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魔獣行〜前編 第拾六話其ノ四

「済まねェな、今回も手がかりは掴めなかったぜ」

 庭先でたつきに出迎えられた京梧は、開口一番、たつきの兄について毎度の如く、さしたる情報が得られなかったことを詫びる。たつきは柳眉を曇らせるが、それも束の間で、わざわざ足を運んでくれたことへ丁重な礼をした。

「代わりといっちゃアレだけどよ、今日もとっときの話をしてやるぜ」
「それは、楽しみですわ…」

 にっこり笑うと、たつきは快く庵内に招き入れた。


「相変わらず…今日もあいつは留守なんだな」

 既に火の熾(おこ)された囲炉裏端に、京梧とたつきは斜向(はすむ)かいに腰を下ろす。

「ええ、お忙しい方でいらっしゃいますから…。殊に最近は…」

 でも、度々使いの者は遣して下さるし、自分の身の回りを世話してくれる者も通ってくれるので、ここの生活に何も不自由は感じていないと微笑みながら、手ずから茶を煎れる。その所作は目が見えぬ者とは思えぬ位流れるようで、確かに彼女の言う通りなのだろうと、京梧は軽くうなずいた。

 が、手渡された茶で渇ききった喉を潤す京梧の耳に、熾火(おきび)の爆ぜる音がやけに響く。

<ここは…いつもこんなに静かなのか>

 そう気づけば、家中の何もかもが京梧の次の言葉を待ち構えているように、しんと静まり返っている。

 だからかもしれない。
 いつもだったら、自分から積極的に口を開くのだが──

「……京梧様…?」

 たつきが長い沈黙をいぶかって、彼の名を呼ぶ。

「…そうだな……たつき、今日はあんたから何か話してくれねェか?」
「え…、でも…」

 突然の申し入れに、たつきはとまどう。

「私は…京梧様と違って、日々ここでひっそりと暮らしているだけですから…。お話するような面白いことなど皆目御座いませんわ。それに…、取っておきのお話をして下さるのと、先程おっしゃられていたではありませんか…」

 言外に、京梧の話に対する期待感を滲ませて…。

「ああ、確かにあれは滅多に無い経験だったぜ」

 それでも京梧は、たつきの話が面白かったら自分も話をすると、敢えて勿体をつけた。

「………」
「ん〜。何でもいいんだけどよ」
「………困りましたわ」
「そうだ、初めて逢った時してくれたような、あんな話だったら得意だろ?」
「このような話、面白いと京梧様が思って下さるなどとは、到底思えませんけれど……」

 そう前置きすると、たつきは静かに語り始めた。
 古い、古い、神々の物語を───




 ≪拾弐≫

 昨日同様、放課後の3-Cはちょっとした騒動に包まれていた。
 というのも、隣のクラスの遠野杏子が、帰り支度をしている龍麻の元に一直線に詰め寄ると、

「ちょっと────龍麻ったら、水臭いじゃないのッ!!」

 昨日、舞園さやかと歩いていたのは本当かと、突然、問いただし始めたからだった。

「それは本当だけれど…」
「だったら、何ですぐにあたしに知らせてくれなかったの?そんな美味しいネタ、手に入れようったって、滅多に手に入れられるもんじゃないのよ」
「…………………」

 ネタにされる舞園を思えばこそ、昨日のことは隠密裏にしたかったのだし、第一、その時点の自分はアン子のことを全く失念していた訳で…。弱り果てた龍麻は、非難がましい目でこちらを見るアン子を前に、彼女の情報収集術の巧みさ・迅速さに内心舌を巻きながらも、曖昧な表情を浮かべるしかなかった。

