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胎動 第拾伍話其ノ伍


 ≪拾四≫

「先生ッ、龍山先生ッ!!」

 玄関から呼びかけるのももどかしく、醍醐は大股で部屋の中を巡りつつ、主の名を叫ぶ。

「おじいちゃん!!どこに居るの?」
「ジジイッ!!無事なら返事しろッ!!」

 手荒に襖を開けた京一の眼前に飛び込んだのは、龍山が竹林に浮かぶ満月を見上げる恰好で静かに座している姿だった。

「大声出さずとも、わしはここにおる」

 不機嫌そうに眉をひそめ振り返るが、たちまちに表情を和らげる。

「ほう、しばらく見んうちに、どの顔も逞しくなりおったな…」
「先生…」

 常と変わらぬのんびりとした言葉に醍醐は思わず脱力してしまう。

「あの…お怪我は」

 葵の気遣いにも、大丈夫じゃとあっさりと返す。

「それよりも、こんな形でまた会うことになろうとはの…」
「ジジイのヤツ、ピンピンしてるじゃねェか」
「これは一体」

 何の異常も見出せないのに首をかしげかける五人だったが…

「…来たわ…」

 龍麻が呟くと同時に、あたり一面を揺るがさんばかりの地鳴りがドンと突き上がった。
 そしてそれは徐々に質量を増し、近付いてくる。

「……この時を待ちわびたぞ……」
「「九角天童ッ?!!」」

 月の光も届かぬ竹林の奥から現れたのは、等々力不動で闘いを挑んだ九角天童であった。

「なぜ…」
「あの時…」

 既に変生した姿での登場に、龍麻と龍山の二人を除く四人は衝撃の余り言葉をそれ以上続けることができない。

 ──確かに龍麻が斃したはずなのに……

「お前ら、死んだはずの俺がなぜここに居るんだって言いたそうな面をしてるな。いいぜ、教えてやるさ。そうだなぁ、あの時死んだものが有るとすれば──」

 俺の中に醜く垂れ下がっていた人間の部分ってヤツだろうぜ、と九角は吐き捨てる。

「成る程…それじゃあ今のてめェは、名実共に化け物ってことかよ」

 九角は京一の言葉を鼻先であしらうと、最早四人には一瞥もくれず、龍麻の方を見据える。
 それは龍麻も全く同じで…その時二人は互いの姿しか見ていなかった。

「この俺にはもう何も残されてはいない…あるのはただ、この全身を支配する底深き怨念のみ。三百余年に渡る九角の怨念だけが今の俺を動かしている」
「…九角…」

 悲しい色を湛えた龍麻の瞳は、だが、次の九角の言葉で大きく見開かれる。

「…ククククク…。ひゆうたつま…我等とは因縁深き血を引く貴様の肉を喰らったらさぞかし柔らかくて旨かろうなぁ」
「───!?」
「てめェッ───」

 瞬時、木刀を構え突撃しようとする京一の右腕を、龍麻はとっさに両手で掴む。

「何すんだよ、ひーちゃんッ」
「彼の狙いは…私なの。だから…」

 この場は自分一人で闘うと宣言する。

「馬鹿なことを言うんじゃねェよ。変生前のアイツと闘った時だって、俺とひーちゃん二人がかりでようやく倒したんじゃねェかッ」

 ましてや変生後の九角の強さは、もはや自分たちでは太刀打ちできるレベルではなかった。
 司令官である龍麻を当初欠いていた状況にもかかわらず自分たちが何とか勝利出来たのは、忽然と現れた緋勇の巫女と名乗る少女が九角と単身渡り合い、引き付けてくれたからこそで…

