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京洛奇譚 第拾四話其ノ弐

 ≪伍≫

 9月28日朝7時45分、東京駅の東海道新幹線16番ホームは、これから10月2日まで四泊五日の修学旅行へと旅立つ真神の三年生で賑わっていた。その活気ときたら、くたびれた様相で列車を待つ出張サラリーマンらの眠気を吹き飛ばす程である。

「おっはよ〜、ひーちゃん。今日は絶好の修学旅行日和だねッ」

 取り分け元気の良い声で小蒔が、姿を表した龍麻にこっちだよッと呼びかける。小蒔の言う通り、上空は雲一つ無い青さで、それは生徒たちの旅への期待感を更に煽ってくれた。

「おはよう小蒔。その様子だと首尾は上々って所かしら?」
「えへへッ、昨日もひーちゃんと葵から色々アドバイスしてもらったから。そういうひーちゃんの方は…全然問題無さそうだね」
「うふふ、まあ…ね。ところで葵は…」
「葵だったら、班長ってことで先生に呼ばれてあっちに居るよ。あッ、醍醐クンおはよッ」

 集合5分前になって醍醐もきっちりと顔を見せた。

「二人とも揃ってるな。どうだ、龍麻。体調の方は万全か?」
「お陰さまで、至って元気よ」
「はははッ、旅行先で病気になること程つまらないモノはないからな。そういえば、一昨日はあの後三人して何処へ出かけたんだ?」

 醍醐の質問には龍麻も小蒔も曖昧な笑いで誤魔化す。

「まあいい。ところで、そろそろ列車に乗る時間じゃないのか」
「けど…いくら待っても来ないヤツが若干一名いるんだよね〜」
「………」

 ホームの時計を見ると既に集合時間を過ぎていた。葵が戻ってくる頃には、担任のマリアがあちらこちらに分散している3-Cの生徒たちに、そろそろホームに整列するよう声をかけに廻っている。

「あらら、うるさいヤツがいないと思ったら…。けど、これってまずいわね〜」
「アン子…、まずいってどういうこと?」
「それはズバリ置いてけぼりになるってことよ」
「もっと具体的に言えば〜学校で一人自習するってこと〜。んふふふ〜誰も居ない教室で一人だけっていうのも〜中々いいもかも〜。あたしの契約者(デーモン)たちと仲良くなれるかもしれないわね〜」
「……ですって。どうする龍麻?」

 龍麻はアン子と裏密の話を聞いて思わず頭を抱えたくなった。

<こんなことになるんだったら、今朝電話の一本でも入れるべきだったわ…>

「ごめん、ごめん、そんな顔しないで。ホラ、あたしのおやつ分けてあげるから、元気出して」

 しっぽまで餡の詰まったほっかほかの鯛焼きを貰った所で、この事態が好転するとも思えないが、取り敢えず素直に受け取って礼を言う。

「あら、遠野さんに裏密さん。向うで犬神先生が探してらしたわよ」

 マリアが早く自分たちのクラスの列に戻りなさいと二人を促す。


「さて…となると残るは一人……」

 神妙な顔のマリアを前に、四人が神に祈るような気持ちになったその時、

「お〜い、待ってくれ〜〜俺を置いて行くなァ〜〜!!」

 階段の下の方から、京一の叫び声が遠く響いてきた。その声を掻き消すようにホームの発車ベルが鳴り始める。

「大変ッ、とにかくアナタたちは早く電車に乗って」

 慌てるマリアにせかされ、後ろ髪引かれる思いのまま龍麻は列車に乗り込んだ。

「ちくしょぉ〜〜〜ッ!!!」
「京一ッ!もう少しよッ、頑張って!!」

 龍麻の悲鳴に近い叫びと共に、発車ベルがぴたりと鳴り終える。

「こっちだッ、京一ッ!」

 死に物狂いに突進してくる京一の腕を掴むと、醍醐がその剛力を発揮しデッキへと引っ張り込む。
 その直後、音を立てて列車の扉が閉じた。

 デッキには荒い息を吐きながらへたりこむ京一と、その下敷きになっている醍醐。そして呆然と二人を見下ろす龍麻の三人の姿があった。

 そこに、車内アナウンスが流れ始める。

──本日は東京発新大阪行きひかり〇〇号にご乗車頂き、誠にありがとうございます。尚、6両目からご乗車されましたお客様に特に申し上げます。列車の安全の為に駆け込み乗車は絶対にやめて下さいッ──

 珍しく感情的になっている車内アナウンスに、三人は声を揃えて笑った。



「ったく、人騒がせなんだからッ」

 ひとしきりマリアから説教を受けた京一が自分の座席に座り込むと、その並びの三人席から小蒔が怒った顔を突き出してきた。

「いいじゃねェか、こうして無事に間に合ったんだから。ところで、この座席順は…」
「私たちの班は全部で五人だから、横一列のこの席順になっているの。ごめんなさいね」

 葵が三人席の通路側に座ったまま理由を説明する。ちなみに窓側には小蒔、真ん中が龍麻という座席順で、並びの二人席には醍醐と京一という形になっていた。

「京一が不満な理由はそれだけじゃないがな、そうだろう?」
「…何が楽しくて2時間40分もの間、ヤローと並んで座ってなきゃなんねェんだよ」
「あら、下手すればこれから五日間一人寂しく3-Cの教室に座って自習しなければいけなかったかもしれないのに。恩人の醍醐君に対してそれは無いんじゃないの」