「ふう。いつにも増してお早い登場だね…」
「ちッ、もうちょっと黙っておこうと思ってたのによ」

 遠巻きに小蒔と京一がボソリと呟くのを耳聡く聞きつけると、キッと鋭い視線で声の主らを睨み返す。

「何ですってェ〜ッ!!揃いも揃ってあたしに隠しておこうだなんて、何て酷い人たちなのッ」

 声高に自分たちをなじり始めるアン子に対し、それは悪かったと素直に謝った上で、とにかく少し落ち着けと、醍醐がなだめにかかる。

「龍麻だって、突然そんな勢いで言われたらびっくりするだろう」
「分かってる、分かってるわよッ。でもッ、でもッ───、とにかく血が騒ぐのよ。誰かあたしに早くネタを頂戴」

 けれども、身をよじらせて自分の窮状を訴えるその姿に、最早自分の手には負えないと醍醐はさじを投げた。

「まるで何かの禁断症状みてェだな」
「記者魂、おそるべしッてカンジ…」
「最近平和な日が続いているから、アン子ちゃん、欲求不満なのよね」
「そうなのよ、美里ちゃん。鬼道衆の件もキレイさっぱり片付いちゃったし…。ああ、早く新たな脅威が現れないかしら〜。うんと凶悪で、う〜んと強烈なヤツ!!」

「「…………………」」

「何よ、皆して黙り込んじゃって〜。龍麻だって本当はそう思ってるんでしょ?」
「………そうね、早く現れるといいわね」

 小さく、だがはっきりと龍麻はうなずいた。

<そう…一刻も早く現れればいい……>

 ───心の奥でくすぶる不安感は、いつか我が身を焦がしてしまうだろう。
 だからその前に…

「でしょでしょッ!?血湧き肉踊る、興奮の連続──。これぞ青春よねェ」

 アン子は教室中に響き渡る歓声を上げ、がしっと龍麻の両手を握りしめた。

「ふふッ、やっぱりあたしたち、気が合うわねッ。こんな惰性で続く毎日なんて、まっぴらゴメンよ。あたしの真の居場所は、激動に揺れる歴史の直中なのよッ」
「ったく、相変わらず無茶苦茶言いやがるぜ」

 そんな厄介なもんが出てきたとして、誰がそいつを相手にすると思ってるんだと、京一に面と向かって問われれば、アン子は『それはアンタたち』と澄まして答え、

「そしてそれを記事にするのは、あたし───。見て御覧なさい、この立派な需要と供給の構図を。ああもうッ、この際、ミサちゃんに頼んで、邪悪な化け物でも召喚してもらおうかしら」
「…仕様の無い奴だな」

 醍醐は天を仰ぎ深くため息をつくが、しかし思い直したようにアン子の方を再び見据える。

「遠野、そんなに暇なら、一つ頼みたいことが有るんだが」
「えッ…?」
「うむ、文京・中野辺りで最近何か妙なことが無かったか、少し調べてみてくれないか?」
「文京・中野…つまりは豊島区を挟んだその辺りね」

 アン子は手際よくメモ帳に書き留めながら、にたりと笑いを浮かべ、

「ふッ、ふッ、ふッ。これこれ、この感じよッ。いいわ〜ッ、事件の匂いがする…」

 来週には調査結果を報告すると力強く請け負うと、

「ハイッ!!」

 五人の前にさっと手のひらを出した。

「アン子ちゃん、その手は………?」
「だから、事件の調査料────」
「お前は〜ッ。せっかくヒマつぶしのネタを提供してやったんだッ!それで満足しろッ!!」

 思わず怒声を上げる京一に、アン子はふてくされた顔をしながら、空振りに終わった右手をひらひらと仰ぐ。

「わかったわよッ。その代わり、これが終わったら絶対に舞園さやかを紹介してよね」

 アン子の提示した条件を、五人は相談の上受け入れることに決めた。その際、約1名から強硬な反対意見が飛び出したが、それは多数決の原理とやらであっさりと退けられてしまう。

