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魔獣行〜後編 第拾七話其ノ壱

 まるで深遠な森のようだと、青年はその光景を前に呟いた。
 地上から天上へ向かって峻然とそそり立つビルは、さしずめ物言わぬ大木。

 だが…彼の生まれ育った故郷の森と違うのは────

「光差すとこと、差さないとこの格差があまりに激しすぎるっちゅう点やな」

 街の喧騒もビルの明かりも、今、彼が立っている路地裏には届かない。漆黒の闇の中、感じるのは獣たちが放つ殺気の群れ。

「あちゃ〜、ほんま、見事なまでによう憑かれとんなぁ」

 青年が額に手を当てるポーズで大仰に嘆いてみせれば、

『……うううう…』
『……おまえも───我らの仲間に……』
『さもなくば………さもなくばぁぁぁ────』

 人の姿をした【獣】たちは威嚇とも呻きともつかぬ言葉を撒き散らしながら、徐々に包囲網を固め始める。

 ────仲間にならぬのなら、死を

「こらあかんわ。けど、憑かれやすい人間にはそれなりの要因が有る。ええ機会やし、ちょいとわいが渇いれたるわ」

 ────肉を、血の滴る生肉を……捧げよ

 すっと視線を細めると、佩いていた刀を鞘から抜き放たず構える。

「へへッ、あんたらにはすまんけど、わいの命、安うないでッ」

──────!!!

 折り重なるように攻め寄る彼らを前に素早く呪を完成させ、そして……
 蒼白色の光は闇の中に幾重にも弧を描いた。
 さながらさざめく水面に映し出された三日月の如く───


 一分後、何事も無かったかのように路地裏から青年が姿を現す。
 彼の命を狙っていた【獣】たちは悉く路上に昏倒していた。

「まァ、ざっとこんなもんやろ」

 一仕事終えた刀を労わる手つきで軽く撫でさすると、元通り背中に吊り提げた。

「────おッ?珍し、こんな時期に……蝶々やないか」

 街頭の灯りに忽然と浮かび上がったのは、一匹の真っ白な蝶。

昔、荘周は夢に胡蝶となれり。ひらひらとまいて胡蝶なり。
自ら愉しみて志に敵えるかな。周たるを知らざるなり。

「『胡蝶の夢』……」

 ふわりひらりと辺りを音も無く自在に飛びまわる蝶の舞い姿に、故郷の長老から昔に教わった言葉が蘇る。

俄然と覚むれば、まぎれもなく周なり。
周の夢に胡蝶となれるか、胡蝶の夢に周となれるかを知らず

「『道』すなわち真実在の世界では、夢もまた現実。一切がしがらみを突き抜けて、自由自在に変化しあう………やったかな?ま、荘子と違うて、あの人らが次に目が醒めた時には全て忘れてはるやろが…それにしても────」

 目線だけを前に向ければ、ビルの谷間から朧月がひっそりと顔を覗かせていた。

「人を獣に変えようたぁ、なんちゅう悪趣味なやっちゃ。これも───奴の差し金なんか────」

 嘆息混じりに呟かれる声は昏(くら)く。

「奴は一体、どこにおるんや……一体、この東京のどこに────」

 都会の光に押し込められた夜空を食い入るように見つめていた青年は、それきり黙りこむとこの場から静かに立ち去り、そして、白い薄絹を纏った蝶もまた何処となく飛び去っていった。




 ≪壱≫

「大変よ、大変よォ〜〜ッ、ついに掴んだわよ〜〜……って、なぁんだ…まだ龍麻と美里ちゃんしかいないんだ」

 朝から周囲を薙ぎ払う勢いで3-Cの教室に駆け込んできたアン子だったが、出迎えたメンバーの少なさに、たちまち落胆した口調に変える。

「おはよう、アン子」
「うふふ、おはよう、アン子ちゃん。どうしたの、そんなに血相を変えて……、一体何があったの?」
「何がって…美里ちゃんは呑気ねぇ。あれからまだ一週間だってのに、もう忘れちゃった訳?ね、龍麻。何が大変なのか分るでしょう?」

 半ばアン子の勢いに押される格好で龍麻がうなずく。

「よかった〜、龍麻ならそういってくれると思ってたのよ。……よし、いいわッ、特別に奮発して最新の真神新聞を無料で進呈してあげる。あたしの話を聞き終えたら、こっちもちゃんと読んでね」

