≪壱≫
皓々たる月の光が竹林を静謐に青褪めさせる。
「今宵の月はまた見事なものよ…」
古の隠者は『花は盛りに月は隈なきをのみ愛でるものか』と皮肉めいた言葉を残したものだが、いずれも時を前に移ろいやすきもの。ならばこそ、同じく限られた生を与えられた人々がそれらに共感するのもまた道理と、龍山は一献飲み干し終えた杯を手に呟く。
ただ一つ残念なのは──この眺めを前に共に酒を酌み交わす者がこの場に居ないことである。かつての友はそれぞれの道を歩み、今では音信も途絶えてしまっている。
理由は判っている。皆辛いのだ。
旧友の顔を見れば否応無しに思い出す、あの出来事を…。
悔恨の念は、幾度秋が巡ろうとも癒されるものではない。
だが──
時の流れは同時に新たな希望という光を育んでくれた。
龍山は、隠居同然の身の自分を訪ねてきた客人の姿を思い浮かべ、ふと顔をほころばす。在りし日の自分たちを彷彿とさせる彼らの姿は、かつて自分たちも先人たちの想いを自然と受け取ったように、想いとは着実に次代へと伝わっていくものだと実感するには充分だった。
「身に凍みる秋風すらも今宵は心地良く感じる…」
心ゆくまで涼秋の風をその身で味わっていたが、つと表情をほろ苦いものにと再び転じた。
「……お主も、この風に誘われたか…」
龍山の声に応じるように風が葉末を揺らす。
「そうか…さぞや苦しかろうよ。怨嗟の念はまだ消えぬか…。まだ常世の河を渡るには未練があるか…」
龍山は一呼吸間を置くと、よく聞くがよいと姿の見えぬ相手に切々と語りかける。
「因果の渦と宿星からは誰も逃れることは叶わぬ。たとえ、それが何者であろうと…な。それでも闘うか…」
吹き荒ぶ風は竹林を響動(どよ)めかせたが、やがて竜笛もかくやという音を一節奏で、吹き抜けていった。
その時龍山の脳裏に浮かんだのは、亡き友が残していった唯一つの忘れ形見だった。優れた卜者としての能力がそうさせたのか、それとも十七年前の苦々しい記憶がそうさせたのかは定かではないが。
「龍麻よ──。刻は近い。この東京が混沌と戦乱の闇に包まれる日は──」
ざわざわと時折空気が微かに掻き乱れる他は、しんと静まり返った場に、龍山の呟く声だけが低く流れていった。
「心せよ。その時は間近に迫っておる……」
≪弐≫
修学旅行から戻ってきた翌日の放課後、龍麻はたった一人で職員室に立っていた。
といっても以前のように一人だけで呼び出された訳でなく、
「一人とは珍しいな…。そうか、今日は合同部会の日だったか。来期の予算編成やら次期部長の選出で部活に入っているヤツらは全員会議中と。結果、帰宅部である緋勇、お前だけが呼び出しに応じられということだな」
犬神の言葉が、この状況を如実に説明していた。
「はい…」
犬神と向き合っている龍麻の方はというと、性懲りなく年に一度の合同部会までもサボろうとした京一の姿をぼんやりと思い出していた。
──いいわよ、別にサボっても。その代わり私と一緒に犬神先生の呼び出しに付き合ってくれる?
