≪壱≫
目的の場所に近付くにつれ、耳に妙なる琴の音色が飛び込んできた。
奏でているのはその音色に相応しく天人の如く楽を奏でる女性────白地の小袖に菖蒲の花の図柄を織り込んだ薄青い紗を羽織った彼女の軽やかな爪弾きに呼応し、滝のように背を流れ落ちる黒髪は一層艶やかに揺らめく。
京梧は声を掛けたいと逸る気持ちを抑え、じっと天上の調べに耳を傾けた。
やがて上空に吸い込まれんばかりに静かに演奏を終えた彼女を驚かせないよう、慎重に庭の木戸を開けて縁側に歩み寄っていく。
「貴方様は…先日のお侍様、ですね」
突然の来訪に別段驚いた風も見せず、女性は琴を片端に押し寄せると、京梧を招き入れる。
「そうして座っていると、何処かのお姫様か天女に見えるぜ、たつき」
隣に腰を降ろした京梧は、遠慮なくたつきと彼女の名を勝手に呼び捨てるが、たつきは、そんな無礼を微笑で受け流す。
<とても俺と同じ空間で呼吸をしている人間には見えねェな>
別れた後、幾度となく思い返していた面影よりも、尚一層目の前に座っているたつきの顔は、優しく神秘的な程美しかった。
「今日は、あいつ、柳生宗崇は留守なのか」
「ええ、何でも所用があるとかで、今は江戸を離れておりますが…。ひょっとして宗崇様に何か御用だったのでしょうか」
「いや、その…」
まさかお前に聞きたいことが有って会いに来たんだッ、とあからさまに言うのも警戒心を抱かれるかと思い、他に理由を作り出そうと京梧は必死に頭の中を回転させた。
「そ、そう、そうだ。えっと、お前生き別れの兄さんを探してるって言ってたよな。それでだ。俺も何か手伝えねェかと思って」
「それは…ご親切に有難うございます」
たつきは何疑うこと無く素直に礼を述べる。
<言葉のあやとはいえちょっと面倒臭いこと言い出しちまったかな…しかし、こうも素直に礼を言われて投げ出したら、男蓬莱寺京梧がすたるってもんだぜ>
「おう、俺にどーんと任せろ。でも俺にも手掛かりが無いと探し出すことは出来ねェ。何でもいい、手掛かりになるようなことを教えちゃくれねェか」
「兄の名前は、たつと、と申します」
「ふんふん、で、顔とか姿の特徴は、って…悪い。あんたの目が悪いことを忘れてた。…心無いことを言って本当に済まなかったな」
真剣に誤る京梧を、咎めるでもなく愉快そうにたつきは声を出して笑う。
「ふふふ、お気になさらないで。兄は、私とは双子として生を受けましたの。ですから、何処かしら面立ちが似ているのではないかと、私は思っているのですが…」
「双子、そうか、それならさぞかし色男なんだろうな」
考え込む京梧に、たつきはそれまで余り他人に話をしたことの無い、自分の生い立ちについて軽く話を始める。
たつきとたつとは、ただ二人の兄弟として同時にこの世に誕生した。
母は古い歴史を持つ神社の巫女だったそうだが、父親の名は判らない。身分の高い人だとは聞いているが、分かっているのは自分たちは私生児として産まれてきたという事実だけだ。
母親は難産の末、二人を産み落とすと直ぐに亡くなったという。しかも当時双子は『畜生腹』として忌み嫌われていた為、産まれて間も無く、二人はそれぞれ別々の家に里子に出されたのであった。
「私がお世話になった里の領主様が、宗崇様のご実家でした。ですから、幼少の頃より縁ある関係でした。…親も無く、目も不自由な私を何かと気遣って下さいました」
柳生宗崇の意外な一面を知り、京梧は内心非常に驚いていた。
「やがて、十五歳になって成人した兄が私を迎えに来てくれ、暫くの間は一緒に京で暮らしておりましたの。しかし…ある事情が生じ、私と兄は再び離れ離れになることを余儀無くされたのです…」
「江戸に来たのは、その兄さんの噂を聞いてか?」
たつきはゆっくりと頭(かぶり)を振った。
「その反対ですわ。兄の方が、私が江戸に居るからと宗崇様と同道して江戸に来たということなのですが…」
二人は共に江戸に入府したのだが、その直後兄が行方不明になったのだという。
そして時期を同じくして、柳生宗崇は本家から勘当扱いにされたと…。