 が、真神新聞を手渡しかけ、はたとその手を止めた。

「……んん、でもやっぱり念の為、一体何が大変なのか龍麻の口から答えてもらおうかしら?」
「ったく、どうしてお前はそう、朝っぱらからうるせェんだよッ。どうせこの間頼んだ調査の結果だろ」

 眠たげに目をこすりながらも京一はあっさり正解を口にする。

「あら、珍しく遅刻せずに来たの、京一」
「いつまでもくだらなく騒いでねェで、いいから早く話してみろよ」
「覚えてたのはいいけどなんかムカつくわ、その言い方。どうせなら『どうか教えて下さいませ、杏子様』位のこと言って欲しいわね」
「あははッ、それは無理だよ、アン子」

 京一が反論するより先に、いつの間にやら登校していた小蒔の快活な笑い声が場に流れ出す。

「京一がそんな言葉遣いしたら、絶対舌噛むってば」
「あのなぁ、小蒔。そういう問題じゃなくて、アン子にそんなコト言ったら、舌噛む前に口が曲がっちまうだろうがッ!!」
「なんですってェ〜〜〜!?」

 一人遅れて教室に入ってきた醍醐は、そんな三人の様子を見るなりやれやれとため息をついた。

「どうしてお前らは毎度のごとく、朝からそうも元気なんだ」
「あッ、おっはよー、醍醐クン」
「よぉ、醍醐。何だお前、朝っぱらから低血圧か?しけた面して」
「いや、そういう訳じゃないが……、龍麻も朝からこのノリじゃ大変だろう?」
「そうね、醍醐君の意見には一理あるかも。特に寝不足気味で迎えた朝なんかは…ね」

 軽く額に手を当て苦笑いする龍麻に、醍醐は百万の味方を得た気分になる。

「やはりそうか。毎朝毎朝こうだとさすがに俺もたまに頭痛がしてな。しかし寝不足とは穏やかじゃないな…。何か悩みごとでもあるのか」
「ううん、そんなに大仰なものじゃないの。今日提出期限の進路調査票のことで…」
「あら、二人ともひッどぉ〜い。あたしはそんな憂鬱な朝の雰囲気を少しでも和らげてあげようと思って元気に振舞ってあげてんのよ!ねぇ、桜井ちゃん」

 そうそうと小蒔もアン子の意見に強くうなずくが、

「何言ってんだ。お前らはそれが地だろ」
「ま、京一の言葉も否定はしないけどね」

 今度はペロっと舌を出し、調子良くいつもの人懐こい笑いを浮かべた。

「あッ、桜井ちゃんの裏切り者ッ!」

 更に喧しさをます三人に、このままではきりがないと醍醐が止めにかかる。

「遠野、お前がわざわざ朝から俺たちの元に来たのは、そんな話題を話したいからじゃないだろうが」
「あッ……と、そうそう、この前頼まれた中野・文京・豊島辺りの事件の話。調べが付いたって報告に来たんだったわ。んふふ、それがもう、久しぶりの超猟奇的事件なのよッ!!」
「バカッ。そんな話、喜んで言うことじゃねェだろ」

 けれども『まずは聴いて頂戴』と自信と落ち着きに満ちたアン子を前にしては、京一とて耳を傾けずにはいられなかった。

「事件は皆の読み通り、豊島区を中心に中野・文京で多発してるわ」
「やはり事件か…。それで、一体何が起こってるんだ?」

 アン子の調査によると、事件は大きく二種類に分類されるという。
 一つ目は、池袋界隈を中心に広がる突発性の精神障害。
 そしてもう一つは先日の霧島と同じ、大型獣に襲われたかのような猟奇殺人。

 ただし後者に関しては最近めっきり減少したこと、そして被害者の大半が男性、しかも揃って舞園さやかの大ファンだったという共通項から、二つ目の事件は帯脇による犯行だったと断定してまず間違いが無いとアン子は断定した。

「最も、犯人や犯行動機その他は分かっても、一番肝心な、なぜ彼があのような《力》を得たのかについては結局謎に包まれたままだし、だからあの件に関して完全に解決したと安心してはいけないのだろうけど、ともあれ一応収束をみたのは明るい材料と言ってもいいんじゃない」
「それで…こちらの事件と、現在もまだ池袋で頻発しているあちらの事件との間に、何らかの関連性は見出せそうなの?アン子」
「もっちろんよ。その帯脇が実行犯と思しき事件の方は、あたしからの説明なんて当事者だったあんたたちにとって今更必要ないから端折るけど、池袋で起こっている事件の方も最近ニュースでも取り上げられたりしたから、ある程度は知ってるでしょ、龍麻」
「ええ、まぁ…マスコミで取り上げられているレベルならね」
「あ、ボクも昨日のニュースならチラっと見たよ。事件はほとんどが池袋の東口方面で起きてて、道を歩いている人が突然奇声を上げたり、暴れ出したり───手当たり次第に他人を襲ったりするんだって……」