「…分かっているわ…」

 でも今度は…と、龍麻は一歩前に出る。
 それが闘いの狼煙(のろし)とばかりに、九角は全身から自身の《氣》をみなぎらせた。

「さァこい、人間ども。貴様ら一人残らず、この俺が喰らい尽くしてくれるッ!!」

 九角を中心にして嵐が生まれたかのように《氣》が渦巻くと、それに圧倒される形で京一も醍醐も近づくことすら許されない。

「くッ、なんてェ《氣》だ…」
「以前闘った時より格段に強くなっている…皆、油断するなよ」

 四人がその場に立ち往生する中、龍麻だけが一歩一歩、確実に九角に近付いていく。全身から黄金色に輝く《氣》を立ち上らせながら…

「ひーちゃんッ!」
「龍麻ッ!」

 制止する仲間の声も聞こえないといった風の龍麻だったが、ただ一度だけ後ろを振り返り、今自分に出来うる精一杯の笑顔を見せた。

「大丈夫だから…」

 それは自らへの鼓舞も兼ねていたのかもしれないが…



「一人で闘う覚悟が出来たというのか…」

 せせら笑う九角の言葉に、今度は対照的に口元だけ笑みをつくる。

「ええ、遅まきながらね。それに…これこそがあなたの望みでもある。だから、あなたはここを闘いの舞台に選んだ…どう?違わないでしょう」
「…違わねェな…。だが平気なのか。今度はあの時のようにはいかねェぜ。何せ…あの時お前を護ってくれた菩薩眼の《力》はあの女の身にそっくり移っちまってるんだからな」

 あの女と九角が指し示した先には、心配そうに両手を祈るように組みながらこちらを見つめている葵が立っていた。

「しかもあの時は…結果的にあなたからも助けられたようなものだし…そう…、今まで私はいつも誰かから支えられていた。一人で闘っているつもりでも、実際は誰かが助けてくれていた…」

 龍麻は自分の背後にいる仲間たちの、そしてこの場にはいない仲間たちの顔を思い浮かべる。

「もっとも…自分は一人じゃないんだって気づいたのは、最近の話だけれどね…」

 そう呟く龍麻の目間(まなかい)に浮ぶ人の姿は…

「ふん、それに気付いたんなら、なぜあいつらの助けを借りようとはしねェんだ。第一お前が《力》を解放したところで、昔の二の舞になるだけ。今度はあそこにいる大切な仲間とやらも巻き込むかもしれねェんだぜ」
「……そうかも知れない…でも……今度はそうじゃないかも知れないでしょう?」
「ほう…こいつは驚いた。大した自信家になったんだな」

 予想外の言葉を口にする龍麻に、九角は一体どういう了見だと訊ねる。

「……《力》が暴走して誰かが傷付くかもしれないって考えると、自分の《力》を開放することにやっぱり恐れを感じる…。でも……自分の《力》を解放するのをためらうことによって、誰かが傷付くかもしれないって思うと、その方がもっと……ずっと辛いから」

 どこまでも率直に響く龍麻の答えに満足したのか、九角は上等だとうなずく。

「それじゃあ、遠慮無くお前から叩き潰してやるぜ…。忌まわしき緋勇の《力》を秘めたお前さえ斃しておけば、残りの連中の始末なぞ、造作も無い」
「…それはどうだか…。余り見くびらない方が良いわよ、人の《力》を…」

 そして想いの強さを…と龍麻が呟くと、

「…おまえこそ鬼の《力》を見くびらねェ方がいいぜ」

 そして…鬼が背負ってきた哀しみってヤツをなと、九角は唇を歪ませる。

 月が雲間からその顔(かんばせ)を現す。
 月光は白銀色の線となり、二人の間をゆっくりと切り裂いていく。




 ≪拾伍≫

「ふむ…見るが良い。いよいよ、始まるぞ、あの二人の決戦が…」

 事態の緊迫感とは裏腹に淡々とした龍山の物言いに、京一は苛立ちを募らせる。

「おい、ジジイッ、そんなのん気なこと言ってる場合じゃねェだろッ」
「うむ…だが…おぬしらでは九角に近付くことすら出来なかっただろう」

 そんな有様では、例え傍に行けたとしても所詮足手まといになるだけに過ぎんと、龍山は取り残された四人にきっぱりと言い放つ。

「「………ッ!!」」

 冷酷に響くその言葉の衝撃に、葵は睫(まつげ)を伏せ、小蒔は首を左右に振り、醍醐は拳を固く握り、京一は奥歯をぎりと音が鳴る程噛み締め何とか耐えようとする。

「……ッくしょぉ…」
「おぬしら…」

 己の無力を嘆くその姿に、龍山はある光景を重ねてしまう。

「面を上げんか。…今のわしらに出来ることは、ここで勝負を最期まで見守ること、それだけなんじゃからな」
「……辛い…ですね」
「そうよの、雄矢。だが、辛いのはわしらだけじゃなく、単身闘いに身を投じた龍麻も同様。そうではないか?」
「……龍麻と九角…さん…は、ひょっとして…十数年前の事件の決着をもつけようと考えているのかも…」
「えッ?確か…覚醒したばかりのひーちゃんが《力》を暴走させてしまったっていうあの事件の…?」