「これで商談成立ね。それじゃ、あたしの調査結果を楽しみに待ってなさい」

 じゃあねと五人に別れを告げると、アン子は意気揚々と教室を出て行った。


「あいつ…踊りながら出ていったな…」
「うん……よっぽどヒマだったんだね」

 嵐が通り過ぎた後の、やや脱力した空気に包まれながら、京一と小蒔が言葉を漏らす。

「でも…アン子はああして事件を追っかけてる時が、一番アン子らしいや。ひーちゃんだってそう思うでしょ?」
「そうね、瞳が生き生きしていて…。ああいう時のアン子は一際輝いて見えるわね」
「うんッ、やっぱり人間、好きなことをしている時が、一番ステキだよね」
「まあ、何にせよ、遠野がやる気になってくれてよかった。帯脇のことも…何か分かるといいがな」
「ああ、ま、そいつは、アン子の情報収集に期待しようぜ。こればっかりは、アイツに任しておくしかねェしな」

 それもそうだと四人は賛同すると、アン子に続く形で彼らも教室から姿を消した。




 ≪拾参≫

「神話には数々の英雄が登場しますけれど…。その筆頭に掲げられるのが須佐之男命でしょうか」
「ああ、名前ぐらいなら、俺でも知ってるぜ。それと確か、アマテラスっていう女神さんと姉弟なんだろ」

 京梧の物言いに、たつきはくすっと笑うと、古事記の一節を諳(そら)んじる。

 左の御目を洗いたまふ時に成りませる神の名は、天照大御神【あまてらすおおみかみ】。次に右の御目を洗いたまふ時に成りませる神の名は、月読命【つくよみのみこと】。次に御鼻を洗いたまふ時に成りませる神の名は、建速須佐之男命【たけはやすさのおのみこと】

「…目や鼻から…か?」

 半ば呆れたような京梧の呟きを耳にし、たつきはそこで言葉を一旦止めた。

「伊邪那岐命【いざなぎのみこと】が、亡き妻の伊邪那美命【いざなみのみこと】を求め黄泉の国を訪れた後、彼の地での穢(けが)れを祓(はら)う為に、川で禊(みそぎ)をなされたのです。その際、様々な神が生まれたのですが、その最後に生まれたのがこの三人の神なのです…」

「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三柱の貴子(うづみこ)を得たり」

「伊邪那岐命は大いに喜ぶと、首にかけていた首飾りを天照大御神に授け、彼女には太陽神として高天原(たかまがはら)を、月読には夜の世界を、そして須佐之男には海原を治めよと、それぞれお命じになられました」

 言葉に従い姉と兄は各々与えられた世界を治める中、何故か須佐之男だけは一向に旅立とうとせず、ただ泣きわめいているだけであった。とはいうものの、須佐之男は風を司る神でもあるので、その影響で山は枯れ、海原はすっかり干上がってしまう。

 業を煮やした父神が、どうして自分の与えられた国に行かず、ここで泣いてばかりいるのかと問えば、今度はへそを曲げ「私は母がいる黄泉国に行きたい」と答える始末。その言葉についに堪忍袋の緒が切れた父神は、この国から出て行けと烈火のごとく怒り、追い出してしまった。
 須佐之男は悪びれる風も無く、ならば旅立つ前に別れの挨拶をしようと、殊勝にも姉の居る高天原へと赴く。

 だが、そんな想いとは裏腹に、突然の彼の高天原訪問は新たな騒動を、そして悲劇を招くのであった…。



「それにしても…」

 校門前で別れ際、ふと京一が昨日の話を四人に振る。

「ラーメン屋のオヤジも、ちゃっかりサインもらってたな」

 その時の様子を思い出して、葵と小蒔が微笑む。

「今頃お店で大切に飾ってるんじゃないかしら」
「いつもボクたちが行くお店が『舞園さやかが来た店!!』な〜んてテレビや雑誌で紹介されて有名になっちゃったりして」
「でも、そうなったら、今度からは…」

 自分たちも気軽に行けなくなるかも、と龍麻が苦笑する。

「ああ、特にさやかちゃんを連れては、な。アイドル ってのも、ちょっとかわいそうだよな…」
「うむ。プライベートが無いっていうしな。気を遣わずに、また遊びに来てくれればいいんだが」

