かれ避追(やらは)えて、出雲の国の肥の河上、名は鳥髪といふ地(ところ)に降(あも)りましき。
「高天原の神々によって様々な罰を負わされた挙句、下界へと追放された須佐之男命は、今は斐伊川と呼ばれている川の上流付近を、当てどころ無くとぼとぼと歩かれました。しかし…」
この時に、箸その河ゆ流れ下りき。ここに須佐之男命、その河上に人ありとおもほして、まぎ上り往でまししかば、老夫(おきな)と老女(おみな)と二人ありて、童女(をとめ)を中に置きて泣く。
ここに『汝たちは誰そ』と問ひ賜ひき。かれその老夫、答へて言(まを)さく。
『僕(あ)は国つ神大山津見【おおやまつみ】の神の子なり。僕が名は足名稚【あしなづち】といひ、妻が名は手名稚【てなづち】といひ、女(むすめ)が名は櫛名田比売【くしなだひめ】と謂ふ』
「彼らの様子を異に感じられた須佐之男が、今度は『なぜ泣いているのか』と老夫婦に問われますと…」
その答えはご存知でしょうと、たつきは京梧の方へと言葉を渡す。
「…え〜っと、確か…八岐大蛇って化けモンに、娘が生贄にされるから…って事情からだったよな」
「その通りですわ」
老夫婦には元々八人の娘がいたのだが、八岐大蛇が毎年やって来ては一人ずつ食べてしまい、ついに最後に残った娘までもと、嘆き悲しんでいたのであった。
「よりにもよって若い娘ばかりを餌食にかよ、ったく、ふざけた蛇だぜ。ん…?」
見れば、たつきは袖をふわりと口元にあて、忍び笑いをしていた。
「俺、何か変なコト言ったか?」
「…いえ、もし、今、須佐之男命が目の前に現れたら、それはひょっとして京梧様のような方なのかしらと思えて…」
「いくらなんでも、そいつ程乱暴者じゃねェぜ。…あッ、けど、そういや…」
とある女剣士から遭遇する度に『野良犬』呼ばわりはされていたなと、京梧が付け加えれば、たつきはたちまち笑みを打ち消して頭を振る。
「…京梧様は《力》の振るい所をちゃんと存じておられます。無闇に人を傷付けたりなどは、決してなされないお方ですわ…。だから…やっぱり違います」
───…そう…貴方様は須佐之男命ではありませんもの………。
≪拾伍≫
岩山は自分の執務室に五人と高見沢を通すと、話をする前に一つ確認しておくことが有ると切り出した。
「お前たち、八岐大蛇伝説を知っているか?」
「八岐大蛇…ですか…」
龍麻はそっと目を閉じ、『古事記』の中の一節を頭の中でなぞる。
そが目は赤かがち(=酸漿(ほおずき))の如くにして、身一つに八つの頭、八つの尾あり。またその身に蘿(こけ)また檜椙(ひすぎ)生ひ、その長は谷八谷峡(を)八尾に度りて見ゆ。その腹は悉に常に血たり爛(ただ)れたり──
「あたかも山を思わせるような大蛇の八つの口からは八色の雲気とよばれる毒霧を吐き散らされ…未だかつて遭遇したことの無い強敵を前に、須佐之男は一計を巡らせましたが…」
再び問いを投げかけるようとするたつきに先んじて、京梧が正解を言う。
「酒を飲ませ、酔い潰れたトコをばっさり…て寸法だったよな」
「ええ。八塩折(やしほり)の酒という非常に濃い御酒を、足名稚夫婦に命じて醸造させ、あらかじめ設けておいた八つの門それぞれに置かれた酒船に注ぎ込み、八岐大蛇がやって来るのを待ち受けました。…果たして、須佐之男の思惑通り、八岐大蛇は姿を表し…」
「確か…高天原を追放された須佐之男命の手によって倒されたんですよね」
「うむ、その通り。そうして須佐之男は大蛇に生贄として捧げられるはずであった櫛名田比売を救い、己の妻とした───これが伝説の全貌じゃ」
「…神話として語られたことが、本当にその全貌かどうかは…」
「ん?まだ続きが有るのか、緋勇」
「いえ、何でもないです…」
龍麻が最後に付け加えた否定的な一言は、ただ何となく口をついて出ただけのことで…。だから、神話と今回の事件との関連を問う京一の言葉によって、その思考を目の前の事象へとすばやく切り替えてしまう。
「それが一体、帯脇とどういう関係があるんだよ」
「うむ……。ではわしの結論を言うとしよう。まず、少年の傷だが…あれは尋常ではない。身体の至る所に、深く大きな裂傷があるが、どうも大型の獣のものと思われる牙の後が残っておる」