 四人はかつて龍麻が体験した幼少時の事件について思い出した。
 あれこそが全ての始まり。九角の屋敷で龍麻は初めて自身の持つ《力》に覚醒するが、その時の強い衝撃に記憶を失い、挙句に周囲の人々にも心を閉ざしがちになったのだと、かつて彼女の義母が四人を前に語った。

「……そうか…ひーちゃん…、お前ようやく自分自身ってもんを見つめようって決心をしたんだな。だったら…俺たちはそのひーちゃんから目を逸らすなんて真似なんて出来るかよ…」

<そうだ…瞬きだってしねェ位に…お前の闘いを見届けてやるッ>

 四人の強い視線を背中に感じ、龍麻は心の中で礼をする。

<ありがとう…みんな…>

 そしてためらわず一気に《氣》を高めた。



 最初に攻撃を仕掛けたのは龍麻だった。掌底・発剄を数発連続で叩き込む。

「そのような技、今のオレに通用すると思っているのかッ」

 九角は軽々とそれを自身の《氣》で弾き飛ばす。
 間隙をぬって、龍麻が九角に接近する。

「愚かな…。接近戦を挑むとは」

 等々力での闘いの時と違い、今の龍麻の手には四神甲も神剣も無かった。

「文字通り徒手空拳で何が出来る」

 丸太のように隆々と筋肉の盛り上がった腕が、空気を切り裂かんばかりの勢いで龍麻に向かって振り下ろされる。

「…ッ!」

 上体をそらし、紙一重の差でかわす。
 一呼吸後、龍麻の胸元からはらりと紅いモノが零れ落ちた──


「龍麻ッ!!」
「葵、大丈夫だよッ、アレは制服のリボンが切れただけだから」
「いや…あれはそんな生ぬるい衝撃じゃない。恐らくダメージも受けてるだろう」

 醍醐の指摘通り、胸元を押さえている龍麻の指の間から鮮血が滴り流れる。

「……風圧だけで…」

 左手の血を軽く振り落とすと、龍麻は九角との間合いを広げながら再び《氣》を整える。

「やはり遠距離から《氣》を主体にした攻撃に切り替えるべきだろうな…」
「でも…遠距離は基本的には援護的な攻撃しかできないよ」

 彼我の距離がある分、相手の攻撃は受けづらいが、当然ながら自分からの攻撃も避けられやすい。つまり一対一の勝負では不利…

「龍麻なりに何か作戦が有るんだろうが…」


「何を考えてる、緋勇…」

 九角も遠距離攻撃をすべく身構えた。

「………」

 無言のまま龍麻は拳に《氣》を蓄える。

 龍麻の放つ円空破と、九角の放つ鬼鳴念が激しくぶつかり、相殺する。

「……ッ!」

 呼吸をつく間も無く、続けざまに九角からの攻撃が襲い掛かる。龍麻が最小限の動作でかわすと、一寸前まで立っていた場所が深々とうがたれた。

「そんなモノか、お前の《力》は…」
「………」
「いや、違うな。お前はまだ全力を出せずにいるんだろう。いくらここの空間が特殊な空間とはいえ…」

 龍麻と九角の技が幾度となく空気を震わせ、絡み合い、消滅する。
 その度に竹林は怯え、ざわざわとかき乱される。


「ここには、ある結界が働いている」

 龍山は、この場の空気をまさぐるように手をひらりと動かす。

「そういえば…不思議に思っていたわ。ここの竹林」
「うん、初めて来た時はあんなに歩いたのに…」

 二度目からはさほど歩いた感覚も無く庵にまで辿り着いている。

「あれもまた結界のなせる現象じゃ」


「どうした、なぜもっと全力で攻撃を仕掛けてこない」

 丁度自身の背後に位置する龍山らの方を、九角は肩越しにちらりと見やる。

「…大方あそこにいるあいつらに類が及ぶのを恐れているからだろう」

