≪壱≫
<あれは夢だったんだろうか…>
女と別れてから、もう幾日過ぎ去っていったろう。浮世の波に洗われて行くうちに、次第に自分は幻を見ていたんじゃないかという気がしてならない。
その一方で、現実の愉しみには、まるで身が入らない。あれ程盛んだった女遊びも砂を噛むような味気無さしか感じない。
「最近の京梧はどうもさっぱりだねえ。何やっても上の空っていうのか、って聞いてるのかい?」
女の声と共に、ぎゅぎゅっと鼻をつままれる。
「痛てッ」
その痛みに気持ちが現実に戻ってくる。目前には、かれこれ二年近く付き合っている女が呆れた顔をして覗き込んでいる。
「ああ、聞いてるぜ。お前の三味線はいつ聞いてもサイコーだぜ」
「…三味線なんて弾いてなかったけど」
焦って取り繕うとする京梧に流し目で釘を刺すと、女は傍らに置いていた三味線を膝の上に抱える。
「いいよ、今からたっぷりアタシの三味線聞かせてあげるよ」
「…異名通り、そうやってっと弁天様みてェだな」
女は実の名をお藤といったが、この世界では緋牡丹の弁天姐さんといった方が通りは良かった。名手の呼び声高いその音色に京梧は聞惚れてしまう。
歳は自分と同じ位だが、豊満な肉体と妖艶な顔付きで歳以上に大人びた印象をあたえるこの女は、元はちゃんとした大店の令嬢として何不自由なく暮らしていたところを跡目争いやら何やらで零落したという噂だった。もっとも本人は今の境遇について「自分の性にあっているから」とかなり割り切っているらしく、そのさっぱりとしたアネゴ肌の気性と、華やかな容貌で今では江戸でも指折りの売れっ子芸者になっていた。
「…また、他のこと考えてる」
「今度は違うぜ。アンタのその三味線と、今江戸で一番の名人と言われてる、えっと何つったかな、雷…雷…?」
「雷音(らいと)かい、あいつとだったらこないだ一緒に贔屓(ひいき)の客の前で顔合わせたよ。うん、あいつも中々可愛いヤツだったね」
「相変わらず年下の男が好きな姐さんだな」
「馬鹿、アンタの考えているようなそんな間柄じゃないよ」
冗談めかしているが、京梧はお藤がたった一人しかいない実の弟を何よりも大事に思っていること、彼を一人前にする為に、敢えてこの世界に身を投じたことを知っている。
その弟も今は学問の為、遠く長崎の方に行っているが、時折届く文を見ている時の幸せそうなお藤の顔は歳相応の可愛らしさがあった。
「それより、今は違うってことは、やっぱアンタ別の女のこと考えてたでしょ。さあ白状おし。弁天っていうのはね、男と女の恋仲を裂く女神様なんだよ。あんまし怒らせない方がアンタの為ってもんさ」
仕方ねェ、と京梧は数日前の出来事をかいつまんで話す。
最初は軽い気持ちで話を聞いていたお藤だったが、次第に興味をそそられたらしく真剣な眼差しに変わっていった。
「…柳生宗崇って男の噂ならアタシも聞いたことがある」
代々徳川の剣術指南を務める柳生家の長男として生まれながらも庶子という出自の為、家督は弟が相続したのだが、剣術の腕前では並ぶものはいないと謳われている。しかし、その剣術が家訓で禁じられている秘伝を盗み出したものだとして、現在では柳生家から勘当という扱いになっていた。
その彼が最近、幕府のお偉方と密かに連絡を取り合っているらしい…。
「ま、こういう仕事してると色々裏情報が流れてくるのさ。それでね、最近彼の身辺で別の動きがあったらしいんだけど」
「まさか、女が出来て所帯持ったとか、そんなオチじゃねえだろうな…」
京梧の脳裏に桜の木の下で出会った女の面影がちらつく。
「ふふふ、そんな程度の話をアタシがすると思ってんの。…確かに、彼は一年位前から新宿の片隅である女性とひっそりと暮らし始めている。ただね、アタシにもよく分かんないんだけど、その女には月毎に必ず桜ケ丘診療所の医師が遣わされているとか…それも、かなりお偉方の指示らしいんだけれど」
アタシの友達がそこで手伝いをしているから、情報としてはまず間違いないとお藤は言った。しかも医師は診療後、必ず役人の所に報告に行っているらしい。
「あそこは表向きは助産を専門にしている所だけど、無位無職のただの侍の所にわざわざお声がかりで医師を遣わすなんて妙じゃない?」