龍麻の言葉に、京一は部長としての最後の責務が待っていると言いながら教室を早足で出て行った。葵も小蒔も醍醐も、それじゃあ行ってくると龍麻に声を掛け、教室を出て行った。
各々が学園内で責任ある立場にあった者だけに、その立場からの解放を意味する今日の部会を臨むにあたってはまずは安堵の想いが強いようだった。後から徐々に空虚感がこみ上げてくるかもしれないが、それもやがてはそれぞれの将来に向けての準備その他で紛らわされていくだろう。
自分たちの身の周りに何事も起こらなければ、だが──
暗い予感に顔を曇らせた龍麻に、犬神が言葉を投げかける。
「これからは部活が無い分暇な時間も有るだろうが、くだらんことにばかり首を突っ込んでいないで、少しは自身の将来の為の勉強もしているんだろうな」
「あ…一応は…」
何とも歯切れの悪い言葉しか返せないのは、龍麻が未だ自分の卒業後の進路を見定められずにいるからだった。大学への進学希望という回答は二学期早々に学校側に提出しているが、希望大学や学部欄は一ヶ月以上経った現在も空白のままだった。
「そうか。まあそれも構わんが、学生の本分は勉強だということを忘れるなよ。ところで、緋勇。修学旅行で泊まった旅館の在る山のことだが。暴力団との癒着が発覚したレジャー開発会社が地域住民の猛反対を受け、ついに山から撤退したそうだぞ。まさかと思うが…」
この人は…一体どこまで知っているんだろうと、龍麻は微かに身震いした。
が、それは犬神への嫌悪感からではなかった。
確かに犬神は今日も含め、発言する度に自分たちの行動を咎め、冷たく突き放すような素振りを見せる。恐らく自分たちが何をしてきたのかに気付いているのは疑いようも無い。あの仁和寺での言葉を思い浮かべれば、それは明白であった。
それなのに一度たりとて自分たちの行動を邪魔したことはなかった。むしろ助けてもらっていたと言ってもいい。
だから龍麻としては、ここで犬神に嘘をつくという選択肢を選ぶ気持ちを毛頭無かった。ここに居ないみんなも自分の考えを理解してくれるだろう、そう判断し、あの夜自分たちがとった行動を、そして自分たちが見聞きした光景を簡潔にだが余す所無く話をする。
龍麻が正直にあの夜の行動を告白している間、犬神は女性の前だからと喫煙を遠慮し口寂しくなっている口元に手をあて、ただ黙って聞き入っていた。
「なるほど…な。つまり村を救う為とはいえ、業者の建設現場に勝手に入り込みヤクザ相手に大暴れか。結果的に良い方向に出たからいいものの、余りにも無責任な行動だな」
この場に京一がいたら間違いなく反発するであろう、犬神からの相変わらず容赦の無い発言だが、ひょっとするとこれが犬神流の思い遣りなのかもしれないと、龍麻は不思議と感じられてならなかった。それは犬神が意外にも明るい表情であるのがそうと錯覚させているだけなのかもしれないが…。
殊勝に詫びの言葉を口にする龍麻の目には相手に感謝する気持ちすら湛えられ、今度はそれが犬神を戸惑わせる。
「まあそのお陰で救われた人間がいたのも確かだがな…」
犬神は自分の机の上に無造作に置いていた小包を龍麻に手渡す。
「村の青年団からお前ら宛に今日届いた荷物だ」
「ありがとうございます」
丁重に荷を受け取りながら、彼らの活動が実を結んだということを一刻も早く四人にも伝えたい気持ちで、龍麻は自然と頬を緩ませた。
「あまり調子に乗って足をすくわれんようにな」
犬神はそれだけ言うと龍麻をこの場から解放し、一足先に職員室から出ようとした。
「おっと…。これは失礼、マリア先生」
「犬神先生…。それに緋勇サン…?」