 小蒔の説明を耳に、醍醐が『これも誰かの仕業なのか』と独り言めいた口調で呟くのに呼応するように、アン子は神妙な表情で言葉を繋げる。

「多分───少なくともあたしたちはそう見るべきだと思うわ。実際、警察や医学の見地からでも原因はまだ解明されてない……それにあたしが今一番興味有るのは、発狂状態に陥った人たちの証言なのよ」
「その人たちは…………一体何て言っているの?アン子ちゃん」
「皆、口を揃えてこう言うの────」

体の奥底から自分を呼ぶ何かの声に応えた────
ただ本能の赴くままに身を任せた─────

「本能の赴くまま…か。確かに、個人個人その人間の素を突き詰めていくと、必ず何らかの動物霊に辿り着くというからな」
「案外と詳しいのね、醍醐君」

 アン子が素直に感心すれば、子供時分に祖父からそれとなくこの手の話は聞かされたのだと、醍醐は苦笑いする。

「そういうのを物活説(アニミズム)っていうのよ。つまりこの事件を引き起こしている奴には、人間の本能に訴えかける《力》がある。さもなくば、人間の大本である動物霊を操る《力》がある────そんなとこでしょうね」

 五人が五人ともそれぞれの感情を交えた表情で自分の話に聞き入っている様子を視線の端に捉えながら、アン子は自信に満ちた声で自説を締めくくった。

「人を獣に戻す《力》………か。そういえば、帯脇もそんなことを言っていたな…」

 テメェら……あんまりいい気になんなよッ
 獣になりたがっているのは────俺様だけじゃねェ

「うん…。獣になっちゃえば悩むことも辛いことも何にもなくなる。ただひたすらに本能の赴くまま、だもんね」

 あの時の光景を思い返しつつ、小蒔はやや歯切れの悪い口調で龍麻に訊ねた。

「ねぇ、ひーちゃんはそういうのどう思う?ちょっといいなぁとか思ってたりして…」
「悩みが無い境遇を羨ましくない、とは言い切れないけれど…でもね、常に悩みや苦しみを抱えていること、それこそが人をして人たらしめているのではないかと想うの…」
「……そっか、そうだよね。そんな逃げるような考え、ひーちゃんには似合わないよ」

 アン子も龍麻の意見に同調するが、でも…と続ける。

「世の中には辛い現実から逃げたいって思っている人は、残念ながら少なからず居るわ。敵は確実にそういった人間を標的としているはずよ」

「それじゃ、やっぱりあの帯脇を蛇に変えたのも、そいつの仕業なのかな」
「時期からいって無関係ってことはないわね。けどそういう抽象的な話だったら、この先は専門家に聞いた方がいいでしょうね」
「ミサちゃんのことね…。それじゃあ、皆で放課後行ってみましょうか」

 葵の提案をそれが一番手っ取り早いだろうと醍醐が受け入れ、小蒔も、

「霊だ変異だっていったら、もうミサちゃんの領域だからね。傷付いた霧島クンやさやかチャンの為にも、この事件はボクたちで解決しなきゃ」

 その意見に全員が同意した所で、丁度HRの時間を告げるチャイムが鳴り響いた。

「あ、いけない。それじゃあたしは行くわッ。そうそう、これだけ情報を提供したんだから、今度舞園さやかに会わせてよね」

 よろしく頼んだわよと釘を刺して立ち去るその背に、負けじと京一が毒づく。

「ちッ、冗談じゃねェ。アン子になんかに会わせたら、さやかちゃんが穢れるぜッ────…っと」

 定刻通りマリアが教室に姿を見せたので、五人は慌てて銘々の席へと散会した。




 ≪弐≫

「さてと、かったるい授業も終わったし…」

 四時間目の授業が終わると同時に軽く伸びを一つすると、京一は背後に座る龍麻の方を振り返った。

「一緒にメシでも食おうぜ、ひーちゃん」
「ええ、いいわよ」

 あっさり了承する龍麻に、続けざまに京一が囁く。

「けどよ、今日はいつもとちょっとばかし趣向を変えて、屋上で食べねェか…?」
「屋上…?」

 突然の提案に軽く首をかしげるが、見れば窓の向こう側はさも心地良さそうに澄み切った秋の日差しが降り注いでいる。

「そうね、京一の言うように、今日みたいな秋晴れの日は屋上で食べたら美味しいわよね、きっと」
「だろッ。おまけにあそこだったら邪魔モンも来ねェから、まったり二人きり水入らずのランチタイムを楽しむにゃ最高の場所だしな…って、おい、ひーちゃん?」