「…柳生家が跡取でも欲しいって思ってんじゃねのか?」
想像もしたくないといった表情で京梧が応える。
お藤はその様子に同情を込めた薄笑いを浮かべて話を続ける。
柳生家の当主には既に二人男子が誕生しているし、第一、一緒に住みだしてからすぐに医師の問診があるのがおかしいことじゃないかと指摘する。しかも、夫とおぼしき柳生宗崇本人はほとんど家を留守にしている様子だし、たまに女の匂いがする時も、場所は吉原などで目撃されているくらいだ。
「つまり、あの女には何か訳ありで、柳生もしくは幕府のお偉方に保護されているっていうことか?」
「……アタシに言わせりゃ、保護っていうよりも監視されてるって感じがするけど」
それだけ厳重に監視されている女といえば大奥の女位しか浮かばないけどね、とお藤は思いつきの様な軽い口調で言葉を添えた。
それに適当な相槌を打ちつつ、京梧は今の話にはまだ裏があるような奇妙な違和感を感じていた。監視されているというのなら、何故あの時、彼女はたった一人で目が悪いにも関わらず、目黒まで来ることが出来たのだろう。ましてや誰かのお手つきだった彼女を柳生宗崇が拝領したというのならば、一年過ぎたらもう子供が生まれていても不思議ではない。しかし、彼女には様子からも母親になっているという感じはまだ見受けられなかった。
<彼女、たつきは一体何者なんだ>
疑問が膨れ上がるにつれ、ついに京梧は我慢できず愛刀を携え部屋から慌しく出て行く。
「悪いな、また今度ゆっくり相手してくれよッ。じゃあな!」
ばたばたと音を立てて表に飛び出して行った京梧の後姿を見詰めて、お藤は一抹の淋しさと同時に、姉が弟を見守るような優しい気持ちにも浸っていた。
<人に夢と書いて儚(はかな)いって何かで読んだことがある。…でも夢がある内はそれを放すんじゃないよ、京梧>
≪弐≫
その日最後の授業、生物の授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
「それじゃ、今日はここまでにしよう。今日のレポートを忘れた奴は明日必ず俺の所へ持って来い───特に蓬莱寺」
「へ〜い」
京一はいつもの様に気の無い生返事を返すと、犬神が教室を退出したやいなや、真後ろの席に座っている龍麻の方に体を向けて、ふてくされた顔で愚痴をこぼす。
「畜生、犬神の奴絶対に俺のこと目の敵にしてやがるぜ。その証拠に俺だけ4回も当てやがって」
指されるまで熟睡してたくせに、自業自得だよ、とすかさず小蒔が口を挿む。
「だぁってよ。午後の授業なんて眠いに決まっているぜ。ボーっとお空を眺めてオネーちゃんのこと考えてだな…の〜んびりしたいもんなんだ。って、優等生のひーちゃんに言っても無駄か」
そう言いながら、京一はさっきの授業中に見ていた夢の内容を思い出そうとしたが、はっきりとは思い出せなかった。
「ははは、大分荒れてるな京一。どうせレポートのレの字もやってないんだろう」
「……」
ひーちゃん見せてくれと泣き付いてきたが、龍麻は早々に提出してしまったので、もう手元には無いとあっさり断る。
「それにしても、どうして京一が犬神先生をそこまで嫌うのかボク理解に苦しむよ。ひーちゃんは犬神先生のことどう思う?」
「言っていることは結構正論だと思うけれど、何となくミステリアスな存在に思えるわ」
「やっぱそう思うよね、実はボクもちょっと興味あるんだ」
「単に陰気なだけだろ。だいたいマリア先生のケツばっか追っかけて」
京一の意見に、小蒔はむしろマリア先生が犬神先生を気にしているような気がすると反発する。
「…ところで美里は何処へいってるんだ」
相変わらずの二人の水掛け論に、醍醐は会話の流れを変えようと試みる。
「葵なら生徒会の広報の関係で、新聞部に行くっていってたよ」
「新聞部〜?あんなトコ行ったら、アン子にヤられちまうぞ」
相変わらず無茶苦茶のことを言っている京一に、三人は呆れ顔をしていると、そこに葵が用事を済ませた為、教室に戻ってきた。
「どうしたの、皆集まって」
そう微笑みながら話し掛けてくる葵の顔色は、どことなく精気に乏しく青白い。
