前 夜

ユズリ葉作




 一番初め、彼の家に通い出した頃。彼の無口さに戸惑うことが多かった。
 今となっては…笑い話に過ぎないけれど…―――――――――



 ふっと思い出したそれに、顔を緩める。
 するとそんな私に気付いたのか…弥勒は動かしていた手を留め、口にくわえた鑿をそのままに顔を上げると私を目で伺う。
「?」
 私はそんな彼に首を振る。
「何でもない。ちょっと思い出し笑い。」
 そう言えば彼は納得したのか、また自分の足元を見つめ…作業に戻っていった。

 そうした彼を私は何時もの定位置で見つめる。
 彼が作業するまん前の…壁。
 そこが私の場所だった。

   …そうだ。この場所に座る事だって…あの頃には出来ないことだった

 数ヶ月と経たないほんの昔の自分がたまらなく愛しく思える。
 あの頃の自分。それは…彼の一挙一動に神経を張り詰めるよう邪魔にならないように心がけるばかり。
 心の余裕など全然なかった。
 ただ…彼の邪魔になりたくない。邪魔にならずに…側に居ること、それだけを望んでいた…――――――



   ・
   ・
   ・



「ああ、君か。…どうぞ。」
 そう言って半身体を引き、家へと招き入れてくれる彼の家に足を踏み込む。
「お邪魔します。」
 一言そう言い…土間で草鞋を脱ぐと、家へと上がった。
 上がれば先ほどまで仕事をしていたのか…木屑の中にはまだ未完成の木の塊が目に付く。
 それに顔を上げ、私に続いて家へと上がる弥勒を振り返った。
「ごめん。仕事、邪魔しちゃった?」
 明らかに作業中だったのはこれを見れば一目瞭然というもの。
 それ故に訊ねた事だったが…振り返った先で弥勒は、頭を一つ振ると私の脇を通り抜け、その木屑の合間に腰を下ろす。
 床に横たえてあった木の塊を手に取って…。
「…ちょうど一息入れようと思っていたところだ。」
 と答え、そのまま自分の手にあるそれに視線を注いだ。
「弥勒…。」
 その言葉に彼の気遣いを感じて言葉をなくすが、弥勒はそんな私になど気付きもせず…自分の手の中にある木塊だけに視線を注ぎ続ける。
 彫れた角度を確かめるように木塊を横にし、縦にし…と、次に彫るべき場所を決めているようだった。
 そして一点で手を留めるとおもむろにふぅっと塊の表面についたままの木屑を吹き飛ばす。
 右肩に掛けてある道具入れから一本の鑿を手に取り、いざ彫ろうとするが…その時になって未だに立ったままの私へと顔を上げた。
「どうした?座らないのか?」
「あっ…す、座ります。」
 黙って彼のやる事を見つめていた私はそれに慌ててそう答え、何処か良い場所はないかとその時になって探した。
 ばっと部屋を見渡し、彼の邪魔にならないところを探す。程なくして見つけたのは…彼の背後になる壁だった。
「そこ…座っても良い?」
 と私は指で指し示す。
 すると弥勒はその答えに、その場所を見もせず頷いた。
 彼にとっては私が何処に座るかという事より自分で手にしているその塊をどう彫ろうかという事の方がずっと大事な事のようだった。
 そうしたことが分かった私は彼の横を黙って通り抜け、先ほど自分で指し示した壁へ背を預けるようにして座る。
 私が座る座らないに限らず…弥勒はもう一本鑿を出し片方を口にくわえると…直ぐに彫り始めていた。

カーン カーン カーン…

 狭い家にはあの夕方に初めて聞いたままの音が響き渡っている。
 戸外で聞くより、より純粋に、より心地よく…心に響く音。
 壁へと預けた体に直接響くその音に改めて此処で…同じ家でこの音を聞いているのだと実感を募らせる。
 それが、水面に波紋が広がるように私の心を洗い流して…自然と私は自分を見つめた。

 『生きた音を聞きに来い』

 目の前で自分の世界にいる人が言った言葉。助けられた言葉。救ってくれた…言葉だった。
 それに従ってこうして来ている私。
 私は、初めて向き合う…彼という人物に…困惑していた。

