≪壱≫
龍麻が自宅に戻ってきた時には、時刻はもう七時を過ぎていた。
自宅といってもつい二週間前に引っ越してきたばかり、しかも一人暮らしの身には、自分の家という感覚よりもまだ余所めいた感覚の方が肌に突き刺さってくる。
黙って明かりをつけ荷物を適当にその辺りに置くが、その後は何をする気にもならず、龍麻は一人で使うには広すぎる部屋をただぼんやりと眺めていた。
突然、床に放り出していた鞄の中から、携帯が耳慣れたメロディを奏でる。
「龍麻君か?」
電話の主は、アメリカにいる両親に代わって現在龍麻の後見人的役割をしている鳴瀧冬吾だった。低い、それでいて温かみのある声が、龍麻の耳に流れ込む。
東京都内の学園の理事長をしている(仔細に聞いたことは無いが、男子校とのことだった)鳴瀧は両親の古い友人でもあり、龍麻自身にとっては武術の師でもある。現在龍麻が住んでいる高級マンションの一室も、鳴瀧が都内にいくつか所有している住居の一つだった。
「学校はどうだったね。もう友達は出来たかな」
そして龍麻に真神学園に転校するよう強く勧めたのも他ならぬ彼であった。
「友達…。そうですね、親切な人達が何人もいました。でも…」
龍麻の声が、沈痛の色を帯びて震えていた。
鳴瀧は敢えて相槌を打たず、彼女が自発的に語るのを待った。
「今の私には、過ぎた存在です。それに私、もう騒ぎを起こしてしまったんです」
ぽつりぽつりと、龍麻は今日の放課後の出来事を白状する。
「普通の生徒を相手に、思わず拳を振るってしまった…。鳴滝さんに教わった武術をこんな風に使ってしまうなんて、本当にごめんなさい」
「謝ることは無い。君が自分から弱い相手を傷つけようとする人間でないことは、この三ヶ月間武術を教え込んだ私が一番よく分かっている。それに、君の行為は正当防衛であって、それも自分自身にというよりも、一緒にいた女子生徒を巻き込みたくなかったからだろう?」
あの時、現場に居合わせたアン子にまで危害を加えようとしたのを止めたかったのは事実だった。
「それに、あの場で君の助っ人を買って出た人もいたんだろう。それこそ、君が被害者的立場だったということを如実に表しているじゃないか」
「鳴滝さん…」
鳴瀧は、少し間を開けてから、次の言葉を出来るだけ噛んで含めるように語った。
「龍麻君。今の君はまだ《力》に怯えているようだが、まずは自分自身を強く信じることだ。あの時のように《力》に振り回されはしないという自信を…」
龍麻の脳裏に三ヶ月前の、あの苦い事件とその時に抱いた気持ちが、まだ鮮麗さを保ったまま駆け巡った。
あの事件を忘れたことなど、片時も無い───。
「君は私の道場で、大抵の者が音を上げる程の過酷な訓練を立派に潜り抜けた。それは君が『誰かを護りたい』と願う意志の強さの現れだと、私は感じたのだが」
<そう、あの時私は自分に誓った。二度とあのように己を見失って、《力》を暴走させないことを…。そして、あの事件のような悲劇を防ぐ為に、この《力》を使うことを…>
それが龍麻にしか出来ない贖罪の方法なのだと、事件後自分の《力》を嫌悪していた龍麻に、鳴瀧が諭したのだった。
「君の抱いた『護りたい』という気持ち、それこそが何にも勝る、最大の君の《力》なのだ」
「はい」
鳴瀧の教えは厳しかったが、その中でも特に精神力を鍛えることを重視された。意思を《力》に変えよと、その為には自分を律しなさいと繰り返し言われたのであった。
──特に、君の《力》は常人を遥かに凌いでいるのだから
確かに、龍麻は幼少の頃から、自分の中に燻る得体の知れない《力》を常に感じていた。そして、いつかそれが目覚めた時、自分はどうなってしまうのだろうという不安に怯えていた。
それらの恐怖から解き放たれるには、鳴瀧の言う通り、自分自身を鍛え上げる他には無かった。