疲れているのではないかという醍醐や、小蒔と龍麻は早く家に帰って休んだ方がいいと気遣う小蒔や龍麻に対し、しかし大丈夫と応える。
「ありがとう。…もうすぐアン子ちゃんも来るから、皆で一緒に帰りましょう」
その言葉通り、おっまたせェーとアン子は元気な口調で3-Cの教室に入ってきた。
「うるさいのが来たぜ」
「何よ京一。辛気臭い顔して」
「俺はおめーと違って、悩み多きふつーの高校生だからな」
およそ一番似合わない科白を吐く京一に、アン子は、あたしだってたまには目覚ましや原稿から逃れて思いっきり眠りたいことぐらいあると、こちらもやや弱気なことを言う。
「昨日だって一晩中原稿書いてたから眠たくてしょうがないわ〜。龍麻だって何も考えず一日中寝てたいって思う時有るでしょ」
「うん、まあ、そうね」
あれ以来そんな幸せな時は滅多に訪れていないけれど、と心の中でそっと付け加える。
「夢も見ないでゆっくり眠りたいっていう気持ち、ボク分かるな。昨日、ヘンな夢見たから何となく寝不足気味ですっきりしてないんだ」
どんな夢、とアン子が訊いてきたので、小蒔は昨夜の自分の見た夢を、記憶を手繰り寄せるように話し出す。
「何だか分かんないけど目の前に道があって、で、どっかに行こうとしてるの。どんどん歩いていくと、道が途中で二つに分かれてて、さらに行くと開けた場所に出たんだ。そこには乗り物がいっぱい並んでて、えっと、たしか列車や飛行機、それにバイクもあったと思う。で、どれに乗ろうかなって悩んだんだけど、結局歩いていくことにして。その道がまた長くて、歩いている内に疲れて目が覚めちゃったんだ」
「飛行機の隣にバイクかよ、滅茶苦茶な夢見てんなお前」
「うるさいなッ京一。夢なんてそんなモンだろ」
「しかし、疲れて目が覚めたなんて、桜井、お前何か悩み事でもあるのか」
「醍醐クンまでそんなこと言って、大袈裟だな〜」
「そんなこと無いわよ、桜井ちゃん。夢は心の奥にしまわれた意識の象徴だっていうわよ。」
夢なんてガラクタの寄せ集めじゃねえかという京一に、アン子は昔から夢は神のお告げ、魂の働きと云われていると生真面目な口調で説明する。
「幻象心理学…。もとはフロイトが提唱した深層心理学っていうやつかしら」
龍麻は夢にも詳しいのね、と言うとアン子は良かったら夢を分析してみようかと小蒔に提案する。
「え、ホントッ。お願い教えて〜」
「OK、それじゃ解説するわね」
どこかへ出かけようということは、旅立ちや人生の漠然とした予告を示している。
乗り物や歩くということはその人の人生の過ごし方、行動の仕方を象徴する。
列車はレールに乗った無難な人生。バイクは機動性と自由、危険。飛行機は解放。
「でもボク、結局歩いたんだけど」
「それが桜井ちゃんらしいっていえば、らしいところね。歩くってことは、自分の力で道を切り開くっていうことを表しているわ。でも、途中で目が覚めたようだけれど、もしかして人生に迷いが有るのかも…」
「うーん。もうじき進路指導も始まるし、正直どうしようかってまだ悩んでるんだよね」
高校三年生ともなれば、進路選択は避けられない命題だ。もう間も無く第一回目の希望調査提出も迫っている。
葵は大学進学を志望しているが、それでも何をしたいのかはまだはっきり決められないでいるという。
その点、ジャーナリスト希望を掲げているアン子は大学進学に対してもはっきりとした展望がある。
「龍麻もやっぱり進学か?」
「ひーちゃんのことだから、やっぱり東大目指してるのかな?」
「そんでよ合格発表の時、胴上げしたりして。俺も一緒にTVに映っちゃうかもなー」
俺達まで賢い奴等に見られるかもな、とはしゃぐ京一に、そんな木刀持った怪しい男が東大の構内に入れる訳無いじゃないとアン子に冷たく宣言される。目下学年首席の葵を上回る秀才振りを発揮している龍麻である。仲間たちの間でも当然のことのように大学に進むだろうと考えられていた。
だが、当の本人は淡々とした表情でまだ決めていないと言い放つ。
「大学行ってもやりたいことが見つからなかったし…」
「た、ってどういうこと?」
呆気に取られる一同を前に、龍麻は首を激しく振って、気にしないでと笑って誤魔化す。