 彼はあまり表情を動かす人ではない。それに加え言葉も少ない。
 『あんな奴いいのかよ?仲間に加えて』と愚痴を零していたのは、澳継だったか…。
 その頃の私にとっては…そんな事、大して気にも留めない事だった。
 そう。
 彼が此処で…鬼哭村で仕事を始めるまで、彼は私にとって大多数の中の一人でしかなかったのだから。
 彼がどういう人で…話すのが苦手だろうが、無表情であろうが…どうでも良かった。
 ただ、幕府に復讐を…と誓う天戒や私達、鬼道衆の宿願の足をひっぱらない人物であるなら…誰でも良かったのだ。

 でも…。

「……。」
 黙って作業を進め続ける彼の背を見つめて…一つ溜息を洩らす。
 あの夕方。あの日に…彼は私を救ってくれた。あの苦しみから。その恩人を…より知りたいと思うのは…自然な事ではないだろうか?
 だが…初めて知った彼は先ほどのように素っ気ない…寂しいと思うほどに淡々とした人のようで…。
 澳継ほどでないにしても…もう少し感情の起伏を、と思う。
 その揺れ幅が彼…“弥勒万斎”という人物を捕らえる手がかりになるのだから…私はそれを願ってしまった。

 そうして彼を後ろからただ黙って見つめて…一刻が過ぎた頃だろうか。
 変化なく手を動かしていた彼がふと何かに気付いたように手を留める。足に挟んだ彫りかけの木塊から顔を上げ…窓へと通じる障子を見つめた。
 それが不思議で…私はその横顔に声をかける。
「弥勒、どうかした?」
 そう言えば…弥勒は私に視線を向け『ああ、居たのだったな』と…呟いたかと思うと口を開いた。
「真、そろそろ帰ったほうがいい。」
「えっ…?」
 驚いて、彼を見つめ返す。
 まだ時刻にして正午を回るか回らないかという時刻である。一日夕方まで此処に居て良いなら、あと二刻半は居れるはずだった。
 それなのに何故そんな事を口にする?と、黙って彼を見つめ返していれば…弥勒は私から視線を戻し、自分の手元の道具を拭き始めた。
「今日はこれで仕事を止める。」
「急に…どうして?」
 私がそう訊ねれば…弥勒は黙って手を動かし続ける。
「……。」
 一つ一つ丁寧に…愛しむように鑿を拭き、最後にと彫りかけたの木塊を手にして立ち上がって…。
「これからやる事が出来た。」
 と、それを道具箪笥の一番上に仕舞った。
「……。」
 膝に付いている木片を払い、自分の座っていた場所を見やり…もう一度障子を振り返ってから私を見つめなおす。
「君も今日は屋敷に戻って部屋にいろ。」
「み、弥勒…。」
 戸惑う私に気付かないのか…弥勒はそれだけ言うと私の脇を抜け、草鞋を履いた。
 その背に私は『じゃあ…』と声を掛ける。
「…明日は?明日も来ていい?」
「……。」
 縋るようにそう言った私に草履を履き終え…振り返った弥勒は、首を振った。
「いや、駄目だ。」
「…っ…。」
 理由も口にしない彼の瞳を見つめ…その中に揺ぎ無い光りを見つけると目を伏せる。
「…分かった。」
 一つ頷いて…草鞋に足を通した。
 履き終えれば、顔を伏せたままそれでも言う。
「でも…また来るよ。」
「ああ。分かった。」
 弥勒はそんな私に頷いた。

 一緒に彼の家を出、桶を片手に持っていた彼と家の前で別れる。
 屋敷へと歩きだす私と…那智滝に向かってか…逆の方に歩き出した彼。それに一抹の寂しさを感じると足を止め、彼を振り返る。
 その背に声をかけた。
「弥勒。」
 私の呼び掛けに弥勒は振り返る。
「?」
 不思議そうに私を見つめるその顔を見、私は言葉を発そうとするが…発しようとした言葉は咽喉に詰まって、上手く口に出せない。
「どうかしたか?」
 そう訊ねる彼に…結局は首を振ると、俯いて言った。
「…ううん、何でもない。」
「そうか?」
「うん…またね。」
「ああ。」
 そう言って自分から彼に背を向けると…屋敷へと歩き出した。
 胸には…振り返った彼に『私は迷惑?』と投げかけたかった言葉を…留めたまま…。



 そんな事が何度かあった。
 急に打ち切られたように突然追い返される事が…。前触れも何もなく…そして相変わらず理由を口をせずに…ただ帰らされる。
 そんな事が何度か…。
 そうして追い返される度に…私は傷付き…悲しく、寂しく思っていたが…ある時、その理由を知る事になる。
 どうして彼がそう言って私を追い返していたのか、それを…。



