倒錯

ユズリ葉作



 …どうしてこうなったのだろう?


「動くな」
「…うん」
「喋らなくても良い」

 その言葉に頷くと、彼の瞳に促されて私はそっと瞳を閉じる。

「そう。そのまま…瞳を閉じていろ」

 瞳を閉じた先で、間近にと聞く低い声。
 それを耳にし、こんなにも彼の声は低かったのだろうか?と私は考えるが…。
 直ぐにと、そんな考えも高鳴る動悸へと変貌を遂げて、深く考えられる事など出来なくなっていた。

 躊躇い無く触れられる顎への感触。
 私より高い体温故にか、暖かく感じるその繊細な指は私の顎をそっと自分へと上げる。

 それだけで、動悸は更にと高まって…。
 ドキドキと高鳴るこの鼓動を、近い距離に彼に聞こえてしまいやしないかと心配する一方、自分の顔にと当てられる彼の視線を強く意識した。

 目を閉じているだけで…一つの感覚を閉じるだけで、どうしてこんなにも人は敏感になるのだろう?
 見えない闇の向こうで、真摯にと私を見つめていることが分かる。
 この瞼を開ければ一重の澄みきった黒い瞳が、過不足なく自分を見つめているだろう事。
 それが、こんなにも強く確信出来る事の不思議を思った。

 一瞬、それを確かめたい。本当に自分の感覚に間違いはなく、彼は自分を見つめているのだろうか?
 そんな欲求が頭をもたげるが、そうはせず…高鳴り続ける自分の鼓動を抑える事に必死さを見つけた。

 私がそうして心中忙しなくしている脇で、弥勒は私の顎にと当てた指を外す。
 彼の指が暖かかった故に触れられていた箇所に一抹の寒さを感じた瞬間、瞼に触れられた柔らかな感触に背中をゾクリと感覚が走り抜けた。
「っ」
 息を飲む私に、弥勒は…。
「真」
 と、端的に私の名を呼ぶことで、そんな私をたしなめる。
 それに私は、一つ頷いて答えると…彼はまた私の顔へと触れた。

 ひやりと感じる冷たい感触。
 そしてそれ以上に柔らかい、腫れ物にでも触れるようそっと私の肌を撫でていく肌ざわりに…先ほど以上にゾクリと背を何かが這う。
 それにまた身じろげば、彼は手を止めた。

「…動かないでもらえるか?」
「でも…」

 彼の言葉に従いたいが…それは承服出来ぬ、と先ほど閉じていろと言われた瞼を僅かに開ける。
 開ければ先ほど観たいと思っていたそのままに彼は、一寸先ほどで、私を見据えていて…真っ直ぐに向けられる黒い瞳には、私が映っていた。
 彼の瞳に映る自分の顔が、歪む様子を見つめながら、彼の要求の難しさを口にする。

「背中がむず痒くなるの。触れられる度に。…抑えたいけど、どうしても無理で…」
「……」
 そう答えれば、彼は首を捻るように私を見つめ、その後自分の脇にと置かれた道具箱を見下ろす。
「だが、真。筆を使わねば、俺も綺麗に仕上げる自信がない」
「うん。分かってるんだけどね…」
 その言葉に頷き、彼に倣うよう私も彼の脇にと置かれた幾つかの小皿へ、肩から落とした着物の胸元を押さえながら目を移した。
 そんな私に弥勒は小さな溜息を一つ吐くと、並べられた小皿の一つに手にしていた筆を下ろす。
 私を窺うよう首を振って言った。
「せめて水化粧の合間だけ、我慢できないか?」
「…努力してみる」




 事の起こりはこうである。


 面を作るのには大きく分けて、三段階の作業に分かれる。
 “荒取り”、“彫り”、“塗装”がそれである。

 “荒取り”とは、大まかに面の形を決めるもので、木塊の表面にあらかじめ書いた面の形に合わせ、鋸、鑿などを使って彫る作業の事を言う。
 四角く、塊としての木塊は、この時点で余分なところをほとんど落としてしまい、薄い板のようになる。
 ちょうど、出来上がった面を横から見たときの分だけが残された状態だ。
 面の種類は約250種にも及ぶが、基本形だけ言えば約60種。60種中にも、凹凸がそれぞれに全然違って…出来上がる様子は、作るものの頭の中にしかない状態である。
 だから、“荒取り”が済んだ状態だとどういう面が出来上がるかは分からない。
 それが、次の作業である“彫り”に入ると大分変わってくる。