「…この東京で、白昼堂々、大型の獣に襲われるとは…」
確かに通常の事件としては片付けられないと醍醐が低く呟けば、それだけではなく霧島の体内からは奇妙な毒素が検出されたのだと、岩山は診察結果を告げる。
「それも、何ら医学的根拠を残さずに心身を蝕んでいく、呪詛とも呼べる、恐ろしい怨念の毒がな…」
「獣の牙と、毒…、そしてさっきのあの蛇の思念体……」
「それってもしかして、帯脇が…ヤマタノオロチってコト?」
いささか短絡的ともいえる小蒔の答えを、岩山は一笑に付すことなく至って真面目に受け止める。
「…何らかの方法で、大蛇の《力》を会得したのか、あるいは大蛇そのものなのか…それはわしにもわからぬが…」
「とにかく、私たちがすべきことは…一刻も早く帯脇を捜し出し、これ以上被害を拡大させないということよね」
「だけどさ、一体今、どこに帯脇がいるっていうの、ひーちゃん」
「そんなの決まってるぜ、小蒔。アイツの目的は最初っからただ一つ…」
───舞園さやかを手に入れること。だから…
その時、前触れも無く背後の扉がガタリと開けられた。
「お前───!!」
「霧島君!!」
全員の視線の先には、満身創痍の霧島がドアにすがりつく格好で立っていた。
「いかん。毒素が抜け切らぬ内に結界を出ては」
「…行かなくちゃ………」
岩山の制止を振りほどき、出口に向かって歩き始めるが、案の定その足取りは覚束なく、ふらりと倒れそうになるところを、京一に支えられる。
「お前、そんな身体で何言ってんだッ!」
「……学校へ行かなくちゃ…。帯脇がさやかちゃんを…」
「ああ、分ってる…だからお前はここに待ってろ」
京一に諭され、力なくうなだれる霧島を慰めるように、龍麻が声をかける。
「私たち、この後すぐに鳳銘高校に行くから…、大丈夫…。心配しないで」
「京一先輩…緋勇さん…。皆さん…どうかお願いします。…さやかちゃんを助けて下さい…」
一同に礼儀正しく頭を下げた霧島は、しかしそのまま面を上げず、包帯の巻かれている自分の手のひらを見詰めた。
「…僕だけ……《力》が無いから…さやかちゃんを…」
「霧島……」
「必ず護るって約束したのに…。僕に《力》があれば……」
《力》が……と、喉の奥で言葉を振り絞りながら、霧島は意識をするりと手放す。
「霧島!!おい、霧島ッ!!────クソッ!!」
京一の呼びかけにも、ぐったりと目を閉じたままだった。
「いかんな…。無理に動いたせいで、症状が急激に悪化しておる。このままでは…」
さすがの岩山も緊迫した面持ちをすると、すぐさま集中治療室の準備を済ますよう、高見沢に命じる。
「あ、舞子…」
「なあに、ダーリン?」
龍麻は高見沢に近寄ると、すばやく何か一言二言、耳打ちした。
「うん、分った〜。伝えておくね〜」
「ごめんなさいね、忙しい時に…」
「ううん。それより、ダーリンたちもが〜んばってッ〜!!」
詫びる龍麻に見送られ、高見沢は廊下をぱたぱたと駆けていった。
「お前たちは、約束通りさやかという娘のもとへ行け。あの少年の言葉だけでなく、どうも嫌な予感がするんでな…。なに、少年のことなら、このわしに任せておけ。むざむざ死なせたりなどするものか」
さ、早く行ったと五人を追い払いにかかれば、
「せんせ…、そいつのこと、よろしく頼むぜ。俺の大事な……一番弟子だからよ」
その時の京一の、顔つき、言葉は、かつて彼の師匠が幾度かこの病院を訪れた時とそっくり同じで…、
「わかっておるよ、京一」
声音は謹厳に振る舞いながら、岩山の表情はどこか愉悦そうだった。
≪拾六≫
地下鉄を乗り継ぎ、文京区にある鳳銘高校に辿り着いた時、まだ日没までは間が有るにもかかわらず、灰色がかった空が校舎を陰鬱に染め上げていた。
「ここが二人の通う高校か……」
「静かだね。誰も居ないみたい……」
校門から顔を覗かせるが、周囲に人影は全く見当たらず、小蒔は本当にここにまだ舞園が居るのかと疑問を口にする。
「分らない……でも…、何だか嫌な気配がするわ。強い憎しみの《氣》……」
葵の言葉に龍麻も同意する。
「それに、私は霧島君の言葉を信じている…だから」
「……ああ。とにかく中へ入ってみようぜ」
五人は大胆不敵にも正面玄関から堂々と校舎内に潜入したのだが、
