蓬莱寺京梧は内藤新宿の繁華街から外れた小道を、駆けるように歩いていた。
日は既に西へと傾き始め、秋も深まり始めたこの頃はじきに黄昏(たそがれ)るだろう。
たとえ真闇に覆われようとも、ここ半年幾度と無く通った道なので迷わぬ自信はたっぷりと有るのだが、今は焦る気持ちがやや勝っている。我知らず繰り言を口にしているのが、その証だった。
<ちッ、急にくだらねェ護衛の仕事なんざ入っちまったから…>
京梧は持ち前の剣の腕っ節と胆力を見込まれ、春先からある組織の一員として名を連ねている。
その組織とは、江戸市中において多発する様々な事件を解決するべく、公儀によって隠密裏に作られた組織──龍閃組
それを束ねる人物によって選ばれた若者らは、京梧を始め、皆が皆、類稀な戦闘力を有しており、規模は小なれど、龍閃組の評価というのは概ね高い。しかも、近頃は摩訶不思議なとしか表現しようのない怪事件も多く、結果として龍閃組の出動回数は増える一方だった。
現に今日も出かけ間際に舞い込んだ突然の任務により、予定が大幅に狂わされたという訳である。
江戸に辿り着くまで風の吹くまま、気の向くままに生きてきた京梧にとって、今の生活が性に合わないのは自他共に認める所で、龍閃組に身を寄せ続けているのは自分の剣の腕を磨く絶好の場を与えられるからに他ならない──理由はただそれだけだったはずなのだが…
「おッ、ようやく見えてきたな…」
───もうじき…だ
竹林に身を隠すようにひっそりと佇む庵を視界に捉え、京梧は軽く顔をほころばせると、足取りを一層速めた。
≪壱≫
突如としてなだれ込んできた複数の靴音が、閑静な住宅街を殺伐とした空間へと変える。
「……クソッ。見失ったか!?」
「どこに隠れやがったッ。出てきやがれッ!!」
「へへへッ、かくれんぼなんて今時流行らねーぜ」
男たちは下卑た笑い声を上げながらも、視線は落ち着き無く周囲に泳がせている。ぎらつくその目は獲物を追う猟犬を連想させた。
だが目的の人影は見当たらず、苛立ちと焦りからその内の一人が地面を憎々しげに蹴り付ける。
「チッ、新宿なんかで見失ったら終わりだぜ。ここであいつらを逃がしたら、俺たちがあの人に殺されちまうっていうのによ…」
「まあ、そう焦るな。まだそう遠くへは行ってねェはずだ。何せこの辺りの地理に詳しくねェのは、あいつらも同じだからな。…こうなったら二手に分かれるぞ」
「ああ…今度こそ逃がしゃしねェぜ」
そして彼らは現れた時のように、物騒がしくこの場から立ち去った。
「………どうやら行ったみたいだよ」
周囲を警戒しつつ物陰からそっと顔を覗かせたのは、この辺りでは見慣れない制服を着ている高校生二人だった。先程の不良たちが捜していたのはこの人物と、彼の背後にいる少女であることは疑いようが無い。
「今の内にここを離れよう」
「………」
しかし少女は応えもせず、無言のまま立ちすくんだままだった。
「どうしたの?」
「…ごめんなさい…」
えッ?と目を見開く少年に、少女は自分が我が侭を言ったからと、今にも泣き出しそうな表情で詫びる。
「皆に内緒のまま二人きりで遊びに行こうなんて、私が言ったから…こんなことにあなたを巻き込んでしまって…。本当にごめんなさい……」
「謝ることなんてない。君のせいじゃないよ」
まだあどけなさの残る顔立ちとうらはらに、しっかりとした意志を滲ませた口調で少年は少女に笑いかけた。
「仕事や知らない誰かの為に、自分を犠牲になんかしちゃダメだ。君は普通の女の子なんだから」
「………」
「それに……あの時約束したろ?」
──この先、どんなことがあろうと、君は僕が護るって……
ややはにかむ少年の言葉に、少女の睫が揺らめく。
「大丈夫。きっと僕が護ってみせる。だから諦めちゃダメだ。いいね、さやかちゃん」
「……うん。ありがとう、霧島君」
さやかと呼ばれた少女はようやく微笑みを取り戻し、霧島と呼ばれた少年も、それに柔らかく微笑み返す。
折りしも、近くの高校でその日の授業の終了を告げるチャイムが鳴り響き始めた。
「こんな時間か…そろそろ行かないと…。もう少し走れるかい?」
少女がうなずくのを受けて、少年はよしッと気合を入れ、
「それじゃ、行こう」
「はいッ」
そして二人は再び走りだした──
≪弐≫
放課後の3-Cの教室では、ある人物がいつも以上に周囲の耳目を集めていた。
──珍しい…蓬莱寺が居眠りもせず生物の授業をちゃんと受けてたぜ…
──しかもまだ教科書を真剣に読んでるなんて…これは俺たちの目の錯覚か?