 “彫り”とは、“荒取り”で大まかに削られた面の形を彫刻刀などにより、更に彫り進める作業の事を言う。
 鋸などを使う“荒取り”とは違い、彫刻刀や鑿で彫り進められる“彫り”は、面の形を最終的に決める過程である。
 未だただの木の板が、段々と作業が進むうちに、面の鼻になり、顔の皺になり、口にと変わっていく。
 それは、最初の数日は気付かないが、日が経つうちに確かにその木塊が人の顔なのだと気付かせるもので。
 彫る本人は最初から頭にあった完成形への過程だが、見ている側の人間には、まるで魔法か何かのように不思議な魅力がある過程だった。

 そして、最後の作業が“塗装”。
 三回の下塗りを済ませ、その上に上塗りを施す頃には、面はそれまでの柔らかい色を発していた木の色もとんと見えなくなり、真っ白なそれはまるで貝か何かで作ったように美しい。
 上塗りの後に施される面の表情や毛髪の描写。翁の面などには馬のたてがみを染めた髭を付ける頃には、もうすっかりと人の表情を有していた。

 早いもので一枚一週間くらい。
 モノによっては月単位で掛かるものもある。

 弥勒はそうした作業を一貫して行うこともあり、また並列に行うこともあった。
 彫る音は私に過去の光景を思い起こさせるものだったが、“塗装”はまた違った興味を抱かせる。
 彼の手に寄ってそれまで木の優しい色をしていたものが意思を持った“人の顔”になるという神秘。
 人工物故の完璧な美貌に自然と目を奪われた。


 初めて観た時から思っていたそれに…口を挟んだのは、本当に気紛れで。

「…綺麗」

 ぼそりと呟いた私の言葉を作業の間、集中しきっている彼が拾ったのもまた偶然に近かったと思う。
 面にと向けていた顔を上げ、私を見つめ直すと少し首を傾げた。

「そうか?」
「うん。…最初は確かに木以外の何物でもないのに、今はもう人の顔になってるんだもん」
 そこまで言って、はたりと気付くと首を振る。
「いや、違うか。弥勒の頭の中ではもう既にある形なんだよね。この美人さんは」
 と、彼の手元にあった面に視線を注いだ。
 弥勒はそう話した私の言葉に少し考えるよう黙った後、顎にと手をやると首を振る。
「確かにこの面の完成形は既に俺の頭にとあったものだ。今までそれについて何も考えた事はなかったが、今君に言われて気付いた事がある」
「?」
 面から顔を上げると弥勒を見つめる。弥勒は私を真っ直ぐに見つめ、難しそうに眉間に皺を寄せていた。
「そこには“意外性”がない。完成に近付くに従って多少の変化はあるが、基本的には俺の予想の範疇を超える事がないんだ」
「……」
「広がりを見せない世界は、正しいのだろうか?」
「弥勒…」
「…俺はもう少し考えねばならぬのかも知れんな。この事について」
 そう言って弥勒は自分の世界に閉じこもるよう、完成間近に近付いていたその面を見つめ…黙ってしまった。
 私は彼をそうして悩ませるために口にしたわけではないから、黙って考え続ける彼の横顔に困る。
 彼がじっと見つめる、私が見れば一つの芸術作品であり、“広がりを持つ世界”の面へと視線を注いだ。
 そうして暫く、私達は黙って時を過ごしていたが、やがて弥勒はふっと顔を上げると…。