 龍麻は冷たくそう言うと顔をそむけてしまう。京一の言いたいことは分かるけれど、クラスの皆の前でそれを口にされては堪らないというのがそのココロだ。

「チッ、まあ、確かに今回は仕方ねェか…」

 京一も朝から皆に心配をかけた引け目から大人しく引き下がると、さっさと窓際の席に座った。


「あ、見てみて、ひーちゃん、葵ッ。海だよ、海ッ」

 熱海駅を通過した辺りで、海側の席に座っている小蒔がはしゃぎ始める。

「海、海って…別に小蒔のやつ、今日初めて見る訳でも有るまいし…」
「そういつまでもふて腐れたようなことを言うな、朝日が海に反射して中々見事な眺めだぞ。それに見てみろ」

 醍醐に促され京一も渋々180度身体を反転させると、通路に後ろ手の格好で龍麻が立っていた。

「ひーちゃん?」
「…京一…これ…」

 そっと手渡したのは布に包まれた四角い物体。

「ひょっとして…これってひーちゃんの手造り弁当か〜〜!!」
「もうッ、京一!そんな声を出したら皆に聞こえちゃうじゃないッ!!」

 絶叫する京一を黙らせようと龍麻も負けずに声を張り上げてしまったのだが、丁度トンネルの中に入ったので双方とも都合良くかき消されたようである。

「醍醐クンにもちゃんと有るんだよ。でも、ひーちゃんのと違って、ボクの作ったのだから見た目も味も全然保証できないけど」

 それでも今朝から一生懸命作った力作であるお弁当を、醍醐に渡した小蒔は嬉しそうに笑い、受け取る醍醐も同じく嬉しそうな顔で礼を言う。

「何だよ…醍醐、おまえは随分と余裕ある態度かましてんな…。ちょっとムカつく」

 自分の受け取ったお弁当箱より一回り大きなお弁当箱を見てながら京一が横目で睨む。

「それにこれって俺一人分か?おい、ひーちゃん、俺と一緒に食うんじゃねェのか」
「うふふ、龍麻と小蒔の分は私が作ってきたからご心配なく」
「葵のお手製弁当、昨日からすごく楽しみにしてたんだ〜」

 葵が既に取り出している自分たち三人分のお弁当を見て、小蒔が目を輝かせる。その小蒔の言葉を聞いて醍醐はそういうことかと思い至る。

「ええ、あの後三人で今日のお弁当の材料を買いに行ったのよ。葵の提案でね。それじゃあ、二人とも京都まで車窓の風景でも楽しみながら食べてね」

 はにかむ表情を隠すように、龍麻は自分たち用のお弁当を広げている葵と小蒔のいる席へ足早に戻っていった。そしてその直後、あッと小さな声を上げる。

「ねえ二人とも、ちょっと顔を上げて窓の外を見て。ほら…」
「まあ、富士山だわ。しかも雲一つ無く、こんなに山頂までくっきりと見えるなんて」
「やっぱりすごく高いや。うん、さすがに日本一の山だけあるよッ」

 葵のお弁当をつつき合いながら、今度は反対側の窓に姿を見せ始めた富士山の秀麗な姿に無邪気な歓声を上げていた。
 その声をBGMに、京一も富士山をしばらく見ていたが、やがておもむろにお弁当箱を開け、さっきの富士山と同じ綺麗な三角形したおにぎりをほお張った。




 ≪六≫

 京都に無事到着し、まずは3年生全員で京都駅に程近い蓮華王院、通称『三十三間堂』を見学する。

「ふあ〜、スゴ…」

 柱の数三十三本、それが理由で三十三間堂と呼ばれる細長いお堂の内部には、一千一体もの黄金に輝く千手観音像がまさに群像をなしていた。

「数もそうだけど、この仏サマ、何でこんなにたくさん手があるの?それに千手っていっても実際はずっと少ないみたいだし」

 小蒔の素朴な疑問に、葵が千とは仏教の世界で全てという意味なんだと説明する。

「更にそれぞれの手のひらには眼まで描かれているのよ。正式には千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)といって、この眼で一切の衆生の願い事を余すところなく見届け、千本の手で象徴されるようにありとあらゆる手段で願いを叶えてくれると言われているわ」
「つまり観音菩薩の持つ無限の慈悲を形に表したのがこの仏像で、だから観音の中でも最も功徳が大きいので『蓮華王』とも呼ばれるのよ。それにね、小蒔の言う通り仏像の場合、手の数は千本じゃ無いことの方が多いわ。ここもそうね。合掌している両手と、そして左右に二十。一本の手が二十五の世界を救うと考えに基づいて作られているから、計算すれば千になるという訳」

 龍麻の補足説明に、京一が異論を挟む。

「俺は作るのが面倒くせェから数を省略したんだと思うけどよ」
「お前という男は、せっかく有りがたい仏像を前にしても憎まれ口を叩くことには変わりないな」
「生憎こういうのには全然興味がねェんだよ。それよりこの寺、さっきからやたらと弓矢が目に付くのが気になるぜ」
「ああ、それについてはここのお堂の外に出てから話すわね、京一君」