「静かだな…。いや、静か過ぎる…。ここに帯脇も居るとは俄かに信じがたいな」
実際、彼らを咎める者はなく、やや拍子抜けした気分で廊下を歩いていた。
「うん…。あッ───!ねえ、醍醐クン。向うに誰かいるみたいだよ」
中庭を挟んだ向こう側の校舎の廊下でちらと人影が動いたのを、小蒔は目敏く指差す。
「どうする、声かけてみよっか」
「でも…私たち無断で入ってきてるのだし…」
懸念した葵は龍麻にどうするべきか小声で訊ねる。
「学校関係者と無用ないさかいを起こすのは時間の無駄…。かといって、このまま五人で、校舎内を不案内なまま歩き回るのも時間の無駄…よね…」
舞園が選択している「文・芸能」などの特別クラスを始め、スポーツや進学など、生徒の能力に応じたきめ細かなコース分けによる教育を特色とする鳳銘高校は、その教育方針を反映してか、複数の建物を連結した校舎の造りをしており、それは闖入者にとって迷宮に等しく映っていた。
「どうかしら。いっそ、ここからは思い切って二手に分かれてみない?」
上へ上へと向かって歩けば、いずれ屋上で合流出来るはずだからというのが、龍麻の説明だった。
「成る程、その方が無駄足を踏まずに済むか…。どうする、皆」
「賛成〜。あいつらよりも先にさやかちゃんを見つけ出さないといけないもんね」
「だったら、声をかけようなんて安易なコト言い出すんじゃねェぜ」
小蒔と京一のやり取りに、
「うふふ、チーム分けは既に決定済みのようね」
「ええ、そうみたい。それじゃ葵、醍醐君…」
「ああ、俺たちは人影の見られた奥の方の校舎を探索する。龍麻、悪いが京一を頼むぞ」
「俺って、マジで信用ねェんだな…。醍醐のヤツ、真顔だったぜ」
遠ざかる三人の足音を聞きながら『普通は逆だろう』とぼやく京一に、龍麻はそんなことはないと微笑んだ。
────助けて…ッ!
舞園は一人、恐怖にわなないていた。
<怖い…、誰か…助けて…ッ!!>
見慣れた校舎が、廊下が……今は全く異質な存在になっている。
それのみならず、先程まで普通に接していた級友たちまでが…
<皆、どうしたの…?>
混乱する頭の中で繰り返し再現されるのは、帯脇の手下が告げた冷酷な言葉。
<嘘…嘘よ…。私、そんなの信じない…>
───霧島君が私を一人ぼっちにするはずないもの…
───だから…早く…早く……ここに来て、霧島君───
「さやか…ちゃん」
何処からか自分を呼び覚ます声に、
「良かった〜。霧島君、やっと目が覚めたね〜」
「……え……あれ、僕は…」
まだ混濁する意識と、部屋の明かりに目を眩ませながらも、懸命に自分の置かれた状況を把握しようと努める。
「あの時無理して動いたからまた倒れちゃったんだから。だめだよ〜、毒が抜け切るまでは、ちゃんと結界の中で大人しく寝てないと」
そんな彼の気持ちを察してか、高見沢は霧島の病状と、そして意識を失っていた間の出来事を簡潔に説明する。
「ダーリンたちは、あの後直ぐに出て行ったよ。大丈夫、今頃はちゃんとさやかちゃんを助けてるから〜」
「…でも…僕には…はっきりと聞こえたんです…」
病床の上でシーツを握り締め、霧島が悔しそうに呟く。
「さやかちゃんがたった一人で、助けを求めている声が…」
───それも僕に…。こんなに無力な僕に…
高見沢はじっと耳を傾けていたが、突然何かを思い出したようにうなずくと、
「…あのね〜、霧島君…。ちょっとでいいから、わたしの話、聞いてくれるかな〜」
自分が龍麻と出会うきっかけとなった、とある事件について語り始めた。
「あの時ね、大切な人を亡くした人が、その原因を作った人たちへ復讐する為に《力》を使っていたの。彼らに同じ痛みを与えることで、自分の負った悲しみを癒せるんじゃないかって…。でもね〜、そうじゃなかったの…。《力》が振るえば振るうほど、自分自身もまた、もっともっと傷ついていって…」
「…………」
「そんな窮地に追い込まれた彼女を救った人が二人居たの…。一人は他ならぬ亡くなった弟さん、そしてもう一人がダーリン…」
当時新聞を賑わせていたあの事件には、そんな裏事情が潜んでいたのかと、霧島は驚きで目を見開く思いだった。
「…ところで…ダーリンって…一体誰ですか?」