「真、少し良いか?」

 と、彼の言葉に顔を上げた私の顎を捕らえ、上向かせた。
 上向かせた後は頬に触れ、何時も彼の作る面にするように様々な角度から私の顔を見つめる。
「み、弥勒…?」
 観られているという意識があるだけに、私は顎を上向かせたまま彼の名を呼べば…弥勒は顔を上げ、真っ直ぐに私を見ると尋ねる。
「真。化粧道具は持っているか?」
「え?化粧道具?」
 突飛な言葉に、聞き返す。
「ああ」
 頷いた彼に自分の持っている私物を思い返しながら首を振る。
「個人では持ってない。私、全然化粧しないから…」
「そうか」
「桔梗に言えば、貸してくれるとは思うけど…」
「桔梗に?」
「うん。彼女なら、一揃い持っていると思うの。何時も身奇麗にしている人だからね」
 そう答えた私に弥勒は視線を逸らすと考えるよう、私の言葉を反芻させる。
「桔梗、か」
「何?」
 意味有り気なやり取りに、私は首を傾げて尋ねるが…。
「いや、何でもない」
 弥勒はそう言うとまた手元の面に目をやって、作業の続きを始めた。
 彼が没頭するよう、それに集中してしまったのは傍目で見ても明らかで、それ以上に聞くことなど出来ず…結局私は、その時の答えを次の日の朝に知ることになる。


「真。今日はこっちに」
 と、手招きされ、弥勒の前に首を傾げながらも座る。
 座ってみれば、彼の脇にと並んだ化粧道具に気が付いて、目を留めた。
「化粧道具?」
 そう首を傾げれば、弥勒は一つ頷く。
「昨日君が言っていたように桔梗に話して借りてきた」
 誰のものかは分かったが、どういう理由でそこに並べられているのか分からず、眉間に皺を寄せる。
「弥勒?」
 すると弥勒は僅かに表情を緩ませると私に言った。
「たまには自分で造形したものでないもの。…“生きた面”に向かってみるのも面白いと思ってな。付き合って欲しい」
「それって…私に化粧をするって事?」
「ああ。駄目か?」
「…駄目じゃないけど…」

 思っても見ない自体に、戸惑った。
 何時も横で彼が自分の作品に打ち込んでいるのを見ているのは、私。彼がどんな視線で、どんな態度で、作品に向かっているかなど嫌というほど知っている。
 その視線が自分に向かうのかと思うと、戸惑う以上に恥かしい気さえする。

 そう考え、言葉を渋っていると…弥勒は眉間に皺を寄せ、首を振った。
「…何も強制する気はない。君が嫌なら断ってくれて良いのだが…」
 と、私に逃げ道を用意した。
 私はそれに慌てて首を振ると答える。
「嫌じゃないよ。ただちょっと恥かしい気がしただけで…」
「恥かしい?」
「…ううん、良いの。えっと…私は、どうすれば良いの?」
「……」
 弥勒はそう答えた私を暫く真意を探ろうとか、見つめ後、化粧道具に目を落として言った。
「何も。ただ、動かないで居て欲しい」
「動かないで?」
「ああ。本来なら両手を使って顎を固定しながら化粧するのだろうが…如何せん、俺は隻腕だからな」
 そう苦笑し、一本の筆を手に取ると首を傾げた弥勒に…。
「真の助けが要る。それだけ頼まれてくれるか?」
 彼の瞳が穏やかなのを見つめ、静かに頷いた。
「うん。分かった」



 そうして始まった、化粧は…間近にと彼を感じるもので、動悸が高鳴る緊張したものになった。
 彼の言葉に従い、目を閉じて…閉ざされた視界に自然と彼の氣を探りと、何とも艶やかかつ、秘め事めいたもの。
 水をたっぷりと含んだ太い筆で頬や顔に下地を塗る段になって、首を伝って筆に含まれた水が垂れる事から…着物の上を肩より落として…。
 初めて他人に肩から二の腕にかけての曲線を見せる事になる。
 当然ながら胸元は隠したものだが、それですら半分は見える形になり…桔梗ほどでない胸の谷間の陰影を、彼の目に晒す事になった。
 私がそれに気恥ずかしさを感じる横で、弥勒は何も感じないのか、着物が汚れぬようにと手ぬぐいを持ってくる。
 半襟を入れるように、着物のを端を手ぬぐいで隠し、裾が落ちて自分で入れにくい背の部分から着物の端を挟み、胸元へとそれを持ってきて…やっと、手を止めると私にその先を委ねる。
「ああ、すまない。後は自分でやってくれるか?」
 何時もの、作品に没頭している時と同様に少し無愛想とも取れる無表情さでそう言った彼に…。
 早くも今回の作品である、私の表情をどうしようかと思案している事に気付いて、苦笑いしながら手ぬぐいの端を受け取ると胸元まで入れた。