──あいつもこのままじゃ卒業できないって事実に、ようやく気が付いたのかもなぁ
──あ…そういや、俺、まだ生物のレポート出してなかったぜ
そんな級友らの不穏当なささやきも耳に入らぬ様子で京一が読みふけっていたのは、残念ながら上に置かれた生物の教科書ではなく、その下に隠された雑誌だった。
<やっぱ可愛いよなぁ…さやかちゃん…>
総特集という見出し通り、数ページに渡る舞園さやかのグラビア写真は中々のモノで、
<ををッ、こ、これはッ>
中でも京一の目を引いたのは、今や季節外れとしか言いようの無いが、それはそれとしてまた別の趣を感じさせる水着姿の写真だった。
<これって、多分あの時の…だよな>
今年の夏、皆で芝プールに出かけた時、偶然にも舞園さやかもそこでポスター撮影をしていた。だが龍麻と見物に行った時には既に撮影は終了、後からあの舞園さやかが来ていたという情報を伝え聞き、真剣に悔しがったのも、もう数ヶ月前…。
<そういや思い出すぜ…。あン時のひーちゃんの眩しい水着姿…>
いつの間にやらグラビアで微笑む舞園さやかの姿が、京一の妄想というフィルターを通して龍麻の姿と重なる。
<ひーちゃんもこんな風に、せくしぃポーズの一つでもサービスしてくれりゃ…>
「俺、もっと頑張れるんだけどなぁ…」
「京一…何を頑張れるっていうの?」
突然頭上から降ってきた声に慌てて振り仰ぐと、龍麻が不思議そうにじっと京一を見つめていた。
<や、やべェ…、今の俺の心の叫び、ひーちゃんに伝わってたんじゃ…>
京一の背に冷たい汗が一筋流れ落ちる。
龍麻は教科書の下からはみ出している雑誌に視線を落とすと、悲しみと怒りの微粒子を漂わせながら深々と息をついた。
「少なくとも勉強という訳は絶対無いわね、その様子じゃ…。ねえ京一、私たちと一緒に卒業する気、本当にあるの?」
「も、もちろんそれなりに頑張るつもりは充分あるぜ。この間の日曜日だってひーちゃんに勉強教えてもらったじゃねェか…」
「不真面目な生徒相手に、レポートを書かせるのは一苦労したけれどね…」
その甲斐あって、生物のレポートをきちんと提出した京一に対して、あの犬神が一瞬とはいえ動揺したのを思い出し、龍麻は堪えきれず口元に小さな笑みをにじませる。
ようやく見せたその笑顔に京一はホッとする。
「それじゃ、ひーちゃんも一緒に見るか?ほら、今をときめく現役女子高生アイドル舞園さやかちゃんの特集記事だぜ」
京一が開いたままの雑誌を龍麻に手渡すと、龍麻の関心も自然、雑誌の写真に移る。
「舞園…さやか?」
「平成の歌姫と名高い実力派の超美少女ッ。しかもまだ高1なんだぜ…」
日頃ニュース以外テレビをほとんど見ない龍麻は芸能界、取り分けアイドルについては完全にうとかったので、京一の説明に大人しく相槌を打つしかなかった。
「さやかちゃんに比べたらウチのクラスの女共なんて、ごく一部を除いて月とスッポン……いや、提灯に釣鐘──いや盆と正月──」
「ちょっと待って、それは…」
「それはどっちもメデタイだろッ。このバカッ」
異論を挟む龍麻よりも素早く、痛烈な突っ込みが小蒔の口と手から繰り出され、無様な音と共に京一は床へと倒れた。
「まったく、もう…」
「……お前なぁ、出てきていきなり殴るこたねェだろォ!!」
勢い抗議する京一だが、小蒔は別段悪びれもせず、いつものように受け流す。