マリアは怪訝そうな表情を浮かべるがそれも一瞬だけで、もう合同部会が終わったから皆が教室に戻っていると、いつものように親切に龍麻に教えてくれた。
≪参≫
マリアの言葉に違わず、3-Cの教室には京一ら四人が顔を揃えていた。
「ひーちゃん!良かった、先に帰ってなくって」
「当り前だろ。ひーちゃんが俺たちを置いて一人で先に帰るようなマネするかよ」
京一は小蒔を軽く小突く。
「全く調子の良いヤツだ。さっきまでは龍麻が戻ってこないことを一番心配していたくせに」
「そッ、それは…ひーちゃんがたった一人で犬神のヤローに呼び出されてたからだよッ」
で、どうだったと訊いてくる京一に心配無用と片目をつぶると、龍麻は手にした荷物を差し出し、犬神から聞いたその後の村の様子を四人に話した。
「それでご親切にも京都名物の生八橋を、私たちにお礼にとわざわざ送ってきてくれたのね」
「犬神先生の言う通り無謀な行為だったとは思うが、結果が吉と出て良かったな」
「えへへッ、やっぱりイイコトした後は気分は最高だよね。まさに正義の味方って感じでさ」
爽やかな笑顔を見せる葵と醍醐と小蒔らと違って、京一は一人こっそりとぼやく。
「……あの後、正座さえさせられなきゃなぁ…」
修学旅行の話題がひとしきり語られた後、葵はこれで全員揃ったし、そろそろ…と小蒔にそっと合図を送る。
「ん、どうした。今日は何か有る日なのか?」
醍醐の言葉に、葵と小蒔はやや呆れた声を上げた。
「あら、忘れてしまったの、醍醐君」
「もうッ、しょうがないな。ボクなんて一週間も前から楽しみにしてたのにさッ」
「醍醐君だけじゃなくて私にも全然見当がつかないんだけれど…」
恐る恐る訊ねる龍麻に、そうだったと小蒔はポンと手を打つ。
「ゴメン、ひーちゃんは知らないんだよね。エヘヘ、今日は花園神社で年に一度の縁日が有るんだよ。だから皆を誘って行こう、って葵と前から話してたんだネッ、だからひーちゃんも一緒に行こうよッ。ひょっとして、縁日行くのも初めてだったりして…?」
「縁日……」
突然の提案に龍麻はその言葉を無意識の内に口で反芻させた。
縁日へ行った経験なら有るには有るのだが、それは余りにも幼い時分だったので誰と一緒に行ったのかすらはっきりと覚えていない、それ位今となっては遠い記憶になっていた。
「嬉しい。すごく久しぶりなの」
素直に喜ぶ龍麻に、小蒔はボクも縁日やお祭りが大好きなんだとはしゃぐ。
「焼きそば、わたアメ、かき氷、ソースせんべいにラムネ……う〜ん楽しみだなぁ」
「よくもまあ、そこまで淀みなく食べ物の名前がずらずらと出てくるもんだ。やっぱお前の頭ん中は食い物のことだけだな」
呆れ口調でそう言う京一も、すっかり縁日に出かける気持ちに切り替えたらしく、
「それじゃ、これから皆で行こう」
いつものように意見をまとめる醍醐の言葉には大人しく従っている。
「うふふ、みんなで縁日なんて何だか楽しみね、龍麻」
玄関に向かって歩いている間も、話題は専ら縁日に関することであった。取り分け小蒔は頭の中でその様子を想像しているのだろう、すでにうっとりと頬を紅潮させている。
「うーん、わくわくするなあ。ちょっと耳を澄ませば祭囃子が聴こえてきそうだもんッ」
「本当に桜井は祭り好きだな。で、一番楽しみにしているのは何なんだ?」
「バカだな醍醐、そんなの決まってんだろッ。さっきからこいつの頭ん中にゃ食い物のコトしかねェんだって」
「別にいいだろッ。あの雰囲気の中で食べる屋台物が最高なのッ」
醍醐の肩に手を置き、わざわざ深刻ぶった顔付きまで作って答えを推測する京一に、小蒔は自説で反論した。その妙に子供じみた所作に龍麻も葵も醍醐も笑ってしまう。