 薄暗い堂内を出てから、葵がここでは江戸時代にさかんに『通し矢』という行事が行われていたと説明した。

「ちょうどお堂の裏手に当たるこの場所の北端から約120メートル離れた南端に設置された的を目掛け、一昼夜の間にどれだけ当てられるかを競ったのよ。ほらこの説明書に最高記録は貞享三年(1686年)和佐大八郎という人が13,053本射た内、8,133本射通したという記録があるでしょう」
「…計算すると平均6.6秒に1本の割合で射続けて、しかも的中率が62%…凄いわね」

 感心しきりの龍麻を、醍醐が感嘆の視線で見る。

「……俺にはその場で素早く暗算出来る龍麻の方が凄いと思うぞ」
「あははは、確かに醍醐クンの言う通りだねッ。そういえばここでは毎年1月15日に成人を迎えた人と有段者が集まって大々的に弓道大会が行われてるって前に雛乃から聞いたことがあったよ。ボクも二十歳になったら出場してみようかな」
「小蒔だったらこの大会で優勝するのもあながち夢じゃないと思うわ」
「雛乃も当然出場するだろうし、全国から上手な人が集まるだろうから結果は分からないけど、出るからには精一杯頑張るよ。ありがと、ひーちゃん」

 何だか急に練習したくなったと呟く小蒔だが、その言葉の裏には、ここ何ヶ月の間は出かける時は必ず携帯していた弓道の道具が手許に無いことを、どことなく不安に感じているのも有るようだった。

「ここは京都だぜ、そんなモン必要になる場面が有る訳ねェだろ」
「う〜ん……それもそうだね。あ、いけない、もうすぐ集合時間だよッ」

 小蒔の声に弾かれたように五人は集合場所へと慌てて走った。



 昼食を挟んでの午後の予定は宿までの移動を含む班単位での行動であった。解散に先立ち、各担任の教師から注意事項が言い渡される。

「ここからは各自班別の自由行動ですから、それぞれが責任を持って行動して下さい」
「具体的には、他人に迷惑をかけない、事故を起こさない、みっともない真似をしない…以上だ」

 犬神は京一の方を注視しながらマリアの言葉を補足する。

「犬神のヤツ、絶対俺を目の敵にしてやがるぜ…旅行初日から胸くそ悪い」
「仕方ないだろう、その旅行初日の出発から既に周囲に迷惑をかけたのは事実なんだ」

 醍醐に対して全く反省の色のない返事をする京一は、その話題を切り上げようと葵に午後のルートを訊ねる。

「今日はこの後どこを廻る予定なんだよ」

「一応、事前に二つのコースを候補として考えていたのだけれど、皆はどっちが良いかしら?」

 葵が京都市内の観光地図を広げる。

「今日の宿がここだから、この辺りはどうかと思ったのだけれど」

 指で円を描いたのは京都市北西部の洛西と呼ばれる地域である。

「この辺りだったら…金閣寺か、それとも仁和寺か…」

 京一も醍醐も小蒔も別にどっちでも構わないと言う。

「ボクたちお寺のコトあんまり知らないし、ここはやっぱりいつものようにひーちゃんに決めてもらおうよ」
「小蒔ったら、もう…」

 こんな時まで自分が選択をする必要はないだろうと龍麻は困惑するが、全員の促すような視線に遠慮がちに地図を指差す。

「それじゃあ…こっちが良いわ」
「仁和寺か。ひーちゃんって案外渋好みなんだね〜」
「うふふッ、私も実はこっちが良いと思ってたの」
「だったら、最初から葵がそっちを選んでくれれば私も素直にそれに従ったのに」
「でも龍麻はこれが初めての修学旅行だから、ひょっとして金閣寺を選ぶかもと思ってたわ」
「そういうものかしら…」

 龍麻は軽く首を傾げると、撮影機材を手に通りがかったアン子が龍麻の疑問に答える。

「京都の修学旅行といえば金閣寺っていうのはある意味定番だもの。そういう訳であたしはこれから金閣寺に写真撮影に行くのよ。でもあたし、金閣寺ってどうにもキラキラと派手過ぎて、あんまり好きになれないのよ」
「もともと権力者ってのは派手好きが多いからな。派手好きで、見栄っ張りで、飾り立てるのが大好きで」

 今時のオネエチャンたちと同じようなもんだと締め括る京一の言葉に、アン子は驚きの表情をつくる。

「京一、あんたって時々鋭いコト言うわねえ…とても学年最低の成績記録更新者とは思えないわ」
「一言余計なんだよッ。んなコト言う暇があったらさっさと撮影に行ってこいよ」
「こっちこそ。あんたに言われるまでも無くさっさと撮影済ませるつもりよ。ああ早く宿に行って温泉に浸かりたいわ〜」
「温泉!?」
「俺たちの泊まる宿には温泉があるのか?」

 初耳だという小蒔と醍醐に、知らなかったのとアン子が呆れ顔で聞き返す。

「噂じゃ混浴もあるらしいけど…」

<何ッ〜!?>

 だが京一の心の叫びを無視するようにアン子は言葉を続ける。

「どうせ誰も入らないわよ、ねえ、京一」
「どうしてそこで俺の方に話を振るんだよッ」

 たちまち不機嫌な表情に変えた京一に対し、アン子はお生憎サマと意味深な笑いをつくり、止めに釘をさすのを忘れない。

「思い余って女子風呂を覗くようなバカな真似だけはしないでよ」
「うるせェなッ。お前の裸なんて頼まれても覗くかよッ!!」
「ぬぅあんですって〜〜!?」

 顔を紅潮させたアン子からいつものビンタが飛んでくるのは、今の会話を傍聴していた四人には予想内の範囲であった。

「京都に来てまでこれか…」

 京都の紅葉のように見事な朱の手形のついた頬をさすりながらぼやく京一に、醍醐がお前ら二人は寄ると触ると喧嘩ばかりだなと苦笑いする。

「ホント、顔合せるといつもこれだもんね。よっぽどアン子とは相性悪いんじゃない?」
「口うるせェ女が単純に苦手なだけだよ。そこいくと…なあ?ひーちゃん」
「何?」
「いや何でもねェ。さッ、俺たちも早いトコ観光済ませて宿で羽伸ばそうぜ」
「そうね、それにアン子の言葉じゃないけれど温泉、私も楽しみだわ」
「そうだろッ、やっぱ日本人には温泉が欠かせねェよな。どんな風呂か俺も楽しみだぜ」