「ごッめ〜ん、だって、あんまり京一がバカだからさぁ。ガマンできなくって…」
「……くッ、なんちゅー理由だ」
「けど、京一がそんなに舞園さやかのファンだったなんて、ボクちっとも知らなかったよ。まァ確かにカワイイけどさ…」
雑誌のページを繰りながら、小蒔は声を潜めて龍麻に訊ねる。
「男のコって、こういうコの方が好みだったりするのかな…?」
「そうかしら、好みというのは人それぞれだと思うわよ」
「うん…そうだね」
「第一、小蒔には小蒔にしかない魅力がいっぱい有るじゃない。私も含めて皆、ありのままの小蒔が大好きなんだから」
「…ひーちゃん……ありがと…」
照れと感謝の気持ちをない交ぜにしつつ、小蒔は龍麻に礼を言いながら、ふと頭にある想いがよぎった。
「あのさ、こんな風に感じるのって、多分ボクだけかもしれないけど、ひーちゃんとさやかちゃんって何となく…似てるよね」
「え?」
「顔立ちがどうとかって意味じゃなくて…まるでさやかちゃんの歌を聴いている時みたいに、ひーちゃんの声を聴いていると、不思議と気持ちがホッとするんだよね」
小蒔の指摘に、京一は腕組みをしつつ、成る程と感心する。
「小蒔、お前結構鋭いトコ突いてるぜッ」
「えへへッ、でしょ〜。二人とも今流行りの癒し系っていう感じで」
かく言う小蒔も実をいえば舞園さやかの歌が好きで、しょっちゅうカラオケで彼女の曲を歌っているんだと告白する。
「それだったらこの後は男同士、ひーちゃんとさやかちゃんそれぞれの魅力について、じっくりどっぷり話り合おうぜッ」
「あのねぇ、誰がッ、いつッ、男になったんだよッ」
「いいじゃねェか、男だったら細かいコト、いちいち気にすんなって。それに世紀末を控えて、世の中は癒しってヤツを求めてるんだろ。だったら学校の授業よかこっちの議論の方がよっぽど現実的かつ学術的ってもんだぜ」
小蒔の抗議を軽く聞き流す京一の背後から、やれやれと呆れ果てた声が投げかけられた。
「…全く、こいつは重症だな」
京一が振り返ると、そこには渋面の醍醐と苦笑を浮かべた葵がたたずんでいた。
「何だ、いたのかよ醍醐」
「ああ、俺も美里も口を挟むタイミングに困っていた所さ」
「うふふ、京一君はよっぽど彼女が好きなのね。でも、さやかちゃんの歌は私も好きよ。さっき小蒔も言っていたけれど、彼女の歌を聴いているとね、何だかこう……心が安らぐ気がするの」
「それって…彼女の歌声にはヒーリング効果が有るということかしら」
首をかしげる龍麻に、京一が葵の言葉を補足する。
「そんな話だったら俺も聞いたことあるぜ」
TVで彼女の歌を聴いている内に発熱していた子供の熱が下がったり、病院で彼女のCDを毎日聴いていた足の不自由な女の子が、ある日突然歩けるようになった等々…。
「へェ〜」
京一の話に、一同は目を丸くして聞き入った。
「歌によって人を癒す能力…か」
「確かに有り得ない話じゃないわ…そもそも芸能と神事とは深い関わりをもって発展してきたのだし。それに、理屈を抜きにしても、私たちにとっては充分に理解できる現象よね」
「つまりは彼女も俺たちと同じ様な《力》の持ち主かもしれんということだな」
醍醐の言葉に龍麻が同意するのと前後して、葵が口を開く。
「……本当にそうなら会って話をしてみたいわ。それに、そんな人が私たちの仲間になってくれたら、とっても心強いでしょうね」
「ええ…それはそうでしょうね…」
