると、現場に残された血痕からは、どうみても銃傷とはおもえない。たとえていうなら、鋭利な刃物でバッサリ────」

 情報というのは水物である。だからこそ、生かすも殺すも知らせる相手とタイミングにかかっている。それを重々承知しているアン子は、この五人だからこそ価値が生まれると信じ、更なる事実を付け加えた。

「しかも、現場に残されていた衣服の切れ端を調べたら、これがどうも、学生服なんじゃないかって話なの」
「まさか、高校生が暗殺を…?」

 いいさし、醍醐は低く唸る。

「…………」
「ひょっとしてさ、その高校生って《力》を持った人なんじゃ…」
「さぁ…まだ、そこまでは、ね。とにかくはっきりしてるのは、この衣服の件に関しては一切公表されてないってことよ」
「それって、警察の上層部とその暗殺組織は裏で繋がっている可能性があるということ?」

 小蒔とアン子のやり取りに、思わず龍麻が口を挟む。

 色々と後ろ暗い過去があるとはいえ、曲がりなりにも大臣を務めた程の人物が流れ弾に当たって死亡した事故に対するマスコミの冷ややかな反応もさることながら、偽装の疑いがあるのにも関わらず、その事実について誰もが黙して語らない。となれば、これは明らかに警察と犯人側が結託して情報操作しているのでは──。

 龍麻の所感は、全くアン子の言わんとするものだった。

「龍麻と同じく、あたしも何だかきな臭いものを感じた訳。で、気になる事件をいくつか浚ってみると、これがどうも殺されているのは社会的な大物…それも、権力・財力・知名度を笠に裏であくどいことをしてる奴ばっかりなのよ」
「へぇ〜…、それじゃまるで、時代劇に出てくる正義の味方みたいだね」
「でも──、やっぱりそれは間違ってると思うわ」

 くるくると目を丸くして感心する小蒔に相反し、葵はおぼろに眉をひそめた。

「どんなに悪い人にも生きる権利はあるんだもの。死よりも…、生きて罪を償うべきだと思うの」
「葵…」

 葵の言葉は、これまで《力》持つ者たちとの闘いを潜り抜けてきた自分たちへの戒めにも似て、龍麻の内奥を震わせた。

「……そうね、人を殺すことに正義も悪もない。他人の命を奪う権利なんて誰にもないわ」
「龍麻…ありがとう。私、ついむきになってしまって…。でも、たとえどんな理由があろうと、やっぱり暗殺なんてよくないと思ったから…」

 葵はほっとした風情で頬を緩ませる。

「まぁ、美里ちゃんの言うことももっともだわ。でも、悪いんだけど、今はそんな答えの出ない議論をしてる暇はないのよ」
「なんだ、何か用事でもあるのか、遠野」
「もっちろん──」

 ふふんと口角を小気味良くつり上げるアン子の手には、いつしか愛用のカメラとメモ帳が握られている。

「げげ、まさか…お前」
「その暗殺集団を取材しようっていうの、アン子!?」
「やめろ、遠野!!」
「アン子ちゃん、いくらなんでも危険すぎるわ」

 京一らが翻意を試みるも、平気平気〜と涼やかに受け流すだけだった。

「あたしの読み通りなら、彼らは社会悪に対抗する善の組織だもの。秘密さえ厳守すれば快く応じてくれるはずよ」
「アン子──」

 やや強い語調で諫(いさ)める龍麻に向き直り、アン子はにっこり笑う。

「心配してくれてありがと。でも、本当に大丈夫だって!ほら、これあげるから、大人しく情報を待ってなさいな」
「……」

 裏で定価の何倍もの値で取引されていると噂されている真神新聞12号を渡すと、アン子は、複雑な表情を浮かべている龍麻から、その斜め後ろ方向へ視線を転じる。

「それより、京一!あんたこそ気をつけなさい。あんた、真神にのさばる悪だから、先生の誰かが暗殺を依頼してるかもしれないわよ」
「なッ…何ィ〜ッ!?」
「冗談よ、ジョーダン!それじゃあねッ!!」
「おい、遠野────」

 醍醐の制止も意に介さず、アン子は軽やかな笑い声を教室中に振りまきながら立ち去っていった。

「────まったく、仕様の無い奴だな」
「…アン子、本当に大丈夫かしら…」

 アン子が出て行った扉を眺めやり、龍麻は悩ましげに頬杖をついた。
 今更心配しても始まらないと京一が口を開く。

「まァ、いつものことだ。それに、何だか知らねェけど、アイツ、運もいいからな」
「それはいえるかも。でも、運がいいってのも記者の条件の一つだって、アン子前に言ってたよ」
「事件の匂いがすれば調べずにはいられない…やはり遠野にとって記者とは天職かもしれんな。ただ友人としては今回に限らず、あまり厄介なことに首を突っ込まないで欲しいものだが」
「第一、その暗殺集団が実在すると決まったわけではないでしょうし…。きっと大丈夫よ、龍麻」