<特にあっちのお風呂の方がな…へへへッ>

 その時京一の頭の中では、既に壮大なプロジェクトが水面下で始動していた。




 ≪七≫

 路線バス『御室仁和寺』で下車し、目の前にある重量感に溢れた二王門をくぐると、目の前には予想以上に広々とした境内が広がっていた。

「ここはまた随分と立派な寺だな」
「仁和寺は平安時代の888年(仁和四年)宇多天皇によって創建され、そして後に出家し法皇となった天皇が住まわれたから御室御所(おむろごしょ)と呼ばれたの。以来明治まで代々親王が住職を務める門跡寺院として、その格の高さは筆頭とされていたわ。『徒然草』の作者吉田兼好はこの近くの双ガ岡(ならびがおか)のふもとに住んでいたから、作品にもこのお寺の僧侶の話が度々出てくるわね…。京都の他の社寺の例に漏れず、残念ながら応仁の乱で建物の大半が焼失してしまったのだけれど、江戸時代、三代将軍徳川家光の寄進、そして京都御所から建物を下賜されるなどして再建されたとのことよ。現在ではユネスコの世界遺産にも指定されているわ」

 葵が一通り説明し終えると、話の水を向けるように龍麻に視線を送る。

「葵の説明に付け足すとしたら、ここの境内には国の名勝に指定されている里桜の林があるってことかしらね。何でもこの土地の土壌の性質から、樹高が2〜3メートル程しか成長しないので、特にここの桜を総称して『御室の桜』(おむろのさくら)と呼ぶそうよ。別名『お多福桜』っていうらしいけれど…」
「龍麻、その仇名には何かいわれがあるの?」
「ええ『わたしゃお多福、御室の桜。はなは低くても、人が好く』という言い回しがあってね、『あの人御室の桜やな』とこの辺りの人が言ったら、即ち『鼻が低いですね』という意味になるのよ」

 そこまで説明をすると龍麻はクスっと声を出して笑う。

「そんな言葉がこの地に根付いているくらいですもの。京都市内のどこよりも最後に咲くこの桜は人々に愛されて続けてきたということね」
「桜はやっぱ中央公園のが一番キレイだと俺は思うぜ」
「そういうのを井の中の蛙とも言うが…」

 話に突然割り込んできたのは、付近を巡回している犬神だった。

「まあ、自分の故郷に誇れるものが有るというのは良いことだな、蓬莱寺」

 珍しく京一を褒めたと思いきや、くれぐれも面倒を起こすんじゃないぞと忠告を付け加えた。

「…ったく、イチイチしつこいッてんだよ」
「大丈夫だよ、センセー。もう事件は全部終わったから。…あッ」

 露骨に犬神に対する嫌悪の反応を示す京一に替わって小蒔は咄嗟に言葉を返すが、直後しまったと口に手を当てる。

<ど、どうしよう、うっかりしゃべっちゃったよ…>

 だが犬神は小蒔に反問するのではなく龍麻に対し、お前もそう思うのかと訊ねる。

「…事件とは何なのか、私には分かりかねますが…」
「ふん、慎重だな…。いい心掛けだ」

 それ以上は犬神も言及せず、次の見回り先へと移動していった。

「やれやれ、どうなることかと思ったぜ。小蒔、お前が口を滑らせるから」
「ゴメン…ひーちゃん、みんな…」

 自分の軽率な発言にしょげかえる小蒔に、龍麻はこの先の金堂を参拝しに行きましょうと背中を軽く押した。

「ほら、気を取り直して」
「うん…ありがと、ひーちゃん」

 中門をくぐると、京都御所の旧紫宸殿を移築した貴重な遺構でもある金堂が威風堂々たるその姿を見せた。その正面の階(きざはし)前に五人は横一列に並んだ。

「さてと、ひーちゃんはいくら位お賽銭を入れるつもりなんだ?」

 隣に立つ京一の言葉に、龍麻が自分の財布の中の小銭を無作為に探ると、掌には──

「55円…ご縁が沢山有りますようにッてか」
「ああ、そういう意味にもなるわね。ところでそう言う京一は…」
「俺は5円だけで十分。さッ、投げようぜ」

 一斉に投げ入れられた小銭が賑やかに音を立てると同時に、五人は神妙に眼を閉じ手を合せる。

「……誰ッ、今手を叩いたの?」
「?普通こういう時は手ェ叩くもんだろ」

 どこがおかしいんだと胸を張る京一に、五人の中で一番長い間お祈りをしていた龍麻が苦笑を浮かべながら教える。

「それは神社の場合で、お寺にお参りする時は拍手(かしわで)を打たないのよ」
「京一ってば、常識知らなさ過ぎッ」
「そういう桜井もさっき美里に教えてもらったんだろう」