「今回の件は君がこれ以上気を揉んでも仕方の無いことだ。第一相手を入院させること無く無力化させられたのだから、そのことだけでも私は君を褒めてあげたいよ。大丈夫、君はもう自分自身をコントロール出来るようになっている。自信を持ちたまえ」
「…ありがとうございます。こちらの生活が落ち着きましたら、また道場で稽古をつけていただけますか」
「ははは、勿論だ。君と稽古することは私自身の修行にもなるからな」
そして日常的な面で何か困ったことがあれば、遠慮無く連絡をするようにと付け加え、鳴瀧は電話を切った。
<龍の目覚めから以降、やはり宿命は彼女を見過ごしにはしないようだ。だが宿星が働いているのなら、必ずや彼女を取り巻く別の宿星達も目覚めようとする筈。それも遠からぬことだろう───>
鳴瀧は目を閉じ、今は直接語ることの出来なくなった友に心の中で語りかける。
<お前も彼女を見守ってやってくれ…>
≪弐≫
夕べの鳴瀧との会話で、幾分気持ちは救われたとはいえ、やはり教室に入るのは気が重い。龍麻は今までこういう感慨を抱いたことは皆無だったのだが。
昨日の騒動を考えると溜息ばかりが口から洩れ、どうしても教室の扉の前で足が動かないでいた。
「よォ、そんなのんびりしてちゃ遅刻するぜ」
「蓬莱寺君…」
昨日の出来事を忘れたかのように接してくる京一の、天衣無縫なまでの明るさに後押しされる形で教室の扉を開けると、小蒔と葵も変わらぬ笑顔で挨拶をしてきた。
「あッ、おはよー、緋勇さん」
「おはよう緋勇さん」
昨日の騒動は夢だったのだろうかと、一瞬錯覚を覚えたのだが、次の瞬間、
「おはよッ、緋勇さん。へへ、登校して来てくれてよかった。昨日は心配したのよ、佐久間達に連れて行かれて…」
アン子が元気よく声を掛けてきたことで、深い溜息とともに心の中でがっくりと首を下げた。
「ところで昨日の奴等とはどうなったの。京一も醍醐君も何も言ってくれないし」
「えっ、ええっと、そのッ」
言いよどむ龍麻を見かねた京一はアン子に『だから無駄だッて言ったろ』と半分からかうように言う。
「俺と緋勇との秘密は、お前みたいなヤツに気軽に明かしていいもんじゃねーからなッ」
「何よ、失礼ね。緋勇さん、あなたまでこのアホに付き合うことは無いのよ」
「あはは…」
中途半端な笑みを浮かべて、この場を切り抜けようとする龍麻に、アン子は自分が編集した新聞をプレゼントする。
「あたしの新聞には、真実しか書かないから。今度こそネタにさせてね」
ばたばたとアン子が去って行ったのを確認するようにして、醍醐が遠慮勝ちに龍麻に声を掛ける。
「…おはよう緋勇。その、実は…すまんがちょっと俺に付き合ってくれんか」
「今から?もう授業始まる時間なのに」
非難めいた口調に、醍醐は慌ててかぶりを振る。
「すまん、言葉が足らなくて。放課後俺が部長をしているレスリング部に来て欲しいんだ。その、変な意味は無いんだが」
自分の発言が転校生の、しかも女子生徒に対してする発言としては極めて不穏当であることに気が付いた醍醐は、それでも律儀に頼み込む。その姿に、龍麻も渋々ながら了承の意を伝えた。
放課後、龍麻はただ一人で醍醐からあらかじめ場所を教わったレスリング部の部室へと入る。
するとそこには、醍醐以外の部員がいない代わりに、京一がちゃっかりとリングサイドに立っていた。
「何で蓬莱寺君もいるの」
「俺は別に京一を呼んではおらんのだが、勝手に付いて来てしまったんだ」
異を唱える龍麻と、それに弁解をする醍醐を尻目に、京一は飄々とした態度で言い放つ。
「当然。俺は緋勇の保護者だからな」
「私は頼んでないんだけれど…。ところで醍醐君、他の部員は?」