実は龍麻はアメリカ時代に飛び級で二年早く高校を卒業して、16歳の段階で一度ハーバード大学に入学していたのだった。もっとも、その後諸事情からすぐに退学し日本に戻ってきたのだが、それは皆には内緒の話だった。
<あの時から鳴瀧さんにはお世話になりっぱなしよね…。日本の高校に入れたのも鳴瀧さんのお陰だし>
取り合えず今は四年制大学を目指すと龍麻は強引に話を締めくくる。
「まあ、俺は勉強を教えてやることはできんが、がんばれよ。それにしても夜見る夢に、将来の夢…。夢と一口に言っても色々とあるな」
「こうやって考えると、夢ってなんだかステキだなァ」
「夢はいつか醒めるから夢なのよね。それがもし、醒めなかったら…」
「何か気に掛かることでもあんのかよ?」
京一の問いに、反対にアン子は最近墨田区周辺で起こっている事件を知っているかと五人に尋ね返す。
「原因不明の突然死や、謎の自殺が頻発しているというアレか」
「それが夢と何か関係あんのか」
京一の発言に、醍醐はまさかまた───と顔色を変える。
「まだハッキリしたことは言えないけれど、ここ一週間で6人。警察もはっきり公表はしていないんだけれど、あたしが仕入れた情報だと、死んだ人達には奇妙な符号があるの。それが『夢』よ」
前日の夜までは何事も無かった人が、翌朝布団の中で冷たくなって発見されたこと。
自殺者の中に夢見に悩まされてた人が多かったこと。中にはその為に気が触れて自殺に及んだ者もいる。
夢を見ながら死んでいく人、夢を残して自ら命を絶つ人。
全ての人が夢に関わってその命を落としている。
しかも、それらが墨田区とその周辺に集中して発生している。
「犠牲者って、学校関係者や、ボク達と同じ位の年の子が多いよね───まさか、渋谷の事件と同じように誰かがやってるのだとしたら」
「他人事とは考えにくいでしょ」
黙って頷く一同だったが、その時葵がさらに顔色を悪くしていたのに小蒔が気付いた。
「葵、どうしたの顔が真っ青だよ───」
「おいッ美里!!」
皆が注目する中ぐらりと倒れようとする葵を、龍麻は慌てて抱き止める。
腕の中の葵は完全に気を失っていた。
「《氣》が弱っている…。でも、私は他人の回復までは出来ないし…早いところ保健室に連れて行かないと」
「ボクが悪いんだ、調子に乗って夢の話なんてするから…」
小蒔は半分泣きそうな表情で、最近葵が夢のことで悩んでいたということを告げる。
「葵、笑って言っていたから気にしていなかったんだけれど…。最近怖い夢を見るって。起きた時にはほとんど忘れているんだけれど、時々眠るのが怖い位だって」
もしかして───と皆は思ったが、その予想通り、その悪夢は葵が墨田区にあるお祖父さんの家に遊びに行った頃から見始めたのだと小蒔が話す。
「それだったら、保健室よりも、霊研に行ってミサちゃんに診てもらった方がいいんじゃない」
アン子の提案に、京一と小蒔はこんな時に何を言ってんだと猛反対する。
「こんな時だからじゃない。こんな尋常でない出来事なら、ミサちゃんの得意分野でしょ」
「…裏密を頼るのは不本意だが、この場合は致し方ないかもしれんな」
醍醐は不承不承という表情で、アン子の意見を支持する。これで意見は二対二に分かれてしまった。
「後は龍麻の意見を聞かないとね、どうする?霊研それとも保健室に行くの」
「……まずは葵を保健室のベットで寝かしてあげる方がいいと思う。それから裏密さんに保健室に来てもらうのはどうかしら」
至極もっともな意見に、一同はまず保健室に行くことを選択した。
京一が葵を運んでやろうという言葉を丁重に辞退して、龍麻は醍醐に葵を運んでもらうように頼む。
「京一君、ぶつぶつ文句言っていないで、教室のドアを開けてくれる」
「へいへい。おい、醍醐いつでも替わるぜッ」
京一を先導役に、全員保健室へと向った。
保健室には誰もいなかったが、構わず、まずは葵を空いているベットに寝かせて、それから本当に裏密を呼ぶべきなのかを話していると、犬神が保健室で何を騒いでいると中に入ってきた。
「なんだお前等か。うん?そこで横になっているのは美里か」
犬神に相談しようかと悩んでいると、犬神は珍しく好意的な顔をして、俺でよければ診てやってもいいがと言ってくれた。