 それもそうだと、龍麻は首肯する。

「そうそう、いくらなんでも、そんなの絶対あるわけないって、ひーちゃん」
「俺もそう思うぜ。あるかないかわかんねェもんをどうこう言っても仕方ねェ。それよか俺たちもそろそろ帰ろうぜ」

 いつの間か自分たちしか残っていない教室は、初冬の日差しを受けて淡いセピア色の影を床に刻んでいた。




 ≪参≫

「アン子の話を聞いてたらすっかり遅くなっちゃったね。あ〜あ──お腹が減った…」
「もう、小蒔ったら」

 盛大にこぼす小蒔の様子を、可笑しげに葵が見つめる。

「さっきからラーメンのことばかり考えていたんでしょう?」
「えへへ……その通り!!」
「ッたく、本当にお前は色気より食い気だな。17にもなって、恥ずかしくねェのかよ」
「色気……ねぇ」

 うーん、と、天を仰ぎながらほんの束の間小蒔は思案を巡らす。

「……よくわかんないや。それよりか、今はあったかいラーメンが恋しいって気分なんだよね」
「ははは、桜井らしいな。やっぱりお前は、そのままが一番いいと思うぞ」
「そう…だよね…。えへへ、ありがとう、醍醐クン」

 はにかみを浮かべた表情を見られまいと、小蒔は先頭に立って歩き始めるが、

「それじゃあ、さっそくラーメン屋へ…って、あれ?」

 校門からこちらに向ってくる人影に気付き、4人の方を振り返る。

「誰か、こっちへ来るよ」
「おッ──?あれは藤咲じゃねェか?」
「本当。でも、一体どうしたのかしら…何か様子が少しおかしいわ」

 藤咲はまだ4人に気がつかない様子で、視線をうつろに彷徨わせながら校舎に向かって歩いていた。

「亜里沙──」
「あッ──、龍麻──!」

 呼びかけにハッと顔を上げると、飛びつかんばかりの勢いで龍麻に近寄る。

「龍麻、よかった…もしかして、もう帰っちゃった後じゃないかって…あたし…」

 常日頃の彼女とは程遠い気弱な口調、見れば目は泣き腫らした後のように赤く、前髪はしっとりと濡れていく筋かに凝(こご)っていた。

「亜里沙…?」
「おいッ!どうしたんだよ、藤咲!!」
「京一…みんなも……よかった、まだ学校にいたんだね」

 明らかに様子を異にしていると、葵と小蒔も心配げに訊ねる。

「藤咲さん…大丈夫?」
「ホント…何かあったのッ!?」

 さすがに気恥ずかしさが増したのか、うつむき黙り込む藤咲に、京一はおどけた口調で言葉を掛ける。

「どうした?黙ってるなんてお前らしくねェぞ」
「……」
「亜里沙」

 なおも沈黙を続ける彼女の名を呼んだ龍麻の言葉と折り重なるように、藤咲が声を振り絞った。

「エルが──あたしのエルが、いなくなっちゃったんだよ…」
「エル…?」

 エルという単語に一瞬だけ戸惑いの色を走らせるが、たちどころに記憶が蘇ってくる。

 あれは、まだ春と呼べる頃の話。
 死へのまどろみに囚われた葵を救うべく、『夢の砂漠』でその国の王を名乗る嵯峨野と、彼の復讐を扇動していた藤咲と対峙した。
 闘いには勝利したが、それは同時に彼が作り上げた砂上の国の崩壊を意味した。
 絶体絶命の自分たちを救ってくれたのは、自分たちをこの場所へと誘った藤咲の愛犬エルだった。

「あの時の──」
「そういえば、そうだったね。でも、そのエルがいなくなったって、どうして?」
「そんなのわかんないよッ」

 小蒔の問い掛けに、藤咲は金切り声混じりで答える。
 今日の朝──いつも通りエルに餌をあげようと思い、小屋に行ってみるとそこら一面血痕がある代わりに、エルの姿は忽然と消えていた。
 必死に辺りを捜し回ったが見つからず、途方に暮れるばかりの藤咲は、気がつけばエルが居る筈も無い新宿へと足を運んでいた。

「もう、どうしていいのか…。あたしにとって、エルは家族同然なんだよ。ずっと…、弟みたいに可愛がって────」
「だから──真神(ここ)に来たんだろ?だとすれば、俺たちの答えは一つだぜッ」
「うん、みんなで一緒にエルを捜そッ!」
「私もお手伝いするわ、藤咲さん。だから、元気を出して…」
「捜し物をする時は、人手が多いに越したことはない。俺も参加させてもらうぞ」
「あんたたち…本当に?」

 正直、それまで龍麻以外とは特に親しくしていた訳でもなく、いや、出会ったきっかけを考えれば疎まれこそすれ…。なのに、そんな自分に対する無償の好意が信じられないと、藤咲は驚く。

「…でも、迷惑じゃない…」
「亜里沙、私たちはこれっぽっちも迷惑だなんて思ってないわ。ううん、むしろ、こんな一大事に、亜里沙が私たちを頼ってくれて嬉しいくらいよ」
「龍麻…龍麻ならきっとそういってくれるって、あたし、心のどっかで信じてたんだと思う。…ありがと、龍麻」
「ッたく、急にしおらしくなりやがって。それにエルは俺たちにとって命の恩人みたいなもんだからな」