 醍醐の言葉に四人が黙って頷く頃合には、学校前の坂を下りきっていた。

「それじゃ、そろそろ───」

 いつものように別れを告げる小蒔の言葉に、遠くから耳馴染みのある声が重なった。

「ダーリン!待って〜!!」
「あれ?高見沢サンだ」
「あんなに慌てて…何かあったのかしら?」

 こちらに向かって駆け込んでくる高見沢の様子に良からぬ予感を感じて、龍麻は眉をひそめる。

 かれここに速須佐之男命、言(もう)したまはく、「然(しか)らば天照大御神にまをして罷(まか)りなむ」と言して、すなはち天にまゐ上りたまふ時、山川悉(ことごと)に動(とよ)み、国土皆震(ゆ)りき。
 ここに天照大御神聞き驚かして、詔(の)りたまはく「我が汝兄(なせ)の命の上り来ます由(ゆえ)は、かならず善(うるわ)しき心ならじ。我が国を奪はむとおもほさくのみ」

「よかった、間に合ったのね〜。みんなもう、帰っちゃったかと思った〜ッ」

 肩で息をしながらも、高見沢は五人に追いついた安堵感から満面の笑みを浮かべた。

「もしかして、病院からここまでずっと走ってきたの?」
「そんなに急いで……一体どうしたの?高見沢さん」

 しかし、小蒔と葵が口を揃えて、ここまで来た理由を訊ねると、その表情を悲愴なものへと一変させた。

「たッ、大変なの〜ッ!みんなもボーッとしてる場合じゃないのよ〜ッ!!とにかくもう、大変で大変で、大変大変大変大変…」
「…ヘンタイ?」
「違う〜ッ!」

 同じ単語をのべつ幕なしに並び立てる高見沢だったが、京一の突っ込みに即座に訂正を入れる冷静さは、まだ持ち合わせていたらしい。ともあれ、頬をふくらませると、今度は龍麻を名指して訴える。

「もうッ、ダーリンはわたしの話、聞いてくれてるの〜ッ!?」
「…舞子。私たちはここに居るし、ちゃんと話も聞くから。まずはゆっくりと深呼吸して、ね」

 不機嫌な子供を宥めるようにゆっくりと噛んで含める口調で語りかければ、みるみる高見沢の瞳からは涙が溢れ、龍麻に抱きつき激しく泣き出した。

「う……、うわあああん、ダーリン〜ッ」

 こうなると、いよいよ龍麻は幼子にそうするよう、その背をぽんぽんと叩いてあやすしかない。

「本当に…何か怖いことでもあったの?」
「違うの〜あのね…」

 瞳を潤ませながら高見沢が来訪した理由をようやく口にすると、一同に衝撃が走った。


「えッ、霧島クンが……?」
「桜ヶ丘病院に運び込まれたっていうのね、高見沢さん」
「そうなの〜。何かに襲われたみたいで、とにかくヒドイ怪我なの〜ッ!!」

 高見沢は、担ぎ込まれた時の様子をつぶさに語る。

「霧島が襲われた…だと、まさか───!!」。
「帯脇の仕業…か……?」
「恐らくはその可能性が一番高いでしょうね…。それで、舞子、霧島君の容態はどうなの?」
「…集中治療室に入ったままで…意識も無いの…」