「ま、確かに。その意見には俺も賛成だなッ。それに食い物の話ばっかしてたら何だか腹が減っちまったぜ。そうとなったらさっさと行っ…て…」
俄然勢いづいてきた京一が不意に口をつぐんだのは、玄関口にある人物が五人を待ち構えていたからである。
「うふふふふ〜、みんな〜今帰りなの〜?」
裏密のにこやかな笑顔を前に、京一が『今日は珍しく会わずに済んだと思ったのに』とうなだれる。
「ボクたちこれから縁日に行くんだ。ねえ、ミサちゃんも一緒に縁日行こうよッ」
ためらいなく裏密を誘う小蒔に、京一は余計なコトをとぶつくさ言いながら横目で睨みつける。醍醐は言葉こそしないが、心中は京一と同じらしいと龍麻はその表情から察した。
「うふふ〜、あたし〜が神社に行ったら〜何が起こるか分からないわよ〜」
「い、一体…何が起こるんだ…」
意味深な裏密の発言に、声を若干震わせつつも思い切って訊ねる醍醐だったが、
「恐ろしくて言えない〜」
「…………」
裏密の一層にこやかになった笑顔を前に、芽生えたばかりの勇気は急速に萎む。
「相変わらず、どこまで冗談なのか謎だよね、ミサちゃんの言葉は」
「俺は本当に恐ろしいことが起こりそうな気がするぜ…」
小蒔は裏密の言葉を冗談として軽く受け取っているが、京一は到底そうは思えないらしく、珍しく怯えた表情をつくる。
「うふふふ〜、でもあたし〜、これから出掛けるところだから〜、どっちにしろ一緒には行けないの〜。ねえ、あたし〜が何処に行くのか〜、ひーちゃんは興味ある〜?」
龍麻は、裏密がここで待ち伏せしていた様子からも、恐らくは自分たちに伝えたい重要な話が有るのだろうと推測した。にもかかわらずいつもの調子で謎めいた発言を連発しているので、膠着しかけた会話の流れに一石を投じようと、裏密に負けず劣らず相手を煙にまく発言をする。
「私は…ミサちゃんがわざわざ私たちを待っていてくれていた理由に興味が有るんだけど」
「やめとけって、聞いたら呪われるかもしれねェ〜ぞ〜」
京一は裏密の口調を物真似して自分が予想した答えを先回りして口にするが、裏密の口から漏れた言葉は京一らの予想を超えた突拍子も無いものだった。
──いずれ恒星の悪意(マシュマック)による大津波が、この東京をさながら最後の大陸(ポセイドニス)の如くに沈める日が来る
「うふふ〜、あたし〜はそれを阻止する為に〜、これから至高の民(アトランティダェー)の子孫から〜未来形の力(ヴリル)を学びに行くの〜」
固唾を呑んで聞き入る一同(中には話の内容に全く付いていけない者もいたが)を前に、裏密は忠告をする。
「でも〜それよりみんなは〜、目の前の凶刃に気をつけた方がいいかもね〜」
「凶刃…?」
思案顔の葵が咄嗟に聞き返すが、他の四人も同時に複雑な顔をつくる。前も裏密から同じような話を聞いた直後、中央公園で文字通り“狂刃”に踊らされたヒトと闘った経験が有るからだ。
「またかよ…、で、今度は一体何だっていうんだよッ」
中々答えを言わない裏密にイラついた京一が、回りくどい話はナシにしてくれといった勢いで、裏密に訊ねる。
「うふふ〜、天の宿星が教えてくれた〜。竹花(ちくか)咲き乱れる秋の宵、相見える龍と鬼〜。いずれも、その死を持ってしか〜宿星の輪廻より解き放たれざる者なれば〜。…心当たりがあるのなら〜用心と覚悟はしておいた方がいいかも〜」
最後に龍麻に意味ありげな視線を送ると、裏密は音も無く立ち去った。
「相変わらず謎の多い奴だ」
息詰まるような圧迫感からようやく解放された醍醐が、吐き出すように感慨を述べる。
「たとえ世界がどうにかなっても、ミサちゃんだけは生き残ってるような気がするな」
「そりゃ言える」