 小蒔はバレたかと舌を出す。

「…エヘヘ。まッ、ちゃんと仏サマにお賽銭も上げたんだし、この際細かいコトはこだわらない」
「小蒔、てめえだって物知らずだったんじゃねェかッ」
「ちゃんと直前に勉強したからいいんだよッ。大体そういうキミは…」

 境内を抜け出るまで相変わらず他愛の無い口げんかを繰り広げる京一と小蒔だったが、出口の門をくぐったその時、

「「あそこにお茶屋発見!!」」

 呼吸もぴったり合わせて同じ言葉を叫ぶと、ここで休憩しようとこれまた口をそろえて龍麻らに懇願する。

「どうする、葵?時間的には大丈夫かしら」
「まだ余裕は有るし、せっかく京都に来たんだから…」

 葵の返事を聞き終える前に、すでに京一と小蒔はお店目指し早足で石段を駆け下りていった。

「あいつら…こういう時になると妙に気が合うというのか、所詮は似た者同士というべきか…」

 肩をすくめる醍醐に、龍麻は二人ともお寺巡りはやっぱり退屈だったかもと返す。

「でも、これもまた古都散策の楽しみっていうのかしらね」
「それもそうね。それじゃ私たちも行きましょう」


 遅れて店に入った三人を、手入れされた日本庭園に面した席をしっかりと陣取っている小蒔が手招きした。京一はといえばお品書きを手に思案顔はするものの、

「やっぱ茶屋といえば団子だよなッ」

 四人の意見は無視とばかりに、さっさとお店の人に五人分の団子とお茶を注文してしまう。

「……いつになく強引じゃない?京一君…」
「そうね、どうしたのかしら」

 囁きあう龍麻と葵だったが、自分たちも特に異論は無いので緋毛氈のひかれた席に大人しく腰を下ろすと、程無くして団子とお茶が運ばれた。

「わッ、来た来たッ!……モグモグ……うん、美味しいッ」
「桜井、目の色がすっかり変わってるぞ」

 醍醐の言葉も、至福の一時を過ごしている小蒔の耳には全く届いていない。
 あっという間に平らげると向かいに座っていた京一のお皿を覗きこむ。そこには何故か団子だけが手付かずのまま残されていた。

「あッ、ひょっとしてコレ食べないの?」

 京一が制止するより早く小蒔はひょいとそれを手に取ると、ぱくぱくっと食べてしまう。

「てめえ、俺が最後に楽しんで食べようとわざと残しといた団子を…よくもッ」
「いいじゃん、男のコなんだから小さなコトにこだわらない」
「俺にとって団子は小さなコトじゃねェんだよ。畜生…」

 怒号を上げる京一の肘に、龍麻は自分のお皿をついと差し当てる。

「半分食べちゃったけど、それで良ければ…どうぞ」
「ひーちゃん…それって…ひょっとして…」

<これはひょっとしなくても、か、間接キスッてヤツか〜>

「その先馬鹿なことを一言でも言うんだったら、これ、あげないわよ」

 にやにやと顔を崩す京一を凝視できず、龍麻は顔を赤らめつつそっぽを向く。

「スイマセン…」

 慌てて神妙な顔に戻した京一は、龍麻と、そして先ほどお参りしたお寺のホトケ様に心の中で拝みながら自分の前に置かれた団子の皿に手を伸ばす。

<くぅ〜幸先良いぜ。この調子だったら俺が祈願したアレも成就すること疑いなしッ>

 京一がお寺で何を祈願したのかはともかくとして、この時の五人は過去の陰鬱な事件から解放され楽しい修学旅行を過ごす、ごく普通の高校三年生の姿そのものだった。




 ≪八≫

 全員心もお腹も満足し、勘定も済ませたので五人はお茶屋の外に出る。

「うーん、お腹イッパイ……ちょっと苦しい位かも」
「そりゃ、あんだけ食えばそうなるだろッ。そんな調子で夕飯食えるのか?」

 二人分のお団子を食べたのが効いたのかお腹を苦しそうにさする小蒔に、京一はあきれた口調で訊ねたが、葵はその心配は無用だと微笑む。

「ここから山の中腹の宿まで歩いて行くんだから」
「ここから歩くって!何だよ、ロープウェイとか登山バスとか、そういった文明の利器ってのはないのか?」
「そんなもの無い方が良いわ」

 京一のぼやきは龍麻にあっさりと跳ね除けられる。

「龍麻の言う通りね。それに今日泊まる宿も村の方が経営する小さなホテルだし。この辺りは全然開発されていない豊富な自然が残っている場所ですもの」
「自然の息吹を感じながら歩くというのも良いものだろう。行くぞ、京一」
「……たく、こいつらの体力は桁違いだからな…」