「あの時兄の身に何か合ったのだと思います。そしてそれが宗崇様にも…。何もおっしゃらないので私に詳しい事情は図りかねますが、いつも宗崇様にはご迷惑ばかりかけております」
「…柳生宗崇、奴はお前に惚れているんじゃねェのか」
「さあ、私には男女の仲という物が余り理解出来ないので…」
「あんた、人を好きになったことねェのか?」
「このような生まれ故、普通の幸せとは縁遠いと思っておりますから。それに宗崇様自身も、私を見守るのは行方不明の兄に代わってのことだとおっしゃっておりますから」
京梧は、はあーと深く溜息をつき、その赤茶けた鬢(びん)を掻きむしった。
<俺からしたら考えられねェぜ、こんなまだるっこしい関係なんざ>
「じゃあ、お前にとって柳生宗崇は兄代わり、それだけの存在なんだな」
自分から何焚きつけるようなこと言ってるんだか、と京梧は思ったが、それでもたつきの口から本当のところ宗崇をどう思っているのか聞いてみたかった。
「…彼は、私にとって…」
その先、彼女が何と言ったのかはっきりと聞こえてこない。京梧がもうちょっとはっきり話してくれと頼むが、たつきは悪戯っぽい笑みを口元に浮べるだけで黙りこくってしまう。
真意を量りかねている京梧と静かに座っているたつきの間に、初夏を告げる薫風だけが爽やかに通り抜けていった。
≪弐≫
季節は巡り、暦の上で六月になろうとしていた。
龍麻は自分が転校してきてからもう二ヶ月も経ったのかと、瞬く間に過ぎていった時に思いを馳せる。
<そういえば、制服も夏服に変わったし…>
真神学園の女子の夏服は、上着がセーラー服から、襟に赤い線の縁取りのある見た目にも涼しげな白のブラウスに変更になる。おまけに胸元のリボンは赤色であれば形状は自由だったので(たとえば葵は細い赤い紐状の布で蝶結び、小蒔は大き目のリボン、アン子はきりっとネクタイ状に、そして龍麻はスカーフで小さ目のタイをつくるなど)冬服以上にそれぞれの個性を際立たせていた。
「緋勇サン、ちょっといいかしら」
帰りのHRが終った後、マリアは龍麻を名指して呼んでいた
「後で職員室へ来て、話が有るの…」
はいと素直に返事するが、脳裏に前に職員室に呼ばれた時の奇妙な出来事がふと浮かぶ。
<どうしよう、一人で行くのがちょっと怖いような>
「よう、どうしたマリア先生に呼ばれて。いや〜うらやましい。俺も手取り足取り腰取り教えて欲しいもんだぜッ」
ならばこそ御気楽な言葉を吐く京一を、今は限りなく羨ましいと感じる龍麻だった。
「京一。意味が違うだろッそれじゃ。第一、ひーちゃんにそんな下品なことを言うなんてッ!」
小蒔のつっこみに龍麻や葵も思わず笑いをこぼす。
「ひーちゃん、美里、お前こんな男女の言うことマに受けてんじゃねェよ。こいつは女の服を着ているが本当は男だ。その証拠に胸が無い!」
『……………………』
一斉に黙りこむ小蒔と葵と龍麻。やがて…
「京一君」
いつもならば、ここで小蒔のビンタの一発が出るところなのだが、何故だか今日は穏やかな様子を崩さない。
「なんだい美少年」
京一の方は小蒔の口調がいつに無く丁寧なことにまだ気付いていない。
「ボク、チョット誤解していた。君のこと、アホだと思ってたのは間違いだって」
「うんうん、間違いは誰にでも有る。俺のように完璧な人間は中々いないからな」
そうだろ、と龍麻に同意を求めてくる。
龍麻は先の展開が既に読めているので、敢えて肯定も否定もしなかった。
「それに引き換え、コイツは…。ま、男は背のデカさじゃないからな」
京一はへへへっと愛嬌たっぷりの笑顔で笑う。
小蒔もえへへへと笑い返す。その目は決して笑っていなかったが…。
龍麻は来るべき嵐に備えて、葵の腕をそっと掴み自分の方に避難させる。
「おい、小蒔、お前何ごそごそ取り出してるンだ。…ッ、それは、弓か!」
「ゴメン、京一…。死んでくれッ。キミみたいな男は全人類の女の敵だ!!」
こんなところで弓は使うもんじゃない、まあ待て、と京一は説得にかかる。が、