軽口を叩く元気の有る小蒔と京一を尻目に、龍麻は裏密の言葉の意味をじっと考え込んでいた。裏密の話の中に、龍麻にとってどうしても聞き逃すことの出来ないキーワードが二つ有ったから…
一つは龍と鬼。
そしてもう一つは──
不意に龍麻の肩へポンと手が置かれた。
「それじゃ、行こうぜ」
京一の笑顔に、知らずに力のこもっていた肩からふっと力が抜けていく。
「うん。そうね」
振り返って三人を視線で促すが、突然葵と小蒔は慌て始めた。
「あッ、あの、私たちちょっと…」
「そうそうッ、ボクたち実は家庭科室に用が有るんだ」
課題の宿題でも置き忘れたのかと聞き返す醍醐に、小蒔はちょっとね…と言葉を濁す。
「だから、先に三人で神社まで行っててよ。後からすぐ行くから、鳥居のところで待っててくれる?」
この前と良く似た展開に、今度は葵と小蒔が何か企んでいるに違いないと龍麻はピンときたのだが、ここはそれを素直に受け入れるべきだろうと胸の奥で即断する。
「分かったわ」
了承する龍麻に、小蒔が今日は雪乃と雛乃もお祭りの手伝いにをしに神社に来ているはずだからと付け加える。
「でね、悪いんだけど先に雪乃と雛乃に顔見せに行っておいてよ」
「あら、私たちだけで先に?小蒔たちも一緒にじゃなくて」
「いいんだよ、ボクたちは後でゆっくりと逢えるからさ。それより、ひーちゃん、楽しみにしてなよ」
「うふふ、また後でね、龍麻」
「???」
小蒔は意味深なセリフを、葵は意味有りげな微笑をそれぞれ残し、家庭科室の方へと踵(きびす)を返した。
「アイツらが何を企んでるのか知らねェけど、ここでこうしてても仕様がねェ。俺たちは一足先に花園神社に行くとすっか」
「そうだな。だが…それにしても…うむ…」
顎に手を当て何か考え込む醍醐に、どうかしたのかと既に歩き始めていた京一は振り返って声をかける。
「いや、何でもない。それじゃあ行くとしよう」
<裏密の言葉に出てきた“竹に龍に鬼”……>
その時の醍醐は、裏密の話の直後に見せていた龍麻と同じ思案顔をしていた。もっとも、心に引っ掛かった言葉は若干違っていたのだが…。
<まさかな…>
また自分の悪い癖が出ただけだと醍醐は不安にかき乱されそうになる心の内を整理すると、京一と龍麻と共に黄昏に包まれ始めた校門を出た。
≪四≫
「そういえば今日で部活動を正式に引退なのよね」
「ああ、やっと解放されたぜ」
長い間ご苦労様でしたと二人を労う龍麻の言葉に、京一は清々したと伸びをして応える。
「後は俺の知ったこっちゃねェよ」
「やれやれ、無責任な部長殿だな」
醍醐は京一の薄情な言葉に苦笑するが、京一という男が剣道部にとって欠かせない存在で、事実、彼が入部してから真神の剣道部はめきめきと実力をつけていたという経緯は熟知していた。そういう意味で彼の部長としての功績は素直に認めている。
それはかつて練習試合を見物したことの有る龍麻も同様で、対極的に真面目に部活動に精勤し、その職務を全うした醍醐を立派な部長だったと讃える気持ちとそれとは何ら矛盾することなく存在していた。
龍麻自身は部活動の経験こそ無いが、この半年、知らずに十人を超える仲間たちのリーダーとしての立場を果たしただけに、二人の、そしてこの場にいない葵と小蒔に対して、晴れて迎えた今日という区切りの日を何らかの形でお祝いしたいなとこっそり決心した。
街を歩く人々の多くが縁日の行われている花園神社に向かって流れているのもあり、さして時間もかからずに神社の入り口である鳥居に到着した。