 前に龍山の庵を訪れた時のことを思い出し、京一は独り言を言う。


「ふう、結構登ってきたな」

 周山街道をしばらく辿り、途中から宿のある集落に向かって分岐した山間の道を歩き続け、そろそろ1時間が経とうとした時、醍醐がここらで休憩しようと言う。

「賛成ッ」

 小蒔は目ざとく木の株を見つけ、そこに座る。他の四人もそれぞれ腰を下ろせそうな場所を確保する。

「見事なまでに真っ直ぐな杉の木々…。これが高級木材として有名な北山丸太になるのね」

 天を突かんとばかり真っ直ぐに伸びている北山杉を龍麻と葵は仰ぎ見る。

「そうやって上を眺めるのもいいが、こっちに来てみろ。下界の眺めも中々見事だぞ」
「おおッ、こいつは絶景ポイントだぜ」

 醍醐に教えてもらった場所は、先ほどまで自分たちがいた仁和寺の五重塔を中心に、穏やかな山稜に囲まれた京都の街並みが一望の下に広がる。

 折りしも心地良い風に乗り、遠く梵鐘の音が山路を歩く旅人にも柔らかく時を告げる───

「…良い風景に心も和んだし、そろそろ出発しましょう」

 そう龍麻が切り出すまで、普段東京では味わえない情緒溢れる光景を全員が全身で味わっていた。自然と共に刻まれる生活律が、ここでは当り前のように存在していた。


 程なくして集落の入り口に差し掛かり、古めかしい民家がこなたかなたに点在している。
 だが突然、葵が叫び声を上げた。

「皆、大変。あそこに誰かが倒れているわ」

 老婆が道でうずくまっているのを見つけ、五人は慌てて駆け寄る。

「どうされましたかッ」

 醍醐がそっと抱き起こすが、老婆は苦しげな呻き声のまま胸をぐっと押さえるのみである。

「醍醐君、そのまま動かさずにじっと支えてあげて。小蒔、確かお水持ち歩いていたわよね」
「うん、水筒に入れてたから……あ、あった。はい、これッ」

 龍麻は小蒔から水筒を受け取ると、手慣れた様子で老婆に水を飲ませる。

「………ばあさん、大丈夫か?」
「もう大丈夫、心拍数が落ち着いてきたから…」

 安堵の笑みを浮かべる龍麻通り、老婆の顔からは急速に苦痛の色が去っていった。

「…お蔭さんで…何とお礼をいうたらええやら」
「どこか苦しい所はありませんか?」
「いつもの発作が起こっただけどす。あんたさんからお水を飲ませてもろうて、もう落ち着きましたさかいに」
「それは良かったです。それでは私たちでお家まで送らせていただきますね」

 葵からの提案を老婆は最初丁重に断ってきたが、最終的には是非にと申し出る一同の好意を素直に受け止めることに決めた。

「ほなら、よろしゅう頼んます」
「そういうことだから……」
「ひーちゃんの荷物は俺が持っててやるよ」

 皆まで言わずとも、京一が龍麻の手荷物を受け取り、手ぶらになった龍麻が老婆に腕を貸してあげた。


 老婆の家に向かうまで会話を交わす間に、すっかり老婆と龍麻たちは打ち解けてしまった。

「あんた方は東京の学生さんどすか?」
「はいッ、今は修学旅行中なんです。それにしても、京都にはまだ自然がイッパイありますね」
「へえ、山に囲まれた盆地ですから…ここらには狸もぎょうさんおりますえ」

 けど…と老婆は表情を暗くする。

「村の地主はんが山の半分を売ってしもうて。なんや、レジャー施設が建つそうです。うちの孫娘や青年団の若いもんが反対運動やいうて頑張っとりますけど、うちの家にも立ち退きの話が。ご先祖様の家を壊すのは忍びないもんがありますえ」
「酷い話だわ」

 葵の言葉に龍麻も、そして京一らもこぞって賛同する。

「こんなに美しい山なのにね…」
「おおきに。あんた方はほんに優しい方たちどすなぁ。けんど時代の流れには逆らうことは出来まへん。後は山の天狗さんだけが頼りどす」
「天狗?」

 突拍子も無い単語に、醍醐が思わず聞き返す。

「この辺りの山は昔から天狗さんのものですかい。うちらは昔から天狗さんに護られて暮らしておりますのえ」

 その証拠に建設会社の人が山で襲われたり、工事の機械が壊れたりといったことも起こっているという。

 やがて老婆の家に無事到着すると、地元で栽培している果物で作った自家製のジュースをささやかなお礼代わりにと渡し、五人の姿が見えなくなるまでずっと門の所から見送ってくれた。


「……どう思う、今の話」

 老婆の家が完全に見えなくなった辺りで、京一が口を開いた。

「俺は何かひっかかるんだけどよ…大体、天狗っていうのが既に怪しい。正体を見せないヤツにロクなのはいねェからな」
「でも山を護ろうとしてるんだから、イイ人なんじゃないの。ボクたちも何か手伝いできたらいいのにな〜」
「そうはいうが、桜井。この山は個人の持ち物のようだし、これは地元の環境問題でもある。よそ者の俺たちがどうこう言えるものでも無いだろう」
「醍醐君の言葉通り、残念だけれど法律的には何も問題無い…。ここの人たちがどれだけ頑張れるか、それを応援する位しか今の私たちには出来そうに無いわね」

 龍麻は言葉を切るが、もやもやとした気持ちは断ち切れず残っていた。

<私でも出来ることって本当に無いのかしら………>

 鄙びた風情を漂わせた宿が姿を見せた頃、龍麻の頭にある考えが浮かんだ。




 ≪九≫

 午後8時、京一は同じ部屋でくつろぐ醍醐に話しかける。

「飯も食ったし、風呂も入ったし、後は消灯までの時間をどう有効に使うかだよな」
「そうだな、ロビーで土産物でも見つくろうか…」
「何をしけたコト言ってるのかなキミは。今こそ、この壮大な計画を実行に移す時」