「《氣》の力が弱まっているな…」
「ひーちゃんと同じことを言ってる」
そうか、と犬神は短く応えると、役に立てるか分からんが、まずは話を聞こうと言ってきた。
小蒔は葵が最近怖い夢を見ていること、そして今皆で夢の話をしている時に突然倒れたと事情を話す。
「夢が怖い…。成る程な、それで《氣》の力が弱まっているのか。───最近美里が墨田区に言ったことは無いか?」
犬神が墨田区の事件の話を持ち出してきたことに、一同は吃驚した。
「先生は何か思い当たることがあるんですか」
アン子が一堂を代表して質問する。
「睡眠の状態を脳波で表すとどうなるか、知っているか」
「…除波睡眠(ノンレム)と逆説睡眠(レム)ですか」
犬神はそうだと言うと、眠りの構造についてざっと説明をした。
眠りはノンレムの最終段階で最も深くなり、そして覚めた時の脳波と同じ状態をレムという。
この二つの睡眠パターンが移行する時、人の体には急激な体内変化が起こる。
それは眠りが浅くなってくると脳の機能が活発になる
──つまり、循環機能の働きが増し、血圧上昇や脈拍増加などが起こる。
「その時に、恐怖や不安を引き起こす夢を見ると、どうなるか?」
機能の急激な変化が、急激な圧迫や過度のショック、内臓出血などの症状を引き起こす。
「じゃあそのタイミングを見計らって、夢を自在に操ることが出来たら、人を殺すことも…」
アン子の言葉が仲間たちの胸に突き刺さる。
犬神は懐から煙草を取り出し、口に咥えながら【桜ケ丘中央病院】を知っているかと問い掛けてきた。聞き覚えの無い病院名に四人は首を傾げたが、約一名はそっぽを向いている。
「ふッ、蓬莱寺は知っているようだな。そこの院長を尋ねるんだ」
「院長〜〜〜!冗談じゃねェ」
素っ頓狂な声を上げる京一に、知り合いなのと小蒔が声を掛けると、
「知り合いだなんて、そんなケガラワしいッ」
吐いて捨てるように言い、京一は後ろを向いてしまった。
「…あそこは霊的治療といって、普通の医学では解明できないような、魂と氣に影響する病気を治療してくれる。そこに行けば美里の衰弱の原因も分かるかもしれん」
アドバイスをしてくれた犬神に礼を言ってから、勘弁してくれと喚いている京一を引き摺るようにして、一同は教えられた病院に急行することにした。
≪参≫
学校からタクシーに分乗して15分ちょっとの距離の所に、教えられた桜ケ丘中央病院があった。病院前まで来てもなお往生悪く、京一は中に入るのを渋っている。
「ここは化けモンの棲家なんだ。うかつに入ると…、特に醍醐、お前が危ない」
「何ビビッてんの、アンタらしくない」
「京一、キミが襲われて葵が助かるんなら、ボクは迷わずそっちを選ぶよ」
情け容赦の無いアン子と小蒔の言葉に、味方のいない京一は半ばヤケクソの様子で中に突入する。
意気込んではみたものの受付には看護婦も患者の姿も見当たらず、ひっそりとしている。アン子が声を掛けると、ようやく奥からぱたぱたという音を立てて看護婦らしい女性が出てきた。
ほっとしたのも束の間、
「いらっしゃいませ〜」
のほほんとした口調で看護婦らしからぬ科白をしゃべる彼女に全員その場で脱力してしまった。
「わあい、お友達がいっぱーい、舞子嬉しい〜。ふふッ、ゆっくりしていってね〜」
「あのねえ…」
アン子が口を開きかけると、奥の方から震動と共に更に誰かがやって来る気配がした。
何事、と身構える一同の中で、京一だけは正体が分かっているらしく、
「来たぞ来たぞ…」
お経のように呟くと、京一は醍醐の背後に隠れるように立つ。
「うるさいよッ、このガキ共。ここは病院なんだ」
現れたのは、龍麻たちの想像を絶する、巨体の女性であった。
「わしがここの院長の岩山だ」
「へへ、わたしは高見沢舞子でーす。鈴蘭看護学校に通っている二年生で、ここで見習い看護婦やってま〜す」
はしゃぐ高見沢を岩山はお黙りと一喝すると、ここは産婦人科だが、誰がここに用があるのかねと訊いてきた。
「産婦人科〜ッ?」
たじろぐ一同だが、確かに入り口の看板にもそう書いてあったと思い出す。だが、犬神の話が正しいとしたら、ここで引っ込むわけにいかないと、醍醐は岩山に事情を説明する。