それでも秋が深まった証か、街並みはすっかりと宵の口の心地良い闇に溶けこみ、視界には続々と老若男女を招きいれる朱の鳥居が普段以上に目に付く。その奥にはほんのりと灯がともされた灯篭と、裸電球で眩しく照らし出された屋台が参道の両脇にずらりと列を成していた。そこに祭囃子が風に乗って耳をくすぐると、三人の気持ちは否応無しに縁日へと駆り立てられていく。
最初の内は取り留めのない会話をして気を紛らわせていたが、既に高まっている縁日独特の浮き足立った雰囲気に、もうこれ以上我慢の出来なくなった京一は鳥居に背をもたれかけながら、自分たちが歩いてきた方角を睨みつけた。
「ったく、あいつら早く来ねェかな」
「まあ落ち着け、京一。せっかく二人が何か計画を立ててきたんだ。ここは乗ってやるべきだろう」
「でもちょっとだけなら…なぁ、いいだろ、ひーちゃん」
しかし龍麻は首を振って、京一の誘いをきっぱりと断る。
「ちぇッ、ひーちゃんと二人きりで屋台を周りたかったのに…」
京一が思わず本音をこぼすと、それを笑い飛ばす言葉が横から投げつけられる。
「はははッ、てめえの頭の中は相変わらずそんなコトばっかりだな」
「げげッ、お前は──」
楚々とした巫女装束をまとっても尚、持ち前の威勢の良さは微塵も損なわれていない織部雪乃が片手をあげて挨拶していた。
「よぉ、久しぶりだな」
「…そんなカッコして何やってんだよ、お前」
「何って、見りゃ分かるだろ。ここの掃除だよ、掃除」
確かに右手には、いつもの長刀に代わって竹箒がしっかりと握られていた。だが雪乃は、京一が巫女の格好をしている自分に驚いたらしいと気が付くと、悪かったなと軽くむくれる。
「どうせオレは雛乃と違ってこの格好がイタについてねェよ」
「そんなこと無いわ」
龍麻は京一を軽く小突きながら、雪乃に非礼を詫びた。
「別に龍麻が謝ることじゃないぜ。それに実際の所、オレも蓬莱寺と同じことを思ってる位だし。ただここの神主とうちのじいちゃんは茶飲み友だちだからな。神祭の手伝いと行儀作法の修練を兼ねて、この週末に雛と一緒にここの世話になってるだけなんだよ」
「中々大変なんだな、神社の家に生まれるというのは」
感心する醍醐に、慣れれば何てことは無いと笑い返す。
「それより、龍麻。小蒔から全部話は聞いてるぜ。奥でさっきから雛も待ってるし、ほらッ、早く行こうぜ」
京一と醍醐の二人には悪いがもうしばらくここで待っててくれと言い置くと、雪乃は龍麻を社務所の方へと有無を言わさず連れ去った。
「何なんだよ、ありゃ…。とうとうひーちゃんまで居なくなっちまったぜ」
しばし憮然とした表情をする京一だったが、その顔はすぐに明るくなった。
「久しぶりね」
「その声は…エリちゃんッ」
小気味良い靴音と共に現れたのは、ルポライターで、そして龍麻らの理解者であり協力者でもある天野絵莉だった。
「もしかしたらここで会えるんじゃないかと思ってたわ。でも…珍しいわね、緋勇さんたちと一緒じゃないなんて」
醍醐がここで三人と待ち合わせをしていると説明すると、天野は成る程とうなずく。
「それで蓬莱寺君は機嫌が悪そうな顔をしていたのね」
「ところで、今日は取材か何かですか」
「あらいやだわ、私にだってプライベートは有るわよ。今日は友人とのんびり縁日でも覗こうかなって」
醍醐の推測を爽やかに笑い飛ばす天野の耳に、京一がボソっと洩らした言葉が流れ込む。
「エリちゃんの友だちか…出来ることなら俺もお供したいぜ」
だったら一緒に来る?と誘う天野の言葉を、だが京一は首を左右に振って否定する。
「いや…。それはやっぱ出来ねェ…。エリちゃんの気持ちは嬉しいけどよ」
しかし天野は京一が自分の誘いを断ったことに気分を害していないようだった。それどころか、京一に悩ませるようなことを言って申し訳ないと謝る。