「あ、そっか…つい、いつもの口癖で〜」
ちゃんと緋勇龍麻さんって言わなきゃ分らないよねと、自分の迂闊さに気付いて照れ笑いする。
「緋勇さんは…京一先輩が認めるように、一番《力》が強いからですか?その人を救えたのは…」
「…それは違うよ〜。確かにダーリンはわたしたちの中で一番強いけれど、単純に《力》さえ強ければ、全てが解決する訳じゃない…って、それは分るよね?」
「はい…」
素直にうなずく霧島に、
「そうそう、もし自分たちが帰る前に霧島君が目覚めたら伝えて欲しいって、ダーリンから頼まれた言葉が有るんだけど…」
昨日言えなかった言葉だって…と前置きし、高見沢はその言葉を口にした。
『私ね、ずっと長い間、こんな《力》無ければいいのに…って思っていたのよ』
「緋勇さん………」
───私ね、…ううん…何でもない…
あの時、曇った表情を見せたのは、こういう理由だったのかと、霧島は合点がいった。
自分があれ程焦がれていた《力》を、あの人は厭わしいものだと思っていたなんて…。
「ダーリンね…この《力》が、いつか大切な人までも傷付けてしまうんじゃないかって、前に言ってた…。でもね〜、そう思いながらも、ダーリンは、この《力》を使って闘ってきたんだよ…。それが何の為だか分るよね〜」
「大切な人を護る為…ですよね…。だったら尚更、僕なんて…」
食って掛かる霧島に、高見沢はあくまでも穏やかに、これも龍麻の言葉だと伝える。
「霧島君だったら、《力》よりも何が一番大切なのか既に知っている筈だって…」
まるで謎掛けのようなその言に、霧島はしばし沈思する。
「あッ、そうだ。いっけな〜い。霧島君の意識が戻ったって、院長先生に報告しに行かなきゃ〜。っとその前に…」
熱を測るのと同じ仕草でさっと霧島の額に手を当てる。
「…ひょっとして高見沢さんも《力》を…」
「えへへ〜。これは長話しちゃった舞子からのお詫びだよ〜」
身体が軽くなったことを驚く霧島を残し、高見沢はそそくさと部屋から出るなり扉の前でにっこり笑い、
「…護りたい人の声がちゃんと聞こえている君だったら、ダーリンが言うように大丈夫だね…」
出来るだけゆっくりと院長室に向かって歩き出した。
≪拾七≫
醍醐たち三人は、先程小蒔が人影を目撃したという付近まで辿り着いた。
「えっと…確かこの辺で…。あ、居た居たッ」
それは歳若い男性教員で、ここは女子だけで話しかけた方がまだしも怪しまれないだろうと、まずは葵と小蒔でその人物に近づく。
「あの…、ここまで勝手に入って済みません…」
「ボクたち、ちょっと聞きたいコトがあるんですけど……」
「………………」
男性の無反応さに、葵と小蒔は困惑気味に顔を見合わせる。
仕方なく今度は醍醐が男性に問い掛ければ、ようやく三人の存在に気付いた風に、ぎこちない動作でこちらを振り向く。
「……あの…どうかされましたか?」
「……キミたち…」
ようやく彼が口にしたのは、しかし、あまりに予想外の言葉であった。
「キミたち、僕の王様を知らないかい?」
「「えッ………?」」
戸惑う三人に構わず、男は得意げに語り続ける。
「僕らは王様と一緒にこの地上へ来たんだよ。僕らの王様はどこだい?僕の───カラスの王様は────?」
「カラスの…王様だって…!?」
瞬間、全員の脳裏に浮かんだのは、初めて《力》を持つもの同志がぶつかりあった事件の首謀者…。
───僕は、神に選ばれた存在なんだ
───僕はもう直ぐここから飛び立つ
───堕天使たちを率いて、人間を狩る為にね…
「なぜ、唐栖のことを…。お前は一体何者なんだ!?」
「ククク…何言ってるんだよ。僕はカラスに決まってるじゃないか」
問い詰める醍醐に対し、男はますます奇矯な言行を繰り返す。
「あァ、早く王様が迎えに来ないかなァ。早くしないと、他の獣に世界を盗られちゃうよ」
「他のケモノ…一体何のコト───?」
訳が分らないと小蒔が首を傾げるが、階上から聞き覚えのある女性の悲鳴に、
「今の───さやかちゃん!!」
「上の階からか!二人とも、行くぞ」
「でも…」
既に走りかけている醍醐と小蒔に、葵はこの人をこのまま放って置いてよいのか、躊躇いがちに問う。