『恥ずかしい話なんだが』と前置きし、佐久間らが昨日あの騒動の後、新宿の歓楽街の一角で渋谷から来た他校の生徒たちと、目が合っただの合わないだの極めて些細な理由から喧嘩をしでかしてしまい、そのことでPTAから学校側に苦情が寄せられたのだと、醍醐は説明した。そして自身は部長として、部活動を当分の間自粛することで学校側に詫びを入れた形をとったのだと…。
「ッたく、しょーがねーヤローだな。でもよ、だからって部活を休止することぁねェだろ」
「まあ、部長として責任ある対応をする必要があったからな」
「お前は堅すぎるんだよ醍醐」
「お前は柔らかすぎるがな…」
しばらくは大人しく京一と醍醐の会話を聞いていた龍麻だったが、中々自分が呼ばれたことの本筋が見えてこないので、さすがに痺れを切らしてしまった。
「あのう、用件ってそのお話なんでしょうか」
「あっと、そうだった。緋勇、突然で無礼なのは先刻承知の上でお願いする。俺と一勝負してくれないか!」
「勝負って……私と?」
醍醐の言葉に唖然とする龍麻だが、京一はははんとしたり顔をする。
「そうか分かったぞ。お前、あの騒動初めから見ていたな。それで最初は俺が奴等とどう闘うか観察しようと思って、わざと姿を見せなかった。ところがだ、そこに緋勇が度肝を抜くような強烈な技を佐久間に使ったもんだから、お前の興味は緋勇に移った。大体、お前がそんなににやけた顔をしている時は、プロレス中継を見ている時か、強いヤツを目の前にしている時ぐらいだからな」
「…京一。お前そんなに頭が切れるのに、何で学校の成績は最悪なんだ?」
「最悪は余計だッ。似たり寄ったりの成績のくせに」
当人を脇において、またまた話を逸らしてしまったことに醍醐はばつの悪い顔をする。
「再三済まんな、緋勇。とにかく女性にこんな頼みをするのは非礼だと十分承知しているのだが、どうしても俺はお前の技を直に見てみたいんだ」
「こうなった醍醐はしつこいぞ。諦めろ、緋勇」
土下座までしかねない勢いでお願いする醍醐にすっかり弱った龍麻は、あまり期待しないこと、この勝負は他言無用にすること、その二点を約束したらという条件を付けて勝負に応じた。
「そうか、分かってくれたか。お前は本当にいい奴だな」
満面の笑みを浮かべて喜ぶ醍醐の様子を見、彼は純粋な武道家としての本性から自分との勝負を望んでいるのだと、龍麻はその時実感した。
「という訳で、蓬莱寺君には退出して欲しいのだけれど」
「俺が?いいじゃんかよ、減るもんでもねェし。それによ、審判ってもんが必要だろ、勝負には」
京一には、2メートル近くある大男と、その半分くらいの華奢な体格の女子生徒との異種格闘バトルが、世間では滅多に見ることの出来ない見物であることが分かっていたので、ここで素直に『はいサヨナラ』と帰る気持ちはさらさら無かった。
「分かりました。それじゃあ、さっさと始めましょう」
スカートの下にはスパッツを履いているから、着替える必要も無いと龍麻は、すぐに勝負を始めようと切り出した。
「よしッ」
軽やかな動きでリングに上がった龍麻に続き、醍醐も反対側コーナー側からリングに上がり、二人は対峙した。
大きく身構える醍醐に対し、龍麻は自然体のままで立っているようであったが、そこがかえって隙を窺うことができず、醍醐はそのまま固まってしまった。
先に攻撃を仕掛けたのは龍麻のほうだった。
素早く掌打を左右に叩き込むが、佐久間には効果的だった技が、醍醐の鍛え上げられた鎧のような筋肉に阻まれ、ダメージは半減以下になっているようだった。
龍星脚の方が破壊力は上だったが、自分から接近戦に持ち込んだ今、この技の前にあるほんの僅かな隙に、醍醐からの破壊力あるミドルキックやハードブローの餌食になるのは避けたかった。
「すげえ」
京一は目を爛々と輝かせながら呟いた。