 こちらがどんなに恥かしく思っても、私が気恥ずかしく思わせる弥勒には、そうした下心や、やましい心の一片もないのが分かっているだけに、何とも言えない気持ちにもなる。
 意識されればされたで自分は、また今以上に困惑するのも分かっているのに…何の意識もされないというのも寂しい気がするのだ。
 難しいものだな…と、自分の心の機微に苦笑し、まぁ、そこが彼らしいと結論付けると、気恥ずかしさを捨てて、彼の目の前に座った。

 弥勒は暫く、自分の前に座った私の顔を見つめ後、先程の続きをなぞるよう、下地用の太い筆を手に取る。
 鼻梁を塗り、頬に触れ、顎へとそれを動かしていく。
 水化粧故の冷たい感触に、首筋が晒された私はゾクゾクと寒気を体に感じながら…体を震わせないよう、膝の上に乗せた手を握り締める事でやり過ごす。
 やがて、顔全体を塗り終わった下地の筆は次にと私の顎から首に掛けて移っていく。
「ッ」
 顔をされている時は、我慢できたそれも…自分でも早々に触れる機会もない首にと移ると、背筋を駆け上るゾクリとした震えは大きくなる。
 それでも、動かないで欲しいと語った彼の表情を思い出し、やり過ごそうとするのだが…。
 首からうなじを塗ろうとか、弥勒が畳を移動する音共に移り行く筆の感触に、堪らなく体はピクリと時折、背を反らしてしまった。
 弥勒はそんな私に筆を止めると、クスリと笑って尋ねる。

「そんなにくすぐったいのか?真」
「…ごめんなさい」
「謝る必要は無いが……もう直ぐで終わる。暫く辛抱してくれると嬉しい」
「うん…頑張る」
「…すまないな」

 と、一言謝って、続きをなぞった。
 彼の言葉は本当にだったようで、数度の筆の動きを我慢してると…彼が、私の正面に戻った気配と共に筆が置かれる音が聞こえた。

「真」
「ん?」
「少し表情を緩めろ。…次は白粉を塗るから、今よりはずっと楽だろう。だが、力が入っては均一に塗れん」
「あ…はい」
 私の顎を捕らえそう言った彼に私は、震えを抑えようと張っていた体の力が入ったままだった事に気付き、力を抜く。
「これで良い?」
「…ああ」
 私への答えも聴こえないよう弥勒は頷く言葉もおざなりに…私の頬にと白粉を塗っていく。
 柔らかい布がそっと触れていく感触は確かに彼が口にしたように、先程の水化粧を施していた筆でのものよりずっと緩やかで。
 体にと駆け抜けた寒気ともつかないゾクリとした感触はなかったが、弥勒の指の感触を薄い布越しに感じるものだった。
 だから、顔が済み、顎から首元、肩、胸へと移ったそれに…先程とはまた別の緊張感を感じていたことなど、きっと彼は知らなかった事だろう。
 弥勒が私のそうした気持ちに気付く人なら…気付ける状態なら、きっと私の耳の端が赤くなっていた事までわかったろうが…。
 彼は私の予想を裏切らず、そんな私には決して気付く事無く、その過程を終わらせた。
「次は?」
 白粉を塗り終わり、また私の正面に戻ってきた弥勒に目を開けると尋ねる。
 すると、弥勒は化粧道具を見下ろしながら…細い筆を水に塗らして、答えた。
「目元に赤い紅を入れる。それと口元にもな」
 二枚貝に入った紅に筆をよく馴染ませた後、顔を上げた弥勒はすっと目を細める。
「表情を決める大事なところだ。…すまないが、本当に動かないでもらえるか?」
「う、うん…」
 何時もよりずっと間近に真っ直ぐ言われた言葉に、私は目を俯かせながら頷く。
 頷いた後、また目を閉じた。
 弥勒はそうした私に少し黙って見つめ後、そっと瞼へと筆を下ろした。
 筆はなるほど、さっき肌に感じた水化粧のものよりずっと細く、硬い。
 躊躇いなくつぅっと目の際を辿るよう筆が引かれるのを感じながら、彼の息が自分の顔に掛かるのにドキッと動悸が高鳴った。
「…真」
 僅かに動いた私に、弥勒はまたたしなめるようそう言い…反対の瞼へと、筆を動かす。
 目尻へと向かって引かれる筆。
 それをもう一本引き終わると…ふぅっと、溜息を吐く音共に弥勒が離れたのが分かった。
「真、目を開けてくれるか?」
 その言葉に従い、目を開ける。目を開けると弥勒は私を値踏みするよう、よく面を見るときにする表情そのままに真摯に私を見つめていた。
 筆を小皿の一つに置き、顎に指で捕らえる。
 昨日私にしたように様々な角度から見つめ、下から覗き込むと…指を放す。
「上を」
 と一言言い、私に顎を上げさせるとまた筆を取り、今度は下瞼の目尻にと筆を走らせた。
 慣れない感触に涙が知らずに零れそうになるが、今そうして涙を零せば悲惨な結果になるのは火を見るより明らか。
 そう思うと、目にと浮んだ涙を必死で抑えた。