 だから攻撃の手が自然と緩みがちになる。移動できる場所すら限定される。

「甘いな…」
「甘いのはあなたもでしょう?あなたがこの場を選んだのには理由があるはずだわ」

 こいつもとうにこの場に働く結界に気付いていたかと、九角は密かに舌打ちする。

「決まってるじゃねェか。誰にも邪魔されず互いの全力ってのをぶつけたいからだ」

 あの日、圧倒的な《力》を見せつけられた俺は…

「…いつかお前を…いや…緋勇の《力》を受け継いだお前をこの手で斃してやると誓っていた。俺たち一族はお前たち緋勇一族の形代(かたしろ)なんかじゃねェってのを証明するためになッ!!」
「形代…?」
「ふん、初めて聞いたって顔だな、そいつは…。まあいいぜ、お前が自分の《力》に目覚めりゃ、いやでも知ることになるだろう。いいからさっさと見せろッ、お前の本来の《力》ってヤツをな」

 急接近した九角の攻撃が龍麻の右肩を狙う。それを各務と称される所作でかわすと、素早く反転し左から上体を捻る形でそれまで溜めていた《氣》を一気に放出する。

「グッ、螺旋掌…か…」

 九角の全身を、龍麻の《氣》が駆け巡る。
 あとずさる格好でよろけたところへ続けざまに巫炎の炎が閃き、徐々に九角は竹林の際まで追い詰められる。

「…そろそろ…だな…」
「え…」

 それまで龍麻の攻撃に防戦一方だった九角が、ここで一気に反撃に転じる。
 間断無く降り注ぐ九角の拳を受け流しつつ、今度はじりじりと龍麻が後退していく。

「くッ…」

 龍麻は素早く目線を後ろに送る。

<このままじゃ…>

「気がついたか…だが、遅いッ」
「……!!」

 龍麻の眼前が一瞬真っ暗になる。
 身体は浮遊感を帯び、自分が吹き飛ばされたのだと認識する。

 遠のきそうになる意識…
 地面に叩きつけられた衝撃と身体中がバラバラに砕けたかのような痛みで、何とか気を失うのだけは免れた。

 もやを払うように頭を左右に振りつつ龍麻は必死に立ち上がる。

 だが…九角との距離は優に10メートル以上開いていた。
 有効な攻撃手段を欠いた龍麻を、九角の酷薄な言葉が更に追い詰める。

「緋勇…覚悟は出来たか…。このまま次に俺の技を受ければ、お前は確実に死ぬ…。だが避ければ、背後にいる仲間たちが死ぬことになる!」
「卑怯な…」
「卑怯…?違うな。どんなに正しいと思われることを振りかざしても、死んじまえばそれで仕舞いだ。自分の想いってのをとことん貫くには…闘って…勝って…生きぬくしかねェんだ。たとえどんな手段を使おうともなッ」
「違うわッ」
「だったらお前も証明してみせろッ。お前自身の《力》で!」

 九角の《氣》が今までで一番大きく膨らみ始めた──


 来るべき正面からの攻撃に備えつつ、龍麻は背後にいる仲間たちに退避するよう懇願する。

「皆、九角の言っていることは本当よッ。だから早く──」
「俺たちは最後まで逃げねェッ!!」
「…京一…?」

 声の方向を振り返る。その延長線上には、腕組みをしたままじっとこちらを見つめている京一が立っていた。

「お前が闘う姿を目を逸らさず見届ける…。何が起ころうとな、ひーちゃん」
「…ここでこれ以上私の《力》を解放すればどうなるか…私にも見当はつかないわ…。《力》を制御できずに皆を傷つけるかもしれない…」
「かまわねェよ。どのみちこのままじゃ全滅するしかねェしな。…ひーちゃん…、これが今の俺たちに出来る精一杯の闘いなんだ」