「…ほう、真神か。道理でその制服に見覚えがあると思った。で、誰にここを紹介してもらったんだい」
「生物の犬神先生です。ご存知ですか?」
「ああ、少し…。それよりも、いい身体してんねェアンタ。名前は?」
「は、はい醍醐雄矢といいます」
それを聞いて岩山はヒヒッと獲物を見つけた猛獣のような笑いを浮かべる
「何か武道やってんね、よく引き締まって美味しそうな身体だね〜」
「いや〜ん、院長センセってば、エッチぃ」
岩山と高見沢の会話を聞いて、醍醐は(醍醐だけではないが)背筋に冷たいモノが走ったような悪寒を覚える。
ふと岩山は醍醐の後ろに視線を飛ばした。
「おや、そこにいるのは京一だね。隠れてないで、その愛らしい顔を見せておくれよ」
逃げられないと観念したのか、京一は渋々醍醐の後ろから僅かばかり顔を出す。
「久しぶりだねェ、男ぶりが一段と上がって。もっとこっちへ来てその愛らしい顔を見せておくれ」
「いえ、僕はここで結構です」
ついぞ聞いたことの無い、礼儀正しい京一の言葉に仲間たちは驚くばかりであった。
醍醐は、こことは俺の後ろを指すのかと憮然とするが、京一は頼むから隠れさせてくれとささやく。
「昔のようにたか子センセーと呼んでおくれ。…まったく、昔はお前の師匠と二人まとめてあんなに可愛がったのに」
京一に師匠とは初耳だったが、それよりも今は美里のことが優先である。
アン子は診療を頼もうと発言しようとするが、おだまりと岩山にぴしゃりと撥ね付けられる。
「ごめんね〜。院長先生、女の子には厳しいから〜」
すまなそうに、でもこういったことには慣れっこな様子で高見沢が耳打ちする。道理で女三人には名前を聞こうともしなかったとアン子は納得する。
「なるほど、いつもは真っ先に声を掛けられる龍麻にすら目もくれないなんて、ここの院長はよっぽど男の子好きなのね」
龍麻という言葉を聞いて、岩山は微かに反応する。
「…名を龍麻というのか、変わった名前だな。苗字は何だ?」
「緋勇です。…蓬莱寺君や醍醐君と同級生です」
「アンタも何か武道やってるね。…言わなくても、ワシには服の上からでも身体を見れば分かる。…長話しすぎたね、取りあえずそこのソファで横になっている娘を診療すればいいんだな」
そこまで言うと、京一と醍醐に葵を診療室に運ぶように指示し、再び周囲を揺るがせるような音をたてて先に部屋に向っていく。
「あのセンセーが女の子に名前を聞くなんて珍しい〜。よっぽど気に入ったのかな〜」
早くおしと岩山に怒られ、慌てて診療室に入っていく一同を見ながら、高見沢はぼそっと呟いた。
「この娘からは異様な他者の《氣》がオーラのように立ち上がっておる」
診療室に入ると岩山は表情を引き締めて、根本的に直すには葵に《氣》を送り込んでいる奴の居場所を突き止めることが必要だが、葵の《氣》のレベルが著しく低下している為、今はこれを回復させることが先決であると、一同にこれから行う治療についてざっと説明をした。
「まずは気の浄化を高める効果のある、チベットから取り寄せた薬草を精製した物を注射し、次いでヨーガの実践によってプラーナの流れを浄化し、エネルギーを解き放つ治療を行う」
説明しながら、てきぱきと気功治療の準備を行う岩山と高見沢の様子に、龍麻はこの院長がただならぬ腕前の持ち主であることをたちまちの内に察することが出来た。
しかし説明が終ると、たちまち治療の邪魔だと全員廊下に放り出されてしまい、仕方なく治療が済むまでロビーで待機することにした。
「小蒔、私達が診療室の前に居ても邪魔なだけだから」
「ひーちゃんは心配じゃないの?」
「そうじゃないけれども…」
「…ああ見えてもあの先生の腕前なら大丈夫。ひーちゃんのお母さんだって気功士だっていうから、その技量が一目見て分かったんだろ」
不安げな小蒔に、だから龍麻の言うことに従おうぜと、京一は日頃の口の悪さを慎んで慰めるように声を掛ける。
ロビーに戻ると五人は空いているソファにそれぞれ腰を下ろす。
しばらくは沈黙が支配していたが、重苦しい空気を和らげようと醍醐が京一に話をふる。
「そういえば、お前に師匠がいたとはな、初耳だな」