 京一があれこれと想像を巡らせている間、龍麻は手際良く他の四人に声をかけて廻り、そしてにこやかな笑顔で戻ってくる。

「醍醐君は一足先に屋上で待っているって。葵と小蒔も後から直ぐに行くって言っていたわ」
「…………ま、どーせこんな展開になるんじゃねェかと思ったぜ…。……ん?」

 がっくりとうな垂れた京一の耳に、雑然と騒がしい級友らの会話の隙間から校内放送の音声が割り込んできた。

「……ひーちゃんを呼び出してるみたいだぜ、今の放送」
「え?」

 二人でスピーカーの方に意識を集中すると、果たして、

『…繰り返しま〜す。3-C組の緋勇龍麻さん。マリア先生がお待ちで〜す。至急職員室まで来て下さ〜い』

「マリア先生がお呼びだとさ。…何かヤラかしたか?」
「……う〜ん…ひょっとして…」

 朝のHRで回収された二度目の進路調査票についてかもと、呼び出された理由を自分なりに分析する。

「それだったら…………」
「…?」
「ま、いいさ。さっさと済ませねェとメシ食う時間がなくなるぜ。何なら一緒に行ってやろうか?」
「ううん、大丈夫。呼び出されたのは私だけだし、一人で行ってくるわ」
「そっか、なら俺は屋上にいるから、終わったら来いよ」
「ええ───」


「緋勇サン。待っていたわ」

 こっちへと指差された席に座りかけながら龍麻は心の中で首を傾げる。いくら昼時とはいえ…

「先生方はお昼の時間にはみんな行ってしまうから、ここには今、アナタとワタシだけ。これでゆっくり話が出来るわ」

 こうも都合よく、二人きりになれるものだろうかと。
 以前呼び出しを受けた時も確か、このような状況で、そして……

 沈黙を別の意味に捉えたのかどうなのか、マリアは突然呼び出した非礼を詫びる。

「本当に、お昼休みなんかに呼び出して、ごめんなさいね。でも、放課後だと中々時間が取れないし────アナタはいつも蓬莱寺クンたちと帰ってしまうから………。どうしてもアナタと二人きりで話がしたかったのよ。それだけは判って」
「…はい」
「ありがとう。それじゃあ、時間も勿体ないし早速本題に入らせてもらうわ。…………。ねえ、緋勇サン…」

 穏やかな口調と表情はそのままに、青碧の瞳だけが硬度を増して龍麻を捕らえる。

「何か………ワタシに隠していない?」
「…………」
「…それにここの所、少し疲れ気味のように感じられるけれど……また妙な事件に足を踏み入れたりしてないわよね」
「……以前のように先生にまでご迷惑が及ぶような真似はしていないつもりですが……」

 それがマリアの期待している答えではないと判っていつつも、龍麻は自分に言える精一杯の回答を口にする。案の定、マリアは首を左右に振る。

「緋勇サン…そんな言葉で誤魔化そうとしてもダメよ。どうしてアナタはそう、危険な方へと進んでいくの?それを知る度にワタシがどんな想いでいるか…。この前も文京区の高校で騒ぎを起こしたでしょう」

 先日の鳳銘高校での事件は、その前の龍山の庵での一件とは異なり舞台が学校内だっただけに、当たり前だがマリアの耳にもある程度話は伝わってしまったようだった。

「緋勇サン…。アナタは一体何をしているの?それが私には判らないから余計に不安になるのよ。たまにはワタシにも話してちょうだい…。アナタが…何をしているのか」

 とはいえ、表向きはアイドルに対するストーカー行為として処理されたあの事件の真相をマリアに明かしたところで、全てを理解してもらえるとも思えず…いや、むしろ不安をつのらせるだけだと龍麻は即座に判断した。