 京一の言葉に他の四人もうなずいている。

「……分ったわ。皆、見ていてくれる…。私の精一杯を…私の…本当の姿を…」

 龍麻は瞳を閉ざした。
 自分の体内で鼓動する心臓の音がやけに頭の中に響いてくる。
 それはあたかも時を刻む音のように…

 龍麻を包む空間だけが過去の情景に向かって滑り出し……止まる。


「…恐れないで…」

 ゆっくりと呼吸をする。

「…大丈夫……」

 固く握り緊めていた拳を開く。

「…さあ…今こそ目覚めなさい。私の血に宿る《力》よッ」

 瞬間、体中の細胞が新たに脈動を始める…


 ───目覚めよ───


「これで最期だッ」

 九角から放たれた《氣》の渦が龍麻を捉えようとする。
 刹那、九角の《氣》は龍麻へと吸い寄せられ、たちまちにして掻き消える。

「何ッ!?」

 龍麻の全身から黄金の光が燃え立つように溢れる。周囲の《氣》をも吸い尽くさん勢いでそれは膨張を続ける。

 全身を貫く《力》に身を委ねる龍麻の口から零れた声音。

「これで…最期よ…」

 それはかつて聞いたことも無い位、どこまでも厳かで…。


 ───目覚めよ───


 何かに操られたかのように優美な構えをとる龍麻の両の掌から光の束がほとばしり出る。白色の光はやがて、かの国の伝説の瑞鳥鳳凰が五色の羽に宿すという不滅の炎を連想させる紅蓮の炎へと変貌する。

 空を走り抜ける炎の勢いに大地が鳴動する。避ける術も無く、それは九角に襲いかかった。

 天をも焦がさんとそそり立つ火柱──
 地の底まで轟くは今際(いまわ)の叫び……

 この十数年を圧縮したかのような数秒間が二人を包む。


 それら全てが掻き消えた時、九角は地にその身を横たえていた。




 ≪拾六≫

 一陣の風が、竹林で旋律を掻き鳴らす。
 満身創痍の身体を文字通り引きずるようにして龍麻はゆっくりと九角に近付くと、九角の傍らに膝をつく。

「…天童…」

 幼い日と同じ呼びかけ方に、九角は微かに反応する。

「あの日以来だな……龍麻…」
「………」
「俺たちはようやく時を取り戻せたのか…」
「そうね…」
「だが取り戻した記憶と同時に、お前は全てを受け入れねばならなくなった…」

 俺のせいだなと身を起こしながら九角は笑うと、龍麻はやや苦味を帯びた笑顔を返す。

「ええ…直接の原因はあなたのせいね…それなのに…一人で逝ってしまうのね」
「龍麻…見てみろ」

 二人は虚空を見上げた。
 静寂さで染め上げた紺碧の夜空に、隈なき月が清々しき光を放っている。

「月───。綺麗な月じゃねェか。まるで…今の龍麻、お前みたいだな」
「え…?」
「あァ…だがもう…、よく見えやしねェ…」

 空を掴まんとする九角の手にそっと龍麻の手が重なる。

「…………」

 そして九角に何かを囁くと、龍麻の手は九角の元から力なく離れていった。


「「龍麻!!」」

 ゆっくりと地面に倒れる龍麻の姿に仲間たちは長き呪縛から解放され、一斉にその場から動き出す。

「ひーちゃんッ」

 京一が龍麻の身体を両腕に抱きかかえ、揺すぶる。

「…だい…じょ…ぶ……」

 か細く答えるが、龍麻はすぐまた意識を沈めてしまった。

「───ッ、しっかりしろッ」

 慌てて腕の中の龍麻を再び揺さぶるが、今度は意識を取り戻す気配が一向になく、京一の心にひやりとしたものが流れる。が、よく見ると全身に打撲傷を負っているとはいえ、胸元の血は既に乾き始めていて、これならば命に別状はないだろうと判断出来た。何よりも腕越しに伝わる龍麻の鼓動の穏やかさが、京一を安心させた。

 京一の表情から龍麻の無事を知り、ほっと胸を撫で下ろす醍醐と小蒔の脇をすり抜け、葵が九角の元へと単身歩み寄る。

「来るんじゃねェッ!!俺に…近寄るんじゃねェ…」

 だが葵は、このままでは…と首を振り、ためらわず前へ進もうとする。

「龍麻だって…あなたの死を望んでいる訳では…」
「どんなに華やかな祭も、いつかは終わる。人の命もそれと同じだ。それよりも俺が、俺自身の為に起こした祭は、もうとうに終わっちまったのさ、あの時鬼道衆と共に、な…」