「そうねあたしも興味あるわ。ねえどんな人なの」
「アン子に話したら大事になるし、そんなこたァべらべらと喋るようなもんじゃねェよ。第一、大喧嘩して別れてからもう五年も会ってねェんだ。今頃どっかで野垂れ死んでるかもなー」
余りに不謹慎な発言に醍醐もアン子も呆れてそれ以上京一に聞き出そうとは思わなかった。
けれどもせっかくの機会だからと、アン子はターゲットを龍麻にすばやく切り替える。
「ねえねえ、龍麻のお母さんって気功士なんだってね。なんであのバカが知ってるのか不思議だけれど。そう言えば龍麻のご両親て今日本で何をしているの?桜井ちゃんからは、龍麻はアメリカに住んでいたって聞いているけど」
「えっと、家族のことは話してもあんまり面白くないから秘密っていうのは駄目?」
しかしアン子の顔には、京一は無理でもこっちの方は何が何でも聞いてやるという気迫が漲っており、その迫力を前に龍麻もちょっと位ならいいかと諦め、話すことにした。
「父はアメリカの大学で教授をしているの。母は、さっき話に出た通り気功士として治療院を開いている…以上」
「嘘ッ。それだけしか教えてくれないの〜ケチ。って、えッ、そういうことは…今龍麻って一人暮らしなの?」
「…まあそういうことになるかしら」
途端に京一はぜってェ一度遊びに行くぜと、不謹慎にも目を輝かせてはしゃぎ、女子の一人暮らしの家に男が行くなんて持っての他だ、と醍醐とアン子は異口同音に説教し始めた。
一方、当事者である龍麻は、ロビーの片隅から廊下の方を見詰めている小蒔の所にそっと近付く。龍麻に気付いた小蒔は、ひーちゃん、と唇で呟いてから、一気に感情を爆発させるよう言葉をぶつけてくる。
「葵が何をしたっていうの!葵がこのまま目を覚まさなかったら…ボク、ボク絶対許さない!葵をこんな目に合わせた奴のこと!!」
「…小蒔」
龍麻には慰める言葉も見つからず、怒りに震える小蒔の掌をそっと包み、ただ小蒔の気持ちが収まるのを待つ。と同時に、他人からこんなにも心配されている葵のことがちょっぴり羨ましいと感じるのを抑えきれなかった。
<不謹慎…よね>
心の中で葵に詫びるのと同時に、治療室のドアが開く音がした。
≪四≫
「治療は済んだ…しかし」
葵の意識が戻らないと、岩山は苦虫を噛んだような表情で告げる。
氣の回復は上手くいったのだが、覚醒の段階で障害が生じたのだという。
「何かが娘の意識を繋ぎとめている。それで意識がノンレムに留まり続けておる。…本来なら有り得ないが、このままでは最悪の場合衰弱して死に至ることも考えられる」
死という言葉に悲鳴を上げる小蒔やアン子、声こそ上げてはいないが龍麻・京一・醍醐も一様にショックを受ける。
「やはり娘の意識を束縛している者を探し出し、止めさせる必要がある」
「間違い無い。そいつも唐栖や雨紋の奴と同じ《力》を持った奴だ」
「何で葵が…」
その理由は犯人をとっ捕まえてぶちのめせば分かるさ、と京一は小蒔に言う。
「なッ、ひーちゃん」
「そうね。今は一刻でも早く犯人を見つけ出して、葵を助けないと」
「俺たちに喧嘩を売るとは上等だぜ」
救い出す方法を見出し、活力を取り戻した一同を見て、岩山も助力を惜しまないと高見沢に地図を持ってこさせ、犯人の大体の位置を特定してくれる。墨田区の北から北西部辺りの住宅地図を広げ、
「送られてくる氣の放射幅と方向を測定した結果、この辺りを中心とした半径500mに氣の乱れが感知される」
指差した先は、墨田区3丁目辺りだった。
「白髭(しらひげ)公園っていうのかな、この公園」
「でも俺達、この辺りの地理にはあんまり詳しくないぜ」
「詳しいのは美里ちゃんだけか」
「気に病んでも仕方有るまい。行くだけ行ってみよう」
地図を覗き込みながらあれこれ相談をしている5人に、あのぅ…と高見沢が道案内を買って出た。
「わたし、この辺りよく出かけるから、結構詳しいんです〜」
危険だからと断る京一に、岩山が意外なことを言ってきた。
「高見沢はこう見えても、普通の人間には無いものを持っておる。まあ、一種のコミュニケーション能力というか、すぐに誰とでも仲良くなれるというか…。何かの役に立つから連れて行け」