傍目には双方とも決定的な一撃が繰り出せず一進一退に見えた。
だが、京一のように見る者が見れば、醍醐が己の肉体の頑丈さに任せて龍麻の技を受けているのに対し、龍麻は醍醐の技を、巧みに《氣》を盾にして受け流している辺り、技量的には明らかに龍麻の方が凌駕していた。
醍醐は幾度となく攻め立てる己の技が、ことごとく阻まれていくにつれて、相手が女性であるという気兼ねの気持ちが薄まり、反対に想像以上に手強い相手との真剣勝負に、背筋がぞくぞくする程の快感がこみ上げて来た。
一方の龍麻には醍醐との勝負を楽しんでいる気持ちは薄かった。
相手の実力は直ぐに掴んだのだが、肝心の自分の実力を量りかねているので、どの位の技を使ってよいものか困惑していた。しかも眼鏡に表情を隠している龍麻からは目立った疲労感は伝わってこないが、体力面での男女の差(というよりも醍醐の驚異的な体力)から、勝負を長引かせることは龍麻を劣勢に追い込むことになるのも確かであった。
<いつもは鳴瀧さんという、とんでもなく強い人を相手に稽古をしていたから遠慮なく技を使っていたけれど、加減しながら闘うのってまだまだ難しいものだわ…>
決定打を放つ決意を下せないまま龍麻は軽く息を吐き、《氣》を整えようとした時、不意打ちの形で醍醐がスピンキックを仕掛けてきた。
予想していなかった方向からの攻撃に、防御できないと龍麻が覚悟した刹那、体内の《氣》が無意識に別の形をとっていた。
「…ッ!?」
京一の眼前で醍醐の100キロはある巨体が吹飛び、轟音と共に5メートル先の床まで叩きつけられた。龍麻の体内で急激に高められた《氣》が、掌から相手目掛けて衝撃波となって打ち付けられる『掌底・発剄』である。
「おいッ、醍醐ッ!……う〜ん、完全に気絶してるな」
「気絶…。どっ、どうしよう…。やり過ぎちゃったわ」
無意識の内に放った自分の技の思いもしなかった破壊力に、龍麻は事態をどう収拾すればよいのか分からず、まずいことをしたとただ立ちすくむのみであった。
「…あいつはタフだから、しばらくすりゃ起き上がってくるさ。それに、もともとこれはあいつが言い出した勝負だ。どんな結末だろうが、文句を言う筋合いでもねェだろ。後は俺がこいつの面倒を見てやっから、緋勇は先に帰ってろ。あんましここにいると、妙な噂が立つかもしれねェし」
「う、うん。でも…」
言いよどむ龍麻を半ば強引に部室から追い出すと、京一は部外者が不用意に入って来ないよう、入り口の鍵をかけた。
暫くすると、京一の言葉通り醍醐は意識を取り戻した。
ただし、まだ勝負の余韻が残っているのか、マットの上に大の字に転がったままだったが。
「大丈夫か醍醐。しっかし見事にやられたな〜、真神の醍醐ともあろう男が。相手が一介の転校生、しかもそれが女子生徒だなんて知られたら、他の連中はどう思うだろうな」
「…ああ」
「あいつ、佐久間には使わなかった技、使ってたな」
「…ああ」
「まあ、そんだけお前が手強かったってことなんだろうが」
「…ああ」
「………醍醐、まだ頭の中が夢の世界を彷徨ってんのか?それとも自分が負けちまったのがそんなにショックなのか?」
醍醐は京一の方に顔は向けなかったが、清清しい表情で答える。
「真っ向から勝負を挑んだ結果だ。負けても悔いは無いさ。もっともお前だったら勝てたかもしれんが」
「冗談。俺なんか1分も持たねェでヤラれてるぜ」
「はははッ、食えない男だ。心にも無いことを言って…。…緋勇龍麻か。アイツの強さは本物だな。それは実際闘って見てよく分かった。…いったい何処であんな技を覚えたんだ」
「…アア」
「完敗だったというのに、この胸の中に流れる清清しい風は。…久し振りだな、こんなに気持ちが晴れたのは。不思議だ、本当に気分がいい…」
そうつぶやくと、醍醐は再びまぶたを閉じた。
