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薄花桜 其ノ壱

 ───もう、春か…

 窓の向こう側の青空は、真一文字に横切る飛行機雲をアクセントにしながらも、やや薄ぼんやりと霞がかって穏やかに広がっていた。その真下では、直に迫る大会に向けて猛練習中のサッカー部の連中が、必死にグラウンドを駆け回っている。

 そんな光景にしばしの間目を留めていたせいか、人気の無い、電気も落とされた廊下はひっそりと、一層陰気なものに映ってしまう。
 まあ、春休みに学校に来る人間なんて限られてるからね。
 彼らのように部活動の為か、それとも…。

 ああ、誤解しないで欲しい。
 休みだというのに、僕がわざわざ学校に来ているのは、補習を受けるためなんかじゃない。勉強は学年でも一応トップクラスに属している。そうでないと「特待生」として学費免除してもらっている理由が説明できないからね、表向きには…
 表向きというからには、裏向きの理由も存在する訳で…その理由は、今日ここに僕を呼び出した人との間で交わされた「ある契約」に基づいている。

 足を止めた僕の真正面には「館長室」と書かれた重厚な扉が。館長というのはこの学校ならではの名称で、一般の学校でいう理事長室に当たる。

 僕の通う学校、それは

「二年辰組、壬生紅葉、入ります」

 葛飾区に有る、私立拳武館高校───



 よく磨き抜かれたマホガニーの机の向こう側で、今日僕をここに呼び出した人物が立ち上がった。

「こちらが、先日の任務の…」
「うむ…」

 休み中にまでわざわざ足を運ばせて済まなかったなと労いの言葉を僕に掛けてから、差し出されたレポート用紙を受け取る。館長に提出したのは、一昨日に僕が初めてリーダーとなって遂行した、とある人物の「抹殺」に関する報告書。

 そう、つまり僕は高校生であると同時に、いわゆる「暗殺者」として、拳武館のもう一つの顔に所属している。その正体を知る者は、しかし、決して多くは無い。
 これを知ることは、極一部の人間を除いてタブーとされているからだ。
 マスコミも決して暴く事を許されない、暗殺者集団──それが「拳武館」のもう一つの顔

 法で裁けない悪を義によって成敗する。
 この集団の頂点に君臨する人が、僕の目の前にいる館長、鳴瀧冬吾───。

 だが、彼は僕にとって単に上司というだけではない。
 武道を極める上での師でもあり、そして……「恩人」でもある。


 紙のめくれる音だけが支配する空間、所在無げになった僕の脳裏には、初めてここを訪れた時の光景が何とはなしに蘇ってきた。
 あの日も、こんなうららかな春の日差しが外を明るく彩っていた筈だ。
 けれども、その時の僕には、それを感じ取る余裕など微塵も無く……。

 ───いつの間にか、この仕事に慣れてきたって事なんだろうな

 思えば、今年で僕も最上級生…。拳武館で過ごすのも後一年…。
 だが、その先には一体何が待ち受けているのだろうか…。

 卒業後も、幹部としてここに残るという道もある。
 在学中の腕を見込まれて、他の秘密組織にスカウトされるという話も聞いた。
 無論、一般人に戻るという選択肢も許されている。ただし、死ぬまで局中法度は守り抜くという約定を背負わされた上で、だ。

 噂によれば、館長の一番弟子として僕の風評は決して悪くないという。
 既に幾つか卒業後の僕の身の振り方について打診が有る…らしい。
 らしい、というのは、僕本人には直接話が巡ってくる訳でないからで。この手の話はすべからくトップの方で情報規制がかけられる。


 ───何でもいいさ。この先どうなろうと、僕にとっての大切な人が護れれば、それで………

 茫洋とした未来に、想いを巡らせていたからか、

「………………?」

 それと気付いた時には、いつもと違う《氣》が、この空間を染め上げていた。

 ───これは……花の香り……………?

 花どころか飾り気一つ無いこの部屋に何故と首を廻らせた僕の視界に捕らえるよう、ゆっくりと姿を現したのは……。
 朱華色(はねずいろ)の着物を身にまとい、丈なす漆黒の髪は艶やかに腰を過ぎ、僅かに覗く肌は驚く程真っ白で……さながら、咲き初むる桜花を連想させる、小柄な少女。


 ───君は…誰だ?


 ひょっとすると館長の縁者なのかもしれない、その憚りから口にこそせずにいたが、けれど、視線はどうしても彼女に釘付けされてしまう。常日頃、何事にも何者にも惑わされないよう心がけていた筈なのに……。
 そんな自分の思いがけない心の揺れに戸惑いつつ、それよりも僕を戸惑わせたのは、

「…………何じゃ、じと〜っとこっちをねめ付けるばかりで、根暗な奴よのぅ……」

 可憐な唇を僅かに歪ませ、口にしたその言葉だった。

「この者が、先程そちが話していた、わらわの指南役となる男か?」

 にわかに冬へと逆戻りしたみたいで、気が滅入りそうな…と額を曇らせるが、すぐ真っ直ぐに僕を見上げ、

「わらわの名はひみこじゃ。ま、兎にも角にも、これからよろしく頼むぞえ」

 彼女はにっこりと、それこそ花のほころぶ如く微笑んだ。



 それが、僕たち2人の出逢いで……。
 彼女曰く「最悪の初印象だった」僕と、僕曰く「最初の数秒間は文句無しに最高の美少女だった」彼女との、めくるめく一年が幕を開けようとしていたなど、まだこの時は想像もしていなかった。

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