「いくらお前より俺の方が、背もナニもデカいからって、いきなり殺すってのは」
この言葉が文字通り引き金を引いてしまった。
京一としばらく笑いあった後、おもむろに、
「必殺!!!」
小蒔は気合を込めて弓を引き絞る。
「あ──ッ、醍醐が女ナンパしてるッ!」
「え…え?」
叫び声に小蒔が一瞬気を取られた隙をつき、京一は教室から猛ダッシュで逃げ出す。
「あッ、こらッ逃げるのかッ!!待てーーー。今日という今日こそ殺すッ」
小蒔もすかさず廊下に飛び出すと、学校中に響き渡る怒声を上げながら京一を追いかける。
教室に取り残された葵と龍麻はやれやれと顔を見合わせ苦笑いを浮かべる。
だが葵も生徒会室に用事が有るということだったので、結局龍麻は一人で職員室に向う羽目になってしまった。
先程の喧騒とは打って変わり、人影もなくしんと静まり返る職員室の様子に覚悟を決めて扉を開けると、室内は前回同様マリアだけが悠然と座って待ち構えていた。
「話というのは、他でも無い、アナタたちの《力》のことなの」
マリアは先日の花見での事件以来、ずっとそのことを考えていたのだと言う。
「あの《力》は超能力とも、生まれ持ったものでもない様だし。龍麻、アナタは《力》の源は何だと思う?」
「上手く言えないですが、誰かを護りたいと願う気持ちだと私は思いたいです」
フフフ、とマリアは妙に艶かしい笑みを口元に浮かべた。
「つまり愛だと。そう、アナタはロマンチストね…でも確かにアナタの言う通りかも知れないわ」
一旦は龍麻の意見に同調したマリアだったが、けれども自分はこう考えると、龍麻の瞳をじっと覗き込みながら話を続ける。
「アナタたちの、いえアナタの《力》は何かの鍵なんじゃないか…って」
────何か別の強大な《力》を手に入れる為の鍵
マリアの朱唇が言葉を紡ぎだすと同時に、以前味わったものよりも一層強烈な霞がかった空気が龍麻の意識を蝕む。
────それがアナタに与えられた《力》
<マリア先生…一体何を…>
────…いえ、アナタ自身(そのもの)が鍵…。だから────
逆らい難い美しい声音が、龍麻に命令を下す。
「ここでチョット服を脱いでくれる、龍麻。───アナタの体を見たいの…」
マリアの白い手が、龍麻の胸元のリボンを解こうと伸びる。龍麻は自分の置かれている状況も分からず、ただ人形のように黙って座っているだけだった。
「…………」
「フフフ、アリガト…。それじゃ…」
しかし、次の瞬間勢いの良い音を立て、扉が開かれた。
「よォ、緋勇じゃないか…」
「犬神先生、どうしてここに…?」
マリアは鋭い眼光で闖入者を睨みつけるが、闖入者である犬神はすまして答える
「何でって、ここは職員室ですよ。いくら僕が物臭な教師だからってひどいなあ」
相手の思惑などお構いなしに近寄ると、犬神はマリアに気取られぬ程度にそっと龍麻の背中を叩く。途端、龍麻は催眠術から醒めたように視界がはっきりとしてくる。
「緋勇サン、今日はもう帰っていいわ」
僕のことはお構いなくという犬神の言葉を振り切って、マリアは龍麻を半ば強制的に退出を促す。
「待て、緋勇────」
だが犬神は職員室を出て行こうとする龍麻を呼び止めると、マリアにもはっきりと聞こえるような声で旧校舎に近付くなと警告する。
「あそこは、ヤバいからな…」
廊下に出て肩で一息付いていると、背後からアン子の呼ぶ声が聞こえてきた。
「あら、龍麻も呼び出し?見かけによらずワルねェ」
アン子は犬神に資料を運んでくるように頼まれたのだという。
「そうそう、校門の所ですっごく可愛い女の子が龍麻のことを待っているらしいわよ。こんな所で油売ってないで早く行って上げなさいね」
そう言うなり、アン子は『失礼しまーす』と元気一杯に職員室の中に入っていった。
<私を待っている女の子?>
何人か心当たりのある顔を思い浮かべたが、待っていたのはその選択肢からはいずれも洩れていた少女だった。
「龍麻さん。突然来てごめんなさい」
校門にいたのは、桜塚高校の制服を着た比良坂紗夜だった。