 弥勒はそうして涙を堪えた私に気付いてか、目尻に紅を入れ終わると用意していた小さな紙で目に溜まった涙を拭ってくれた。
 拭い終わった後、また私の顔を様々な角度から見つめ…今目尻と使った筆を拭い終えると、新しいもう少し太目の筆を手に取る。
「紅を塗る」
 と、筆の先に紅を取り終わった後、私に顎に触れ、自分にと上げさせた。

 近付いてくる筆に私は自然と目を瞑る。
 唇に触れた筆は、柔らかいものだった。最初に使った筆とも、目元に走らせた細すぎる筆とも違う。
 私の唇の半分ほどのその筆は柔らかく、私にと触れられ…ゆっくりと下唇の中心から、外に向かって走らされる。
 筆の一本一本の感覚まで分かるほどに丹念に塗られる紅。
 それが…目を閉じた私に、あらぬ倒錯を覚えさせる。

   …口付けされてる、みたい… 

 そこまで考えて、自分の想像した事が随分はしたない事だと、キュッと唇を噛み締めた。
 それに弥勒がまた何か言うかと思うが…何も言わず、筆を止めた彼に不思議に思って…目を開ける。

「弥勒?」
「……」
「?」
 私の顔を見つめ、黙っている彼に首を傾げれば…。
「あ、いや…」
 弥勒は私の顔から僅かに視線を逸らし、自分の手元を見つめると首を振った。
「…すまない。つまらない事を考えた」
「?」
 何を考えたのだろう?と、更に首を捻れば、弥勒は首を振って自分の考えを振り払ったようで…顔を再度私にと上げると、紅を含んだ筆を私に見せる。
「…続きを」
 それに目を瞑った。