 携帯していた学生証から、本人の名前はすぐに判明したんだけれど、と説明を付け加える。

「そんなに酷い状態なのね…。でも何故、私たちが霧島君と知り合いだってことが判ったの?」
「それは…あのね…」

 いつになく真摯な眼差しで、高見沢がある一人の人物を見つめた。

「うわごとで…さやかって人と、京一くんの名前を呼んでいたから」
「────!!」
「院長先生が、万一のこともあるかもしれないから、呼んで来いって…」

 京一の顔が一瞬蒼白になる。
 傍らに立つ龍麻には、京一が唇をかみ締める音が聞こえたような、そんな気さえした。

「わざわざ知らせに来てくれてすまんな」

 醍醐は高見沢の労をねぎらうと、

「───京一」
「ああ…わかってる。取りあえず、病院へ行くぞッ」




 ≪拾四≫

「物々しい様子で高天原にやって来る須佐之男を恐れた天照大御神は、男性のように髪を角髪(みずら)に結い、その御髪や御手には、大きな勾玉をたくさん集めて長い緒(お)で一つに貫き連ねたもの…即ち八尺瓊(やさかに)の勾玉を捲(ま)き、そして背には千入(ちのり)と申しますから、千本の矢が入った靱(ゆき)を負い、凛々しく武装した姿で弟神を待ち受けられました」
「…なんか、俺の身近にも似たようなヤツが…。ま、アイツの場合は飾りモンなんかつけるような女らしさすら、はなから持ち合わせてねェけどな」

 京梧は龍閃組の仲間の一人である弓使いの少女の姿と、そして日々他愛も無く繰り広げられる口げんかの数々を思い浮かべて苦笑する。

「…京梧様。確かに玉というのは、それ自体の持つ美しさから装飾品として珍重されますけれど、古代においては、それ以上に呪術品としての役割が強いそうですわ。玉は霊魂(たま)という言葉に置き換えられるように、邪を祓う力があると…。そして時には命を司る《力》も有ると、そう信じられていたのです」

 それは、警戒心を露に来訪の真意をきっと問いただす天照大御神に対し、須佐之男が邪心が無いことを証明してみせる次の場面において、勾玉の持つ霊力がはっきりと描かれている。

「然(しか)らば汝(みまし)の心の清明(あか)きはいかにして知らむ」
「おのもおのも誓ひて子生まむ」

 須佐之男の提案を天照大御神は受け入れ、そして二神は天の河を挟んで向かい合った。

 始めに、天照大御神が須佐之男の佩(は)いている十拳(とつか)の剣を受け取ると、三つに打ち折る。女神はそれらを水でさやさやと清めると、よくよく噛み砕き大気中に吹き飛ばす。すると、その息吹からは三柱の女神(宗像【むなかた】三女神)が誕生した。

 次いで、須佐之男が天照大御神の捲いている八尺瓊の勾玉を受け取ると、姉神と同じ所作を繰り替えす。すると、その息吹からは五柱の男神(その筆頭は、後に天孫降臨の主役を演じる瓊瓊杵尊【ににぎのみこと】の父である天忍穂耳命【あめのおしほみみのみこと】)が誕生した。

 各々の所持した物から生まれた神を我が子となした上で、須佐之男はこう誇らかに姉神に言い放つ。

「我が心清明(あか)ければ我が生める子手弱女(たおやめ)を得つ。これに因りて言はば、おのづから我勝ちぬ」

「これが、いわゆる誓約(うけい)と呼ばれる場面ですわ」
「…………………」
「…あの…。どうなさいました?」
「いや…何でもねェ…。それより話を続けてくれ…」
「はい…。こうして身の潔白を証明できた須佐之男は、高天原に迎え入れられる訳ですが、その勝利に酔いしれる内に、傍若無人な振る舞いを繰り返すようになります…」

 天照大御神の営田(みつくだ)の畦(あぜ)を壊したり溝を埋めたり、はたまた、お食事を召し上がる御殿に汚物を撒(ま)き散らしたり…。けれども、天照大御神はそんな弟を咎(とが)めず、「汚物を撒き散らしたのは、酒に酔った勢いで…。田を壊したのは、すこしでもその土地を広く使いたいと思ったからでしょう」と弁護する。
 天上界の最高神が庇い立てする以上、他の神々は非難することもままならず、須佐之男の乱暴は日々その度を増していくばかりであった。