 遠慮するもなにもないだろと京一が付け足すのを受け、醍醐が力強く一つうなずく。

「龍麻や京一の言うとおりだ。俺たちへの気兼ねは無用だぞ」
「大丈夫だよ、藤咲さんッ。ボクたちにど〜んと任せてよね。エルはボクたちが絶対に見つけてみせるからさッ!」
「あんたたち…。ホント…、底無しのお人好しね。じゃなかったら……ただのバカだわ」
「へへッ、やーっといつもの憎まれ口、叩けるようになったじゃねェか」

 肩口で愛刀を軽く打ちつけながら、京一がにやりと笑う。

「あッ…。そうね……あんたたちのお陰かも」

 藤咲は生来の艶やかさを加えた笑みを唇に浮かべると、

「それじゃ、あたしの後に付いてきて──もっとも行き先はあんたたちも知ってる場所なんだけどね」




 ≪四≫

 密閉された部屋を一定温度に保たんが為、エアダクトから断続的に吐き出される空気は、パソコンから吐き出された熱と合い混ざって、モニターの前に座る男の頬を時折なで上げた。だが、静電気を帯びたそれらのもたらす不快感が、男の眉間に若干の苛立ちを添えているのではなかった。

「………これもだめか」

 幾重にも施された認証画面でも淀みなく動いていた指先は、エラー表示を前に今日何度目かの停止を余儀なくされる。
 軽く舌打ちしてから、掛けていた眼鏡を脇に置くのと同時に、部屋の扉が開かれた。

 一礼すると、一年の学年章を襟元に付けた男子生徒は、緊張した面持ちで部屋の主に声を掛けた。

「壬生さん、頼まれていた資料、お持ちしました」
「済まないがこっちにもって来てくれ」

 男子生徒は、両手一杯の書類をパソコンの脇にある机に注意深く置く。

「あれ?壬生さんってパソコンする時は眼鏡を掛けるんですか?」

 目が悪いなんて意外だなといったニュアンスを含ませた質問に、まぁね…と手短に答える。しかし、それは下級生の考えている理由からではなく、優れた視力を維持するが故だった。
 言わずもがな、暗殺者にとって自らの五感は何にも変え難い武器である。闇の中で任務を遂行することも別段珍しいことではない。出来るだけ気づかれぬようターゲットを捕獲するのにも視力は欠かせない。
 だから日頃から壬生は、視神経に悪影響を及ぼす作業──例えばパソコン──の時には、目を保護する機能を備えた眼鏡を必ず掛けることにしているし、そもそも必要最低限しかパソコンは使わないように心がけていた。

 拳武館の場合、壬生の所属する実行部隊の他に、彼らをサポートする後方部隊も存在し、欲しいと一言いえば、情報収集を専門とする生徒たちが沢山の資料の中からターゲットに関する情報を分析・整理した状態で用意してくるのだが、壬生は任務に先立ち、自ら情報入手に当たるのを常に怠らなかった。

 そして、今朝方言い渡された任務の準備として、放課後、特に許された者のみが入室を許可された、この電算室に足を運んだのだった。ここに設置されているコンピューターからは、通常は入手し得ない個人情報、それこそ国家機密クラスの情報をも閲覧することができる。

 しかし──今回のターゲットについては、5人の内、不良同士の喧嘩といった事件ともいえない事件に関わっている者が2名いるものの、

「………今の所、限りなくシロに近い、か」

 第壱級指令である『抹殺』に相応する過去は見当たらない。
 特にその中の一人に関しては、情報収集を進めようとパソコンを繰っても、ある一定レベルの所で足止めを食らう。彼らの親類・友人関係をもっと洗ってみる必要があるだろうと、壬生は先刻、情報部に資料を依頼したのであった。

 下級生が書類を並べている間、壬生がゆっくり窓に外に視線を向けると、下校中の一般生徒を押しのけるよう肩をそびやかせ横切る一群が目に入った。

「ああ、八剣さんたちは、墨田区の方に出かけるそうですよ。ここだけの話、昨晩の件が片付いてないとかで」
「……………」

 壬生が憮然とした視線を送る先を知り、下級生が八剣たちについての噂話をする。彼らのずさんな任務について、苦々しく思っているのは、どうやら壬生だけではないようだ。

「壬生さんも大変ですよね。よりにもよってあの八剣さんたちと組まされるなんて」
「…口が軽くて得をした人は、ここには誰もいないよ」

 粛然たる口調でたしなめられ、下級生は慌てて襟を正す。

「す、済みませんッ。あ、それぞれ誰が誰のものか判別出来るように5つに分けて置いておきましたから」

 来た時よりも一段階謹厳を増した一礼をして下級生が退出すると、壬生は窓から視線を机へと戻した。きちんと角を揃えて並べられた5つの書類の束の内、極端に高さの低い束に手を伸ばす。

 誰の書類かなんて、見る前からわかりきっている。

「緋勇龍麻────」

 今日一日で何度唱えたかしれないその名を、壬生はもう一度だけつぶやいてみた。

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