 彼に追い返されて…仕方なく屋敷の縁側に座り、庭を見つめていた。
 すると横から声が掛かる。

「…そこで何しているんだ?師匠。」

 そう声をかけてきたのは…この屋敷の主の従弟。
「…尚雲。」
 声の主を振り返って名前を呼んだ。

 尚雲は私に近付きながら首を傾げる。
「珍しいな、こんな時分に此処にいるのは。…今日は弥勒のところには行かんのか?」

 私が毎日のように彼の家に出入りしているのは鬼哭村では知らぬ者などなかった。
 そうなる前まで、私が彼の家の前に居たことをみんなは知っていて…食事も睡眠も取らなかったその頃の私を心配してくれる人が多かった故の事。
 尚雲もそうして私の身を案じてくれた中の一人だった。

 訊ねた彼に私は首を一つ振ると、また先ほどのように庭へと視線を投げる。
「行ってたよ、さっきまで。」
「さっきまで?」
「うん。…お昼になるちょっと前くらいにこっちに戻ってきたの。」
「ほぉ…随分早いんだな、戻ってくるのが。任務も入っているわけでなし、もう少しゆっくりしてくれば良いものを…。」
「私だって…。」

 尚雲の言葉に言いかけた言葉を飲み込む。
 そんなこと…私だって思っていることだ。
 常に鬼哭村に居られないのだから…一日居られる時は、彼のところに篭もっていたいなんて…誰かに言われるまでもなかった。

「ん…?」
 尚雲はそうした私に気付かないように言葉を途切らせた私を不思議そうに見つめていた。
「……。」
 その視線に私は気付いては居たが、何も答えず…ふぅっと一つ溜息を落すと体を伸ばす。
 尚雲をもう一度見つめ直し、気分を入れ替えると訊ねた。
「ねぇ、それより…澳継見なかった?時間空いているしどうせだから相手してもらおうと思うんだけど…。」
「風祭か?それなら双羅山で半刻程前見かけたがな。」
「双羅山?」
「ああ。だがなぁ…師匠。あいつをわざわざ探すというなら俺が相手というのでは駄目か?俺も久しぶりに手合せ願いたいっと思っていたのだが…。」
 尚雲らしいその言葉に顔を綻ばすが…縁側を立ち上がると丁重に辞退する。
「ありがと。でも今は澳継が良いんだ。また別の時相手してよ。」
「そうか?それは残念だな。」

 決して強くは言わない…自分を通さない、そんな尚雲の距離感が心地良かった。
 彼の腕はよく知っている。鍛錬相手としても頼もしく申し分ない相手だったが…今の私には少し殺伐としすぎる気がしたのだ。
 上へ上へと高みを登りつめ、先をと目指す彼の拳には当然殺気が篭もるものだったし…そうした事は私の神経を擦り減らすのはよく分かっていた。
 気力充実の折に彼と手合せするならいい。その鬼気迫る拳を相手に自分の技の向上を促せるのは言うまでも無い事だ。
 だが…今のように沈んだ心のまま相手をすれば却って自分の怪我を招く上、彼に対しても誠意がない事だった。

 そうなるとやはり今の自分には、澳継ぐらいがちょうど良いと言える。
 澳継も尚雲と同様に上へ上へと高みを目指す拳だが…尚雲とは違って自分をまだまだ抑えきれないところがあって…。
 命の取り合いと言うよりは…ただ我武者羅に自分の相手をしている私を倒そうとする思いだけで一杯になる。
 その感じが…その澳継の真直ぐさが、疲弊し疲れを感じている自分にも飛び火して…何もかも忘れて体を動かしてくれるのを…私は知っていたから…。
 今は彼と組み手をしたいと望むばかりだった。

 尚雲の言葉に軽く謝ると笑う。
「ごめんね。…さて、それじゃあ双羅山まで足を運んでみる。…ありがとう、尚雲。」
「いや…。」
 彼の脇を通り抜け、先ずは自室から手拭いを…と歩き出すと背中で呟くような声が響いた。
「あ…。」
 何かに気づいたようなそうした尚雲の声は珍しくて、足を止めると振り返る。
「どうしたの?」
「ああ、いや…雨がな。」
「え?雨?」
 私の言葉に尚雲は頷き、空を見上げた。
「そんな気色など先ほどまで何処にもなかったんだがなぁ…。」
 彼の言葉に私も空へと目をやり、頷く。
「うん、さっきまであんなに晴れていたのに…。」
 暫くそうして見つめていると…『そういえば…』と尚雲が口を開く。
「師匠はここの所、決まって雨の日は屋敷に居るな。」
「え…?」
 思ってもみない言葉に空から彼に視線を移せば…尚雲は少し笑って私を見ている。
「この前の突然の夕立の時も屋敷に居ただろう?風祭なんぞ、双羅山から走って帰ってきたが…ずぶ濡れになってな。廊下を濡らすなと、怒られているのを観た。」
「…澳継らしいね。」
「だろ?」
 クスクスとそのまま尚雲と笑い合い…そして、ふっと気付く。
「ああ…そういう事。そういう事、か。」
「ん?何かあったのか?」
「あ、ううん。…何でもない。」