 そんな或る日。
 須佐之男命が、天照大御神の忌服屋(いみはたや)(神に供える衣服を作る、神聖な機織場)の天井に穴を開け、逆剥(さかは)ぎにした斑馬(ふちこま)の皮を投げ込み、その結果、気が動転した織女(おりめ)の一人が自害するという、おぞましい事件が起こった。

 織女たちに指示を与える為、偶然その場に居合わせた天照大御神は、弟の凶行を目の当たりにし、その衝撃の余り──ついに天の岩屋戸の中に籠もってしまう。

「…女神が隠れたのは、弟神に対する怒りからとも、恐れからとも伝えられていますが、むしろ私は……この時、彼女はこの世の全てに絶望したのではないか…と…」
「…絶望…?」

 京梧の反芻する言葉を、たつきは微笑みで滲ませる。

「…ともあれ、日の女神が隠れた訳ですから…」

 世界は完全に闇に閉ざされ、そして、あらゆる災いが世界を襲った───と
 古き神々の書はそう伝えている───



 五人と、そして高見沢が桜ヶ丘に駆けつけた時、その場は明らかに異様な雰囲気に包まれていた。

「院長先生〜〜ッ!みんなを連れて来ましたよ〜〜!!」

 高見沢の声が、静まり返ったロビーで妙に木霊する。いつもならばこの段階で、五月蝿いよと毒づきながらも、岩山はその威容に満ちた姿を現してくれるのであったが…。

「あれ?院長センセーは?」
「くそッ、それより霧島は……霧島は無事なんだろうなッ」

 ぴっちりと無反応に閉ざされた診療室の扉の列を前に、不安感だけが一層煽(あお)られる。

 ここに高天の原皆暗く、葦原の中つ国悉(ことごと)に闇し。これに因りて、常夜(とこよ)往く。ここに万(よろず)の神の声(おとなひ)は、さ蝿(ばえ)なす満ち、万の妖(わざわい)悉に発(おこ)りき

「おっかしいな〜。何だかヘンなカンジがする〜」

 高見沢は首を傾げた直後、葵がその身を強張らせた。

「───!!」
「葵、どうかしたの?」
「……何か…来るわ…」
「何かって…?」

 一体どうなっているんだと、醍醐も首をひねる。

「分からないわ。でも…」

 天照大御神怪しとおもほして、天の岩屋戸を細(ほそめ)に開きて内より告(の)りたまはく

「…来る────!!」

 龍麻が低く呟くと同時にバタンと扉が開き、

「お前たちッ───!?早く逃げるんだよッ」

 声高に叫ぶ岩山の声が、不気味に静まり返った病院内に響き渡る。
 だが、龍麻だけは何故か、その場で身じろぎをせず、向かってくる「何か」と対峙した。

「緋勇ッ!!」
「ひーちゃんッ────!!」

『我の邪魔を…我の邪魔をするものはァァ…』

「それ」は奇声と共に姿を「あるモノ」へと変化させ、龍麻に襲い掛からんと一気に詰め寄る。

 だがその時、

 かれ天照大御神の出でます時に高天の原と葦原の中つ国とおのづから照り明かりき───

『───!!何だ………この《氣》はァァァ!!』

 龍麻の身を護るように、黄金色に輝く光がその身から溢れ出でる。
 その光を前に、「かのモノ」は苦しみ悶えると、

     ───ウ……ツ……ワ………?