どこか歯切れの悪い口調の龍麻に、葵は、仲間になってくれたらというのは単に思いついたままを口にしただけだから本気にしないでと、自らの発言に慌てて訂正を加える。
「でも…自分の《力》のことで悩んでなければいいのだけれど…」
「うん、それは言える。葵もそうだったしね…。いい《力》なんだから、不安になること無いよって言ってあげたいよねッ。ひーちゃんもそう思うでしょ」
「そうね、出来ることなら…」
三人の会話を耳に、京一はほくそ笑んだ。
「…やっぱ、俺たちと彼女は運命で結ばれてたんだなぁ…」
「京一君のそのセリフ…何だかこの間の本郷さんたちを思い出すわね…」
「……………」
葵の言葉に一瞬凹むが、すぐに気持ちを立て直す。
「よしッ、そうと決まりゃ、さやかちゃんに会いに行くかッ」
「まだ何も決まって無いぞ、京一」
「そうだよ、それに会いに行く──って、どこに行くつもりだよ。さやかちゃんがどこに居るのかだってわからないのにッ」
「…………そ、それは調べりゃ…」
「仮に居場所が判ったからといって、一介の高校生がアイドルに会える可能性は極めて低いだろう」
「しかも…まさかとは思うけど、いきなり会いに行って『ボクと一緒に東京を護ろうッ』とかいうつもりな訳?」
「うッ……」
「それじゃあ、ただの変質者だな」
「それに……《力》が有るからといって闘わなくてはいけないという理由は無いもの。巻き込まれずに済むのなら、その方がいいかもしれないわ」
情け容赦の無い醍醐と小蒔の連係プレイで、京一の提案は、その現実味の乏しさが露呈され、挙句に龍麻の言葉で完全に粉砕されてしまった。
「………………はかない夢だったぜ……」
四人が注視する中、京一はがっくりとうな垂れる。
「しょうがねェ。今日の所は大人しくラーメンでも食って帰ろうぜ」
「はははッ、その提案の方がよっぽど現実的だな」
それじゃ早速行こうかと醍醐が皆に声をかけるが、葵はちょっと用事が有るから皆で先に行って欲しいと申し出る。
「犬神先生にレポートを提出するのに職員室に寄らないといけないの」
「何だ、さっきの授業の時に出さなかったのか?」
「ええ、少し見直ししたい所があったから…。それじゃ、行って来るわね」
「あッ…!」
だが、葵が教室を出てほんの間も空けず、
「私も生物のレポートで一箇所訂正したい所が有ったのを思い出したわ!ごめんなさい、後から必ず追いかけるから…」
龍麻も慌てて教室を出て行ってしまった。
≪参≫
「龍麻まで一体どうしたんだ」
よりによってあの二人がと、醍醐は首をかしげた。
「ん〜、誰かサンと違って、二人ともそれだけ勉強熱心なんだってことじゃないの?」
提出したレポートに何を書いたのか、既にきれいさっぱり忘れ果てている京一を小蒔がからかう。
「へいへい、そんじゃ勉強不熱心な俺たちはセンセー方に見つからないように、校門のトコで大人しく待ってようぜ」
そうこう言いながら玄関に向かう三人を、しかし担任のマリアが呼び止める。
「アナタたち、今、帰りなの?」
「あッ、マリアセンセー!!」
「先生も今お帰りですか?」
醍醐の問に、マリアは微かに笑う。
「そうだといいけれど…もう少しやるコトが残っているのよ」
「教師って仕事も大変だよなぁ。毎日毎日悪ガキ共のケツを引っ叩いて」
一番の悪ガキが何を言うんだと、醍醐と小蒔は揃って呆れ顔になるが、マリアは特に気を害した風は見せなかった。