「おいッ、しっかりしろ醍醐ッ!冗談だろ〜こんなデカイ奴どうやって俺一人で保健室まで担いでいけっていうんだッ!ええい起きろ〜」
またしても意識を彼方に飛ばしてしまった醍醐を前に、京一は龍麻を早々に帰らせたことをちょっぴり後悔しつつ、どうしたものかと途方にくれていた。
≪参≫
一昨日に引き続き、昨日も(無意識とはいえ)古武術で習得した技を使ってしまったことを激しく後悔している龍麻は、まさに屠殺場に引き出される家畜のごとく、絶望的な気分に浸され教室の中に入っていった。
<もう駄目…いくら何でも蓬莱寺君や醍醐君は呆れ返っているに決まっている>
目的があって古武術を学び、更にその師の助言に従いこの学校に転校してきたのだから、もう少し慎重に振舞うべきだったと、後悔する事柄がいくつも頭の中を通り過ぎていった。
どんよりと憂鬱のオーラを纏った龍麻は、力なく自分の席に座ると、葵や小蒔の挨拶に形ばかり礼儀正しく応え、そのまま誰とも目線を合わせないように、ひたすら教科書を熱心に見詰めるフリをして、時が経つのをただ待っていた。
<これでいい。友達なんて作れば、彼等はまたあの時のように事件に巻き込まれてしまう…親しい人が傷付けられるのを見るのは、もう沢山>
HRではマリアが、二人の生徒が行方不明になっていることと、その二人が最後に目撃された場所が旧校舎近くだった為、付近への立ち入りを禁止するという職員会議での決定事項を伝達していたが、考え事に没頭していた龍麻は、殆ど上の空で聞いていた。
「…サン、緋勇サン」
マリアに名指しされていたことにようやく気付き、慌てて返事をする。
「チョット話が有るから、放課後職員室まできてちょうだい」
言いつけどおり放課後職員室に足を運ぶも、中にはマリアはおろか他の先生方もいなかった。仕方なくマリアの席の近くで経って待つこと5分、一向に誰も現れる気配が無かった。
これ以上待つのは時間の無駄かと踵を返し出入り口に向うが、
「ん──?お前は…緋勇龍麻」
突然白衣の男性が出入り口の扉を開けたので、もう少しでその人物とぶつかりそうになる。
「…犬神先生…」
この数ヶ月《氣》の修練を積んだ成果から、他者の《氣》を自然と感じ取れるようになっていたにも関わらず、一昨日に続いて今日もこの人の《氣》だけは何故だか全く掴めない。
<不思議な人だわ…>
龍麻の沈黙をマリアが居ないことに対する疑問符と感じたのか、先程教頭と話をしていたからもうじき来るだろうと言い置くと、犬神は再び職員室を出て行った。
「女性の前じゃ、煙草はふかせんからな。それよりマリア先生には気をつけるんだな…」
「……?」
犬神の忠告に思いを馳せる間も無く、入れ替わるようにマリアが職員室に戻ってきた。
「ゴメンなさいね、待たせてしまって」
マリアは大輪の薔薇の花のような艶麗な笑顔を向けると、龍麻に隣の椅子を勧め、親しげな口調で話し掛ける。
「龍麻サン、どう真神学園は。もう慣れたかしら」
内容は転校生に対する極々普通の質問だった。どうやらここ2日間の騒動は先生の耳には達していないようで、龍麻はほっと安心した。
「友達も何人かできたみたいね。ふふふ、蓬莱寺クンはああ見えても優しいコだから」
「…そうですね」
確かに転校以来、一番身近で気をつかってくれていたのは蓬莱寺君だったなと心の中で反復する。
「それと、美里サンのことなんだけれど…」
「えッ」
「彼女、クラス委員で生徒会長でもあるから、その分イロイロと悩みが多いと思うの。緋勇サンが友達になってくれたら心強いと思うわ」
何故私に?と言葉には出さないが表情が少し揺れる。
「…転校してきたばかりのアナタにこんなことを頼むのはおかしいとは思うのだけれど、アナタなら他人の痛みがよく分かるコだと思ったから。ふふふッ、今日は時間を取らせてゴメンなさいね、それじゃ気をつけてお帰りなさい」