 かつてない穏やかな口調の九角に、四人は耳目をそばだてる。

「いいか、てめェら。忘れるんじゃねェぜ、俺がこうして再び《力》を得ることが出来たかを」
「《力》を…」
「どういうことだ?」

 醍醐と京一の疑問に、九角はとうに知っているはずだと、答えをはぐらかす。

「陽(ひかり)と陰(かげ)の間に巣食う底なき欲望の渦を、そして──前世(むかし)も現世(いま)も陽と陰は同じ場で生まれたということを…」

 九角は思い返すように目を閉じる。
 文字通り修羅と化したあの男の姿を…。

 ──あの男と出会ったのも、丁度こんな月夜だった…

 その男は既に圧倒的な《力》を身に宿していた。
 しかしヤツは、求めているのは更に絶対なる《力》だと言い切った。

 その時、九角は察した。この男と、自分と、どこに居るともわからぬままの菩薩眼の女の間には宿星という横糸と、因縁という縦糸で結ばれているのだと。そしてその中心に絡まっているのが龍麻だと…。
 その龍麻がここにきてようやく己の宿星に目覚めようとしている。

 ──いや…あの男が目覚めさせようとしているから…か。いずれにせよ…


「真の恐怖はこれから始まる」
「真の──恐怖だと?」
「あァ、そうさ。この先もう、てめェらに安息の時はねェ。まァ、せいぜい──てめェらの言う、大切なもんとやらを護ってみせるがいい…」
「九角さん…身体が…」

 九角の輪郭がぼやけるのを見て、葵が悲鳴を上げる。

「フッ、とことんお人よしな女だな。お前といい、緋勇といい…」

 九角はもう一度龍麻へと視線を注ぐ。
 意識を失う直前彼女が自分に言った言葉…はっきりと聞こえなかったが、まず間違いなく詫びの言葉だろうという確信はあった。

 ──恨まれこそすれ、お前が謝る必要なんざ、これっぽっちも無いのにな…

 次第に黄昏ゆく九角の目に、その時はっきりと見えたのは…
 陽と陰、前世と現世が混在する不確かな世界に身を委ねようとしている彼女を、両腕にしっかりと抱き上げている京一の姿だった。