院長に逆らう気力の無い京一は、だが、もう一人の方は連れて行かないと明言する。
「アン子、お前はここに残れ。そして何か有った時…無駄だとは思うが、お前が警察に連絡するんだ」
「何でまたあたしを仲間外れにするのッ!あたしだって今度こそ一緒に行くわ」
醍醐も何が起こるか分からないからと説得するが、アン子は強硬に抵抗する。
「いいから残れ。いいか、俺たちみたいのは身体張って闘う。お前はその頭で、ペンで、闘うんだ。人にはそれぞれ役割ッてもんがあるからな」
「ふーん…京一ってたまにいいコト言うわね…。いいわ、あたしはここに残る」
その代わり、新聞のネタは無料(ただ)で提供してよ、と最後はアン子らしい言葉に見送られて一同は病院の玄関を出た。
病院の電話で予約を入れておいたタクシーが来るまでの間、五人は病院の正門前に立って待つ。
タクシーがやって来ることに気を取られていたのか、龍麻は少女がおずおずと声を掛けてくるまで彼女が近寄ってきていることに気が付かなかった。
「───あの、緋勇さんですよね」
ふいに呼びかけられたことに驚きつつ振り返る。
「私のこと、覚えていらっしゃいますか」
「あなたは、確か───」
二週間近く前、渋谷の交差点で出会った少女だった。
「───比良坂 紗夜さんだったわね」
比良坂は覚えてくれていて光栄です、と頬を赤らめ顔をほころばせる。
そこに車が来たぞ、と京一が呼びに来た。
「…おッ、ひーちゃんの知り合いか?」
「え、いえ、あの、一度渋谷でお会いしただけで、私が勝手にそう思っているだけです。初めまして、私、比良坂紗夜といいます」
「そっか、けど今日は別件で急いでるんだ。悪いけどまた今度な、紗夜ちゃん」
龍麻に替わって京一が比良坂に詫びを入れる。
「ごめんなさい。お急ぎなようなのに引き止めてしまって…。また今度、こんな風に偶然会えるといいですね」
急かす京一に引っ張られるようにその場を離れる龍麻も、比良坂にまたねと優しく応える。龍麻の耳には、京一の可愛い子だったな〜という呟きもしっかり聞こえてきたが。
小蒔は龍麻と二人で助手席に腰掛け、醍醐は後のシートの真ん中(バランス取りのため)に、その左右に高見沢と京一が座ると言うことにし、タクシーに乗り込んだ。
「ちッ、せまっ苦しいぜ。どうせだったら、ひーちゃんの隣だったらいいのになー」
「我が儘を言うな京一。今は一刻を争うんだ」
「そうだよ、こんな時までキミの頭の中はひーちゃんのことなんだね」
緊迫感とは程遠い三人の会話に、高見沢も心底楽しそうに加わる。
「えっと、あなたが京一君で、醍醐君で、小蒔さん。小蒔さんってすごく可愛らしい名前でいいなー」
唐突な言葉にペースを乱される小蒔を、さらに爆弾発言が飛んでくる。
「小蒔さんって、すごく男らしくってかっこいいのね〜」
「…ボクに喧嘩売ってんの、それ」
ふて腐れる小蒔に、これから仲良くしようね〜と満面の笑顔で切り返し、次に龍麻に言葉をかける。
「あなたが龍麻さんね。本当にキレイな人なんだ〜、舞子、憧れちゃうな〜。そうだ、これからはダーリンって呼んでいいかな」
「ちょ、ちょっと、ダーリンって言葉の意味知ってるの?あれは普通、恋人や夫婦の間で相手を呼び合う時に使うのよ」
龍麻は衝撃の余り、珍しく声を裏返してしまう。
「迷惑…なの?」
だが、瞳をうるうると潤ませて、高見沢が龍麻の方をじっと見詰めると、
「……ふぅ。…いいわ、もう好きに呼んで。ダーリンって本来の意味は、『最愛の』とか『お気に入りの』とかっていうことだから、そういう風に解釈させてもらうわ」
溜息と諦めの混じった龍麻に、小蒔が同情しつつも感心したように話し掛ける。
「へえー、そういう意味だったんだ。ボクはてっきり『旦那様』っていう意味だと思ってたよ。でもひーちゃんが迫力に押し切られちゃうなんて、ある意味最強かもしれない、この娘」
「昔から、この手のタイプには弱いの…」
『自分の母親を彷彿とさせるから…』と、龍麻は遠く離れた母親のことを、ちょっと懐かしく思い出していた。
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