「本当に申し訳有りませんでした。けれど……」
「…どうしても言えないというのね……」
「はい…。………これ以上ご迷惑をおかけしたくないんです……」

 口を閉ざし俯く龍麻に対し、マリアは対照的に天を仰ぎつつ大きくため息をつく。けれどもそれは一層重苦しさを増した空気を動かす力にはまだ乏しく。意を決したマリアは目の前の人物を「龍麻」と下の名で呼ぶ。それは、これから先の発言が教師としての立場を離れ一個人としてのものであるということを仄めかしていた。

「ワタシは心からアナタの身を案じているのよ。この間のようにアナタの身体に些細な傷があると考えただけでも、ワタシは気が気じゃなくなる……。龍麻、ワタシは────」

 真剣そのものの面持ちに引きずり込まれかけた矢先、前触れも無くガラリと入り口の扉が開かれた。突然の無粋な闖入者の登場にマリアは鋭い視線を向ける。

「─────!?」
「おや───どうしました、マリア先生」
「犬神先生……。もう、昼食はお済みですの…?」

 が、マリアは驚くほど瞬時に表情と口調を日頃のそれに切り替える。けれども芽吹いた棘を全て抜き去ることは彼女をしても容易ではなかったようで、犬神に向けた言葉はどこか空々しく職員室内に響き渡った。

「ええ、実は俺は昔から早食いで有名でしてね。飯に余り時間を割く習慣は無いんですよ。ご存知ありませんでしたか」
「…………」
「それより緋勇が何か…?」
「緋勇サン、引き止めてごめんなさいね。もう教室に戻っていいわよ」

 犬神の発言を遮るように、マリアは龍麻に『また今度ゆっくり話しましょう』と口早に告げる。

「おや、邪魔してしまいましたか。……それは失礼」
「いいえ、お気になさらないで下さい」

 あくまでも慇懃に交わされる二人の会話にかえって居心地悪さを感じながら龍麻は黙礼をし、職員室を後にした。


 ようやく解放された安堵感から肩で息を一つする龍麻の背後から、さんさんと差し込む陽光さながらの明るい声が掛けられた。

「よッ、ひーちゃん!!あんまりおせェから、迎えにきてやったぜ」
「京一…、それに醍醐君まで…」

 振り返りほっと表情を緩め、次いで二人を待たせたことに思い至り慌てて謝罪する。

「いや、龍麻こそ昼食前だっていうのに大変だったな。しかし一体何の話だったんだ?まさか龍麻が説教を喰らうなんて筈は…」
「"まさか"じゃなくて"まさに" その通りなのよ」

 えッと異口同音に驚く二人に、でも説教という程のことはなかったと慌てて付け加える。

「そうか、大したことがなくてよかったな。もしかしたら最近の事件のことでお前だけが責められてるのかと、京一と二人勘繰ってしまったぞ」
「………そんなんじゃなかったわ」
「ま、それについてだったら俺たちも同罪だからなッ。やっぱ怒られる時も皆一緒でねェと気分悪いぜ」
「そう言いながら、自分だけは敵前逃亡を図る気じゃないのか?」
「あはははッ、すっかりバレてるよね、京一の行動パターンは」

 いつの間にか龍麻の傍らでは、小蒔が笑い転げつつさすが親友だねと感心していた。

「…ったく、そんな薄情なマネするかよッ。それよりお前らもひーちゃんをお出迎えか」
「三人とも中々屋上に戻ってこないから、どうかしたのかと思って」
「揃って皆に心配かけてしまったわね、ごめんなさい。でも大丈夫だったから……それより」

 ちらと視線を腕時計に落とせば、醍醐も右に倣う。

「おッと、もうこんな時間だな。のんびりしていては昼休みが終わってしまう」
「やべぇ、早いとこ飯食いに行こうぜ、ひーちゃん」
「もうッ、キミはいつでもひーちゃん一点張りなんだから。ボクたちも一緒だってこと忘れないように!」
「へいへいッ、分かってますって。…ったくそんなに怒ったら腹が余計に減るだけだぜ。それでなくたってお前の食欲は尋常じゃねェんだからよ」
「うるっさいなぁ。お弁当の時間が楽しみで何か文句有るの。ね、ひーちゃんもそう思うでしょ」

 龍麻は軽くうなずくと、

「それじゃ小蒔の楽しみの時間を短くしてしまったお詫びに、私のお弁当から好きなおかずを何か一つ進呈するわ」
「ホントッ!」
「何だよ、それだったら俺も…」
「そうね────」