 最後の一筆を入れ終わり、筆を下ろす。仕上がったばかりの真を真っ直ぐに見据えた。
 真はそうして筆を下ろした俺に直ぐに気付いたようで、恐る恐ると目を開ける。色素の薄い茶色の瞳が数度瞬いて、俺を見つめ返した。
「…終わったの?」
 そう尋ねた彼女に俺は黙ったまま、目を開けた彼女の表情にと目を細める。
 白い白粉に目元に入れられた赤い紅の色。頬に軽くのせた頬紅。
 下唇に厚みを置いて塗った口紅が、僅かにと開いた彼女の唇にのっている様子を黙って見つめ…その表情や微細な陰影を見極めると眉間に皺を寄せた。
「弥勒?」
 怪訝そうに顔を顰めた俺に真は尋ねるが、俺は彼女から視線を下ろすと床にと並んだ化粧道具へと視線を落とす。
「一応終わった事は終わった。だが…失敗だな」
「えっ…」
 置いたばかりの筆の先を、和紙で拭いながら答える。
「こうなる気はしていたが…致し方あるまい」
 途中からそうなる気はしていた。
 気はしていても、一応と筆を進めて出した結果である。予想通りと言えば予想通り。なるべくしてなった結果だった。
 まぁ、それも仕方ないと、何故失敗したか理解していた俺は、自分をそう納得させると、借りてきた化粧道具を一つずつ片付け始める。
 使った筆の先を使ってない小皿に注いだ水で洗い、洗い終われば和紙で丹念に拭った。
 真はそうして俺が作業をする傍ら、俺の言葉を考えるよう黙っていたが…やがて自分の膝元の着物をキュッと握ると、ボソリと俺に言う。
「私が…悪いの?」
 その言葉に俺は驚いて、彼女にと顔を上げた。
 上げた先で彼女は膝元を握った自分の手の甲を見つめ、神妙そうな表情をしている。
「私が、何度も動いちゃったから…」
 赤い唇を一層引き締めると、頭を下げた。
「ごめんなさい」
「真…」
 頭を下げた彼女に俺は戸惑い、やがて顔を上げた彼女に首振った。 
「君のせいじゃない。これは…俺の問題だ」
「けど…」
 食い下がる彼女にもう一つ溜息を吐くと言葉を足した。
「今回の事は、俺の集中力の問題なんだ」
「集中力?」
「ああ」
 聞き返した彼女にまた化粧道具へと目を移しながら頷く。
「作業中に気を緩めた。…一瞬でも、君に目を囚われた俺が悪い」
「み、弥勒っ…」
 驚いたような声を上げた彼女にまた顔を上げる。首を振った。
「面を作る者は、面に溺れてはいけない。常に対象に対して『無』で臨まなければ、ならないんだ。何故なら面は…能面は、正面を向いた時、無表情であるからだ」
「無表情…?」
「真。君は能を見たことがあるか?」
 首を振った彼女に俺は立ち上がり、壁際に置かれた道具箪笥に近づく。一番上に仕舞ってある完成した自分の作品の一枚を取り出した。
 取り出したのは、若い女性の顔を表す小面の面で、それを手にまた座っていた場所に戻るとそれを彼女にと見せる。
「俺の打つ面の多くは、こうした能面だ。そして能面とはそれ一枚で、喜びや、悲しみなど、全ての人の表情を表す。…真」
 面から顔を上げると彼女に尋ねた。
「元来、彫り切られ表情筋が動くはずもない面から人はどうして、喜びや悲しみを感じる取るのだと思う?」
 彼女は俺の手から小面を受け取ると、少し考えた後、首を傾げながら答える。
「う…ん、前後の話から…とか、かな?」
「なるほど。確かにそれもあるだろう。だが能の表現方法の多くは、顔の角度。顔にと掛かる陰影でそれを表現する事にある」
 彼女の手から面を受け取ると、言葉に合わせて面の角度を変える。
「顔を伏せるのを“悲しみ”。反対に上げるのを“喜び”とするようにな」
 面をまた元に戻すと、真にと顔に上げる。
「だが…人は違う」
「弥勒?」
 彼女を見つめそっと片手を上げると彼女の白い頬に触れた。
「人は表情筋や、その他多くの感情表現を持っている。…面だけでは表現できない繊細な表情。それが、人の顔にはあるのだな」
「……」
「多くの女性が毎日と施す化粧は、面造りとは全く違う。動く事を前提とした化粧は…それだけで広がりを持つ世界なんだ」
 すっと彼女の頬から腕を下ろすと、自分の作品である小面の頬に指を伝わす。
 曲線を描く小面は、表面にと塗った漆に手触りよく指を滑らせる。
「微細な表情を表現しきれない。…それが、面の持つ限界なのかもしれない」
 そう言い、黙った俺に真は少し考えるようにした後、口を開く。
「でも…」
 彼女の言葉に面から顔を上げれば、俺の視線に僅かに照れたようにしながら真は言った。
「でも面だからこそ、完璧な美が出来るんだと思うよ?」
「完璧な美?」
「うん。生きているものが持つ不完全さを、人工的に作り出す事によって完全さを持つように出来るなら…それは、人の希望であり、願いなんだと思う」
「……」
「弥勒が作るものは、人の一つの理想だよ。それの何処に限界を見出すの?」
 そう言って微かに笑った彼女を俺は見つめる。俺は心底…彼女の言葉に驚いていた。