先日中央公園でチンピラに絡まれていたのを助けてもらったお礼が言いたくてはるばる来たのだと言う。
「本当にあの時は助かりました。ありがとうございます。…それで、我が儘ついでに一つお願いが有るんですけれど」
もじもじとしながら俯く比良坂に、龍麻は優しく声を掛ける。
「何?私で出来ることだったら相談に乗るけれども」
「あの…実は…」
≪参≫
「キャッ、見て見てッ、このお魚可愛い〜」
しながわ水族館の水槽の前で、歳相応よりも幼くはしゃぐ比良坂を龍麻は笑みを浮かべて見る。
「…ごめんなさい、私一人ではしゃいじゃって」
「あら、私もお魚見るの好きだから気にしないで。それに比良坂さんのリクエストで来たんですもの。もっと楽しんでいいのよ」
「私、龍麻さんに自分の住んでいる街を見て欲しかったんです」
比良坂は、校門で龍麻に『これからデートして下さい』と懇願し、そして彼女の手に引かれるように連れてこられたのが、ここ、しながわ水族館だった。
そんなしながわ水族館で最後の見所が頭上に海中の光景を巡らせている『トンネル水槽』である。ここに立っていると、自分も地球という水の惑星に息づいている生命体の一つなんだということを改めて実感させてくれる。
「見事ね…」
二人は首が痛くなる位まで、じっと天上に広がる蒼い世界を見詰めていた。
「そろそろ出ましょう、龍麻さん」
比良坂に促され、水族館からすぐ向いにある区民公園で一休みする。
人工池越に吹いてくる初夏の風を受けながらしばらくは黙って景色を眺めていた。
「龍麻さん…一つ、聞いてもいいですか?」
沈黙を先に破ったのは比良坂だった。
「龍麻さんは、奇跡って信じますか?」
突拍子も無い質問だったが、比良坂の表情は真剣そのものだった。
<奇跡。この一年の出来事を振り返って見ると、今自分がここに存在していること、それ自体が奇跡のように思える。無論自分独りの力では無いのは分かっている。周囲の助けが有ったこそなればだけれど>
「信じているわ。…出来れば自分の手で奇跡は起こしてみたいんだけれど。大切な人達を護るためにね」
龍麻は、まだ数回しか会話を交わしたことの無い少女に、こんな自分の本心を打ち明けられるなんて不思議だと思いながら、真剣に答えた。
「人に対する愛の奇跡、ですか。龍麻さんてロマンチストなんですね」
先程のマリアと同じことを比良坂も口に上らせつつ、でも…と続ける。
「…わたしは奇跡なんて無いと思います。だって奇跡が有るのなら、大切な人を失うことは無いじゃないですか」
大切な人を失うというフレーズに、龍麻は胸にズキンと痛みが走った。
──あの子が産まれたせいで、ウチの娘は死んでしまった…
<あれは…誰の言葉だったかしら…>
「龍麻さん、こんなわたしでも夢が有るんです。聞いてもらえますか?」
比良坂の言葉に、龍麻は内心の動揺を隠すように曖昧な笑顔で頷(うなづ)く。
「もうッ、真面目に答えてくださいよォ」
比良坂は少し頬を紅潮させながら、龍麻の顔を覗き込むようして自分の夢を話す。
「わたしの夢…。えへへ、笑わないで下さいね。それはね、看護婦さんになること───。あの、変ですか、こんな夢…」
「人助けをする、素晴らしい夢じゃない。何を恥ずかしく思うの」
「龍麻さん…ありがとう…。こんな話をしたの、龍麻さんが初めてなんです」
自分の夢の告白を済ませた比良坂は、ふいにノドが乾きましたねと立ち上がり公園の水呑場に近寄った。ひねられた蛇口から水が噴水のように吹き上げ、今しも喉を潤している比良坂に虹色の飛沫と化してきらきらと降り注ぐ。
「ああ、美味しい…。こんな風にお水を飲むのって久しぶり…」
比良坂は水を飲み終えると、再び話を続けた。
それは比良坂の幼少時代の哀しい体験談だった。
比良坂は幼少時、両親を飛行機事故で亡くしていた。自らは両親に護られていたお陰でほとんどケガもなかったのだが。
「だからかも知れません、看護婦に憧れるのは。苦しんでいる人を助けたり、誰かの命を救ってあげたい。誰かの命を…」