「え…!?」

 龍麻が問い返す間もなく、つんざく雄叫びを一つ上げ、たちまちかき失せてしまった。


「今の…は…蛇の霊…?」
「ひーちゃん、大丈夫か?」

 我が身をすりぬけた波動は完全に凪いでいなかったが、気遣う仲間たちには大丈夫と応える。

「お前たち──。どうやら、全員無事のようだな」
「岩山先生…。一体、今のは何だったんですか」

 葵が単刀直入に訊ねると、岩山は殊更重々しく身体を揺すった。

「うむ。どうやら、あの霧島という少年に取り憑いていた思念のようだ」

 岩山が話に上らせた霧島という単語に、そうだと京一が叫ぶ。

「霧島は…、アイツは無事なんだろうなッ!」
「京一、誰に向かってモノを言っておる。このわしが、あんな可愛い少年を死なせる訳が無いだろう?」

 ゆったりと笑うその姿は、緊張感で凝り固まっていた全員の気持ちをほっとくつろがせ、

「それじゃあ、あいつは…」
「ああ、何とか一命は取り留めた。後は意識が戻るのを待つだけだ」

 力強いその言葉で、ロビーに明るい歓声が広がった。

「さっすが〜、院長先生〜ッ!!」
「良かったぁ〜…」
「…本当に良かったわ。ね、龍麻」
「ええ…でも…」

 まだ意識が戻っていないという事実に、龍麻が表情を曇らせる。

「そう案ずるな。少年の心身を侵していた悪しき思念は取り払った。今は清廉な氣で満たした結界内で眠っておる。まあ、二、三日で意識が戻れば、もう心配はいらんだろう」
「そうですか。舞子から酷い様子だって聞いていたから…後遺症とかも心配だったんで…」
「そうなの〜、あの人が重体の彼をココへ運び込んで来た時には、もうどうなることかと思って、ヒヤッとしちゃったけどね〜」
「あの人…?」

 霧島をここまで運んだのは一体誰なのか、岩山は、おかしな奴だが、中々自分好みの好青年だったと、含み笑いをする。

「いえ、そういうことじゃなくて…何か、身体的な特徴は無いんですか?」

 それに対しては、直に接した高見沢が代わって説明した。
 といっても、学生服だったとか、髪はあまり長くなかったとか、いずれも平々凡々というべき特徴で、一同をがっかりさせる。

「あ、そうだ〜、袋に入れた刀みたいなのを持ってたの〜ッ」

 これはかなり特徴的だよね〜、と高見沢が得意がるが、その三つの条件全てが当てはまる人物は既に彼女の目の前に一人居た。

「待てよ、それって、まるっきり俺じゃねェか」
「あ、そっか〜。あの時誰かに似てるな〜って思ったら、京一くんに雰囲気が似ていたのね〜」
「うむ、そう言われれば、そうかもしれん。名も名乗らずにさっさと行ってしまったが、妙な関西弁を話す青年だった。それと、どうも…日本人ではないようだったな」
「…身体的な特徴より、重体の霧島君を、迷わずここに連れ込んだという行動こそが、一番その人を特徴付けるかもしれないわね」

 なぜならば、桜ヶ丘病院は表向きにはごく普通の産婦人科として運営されている以上、普通の感覚ではまずここに怪我を負った男性を運び込もうとは思わないだろう。にもかかわらず、この病院を選んだのは、

「つまり…この病院のコトを知っていたのかなぁ、その人」

 すなわち、霊的治療において、日本で右に出る者の無い腕を持つ岩山たか子が院長を務ているという、この病院のもう一つの顔を…。それは、その人物が、霧島の怪我が尋常の理由から負ったものではないということに気づいていたこともひいては意味する筈だった。

「かもな。けど、そいつのおかげで霧島は助かったんだ。捜して…礼を言わなきゃな…」
「そうね…」
「けど、その前に───」

 京一は自分の拳を握り締め、声高に宣言する。

「あの帯脇ってふざけたヤローだけは絶対に許さねェッ!俺がこの手できっちりカタをつけてやるぜッ!!」
「京一…」

 京一の双眸に揺らめく荒々しい炎を前に、龍麻は掛けるべき言葉を見失う。

「…お前たち、少年を襲った奴のことを知っているのかい?」

 そんな、今にも飛び出していきそうな勢いの京一を押しとどめたのは、岩山だった。

「はい、恐らくですが間違いはないと思います」
「ふむ、ならば今少しわしの話を聞け。その帯脇という男、少々気にかかるんでな───」

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