「そんな風に思ってないわ。ワタシはこの仕事がとても好きよ。こんな風にアナタたちを見守っていく、この仕事がね」
さすがマリア先生と三人が一様に感心した矢先、
「ところで───」
マリアはここで真面目な顔にすっと切り替えると、今度は反対に質問をしてきた。
「この前の縁日の夜に……妙なコトがなかったかしら?」
「えッ?」
「何だよセンセー…何か有ったのか」
「…ワタシもよくは知らないのだけれど、歌舞伎町の裏の方で何か騒ぎが有ったようだから…。でも、アナタたちとは関係なかったようね」
「…あの日は結局ラーメンも食わずに帰ったぜ、俺たちは」
京一がきっぱりと言い返すので、マリアはそれ以上その事件について追及しなかった。
「アナタたちはワタシの大切な生徒だもの。危険な事件に巻き込まれて怪我でもしたら大変だわ…。そういえば緋勇サン…」
「龍麻がどうかしましたか?」
「いえ…縁日のあった翌々日の月曜日に廊下ですれ違った時、消毒薬の匂いが微かにしたから、ひょっとしてと…。もっとも、緋勇サンにもその時すぐに同じコトを訊ねたのだけれど、アナタたちと同じ様な反応しか返って来なかったし…」
「マリアせんせ…。やけにひーちゃんのこと心配するんだな」
「アラ、そんなことはないわよ。ワタシはアナタたちミンナのコトをいつも心配してるのよ。いつも……ね」
京一の探るような視線に、マリアは自分から話題を打ち切った。
「それじゃあ、気をつけて。また明日会いましょう」
マリアの姿が見えなくなるのを確認してから、小蒔はやれやれと胸をなでおろす。
「びっくりしたなァ〜。マリアセンセー、結構鋭いんだもん」
「けどよ、マリアせんせの、あの心配ぶりはちょっと普通じゃねェよな。よっぽどの心配性か、あるいは────この俺に惚れてるか……」
「どういう精神回路を辿れば、さっきの会話からそういう答えが導き出されるんだ」
「相変わらず自信過剰なヤツだなぁ」
「ったく、冗談に決まってるだろッ。…にしてもマジで鋭いな…マリアせんせ…」
「そうだな…」
「……嗅覚が。これもひょっとして犬神のヤローの影響か?」
「………………」
「………………」
その時、真神学園の校門前にはこの冬最初の木枯らしが吹き抜けたという。
「……ひーちゃんと葵…早く戻ってこないかなぁ…」
「………………同感だ…桜井」
≪四≫
龍麻が自分の前方を歩む葵の名を呼ぶと、葵は驚きを隠せない様子で振り返った。
「龍麻?どうして…」
「私もレポートの内容で犬神先生に用が有るのを思い出したから…」
「…それは嘘でしょ、龍麻」
「う…」
「龍麻ってこういう時に嘘つけない性格だから…。うふふ、さっきの話が気になったのでしょう」
葵に自分の行動の真意を易々と見抜かれて、龍麻はたちまちに降参する。
「でも、それだったら私より京一君に聞いた方が…」
その言に龍麻は首を左右に振る。
「葵…。あなたなら彼女の曲を聴いた時に何かを感じなかった?彼女の声に癒しの《力》があるということだけじゃなく…」
「そうね…。初めてCDを聴いたというのに、何故だか無性に懐かしく感じたわ…」
「……やっぱり…」
龍麻は雑誌の写真を見た瞬間、この間縁日でコスモの三人と出会った時と同様、いやそれ以上に強い何かを感じたと打ち明ける。
「…龍麻…」
「──もう職員室ね。…それじゃこの話はここまでにしておきましょうか」