「何がどうなっているのか分らんが、今は彼女を助けるのが先だ」
「……そうね…。それに多分龍麻たちも今の悲鳴を聞いて駆けつけてくる筈だし…」
うなずくと、葵も声の聞こえた方角に向かって走り始める。
そして廊下に残された男はといえば、聞き手がいなくなったことにも気付ぬ様子で、ただ一人うっとりと語り続けていた。
「あァ、楽しみだなァ。もうすぐ世界中に獣が溢れ出すんだ。何にも縛られることのない殺戮と飽食の日々……」
王様、もう目の前だよ。あの方の創る獣の王国は───
「……はぁ…はぁ…」
あれから、もうどれ程の時間、逃げ惑ったのだろうか…。
「……もう駄目…。もう走れ…ない」
あれから、もう幾度、同じような弱音を吐いたことだろうか…。
けれども、その度に叱咤激励してくれたのが、
「……霧島君……」
彼の名前を呟く度に囁き返す、ここで諦めちゃダメだという声が、舞園の足に走る力を与え、どうにかここまでは逃げおおせることが出来た。しかし、
「…階段…。でも、どっちに行けば…」
耳を澄ませば下の階からも、上の階からも人が近づく足音が聞こえる。
迷う暇は無い。
このままではいずれ屋上に追い詰められてしまう───。
「だったら……自分の力で何とか突破するしかないじゃない…」
ごくりと息を飲むと、覚悟を決め、階段を一足に駆け下る。
だが、突然何かにぶつかった衝撃に、堪らず小さく悲鳴を上げ、その場でしりもちをついてしまう。
「おっと、危ねェ…。ひーちゃん、さやかちゃん、二人とも怪我してねェか?」
「…う…ん、私なら大丈夫よ……」
急接近してくる舞園を呼び止めようとして、結局は同じく床にしりもちをつく羽目になった龍麻が、それより舞園に怪我は無いかと重ねて訊ねた。
「……あ…蓬莱寺さん、緋勇さん…」
痛みよりも何よりも、二人が今この場に居ることへの驚きで、自然と涙がまなじりに浮かんでくる。
「来て……くれたんですね……。私…私……。もうダメだって……」
「ここまで一人で頑張ったのね。でも、本当に無事で良かった」
「緋勇さん……あの……ありがとうございます…。まさか、あなたが来てくれるなんて思ってもみなかったから」
「え…」
昨日、彼女に対するわだかまりを見透かされたのかと、胸をドキンと波打たせる龍麻の頭上から、京一が注意を促す。
「ホラ、二人とも、いつまでも床に座ってる場合じゃないぜ」
確かに階下から複数の足音がこちらに向かって接近してつつある。京一から差し出される手に掴まって立ち上がり、龍麻はすかさず身構えるが、
「あ、ひーちゃん。京一ッ。…それにさやかちゃんも。皆、一緒だったんだね!」
「小蒔、葵、醍醐君…」
見慣れた仲間の姿にすぐさま警戒心を解いた。
「…皆さん…全員で…。本当にありがとうございます。でも…、早くこの場を離れないと…、あの人たちに見つかってしまいます」
その不安がる舞園の言葉がまさに呼び水と化し、
「ケケケッ、かくれんぼの次は鬼ごっこかァ?」
「ヒャヒャヒャ、帯脇サンが屋上でお待ちかねだぜぇ」
「あいつら……!」
階上から帯脇の手下たちの挑発する声が響く。
ふざけやがってといきり立つ京一をなだめつつ、龍麻は妙ねと呟く。
「これだけの騒ぎを、誰も聞きつけて来ないなんて、どういうこと…」
「分りません…でも、何だか皆、様子がおかしいんです。先生も警備員さんもまるで───何かに取り憑かれているみたいな」
舞園の説明に、ここに辿り着く前、自分たちが遭遇した人も様子が尋常ではなかったと、葵が補足する。
「あの人、自分のことをカラスだって、言い張っていたわ。ひょっとして唐栖君と何か関係が有るのかも…?」
「……その可能性は、でも、極めて低いでしょうね。だってあの人自身はもう《力》を失っているから、今更何かを企てるようなことはないと思うわ…」
あの事件後の唐栖の様子を、雨紋からそれとなく聞いていた龍麻は、葵の考えを否定した。
「それよりも…」
「ああ、どうやら帯脇に直接聞いた方が早そうだな。この事件……裏に何か有るかもしれん」
「そいつは望むところだぜ」
「よしッ、行くぞ、屋上へ!!」
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