 しかし龍麻がその先を言う前に、小蒔がさっと続ける。

「キミにあげるものは何も無いってさ」
「勝手に答えを作るな、小蒔ッ。てことで、俺だって構わねェよな、ひーちゃん」
「もちろんよ。それに────大勢に食べてもらった方が嬉しいもの」

「「やったッ!!」」

「うふふ、小蒔も京一君も」
「まったく、こういう時になるとお前らは息がピッタリだな」

 周囲に賑やかさを振り撒きながら、五人は屋上へと駆け上がっていった。




 ≪参≫

 帰りのHRを終えたマリアが3-Cの教室から姿を消すよりも早く、京一は行儀悪く大きくあくびをした。

「いやぁ、本日もよく勉強したなァ。まったく今日一日頑張った自分をごくろーさんと褒めてやりたい位だぜ」
「……ねぇ……それって今の今まで寝てた人のセリフだと思う?」

 帰り支度をしている龍麻の元に素早く近づくと小蒔がひそひそと訊ねる。龍麻は教科書を鞄に仕舞う手を休めずに軽く首を左右に振る。

「だよね。それに…あ〜あ〜、見てよ、京一の教科書。ヨダレで波打ってるよ…」

 昼間の逆襲とばかり小蒔が続けざまに揶揄する。

「うッ、うるせェなッ!!今までの会話内容全部こっちまで聴こえてるぞ、小蒔。それに、俺がこの椅子に座って授業に参加したってことが、すでに偉大なことなんだぜ」
「それは単なる日数稼ぎともいうがな」
「…………」

 京一の屁理屈という名の反論は、醍醐の指摘であっさりと封じられた。

「それよりみんな、もう準備はいいのか?」
「準備って……何のだよ?ラーメン屋なら俺はパスな。今月はもう金がねェ」
「…もしかして忘れてしまったの?」

 既に帰り支度を整えた葵が当惑気味に訊ねても、京一はまだ気付く様子も無く。

「放課後、みんなでミサちゃんの所へ行く約束を今朝したじゃない、京一君」
「えッ…?………あッ、そーか!」
「本気で忘れてたよ…まったく。寝過ぎで脳味噌が口から流れ出てんじゃないのッ」

 小蒔は呆れ顔で机の上に未だ放置されている教科書を指差す。

「あのなッ、これはヨダレだ、ヨダレッ!!」
「どっちでもいいから、さっさと行くぞ」

 これ以上不毛な言い争いに付き合う気の無い醍醐は語調を強めた。

「見ろ、龍麻だってさっきから待っているだろうが」
「なーんて、案外とひーちゃんもそのまま帰るつもりだったんじゃねェか?」
「あら、龍麻に限ってそんなことないわよね?」
「ええ、今朝の約束なら、ちゃんと覚えていたわよ」
「そうよね、龍麻が約束忘れるはずないもの」

 満足そうに頷く葵と対照的に、京一はふて腐れた表情を隠そうとしない。

「そんなカッコいいこと言いながら、本当は俺と一緒でちょっとばかし忘れてたんだろ?なぁ、ひーちゃん」
「……近頃池袋で頻発している事件と先日の帯脇の事件との背後関係を調べる為、皆で放課後霊研に行ってミサちゃんの意見を聴くというのが、今日これからの行動予定だったでしょう、京一」

 己に掛けられた不名誉な嫌疑を晴らす為、5W1Hをつかってビシっと説明すれば、小蒔や葵も龍麻に呼応する。

「要するに皆で決めた約束事をすっぱり忘れた不義理者はキミだけってことだよ!……ねぇ、ひーちゃん。京一と付き合うのは程々にしといた方がいいんじゃない。ほら『類は友を呼ぶ』っていうし」
「うふふ、それを言うのなら『朱に交われば赤くなる』よ、小蒔」
「何ィッ!?」

 これ以上は埒が明かないと、醍醐が割ってはいる。

「京一を責めるのはその位にしておけ。こんな所でつまらん議論をするよりも、裏密に相談し、事態を正確に把握するのが先決だろう」
「それから池袋に直行することを考慮したら…」
「…だな。気は進まねェけどさっさと霊研に行こうぜ」