「ええ…」
「犬神先生まだいらっしゃるといいけれど…」
葵と龍麻は入り口で一礼をしてから、職員室内へと足を踏み入れた。
「犬神先生───」
葵の呼びかける声に、書類とレポートが山積状態になっている机の影から、犬神が顔を覗かせた。
「ん……?美里とそれに緋勇か」
「遅くなって済みません。これ…課題のレポートです」
「あぁ。しかし、お前が期限に遅れるとは珍しいな」
葵から受け取ったレポートをざっとチェックしながら、犬神は珍しくからかうような口調で二人に訊ねる。
「おまけに、レポートの提出を済ませている緋勇まで、わざわざここに来たというのは、二人揃って今抱えてる悩み事を、教師に相談したいとでも考えたからなのか?」
「ち、違います」
「龍麻はただ一緒に付いて来てくれただけなんです」
「…そうか…ならばいい。マリア先生もそうだが、裏密もお前らのことを気に掛けてたからな」
声を揃えて否定する二人に、犬神はいつものそっけない様子に戻ると、低く呟いた。
──確かにあれ以来《氣》が変わってきているようだ
「……?」
「いや…お前らの年頃は何かと悩みが多かろうし、たとえ色恋に溺れようが何だろうが、そんなのは俺の知ったことじゃない。だが、人の心は移ろい易い。愛などというものが、永遠に不変なものだとは考えない方がいい。精々、肝に命じておくことだ」
「……………」
「それと、裏密が言うには、お前らの背後に八ツ首の大蛇が視えるそうだ」
「大蛇…ですか…」
「それ以上は何も聞かなかったが、蛇は猫と並んで霊力の強い動物だからな。祟られたり憑かれたりしないよう、気を付けるんだな…」
「はい…」
「犬神先生、一体何をおっしゃりたかったのかしら…」
職員室を出て即、葵は傍らの龍麻に、たった今生まれたばかりの疑問を投げかける。
「龍麻は犬神先生の言葉の意味、理解出来た?」
「…よく判らなかったわ…」
龍麻は首をすくめて笑うが、その笑顔はややぎこちなかった。
「けれども今までが今までだけに、ミサちゃんの言葉を冗談として片付ける訳にはいかないでしょうね…」
近々何か事件が起こるのだろう…と、口にせずとも同じ想いが二人の間に浮んだ。
「おッ、来た来た────ッ」
校門前で龍麻たちを待ち構えていた京一は、そんな二人の様子に不審を抱く。
「どうした二人とも浮かない顔して…まさか犬神に説教をくらったとか?」
「京一じゃあるまいし、そんな訳ないじゃん…でも…」
マリア先生に縁日の夜のことを訊かれて、こっちはちょっと冷や汗モノだったんだと、小蒔が二人に報告した。
「犬神センセーも中々鋭いトコあるからさ…。ねッ、大丈夫だった?ひーちゃん」
「私たちの方は…あの日の話は出なかったわ。それより遅くなってごめんなさい」
「いいって。ひーちゃんに待たされるのにゃもう慣れっこだからな」
「京一…」
先だっての夜の出来事を仄めかす京一の言葉に、龍麻はたちまち頬を赤らめるが、耳の奥で甦る犬神の言葉がその熱を瞬時に奪い去る。
──人の心は移ろい易い…
───愛などというものが、永遠に不変なものだとは考えない方がいい
<そんなことは……>
打ち消そうと試みる唇がその時紡げたのは、だが──
ため息、ただそれだけだった。
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