龍麻は下駄箱で靴を履き替えながら、マリアはああ言いながらも、実際のところ、心を閉ざして他者を受け入れようとしない自分に対して、もっと周囲に気をくばりなさいと言下に注意したかったのじゃないかと思い至った。
<目を閉じても、私の周りの世界は無くならない…か。だったら──>
明日は勇気を持ってこちらから声をかけてみようかな、などと考えながら正門に向かって歩いていると、すっかりお馴染みの人物が行儀悪く門柱に腰掛けていた。
「よッ、遅かったな緋勇。実はお前を待ってたんだ。どうだ、一緒に帰らねェか」
にやっと、何やら含んだような笑みを浮かべている。
「え…ええ。別に…構わないけれど」
「へへへッ、俺達が行きつけにしている美味いラーメン屋があってよ、緋勇を連れて行きてえなッて思ったんだ」
「俺達…?って、あっ、醍醐君」
「うむ、その、…元気にしていたか緋勇」
大きな体に似合わず繊細な精神の持ち主の醍醐は、今日一日龍麻の様子が沈んでいたのは、昨日の自分の無茶な申し入れのせいだったのではと責任を感じてずっと気を揉んでいたのだが、いざ本人を目の前にすると適切な言葉が浮かんでこなかった。
<さっきまで同じクラスで授業を受けていた人間に元気か、だなんて…>
その不器用な言い方が龍麻の久しく錆び付いていた笑いの琴線に触れ、クスっと小さく声を出して笑ってしまった。
「ごめんなさい、笑っちゃって。…醍醐君こそ大丈夫?私、昨日手加減無しで、その、技を出してしまったから…」
「大丈夫、醍醐なんざちょっとやそっとのことで壊れたりはしねェぜ」
醍醐の厚い背中をバンバン勢い良く叩きながら京一が笑い飛ばす。
「…だそうだ。それに、もともとこちらから無理言って頼んだことだ。緋勇が気に病むことは無いさ」
「ありがとう、醍醐君」
「おっしゃ、それじゃラーメン屋へレッツ…」
『ゴー』
見事な呼吸の合わせ方で、小蒔が何時の間にか京一の後ろに立って声を揃えていた。
「こらあ、京一。放課後の寄り道は校則で禁止されているだろッ」
「ッて、驚かすなよ小蒔!…大体お前だって一緒に『ゴー』とか言ってたろ」
「ベーッ、何も知らない転校生に悪いことを教えるのとは訳が違うよ」
「俺はだなァ、転校して間も無く、一人淋しい思いをしているであろう緋勇を慰めようと思って…」
うんうんと頷きながら、腕を組んで真面目な顔をしてみせる。
醍醐と龍麻は顔を見合わせて、そうだったかと目と目で会話する。
「じゃ、ボクも一緒でいいでしょ。楽しみだな〜」
「だああッ、俺達は男同士(?)の友情を確かめあってんだ。お前はお邪魔なんだよ!」
京一は、しっしっと、手でノラ猫を追っ払うかのような仕草で小蒔に退散するよう促す。
「ふぅ〜ん。そうなんだ〜」
対する小蒔は、すかさず深呼吸を一つすると、
「犬神センセーーー、蓬莱寺がですねーーー」
「あッ、馬鹿小蒔ッ!!!」
咄嗟に京一は小蒔の口を手で塞ぐ。
もがもがと苦しそうにしている小蒔を見兼ねて、慌てて醍醐が割って入る。
「ッぷはー。京一〜ボクを殺す気!?」
「お前がくだらネェこと言うからだろ」
「ムカッ!!」
再び深呼吸を始めた小蒔を前に、京一は諦めざるをえなかった。
「分かった、分かったよ!お前を連れて行けば良いんだろ」
「やった〜。当然ラーメンは京一の奢りだよねッ」
小蒔は声と身体を嬉々として弾ませると、ここまで傍観者に成り下がっていた龍麻の腕を捉え、さ、行こッと歩き始める。
その後姿をしばし呆然と見やる男たち2人だったが、
「(…半分お前も金出せよ、醍醐)」
「(…ああ、分かってるって)」
密談が成立すると、直ぐに二人を追いかけ、やがて四つの影は賑やかに重なり合って校門から遠ざかった。
|