 ──ああ…そうだったな…

 九角の胸中を心地良い風が吹きぬける。

「…蓬莱寺…。この女…龍麻を護ってやれ」

 突然の言葉に、京一は驚きつつも、きっぱりと言い切る。

「お前に言われるまでもねェ」

 それが俺の役目だと、龍麻を抱き上げる腕に一層力を込めた。

「……良い答えだ…。これからのあいつを…龍麻を護れるのは、てめェしかいねェんだからな」
「…九角?てめェ、何を──」
「どうやら俺もここまでのようだ…」

 朧に霞んでいた九角の姿はいつしか人間の姿に戻っていた。

「俺は、遠い昔に何か──大切なもんを置き忘れてきちまったのか…」
「安心しろ、お前の大切なもんは、俺がきっちりと護ってやる」

 京一と九角の視線が交錯する。
 二人が交わした時間は僅かだったが、これ以上言葉を尽くす必要は無かった。


「さァて、俺は一足先に逝かせてもらうとするか…黄泉路の果てで待ってるぜ──」

 死に望むもうとする者とは思えぬ不敵な笑いを浮かべ、

「あばよ──」

 九角は冥界の門へと旅立った。



「九角…」
「消えちゃったね…」

 常人では信じがたい光景を今まで幾度と無く見てきた醍醐と小蒔も、九角の最期の様子に戸惑いを隠せないでいる。

「あいつ、まさか始めから──このことを俺たちに伝える為に──?」

 京一ですら、今回の九角の行動に隠された思惑の全てを理解出来た訳ではない。

「そんな…だって、アイツは悪いヤツだったじゃないかッ。アイツのせいで、たくさんの人が犠牲になって…それなのに何で──!!」

 小蒔は混乱する。
 敵である彼を認めてしまえば自分たちの今までの闘いを否定する気がして、金切り声で必死に九角を否定しようと試みる。

「でも…龍麻にとっては、血の繋がったいとこでもあるのよ…」

 葵の言葉に、小蒔は黙り込む。
 龍麻は言わずもがな、菩薩眼の女である葵にとっても、九角天童は浅からぬ関係であると気がついたからだ。

「それに…あの人だけが悪い訳じゃないわ…。何か…抗いがたい大きな力にあの人は飲み込まれてしまっただけ」

 身を震わせ葵は惜別の辞を捧げる。

「もしも──もしも刻が違えば……私たちはもっと違う出逢い方が出来たはず。あの人も…人としての安息を求めることができたはず…。こんな形で命を落とすことなどなかったはずなのに…」
「あやつは、ここへ死に場所を求めて来たのじゃよ。鬼と成り果てた身にわずかに残った人の心で」
「龍山先生…」
「最後にもう一度、龍麻と闘うのが、奴の望みだったのじゃろう。その闘いの果てで散ったならば、奴も本望じゃろうて」

 龍山の言葉に、葵は小さくうなずいた。

「大丈夫?葵…」
「ええ…ありがとう小蒔」

 ようやく見せた葵の微笑みに小蒔は安堵すると、ためらいながらも皆に自分の疑問をぶつける。

「……ねェ、何であの人はあんなコト言ったのかな?まるでボクたちを助けるみたいなコト…」
「分からねェな、そいつは…」
「うん…そうだよね」

 当事者亡き今、このような質問には誰も明確な答えを出せないだろう、いやたとえ当事者であっても…その思いは小蒔自身にも有ったので、京一の意見に素直に同意する。

 けれども、次の答えだけは絶対に正しいだろうと、その時四人は思った。

 九角は自分には何も残されていない、あるのはただ、この全身を支配する底深き怨念のみと言い放ったが、それは偽りだと…。

「…そんなもんだよね、人の心は…」

 彼の中に最後まで残っていたのは、まさしく人の心だったのだと…。


「けどよ…あいつの得た《力》ってのは一体何だったんだ?」
「もしかして、誰かがあの人を鬼の姿に…」

 葵の指摘に、京一は一度口を閉ざすが、すぐさまきっぱりと断じる。

「…これでひとつだけはっきりしたぜ。まだ何も終わっちゃいねェってことがな」
「先生…先生はご存知なのですか?一体これから何が起ころうとしているのかを…」
「…今のわしに言えるのは一つだけじゃ」

 続く龍山の言葉に四人の総身を緊張が走り抜ける。

 刻が───迫っておる
 この東京に眠る大いなる《力》が解き放たれる刻が
 そして…それを手に入れる為だけに存在している者の影がこの東京を被い尽くす刻が

 沈黙する一同の心の中を九角の言葉が木霊(こだま)の如く響き渡る。

 ──真の恐怖はこれから始まる


 その重い沈黙を真っ先に破ったのは、やはり京一だった。

「…望む所だ。今度こそきっちり決着をつけてやるぜ」

 冥界へと旅立ったあの男に届けとばかりにきっぱりと宣言する。

「蓬莱寺…ぬしという男は…」

 驚きで目を見張る龍山に、京一は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「大体俺はこそこそ影で何かをやるってヤツは昔から気に入らねェんだよ」
「そうだよね、ボクもそういうのってムカつくよ」
「うむ…。京一の言葉の全てに納得してしまっていいものかはあれだが、俺も異議は無い」
「これで…全てが終わるのだったら…」

 引きずり出して必ずぶっ飛ばしてやるという京一の言葉に、三人は自分の調子を取り戻す。

「それじゃ、じじい、すっかり遅くなっちまったから俺たちはもう帰るぜ。…何よりひーちゃんを早いとこ休ませてやりてェしな」
「うむ…くれぐれも気をつけてな」



 去りゆく客人の後ろ姿を見送りながら、龍山はひとりごちる。

「ついに…始まってしまったのじゃな……この地の未来を賭けた本当の闘いが──」

 願わくは彼らの道行きに今宵の月夜の如く優しい光が降り注がんことを…
 ──どうか共に祈ってくれ……弦麻よ…

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