 急に声を潜めると、今が何の時か分かるかと耳打ちする。

「今は多分……交代制だから女子が風呂──まさかお前ッ!!!」
「しーッ、声がデカイぞ、醍醐ッ」

 慌てて醍醐の口元を押さえる。

「何が壮大な計画だ。ただの下品な野望だろう」

 付き合う気持ちなど毛頭無い醍醐は、勝手にしろと冷たく言い放つと扉の音も荒々しく部屋から出て行ってしまった。


「チッ、これだから堅物は…。ま、元々俺一人で行くつもりだったし構やしないぜ」

 ここの露天風呂が目隠しつきとはいえ、実は裏庭と続いているというのは、自分の入浴時に怠り無く事前確認済みである。

 闇に紛れるように裏庭に廻り、周辺に人の気配が無いと判断すると、京一は足音を更に一層忍ばせ、水音の聞こえる場所へこっそりと近付く。

<よしッ、この先に…ひーちゃんの生ナイスバディが…>

 目隠し代わりの桧垣の上からいざ覗き込もうと踵を上げたその瞬間、左足を遠慮無しに思い切り踏みつけられてしまった。

<痛ェ〜〜!!>

 声を上げそうになるのは何とかこらえられたが、痛みには耐えられずその場にしゃがみこむ。じんじんと疼く左足をさすりながら、もう少しの所を邪魔したのは一体何者だと、不機嫌極まりない顔で背後を振り返った。

「フッ、やはりお前か」

<よりによってこいつに見つかるなんて……まさに最悪なパターンだぜ>

 ここを張ってて正解だったなと、犬神が舌打ちする京一を悠然と見下ろしていた。


「もっとも引っ掛かった馬鹿な獲物は、蓬莱寺ただ一人だがな。どうだ、何か言い訳があるのなら聞いてやるぞ」
「別に、さすが犬神センセーは鼻がお利きになるようで…」
「今度見つけたら東京へ強制送還だ」

 京一の皮肉に眉一つ動かさずに最後通牒を言い渡すと、分かったらさっさと向うに行けと、犬神はこの場から京一を追っ払った。

「は〜い、以後気をつけます」

 殊勝なセリフを吐くがそれは口先だけで、今の京一には己の作戦失敗を悔いる気持ちは有っても、ここで潔く諦めるという気持ちはどこにも存在していなかった。とはいえ犬神に見つかったルートを再度試みるのはそれこそ愚の骨頂である。

<クッ…まずッたぜ>

 実は宿に到着した直後、下見調査の為廊下に掲げられた館内見取り図を眺めているうちにもう一つの作戦も浮かんでいたのだが、同時にその欠点もすぐに看破していたので、最初の作戦時に選択するのを躊躇っていたのだった。

<だが…このままじゃ俺も俺のムスコも眠れねェッ>

 今はこの作戦に全てを賭けるしかないと決意を固めると、館内を猛然と移動し始めた。


 5分後、コンクリートむき出しの壁に振動音が低く反響するボイラー室、そこに京一は一人たたずんでいた。目論見通りここは盲点だったようで、犬神や他の教師らの監視は及んでいない。

 今、京一の目の前には左右二つ、どちらも磨りガラスのはめられた窓があり、そしてどちらかの窓の向うには京一曰く桃源郷が広がっている。女子の声がどちらの窓からも聞こえてくる気がするのは、それだけここから露天風呂までの距離が近いことを意味していた。

<問題は…こっちの方も風呂場からは丸見えになるってことだよな>

 つまりは距離の近さが諸刃の剣になっているのである。
 自分が覗いていられる時間は、せいぜい10秒当りが限度だろう。最悪、開けた瞬間に見つかってしまう可能性もある。それを考慮すると危険な…余りに危険な勝負だったが。

<ええい、今更弱気になるなッ。あの死闘を考えればこの位…>

 京一は己を奮い立たせる為、等々力での九角との激闘を頭に浮かべる。このような下世話な勝負と比べられては、相手はさぞかし不本意だろうが、京一にとってはどちらも負けられない真剣勝負であった。

<………よし…行くぜッ!!!>

 ゴクリと勢い良く唾を飲み込むと、左側の窓に手をかけ音を立てずにすっと目の幅まで開く。


<お、おおおおッ!>

 露天風呂は温泉を楽しむ真神の女子生徒たちで溢れていた。幸い京一が覗いていることがばれた様子は無かった。

<あ、あれはッ…!!>

 京一の胸の鼓動が一際高鳴ったのは、生徒らに混じってマリアも入浴していたからである。

<まさにいンたあナしょなる───!!!>

 マリアの艶やかな姿に目が釘付けになるも、京一はこの作戦の最大の目的を果たしてないと思い至り、目線を他所へと転じる。

<どこだ、どこにいるんだ…絞まった足首、ほっそりしたふくらはぎ、鼻血モンの太股の持ち主であるひーちゃんの生ナイスバディー〜〜〜ッ>

 龍麻を探そうと、もうほんの少しだけ窓を開けたのだが、それが災いし女子生徒の一人に見つかってしまう。

「キャアアア〜、誰かがあそこから覗いてるわッ」

<や、やべェ…>

 たじろぐ京一の予想を上回る速さで、その情報はたちまち露天風呂中を駆け巡る。

「やだ〜、もしかして痴漢なのッ!!」
「この超変態ヤローッ。お前なんてこうしてやるッ!!!」

 京一が開けた窓めがけ、桶やら熱湯やらが一斉に浴びせられる。果敢にも攻撃してくる女子生徒の一人には小蒔も混じっていたのだが、それを確認する余裕など京一には有るはずも無く、この場を一目散に逃げ出した。