 ≪四≫

「あれッ、いないのかな………」
「ミサちゃん……?」

 龍麻が名を口にした途端、漆黒の部屋の主は忽然と姿を浮かび上がらせた。

「うふふふ〜、ようこそ我が居城(れいけん)へ〜」
「(頼むからもう少し普通に登場してくれッ!!)」

 それでなくてもここは雰囲気が普通じゃねェんだからと、こっそり毒づく京一に、裏密は(眼鏡に覆われて見える訳ではないが、そうとしか表現の仕様のない)にこやかな視線を京一に向ける。

「待っていたのよ〜ひーちゃんに京一く〜ん」
「なッ、何でひーちゃんと俺だけが名指しなんだよッ!?」
「それはね〜うふふふ〜」

 唇の端に浮かぶ微笑は言葉よりもその理由を雄弁に語る。
 ここは一刻も早く用事を済ませるのが吉だと、京一は自ら率先して交渉する決意を固めた。

「……裏密。お前に聞きたいことがあんだよ」

 すると、

「我が下に集いし知恵の精霊(キュリオテーテス)の恩恵により〜、汝が望む知識の全てを、声なき声(ナーダ)により授けよう〜。でもその前に〜」

 こちらにも聞きたいことがあると、珍しく裏密から質問を受ける。

「なッ、なんだよ。俺のスリーサイズなら秘密だからなッ」
「うふふ〜、それはもう知っているからいいの〜」
「な、何ぃ〜〜!?」

 驚愕の声と共に京一の全身を戦慄が駆け抜ける。業を煮やした醍醐から『お前は少し黙っていろ』とついには一喝され、ようやく話が前に向かって進み始めた。

「それで……私たちにききたいことって何なのかしら?」
「アン子ちゃ〜んからも話はきいているけど〜、みんな〜、八岐大蛇を見たって本当なの〜?」
「なんだ、そのことかよ。それなら見たぜ。八つ首じゃぁなかったけどよ」
「それで、霧島クンのことを須佐之男命、さやかチャンのことを櫛名田比売だって────」

 先日の事件のあらましを、京一と小蒔が代わる代わる説明する。

「…でもあれって、ホントに八岐大蛇だったのかな?」
「……………多分それはね〜」

 小蒔の投げかけた疑問について僅かばかり考え込んでから裏密が口を開いた。

「一種の憑依現象だわ〜」
「憑依……?その人間の素を呼び起こしたものじゃなかったのか」

 醍醐が、帯脇の発言と食い違うのではと首を傾げる。

「もちろん〜それも無関係ではないけど〜。帯脇って人の強い《念》が〜憑依してた大蛇の霊に〜そのさやかって子を櫛名田比売と錯覚させたんだと思うわ〜」
「確かに…出来すぎた位に神話通りの状況ではあったな…」
「うふふふふ〜、ひーちゃんだったらこの件をどう思う〜?」
「…そうね…ミサちゃんの言うように、元々八岐大蛇の《力》を帯脇が秘めていたという図式は今となっては思い浮かびにくいわ。けれども────」

 霧島と舞園の、特に霧島の《力》が覚醒した場面に立ち会った者の感慨として聞いて欲しいと前置きし、

「あの時の二人は、まさに須佐之男命と櫛名田比売と呼ぶに相応しい《力》の持ち主だったと思うの」
「うむ、確かにあの二人の協力が無ければ、俺たち五人だけでは大蛇の《力》を得た帯脇を倒すのは困難だったろう」
「むしろ、私の考えとしては、あの二人の奥底に秘められた《力》に影響される形で、帯脇の中に眠る素の部分がいつしか突出してきて、そしてそのことにいち早く気付いた何者かが、八俣大蛇の霊を憑依させる依代(よりしろ)に彼を利用したのではないかと…」

 龍麻の考えに納得したようなしないような口調で、裏密が訊ねる。

「ん〜。だったら………ねぇ、ひーちゃんは憑き物っていう言葉を知ってる〜?」
「霊的な存在が人間に乗り移ることの総称…だったかしら。でも、一般的には動物霊がもたらす憑依現象だと考えられているわよね」
「うふふ〜、ひーちゃんって、やっぱり博識なのね〜」

 龍麻と裏密とで飛び交う怪しげな会話に、四人はぽかんとした表情を見せる。ならば《狐憑き》という言葉なら聞いたことはないかと龍麻がヒントを出す。

「あ、それならボク、おばあちゃんに聞いたことあるよ。狐に取り憑かれた人は、気が狂ったようになっちゃうんだよね。たとえば『狐に化かされる』っていうのは、取り憑かれて幻覚を見せられているようなものだって」
「その通りよ。けれども憑き物は幸運をもたらすこともあるの。ほら、今日はツイてるって表現があるでしょう」

