口づけ

陸 風音作










過ぎ去っていく風が障子をカタリ、カタリと打ちつけては不規則な音が屋敷に響いていた。
俺は庭に面した障子を開けると、途端、勢いの良い風が部屋へと舞い込んで束ねていなかった髪を乱す。

視線を村の外れにある嵐王の工房の方角へと向けると、奴が今日は風が強くなると言った言葉を思い出す。
…まさかこれほどの風になるとは思いもしなかったが。
そんなことを考え、今度は偵察の為に山を降りていた女二人について思いを巡らせた。
指令を出したのは三日前のことで、もうそろそろ帰ってくる頃やも知れぬ。
何かしらの情報は手に入っているだろう…そう考えを締めくくると空けていた障子を閉めた。
何気なく目に入ってきた空は雲が覆い、どんよりとした重さを伴っていた。
雨が、近い。



「御屋形様」

下忍が部屋の外から俺を呼んだのは、もうどっぷりと闇が深くなった刻限であった。
行灯に灯した火がゆらりと揺れる自室で俺は眠れずに書を認めている途中で、筆を机へ置くと体ごと背後に振り返り、報告に来た下忍に声を掛けた。

「入れ」

すっと障子が開けられ、下忍が滑り込むように部屋へ入ってきた。そして入って直ぐの場所で傅く。

「ご報告致します。桔梗様並びに緋勇様が偵察よりお戻りになりました」
「そうか。では、報告は広間で聞こう。刻が刻なだけあるからな…皆を集めた報告は別に時間を取る。尚雲達には知らせずとも良い」

そう答えると、下忍は部屋を出て行った。それを見送り、俺は筆先の墨を拭い片してから立ち上がる。しゅるり、という衣擦れの音と降り出してきた雨の音が静かな部屋に響いた。





「ご苦労であったな、二人とも」

俺が広間へ入ると既にそこには悠燈と桔梗が二人肩を並べて座っていて、俺の姿を見つけるとすいっと頭を下げた。行灯の明かりが映し出した二人の顔は疲労の色が濃く。幸いなことに雨には打たれなかったらしい。

「遅くなってすみませんでしたねぇ、天戒様。情報を集めるのに時間が掛かっちまいましたよ。…だけど、その甲斐あってちゃんと情報は仕入れてきましたよ。ねぇ、ゆーさん?」
「そうね。苦労した甲斐はあったわね」
「そうか、よくやった」
「幕府はどうやら――――――」
  ・
  ・
  ・
  ・
「概要は分かった。詳しい話は明日、尚雲達も交えて聞くことにしよう。…本当にご苦労であったな。疲れているだろう、ゆっくり休むといい」

そう二人を労い、言えば、桔梗は肩の力を抜き、握りこぶしを作り肩を数回叩いた。悠燈はそんな桔梗を見て、くすりと顔を緩めた。

「じゃあ、そうさせてもらいますよ。本当に、草臥れましたよ、あたしゃ。それじゃあ、ゆーさん。先に部屋に戻るからね。天戒様、失礼しますよ」
「おやすみなさい、桔梗」
「うむ」

桔梗は言葉通り先に立ち上がると、疲れたと言っていたという割にはしっかりとした足取りで広間を出て行った。
そして、この広間には俺と悠燈、二人きりとなった。

「…怪我がなくて何よりだった」

悠燈や桔梗の腕前というものは十分に理解はしているのだが、やはり心配するのは止められなく。そう尋ねると、
「天戒…貴方は頭首なのよ?そんな心配する必要なんてないわ。」

と、素気無い口調で答えが返り…だが、それでも表情を見れば言葉の響きとは反対の表情をしていて…息を飲む。そんな風に彼女の表情を読み取ることは、ほんの数ヶ月前までは出来ずにいて言葉を言葉のままに受け取り、激昂したこともあった。…これは、彼女の照れ隠しなのだと、気付けるようになった。

「頭首としてではなく、俺個人としての意見だ。そう思っても悪くはないだろう?」

少し頬が紅潮した顔を見られたくはなく、俺は悠燈に背を向けると歩き出す。背後から声が掛けられて、今度は少し嬉しそうな色を感じる口調で礼を言われた。

広間を出たところで俺は悠燈に振り返り、

「明日から忙しくなるだろう。…お前も早く休め。良いな?」
「…おやすみなさい、天戒」


そう言って、別れた。


雨はますます酷くなり、廊下から庭を覗くと闇に慣れた目であっても視界が悪い。
明日になれば上がるのだろうか?もし止まなければ明日からの動きに支障が出る、そんなことを考えながら歩いていると部屋の前へ辿り着いた。
俺は障子に手を掛け横に引こうとするが、背後に感じた気配に振り返る。
すると、先ほど別れた悠燈が現れ…。