 面打ちを始めたのは、十三、四の頃。
 師匠と仰いだ、昔から俺の世話をしてくれた男が、座付きの能面打ちだったから…それを見習って始めたこと。
 始めた理由も、始めた動機も今となっては分からない。
 ただ、のめり込むように始めて…利き腕を落とされた時、一番に心に引っ掛かりを覚えさせたのが面打ちという道だった。
 面を打つ意味。心にと思い描くそれを形にする事が、どうしてそんなにも自分を捕らえるのか、改めて考えてみた事などなかった。

 彼女に化粧を施す事で彼女に向き合い、閉ざされたように感じた道は…彼女の言葉によって、新たに拓かれた。
 面が人の理想だと言うのなら、人が夢を見続ける限り、限りなく続く道なのだと。
 その事に気付かせた彼女。

「…そう、だな」

 彼女の言葉に呆然としながら頷けば、真は目を細めて笑った。
 その表情は化粧をし、何時もよりずっと大人びた様子だからなのか…俺は釘付けにされたように動けなくなって。
 俺の部屋にあった鏡を覗いた彼女が、俺を振り返り…。

「ねぇ…せっかくだから、桔梗に見せてきても良い?」

 と、尋ねるまでただ見つめてしまった。
「あ、ああ…」
 彼女の言葉に頷きかけて、俺ははっと気付くと彼女の腕を取る。
「弥勒?」
 振り返った彼女に首を振った。
「すまないが、桔梗に…という話は、なしだ。化粧は落としてしまってくれ」
「え…どうして?」
「…それは…」
 少し迷った後、俺は心に思い描いた言葉と違うものを口にする。
「今の君は俺の作品だ。俺の腕が未熟で…人に見せるには及ばない未完成な、な」
「……」
「だから、人には見せたくない。…駄目か?」
 そう言えば、真はふぅっと一つ溜息を吐いて頷く。
「うん、分かった。勿体無いけど、弥勒がそう言うなら…しょうがないよね」
「…すまない」
「ううん。…えっと、じゃあこの手ぬぐい濡らしちゃって良い?」
「ああ」

 土間に手ぬぐいを濡らしに行く彼女の後姿を見送りながら…俺は内心、溜息を吐く。
 取るに足りない独占欲。
 それが彼女の手を取った理由。
 そうした自分を抑えきれず、我を通した自分につくづくと、呆れながら…そういえば、そんな独占欲を持つ自分は珍しいと考える。
 考えながら、あの瞬間。
 彼女の唇に紅筆を当てた瞬間、目を奪われた彼女の美しさを、誰かに見せるなど…考えられない事だとも、思った。

 面に溺れるのは面打ちとしては、滑稽。
 なら、人の表情に溺れる俺はどうなのだろう?

 そう自問を繰り返しながら…彼女が俺の施した化粧を落としきるまで、俺は彼女を見つめていた。

「何?」
「いや、何でもない」
「そう?」
「…ああ」

 化粧を落とし、すっかり素顔に戻った彼女の顔を見つめ、俺は微笑む。
 そっと安心感を心にと抱きながら…目を瞑った。






 …この後、弥勒は真を送って行くついでに、と桔梗に化粧道具を返しに行くが…。
 誰も化粧を施した真を見てない事から、大方独占欲でも発揮して、家から出さなかったのだろうと、桔梗にからかわれた。
 からかわれた弥勒は、ただ黙ってその言葉に頷き…からかうつもりが、却って真面目にそう切り返された桔梗は一瞬押し黙った後、至極彼らしいと笑った事も…。
 化粧を落とさせた弥勒の気持ちと同様、真の預かり知らない事だった…―――――――



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