「…実は私も仕事が長引いて1時間も待ち合わせに遅刻してるのよ。だから二人がここで友だちを待っている姿に心打たれて思わず声を掛けたって訳」
「良いって、気にしてねェから。それよりも、そういう事情だったら早く友だちんとこに行かねェと」
「天野さんのお元気そうな様子は、俺たちから三人に伝えておきますから」
「ありがとう。それじゃ、お言葉に甘えて私はもう行くわ。くれぐれも緋勇さんたちによろしく伝えておいてね」
天野が足早に立ち去ったのと丁度入れ替わる形で、葵と小蒔が花園神社に到着した。
「お待たせッ、二人とも」
「わざわざ着替えてきたのかよ…って、おッ、美里は浴衣じゃねェかッ!」
白地に藍色の花模様を摺りこんだ浴衣を着た葵を見て、京一は驚きの声を上げる。
「ええ、小蒔に着替えを手伝ってもらったのよ」
葵の言葉に二人が遅れてきた理由は納得できたが、一方で自身は浴衣を着ていない小蒔の姿に、京一と醍醐は首をかしげる。
「だって浴衣じゃきついし、動きにくいし…」
「…確かに、食べ歩きには向かないな」
小蒔の言わんとすることを醍醐はたちどころに察知し、その通りと小蒔は照れる。
「さてと、後はひーちゃんだけだね」
「うふふ、楽しみね」
含み笑いをする小蒔と葵の様子に、京一はようやく二人の企みの全貌を掴むことが出来た。と同時に、期待感で笑いが自然と込み上げてくる。
その表情の見苦しさは、醍醐と小蒔が揃って苦言を吐く位であった。
「京一、あまりきょろきょろするなよ」
「ホ〜ント、恥ずかしいヤツ」
「う、うるせー。俺は一刻も早く見たいんだッ」
「何を?」
「それは当然、ひーちゃんのッ──」
意味も無く気合の入りまくった京一は、声の主の方に木刀を突きつけつつ振り返ったが、次の瞬間には固まってしまう。
何故なら──
そこには紫紺地に白の流水菊紋様をあしらったやや古風な印象を与える浴衣に、濃い鴇色(ときいろ)の兵児帯(へこおび)を締めた龍麻が、はにかんだ表情で立っていたからだった。
全員の注視を一身に浴び、何かおかしな所があるのかと龍麻は不安げに訊ねる。
「ううん、そんなこと無いよッ。和風美人の葵はもちろん、ひーちゃんもすごく浴衣が似合ってるよ。醍醐クンもそう思うでしょ」
「ああ。着物姿の龍麻は初めて見たが、良く似合っていると思うぞ」
「とっても素敵よ、龍麻」
三人の言葉に、ようやく龍麻もほっと表情を和らげる。
「京一もひーちゃんの浴衣姿を見て何か感想の一つでも無いの。急に黙り込んじゃって」
小蒔が背中を叩いても京一はまだ固まったままだった。
「うふふ、京一君ったら言葉も出ないぐらい感激しているみたいね」
「そうなの…?」
訝しげに見上げる龍麻の視線に、京一はようやく我に帰る。
<ひーちゃんの浴衣姿…。見るのはこれが二回目だけど…やっぱりたまンねェな〜>
「…最高に可愛いぜ、ひーちゃん」
「ありがとう、京一。そう言ってくれると、すごく嬉しい…」
満面の笑みで京一は龍麻に笑いかけると、龍麻は極上の微笑みで返した。
「よっしゃッ、それじゃ行こうぜッ!!!」
「えへへッ、楽しみだな〜、まずは何の屋台から食べ歩こう…」
京一の号令に目を期待感で輝かせて応える小蒔に、全員たまらず大笑いする。
その笑いの渦の中京一が龍麻の耳元で何か囁く。龍麻はそれに言葉ではなく、そっと京一の手を握って応える。
──浴衣美人と二人連れ立って遊び歩く。
これこそが縁日の本当の醍醐味ってヤツなんだぜ
京一の言葉は、境内から流れる祭囃子よりもずっと龍麻の気持ちを高揚させてくれた。
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