 不思議そうにしている尚雲に首を振り…私は急に泣き出した空へと視線を移す。
 そういう事なのかと。
 明日も…雨が降る。きっと…。
 弥勒は…それを見越して私に来るなと言っていたのだ。

「…言葉が足りない、よ。」
 至極彼らしいと納得しつつ、そう呟いた。



   ・
   ・
   ・


 
 それからだった。
 彼の言葉を一度、反芻し…その真意を得ようとするようになったのは。
 無表情と皆にはよく言われるその顔を見つめ…僅かに感じられる表情の変化や、瞳に映る感情の動きに注意を払うようになったのは。
 そうしてみれば…何でもなかった。
 彼は他の人と変らない。ただ目に見えて変らないというだけ。
 注意してみれば…一瞬、辛そうに斬り落された右腕の残滓に目を落す事やその黒い瞳の中に痛々しく揺れる光を見つけられるから…。
 今は分かる。
 彼が何を言いたいのかを。



 その時に感じた心がほっと温まるような緩まるような感情に微笑む。
 それが口をついて声になっていたのか…弥勒は、作業していた手を止め私に顔を上げた。
「真。」
「あ…ごめん。」
 私はそれに謝るが…。
「いや…。」
 思い出したついでと…少し話してみる事にした。

「弥勒ってさ…。」
「ん?」
「作品を彫っているとき、何時も以上に無口になるって知ってた?」
 彼は驚いたように彫りかけの作品に移そうとしていた視線を私に止める。
「そうなのか?」
「うん。」
「無口に…無愛想になるんだよ。」
「…それは……すまなかった。」
「ううん、いいの。私は知っているから。」
「……。」
「ただね…最初に此処に来た頃ってそういう事知らなかったから…戸惑ったなって。」

 今はこうして真正面に座っている私。
 最初に座った…弥勒の背を見つめるその場所から此処に移ったのも…少しだけ彼を理解して、自分に自信が持てるようになったから出来る事だった。
 そうして手に入れた今の場所を優しく撫でながら…私は言葉を続けた。

「…その頃の私ってちょっと…初々しくて可愛いかったかも…って、思い出して…笑っていたの。」
「そうか。」
「うん。」
 相槌を入れてくれる彼に顔を上げ、微笑むが……ふとその瞳が抱える一筋の光に気付いて、眉間を寄せる。
「弥勒、腕痛むの?」
 彼はそう尋ねた私に一瞬驚いたように目を瞬かせるが…自分の半分しかない腕を見下ろすと頷く。
「…ああ。少し、な。」
「じゃあ、雨が降るのかな。」
「さぁ…どうだろう。寒さで痛んでいるだけかも知れん。もう秋も終わりだから…。」
 彼の言葉に私は、背を預けていた壁から身を起す。
 そのまま立ち上がり彼の隣に座った。
「ねぇ、弥勒。」
「ん?」
「少しだけ…こうさせていて。」
 と、彼の右腕に抱きついた。
「真…。」
 戸惑うようなそんな声が私にかかるが…。
「貴方の痛みが少しでも和らぐように…。」
 …と。
 『寒さで痛んだのなら…私の体温で貴方を暖めるから…』と、告げれば…弥勒は黙って…。
「……。」
 最後には頷いた。
「…わかった。」
 私から視線を逸らし…手元にあった彫りかけの面を見つめ……囁くように一言『ありがとう』と口にする。
 それは近い距離の私の耳にはしっかりと届いて…彼の腕を抱きしめる手に力を篭めさせた。


 寒さの募る、雨の日の前夜。
 最初の頃の戸惑いは霧散し…反対に心へと暖かいものが宿るようになったのは何時の頃からか…。
 暖めあう体の温もりは答えを知らない…――――――――――――――――――





 目次に戻る 後書きを読む

作者のサイトへ