 あれは憑き物が良い方に作用している場合を指すのだと龍麻が補足すれば、間髪入れずにそんなんだったらいつでも歓迎するぜと京一が発言し一同の笑いを誘ったが、

「でも、それは稀なケースで〜」

 狐や狸・犬といった動物の霊に取り憑かれた人々は、急に暴れ出したりあらぬことを口走ったりし、その末路は発狂死もしくは憑き物に内臓を喰い荒らされて死ぬのだという裏密の言葉に、たちまち場が静まり返る。

「みんなは〜、豊島で起こってる事件のことを聞きに来たんでしょう〜。……もしかしたらあれも……」
「「憑き物の仕業!」」

 前触れも無く裏密は五人がここに来た目的を唐突に言い当てるや、五人の脳裏に同じ答えが鮮やかに浮かび上がった。

「それじゃあ、その憑き物を自在に操れる奴がいて、そいつが帯脇や豊島を往来する人々に獣の霊を取り憑かせているのか……?」
「多分ね〜。ただし帯脇って人の素が蛇なのは間違いないわ〜。だからこそ、八岐大蛇の霊を憑かせることができたのよ〜」
「それって、さっきのひーちゃんの話と繋がってくんじゃねェか」
「そう〜、ひーちゃんも触れていたけれど、その人間の素を見抜き、それに相応しい霊を自在に憑かせることが出来る人々はちゃんと存在するの〜。とはいえ〜、それは〜太古に滅びた憑依師と呼ばれた人々だけが持つ《力》なんだけれど〜」

 そういえば…と、葵が控えめに口を挟む。

「憑依師……何かで見た気がするわ、確か平安時代に活躍した呪術師よね」
「うふふ〜、ひーちゃんもそうだけど〜美里ちゃんも負けず劣らず博識よね〜」
「でも、せいぜい名前位しか覚えてないのよ。だから詳細は…」

 ならばと憑依師について裏密が手短に解説する。
 憑依師は常に己の周りに動物霊を漂わせ、好きな時好きな場所へとそれを飛ばすことが可能だという。

「犯人は恐らく、この憑依師の系譜を継ぐ者〜。そして〜豊島に渦巻く強大な怨念をその糧としている〜」
「豊島に渦巻く怨念か……、まッ、俺にゃよくわかんねェけど、豊島のどっかに潜んでいるその憑依師ってヤツを捜し出してブチのめせばいいってことだな」
「京一だってさすがだよッ。単純だけどよくわかってるじゃん」
「単純って言葉は余計だ。けど、そうと決まれば池袋に乗り込もうぜ」
「…まぁ、もとよりそのつもりだったしな。龍麻、美里、お前たち二人はどうなんだ」

 龍麻と葵の二人も異存は無く、ならば善は急げと早々に移動することにした。


「本当に、色々と教えてくれてありがとう、お陰で助かったわ」
「いいのよ〜、気を付けて行ってきてね〜。特にひーちゃん〜」
「私?」
「うふふ〜、強い意志を持つ者は取り憑かれにくいっていうし、ましてやひーちゃんなら憑依師ごときは大丈夫だと思うけど〜でも〜……」

 相変わらずはぐらかした言い方だが、これが裏密特有の思いやりなのだと、龍麻は心から感謝の念を示す。

「ありがとう、心しておくわ」
「あぁ、それからみんなにも一言〜」

 憑依師と接触する時に感情を昂らせるのは霊の侵入を容易にするだけだと、忠告の言葉を掛ける。

「だから死にたくなければ平常心でね〜」
「……お前と話してると、意味もなく不吉になってくるな」
「もうッ。そんなこと言ったら、心配してくれるミサちゃんに失礼でしょう」
「ひーちゃんに対しては心配とも期待ともいうけれど〜。だってひーちゃんが憑かれたら、一体何になるのかしら〜?ミサちゃん興味津々〜」
「…………」
「それじゃあ、お土産楽しみにしてるわ〜」

 言葉を返せずにいる龍麻に代わって、醍醐が土産とは何だと訊ねるが、

「うふふ〜、ヒ・ミ・ツ」
「……………そ、それじゃ、そろそろ俺たちは池袋へ向かおう」

 裏密の謎めいた笑みに見送られ霊研を慌しく後にする。
 窓から廊下へと差し込む日差しが形作る影はすっかりと長く───日没まで幾ばくも無いことを五人に告げていた。

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