「悠燈、どうした?」

そう尋ねると、悠燈は俺の目を見て答える。

「…天戒に渡したいものがあったのを忘れていたから」
「?一先ず、入れ」

渡したいものとは何なのだろうか…?
気にはなったが、このまま廊下にいるのも行かぬと悠燈を部屋へ招き入れた。
行灯に火を灯すと、悠燈が口を開いた。

「これ、なんだけど」
そうして差しだされた手には小さな包みが乗っている。

「これは…?」

手を伸ばし、それを受け取ると包みの中には円くて固い感触がして。
包みを開けてみると中には予想通りの飴が数個入っていた。

「…甘いもの、好きでしょう。飴なら日持ちもすると思って」
「これを、お前が?」

こんな風に悠燈が何かを買ってきてくれるなど、今までになかったことで驚きそう言うと、悠燈は視線を俺の顔から逸らし言った。

「別にいらないなら無理して受け取らなくていいわ。私が、舐めるから」
「要らぬなど言っておらぬではないか。ありがとう…早速一つ頂こう」

包みの中から一つ摘み、口の中に入れると程よい甘さが広がり…己で思うよりもずっと疲れていたのだろう、その甘さが酷く美味く感じられた。

「美味いな」
「そう?…なら良かった。それじゃ私は部屋に戻るわね。おやすみなさい」

そういって踵を返し部屋を出て行こうとする悠燈を俺は“待て”と引き止める。
振り返った悠燈に俺は一歩足を踏み出し、腕を伸ばし細い腰を引き寄せると予想もしなかったことに悠燈はよろけ、俺の胸にぶつかったところで抱き締めた。

「ちょっ…何をするの?」
「何をとか?…見て分かるだろう、抱き締めているのだ」

少し慌てた風に俺を問い詰める口調には早く眠りたいのだという響きがしたが、素知らぬ顔で、口調でそう返すと抗うかのように腕の中の悠燈が身を捩る。

「ッ!いい加減にして…さっき貴方だって……ッ」
「……少し、黙れ」

俺は右手を悠燈の頤へ添えると、悠燈が何かを言う前にその口を塞ぐ。
悠燈は突然の事に瞠目したままだったが、仕舞いには目を閉じて口づけを受け入れた。
くぐもった息に体の熱が上がる。
十分に悠燈の咥内を堪能し、ゆっくりと顔を離すと顔を紅潮させた悠燈は体の力が抜けたのだろう、身を俺に委ねる。その体をしっかりと抱き締めると。

「甘い…。」

ぼそりと零した悠燈は少し潤んだ目で俺を睨む。
それにふっと息を短く吐くと、耳元へ口を寄せて言った。

「それは、お前がくれた甘さだ。…そうであろう?」
「そ…だけど。………もう、気が済んだでしょう?離して」
「断る」
「ッ!!!断るって………………もしかして、寂しかったの?」

離せという言葉に俺は抱き締める腕の力を強めると、悠燈は息を詰め…しばらくの沈黙の後に寂しかったのかと聞いてくる。真っ黒な瞳の奥が面白そうに笑っていた。
それにドクンと胸の奥が反応し、俺は悠燈の言葉通り寂しかったのだと自覚する。
偵察を命じたのは“頭首”としての立場で寂しいとなど考えたことなどなかった。
しかし、“九角天戒”という己自身ではまた別の話で…己の知らぬ処でそう感じていたのだろう。しかし、それを素直に肯定するのは気恥ずかしく…俺はそうする代わりに拘束する腕を緩め、左腕を悠燈の膝裏へと遣ると一息に横抱きに抱き上げた。
当の悠燈はというと先程の口づけの時よりも更に目を見開き、俺を凝視する。それに俺はにこりと表情を緩め、額に一つ口づけを落とした。

「そうだな…随分と寂しい思いをしたぞ。そう聞くからには…お前が癒してくれるのであろうな?」

言いながら俺は数歩、足を進めると既に敷かれていた布団の上に悠燈を降ろした。
悠燈はまだ状態を正確に掴めていないのか…ぼんやりと俺を見ている。
俺は再度、耳元へ口を近づけると、返る答えが色よいものであるように願いながら囁いた。




「…今宵は、もう部屋には戻るな」














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