「京一?」

 背後から聞き慣れた声に呼び止められて、追っ手を振り切ろうと廊下を走っていた京一は心臓が飛び出す程驚く。

<マズイ…まさかもう追いつかれるとは…しかもよりによってひーちゃんに……>

 さーっと血が引いていく音が京一の頭の中に流れる。
 顔を青ざめさせながら、恐る恐る振り返ると、意外にも龍麻はきょとんとした顔をして立っていた。

「どうしたの、京一…そんなに慌てて?」

 見ればお風呂上りという感じは全くなく、夕食後別れた時と少しも変わらぬ格好であった。

「ひ、ひーちゃん。何でここに…。今はお風呂の時間じゃねェのか」
「そうなんだけど、ちょっとね…」

 口ごもる龍麻に風呂に行っていない理由を聞こうとしたが、その時風呂場の方角からバタバタと数人の生徒が走って来る足音が近付いてきた。

<やべ、今度こそ追っ手が来やがった>

 どこかに隠れないと、今度こそ東京送還。
 しかも龍麻の目前で己の犯行が明かされるというオチつきである。

 まさに蓬莱寺京一絶体絶命のピンチ!

<ち、ちくしょ〜、あの時のお賽銭5円じゃ少なかったのか…>

 的外れな叫びだったがそれでも仏様が哀れと思し召したのか、偶々すぐ近くに従業員が鍵をかけ忘れたせいでドアが半開きのまま放置されたリネン室を発見できた。

「悪いッ、ひーちゃんも付き合ってくれ」

 京一は辛うじてそれだけ言うと、龍麻を左腕に抱えリネン室に飛び込む。そして空いている右腕を後ろ手に廻し、閉める音で気付かれないよう細心の注意を払って開いているか開いていないかのぎりぎりの状態までドアを閉める。

「え?ええ??」

 しかも突拍子も無い京一の行動に抗議の声を上げる龍麻を黙らせねばと、京一はキスというカタチで強引に口封じをする。

<きょ、京一ッ〜〜〜!?>

 直後、薄開きのドアの前を複数の女子生徒の足音が荒々しく通過していった。
 神妙に気配を押し殺す京一と同様、こんな恥ずかしい現場を見られては一大事と負けず劣らず気配を殺している龍麻に、彼女たちはどうやら気がつかなかったようである。

<やれやれ……危なかったぜ>

 とんだ顛末になったと京一は安堵の息にちょっぴりため息を混ぜる。

<でも…これはこれでかなり美味しいかもしれねェ>

 結果としていつも以上にぴったりと密着状態。おまけに暗闇だから互いの体温、そして鼓動までもが意識せずともやけにはっきりと伝わってくる。危難を脱した余裕から悪戯心が芽生えてきた京一は、これ幸いとキスしたまま、腰に廻していた手を徐々に下へと移動させる。

<───!?>

 身じろぎした龍麻の《氣》が一瞬で膨らんだかと思うと、そのままの姿勢で【掌底・発剄】を京一の腹部目掛けて放った。

「いい加減にしなさいッ、京一!」
「うわッ──!!」

 成す術も無く攻撃をまともに受け、後ろに吹き飛ばされた京一は、きちんと閉めていなかったドアを背に立っていたこともあり、そのままドアを押し開け廊下の壁際まで派手な音を立てて転がり出る。

「ねえ、何かあっちで怪しい物音がしたわッ」
「戻って確認しよう!!」

 こちらに取って返す足音に、京一は痛む腹部を庇いながら再び脱兎の如く逃げ出した。

「あ、緋勇さん。ここに誰か人が来なかった?」
「べ、別に…私は誰も見ていないけれど…」
「そう。それじゃ物音は聞こえなかった?」
「物音。さ、さあ…私の耳には…」

 京一と二人、こんな所で抱き合った上、キスまでしていたなんて絶対に口が裂けても言えない龍麻は、前後の理由が分からないまま結果として京一を助けてしまう発言をしていた。
 どこまでもすっとぼける龍麻に、女子生徒たちはあれは空耳だったのかと首をかしげる。

「ところで…緋勇さん、顔真っ赤よ。もしかして──」
「えッ!!」

 今度はすっとぼける術も無く、上ずった声で返事をしてしまうが、別の女子生徒からさっきお風呂に来なかったし、もしかして体調悪いのと重ねて問われたので、この際嘘も方便とそれに調子を合わせることにする。

「そ、そうなの。いやあね、山って夜は冷え込んで…」
「そうよね〜。ねえ、あたしたちも犯人追いかけてる内に湯冷めして風邪引いたらバカバカしいし、悔しいけどもう諦めようか」
「そうしましょ。それじゃお大事にね、緋勇さん」
「ええ、どうもご親切に…」

<やれやれ……危なかったわ…>

 彼女らと別れた後、龍麻は先の京一と同じ言葉を心の中で呟く。

<にしても…犯人って……一体この山では何が起こっているというの?>

 彼女らの言葉を昼間の老婆と絡めて深刻に受け止めた龍麻は、これは皆と相談するのがいいだろうと、葵たちと待ち合わせしているロビーへと向かった。

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