龍麻は比良坂の決意の裏にある熱い気持ちに、心底胸打たれる思いだった。
それに引き換え自分は──
──あの子が産まれたせいで、ウチの娘は死んでしまった…
<思い出した、この言葉は…。私は今の今までこのことを忘れていたなんて…>
「…龍麻さん?どうされたんですか、顔色が悪いですよ」
比良坂が気遣わしげな表情を見せる
「ごめんなさい、こんな話をしたからですね。でも、わたしどうしても龍麻さんには聞いて欲しかったんです。だってわたしッ───いえ、何でもないです。今日は付き合っていただいてありがとうございました。もう帰ります。本当にありがとう……ごめんなさい」
比良坂は急に立ち上がると軽く一礼し、そのまま走り去ってしまった。龍麻は慌てて後を追いかけるが、公園の出口辺りで見失ってしまう。ふうと溜息混じりにうなだれた視線の先で何かがきらりと光る。拾い上げたそれは銀色のロケットだった。
「もしかして…比良坂さんの落し物?」
失礼に当るのは重々承知の上で蓋を開けると、中には仲睦まじい幼い兄妹が写っている写真が入っていた。
「この少女は…やっぱり比良坂さん…。それじゃこの写真は…」
<幸せだった頃の彼女の形見…>
龍麻はそのロケットを制服の内ポケットに大切に仕舞い込んだ。
翌日の放課後も龍麻は珍しく一人きりで下校しようとしていた。
葵はマリアと小蒔はゆきみヶ原高校の友達と、京一も醍醐と────と、それぞれがそれぞれの用事で既に教室を後にしている。置いてけぼりをくらった龍麻に、級友が校門で女の子が自分を待っていると教えてくれた。
ひょっとすると比良坂が、昨日落としたロケットを取りに来たのかも…それなら丁度良かったと、急ぎ足で校門に向う。
だが、校門には比良坂の姿は無く、代わりに、
「ねェ、お姉ちゃん。お姉ちゃんのなまえって、ひゆうたつま?」
振り返ると小学校低学年の男の子が品定めするような目つきで立っていた。
「…………」
尋常では無い呼び掛けられ方に困惑している龍麻を、別人だなんだと勘違いした男の子は白い封筒を手渡す。
「じゃ、これ、ひゆうっていう人に渡しといてね」
手紙の送り主名はDr.Faust──ゲーテの作品で有名な悪魔メフィストファレスと契約し魂を売り飛ばした学者と同じ名前で書かれていた。
子供の姿が完全に見えなくなったのを確認し、手紙の封を破る。
親愛なる緋勇龍麻君へ
君が転校してきてからの噂、聞いています。
渋谷の街の鴉、高い鉄骨での闘いはさぞかし大変だったと思います。
そして桜ケ丘病院に、君の同級生の女の子が入院した時には、僕も心が痛みました。
非力な人の力では、どうすることもできない事件でも、君は立ち向っていきましたね。
僕は君の《力》を羨ましく思います。是非、一度会って、話をしたいです。
たぶん、君は断るでしょう。だから、ある人にも協力してもらいました。その人は君もよく知っている人です。
彼女は今、僕の手中にあります。君は、その人のために、僕と会わなければなりません。その人を護るために。
場所は別紙の地図を見てください。今は使われていない古い建物です。
必ずひとり来て下さい。誰かに話しても駄目です。君には選択の余地はありません。
では、一刻も早く会えることを祈って───。
君の友、Dr.Faustより |
最後まで目を通し終えるのももどかしく、龍麻は駅に向って全速力で走り始めた。
≪四≫
地図に書いてあった場所に着くと、記述どおり古い廃屋が建っていた。
建物に近付いてみると、壁に絡まっている蔦の茎に、先程と同じ封筒が差し込まれている。
親愛なる緋勇龍麻君へ
この建物の右に5メートル歩いた所に錆びた鉄のドアがあります。そのドアを開け、そこから入ってください。
中に入ったら、中から鍵を掛けて下さい。
では、一刻も早く会えることを祈って───
君の友、Dr.Faustより
|
明らかに罠であると判る文面であったが、龍麻には敵が指摘する通り選択の余地は無かった。
錆びた音をたてながら開く扉から真っ暗な空間にすべりこむと、後ろ手に扉の鍵を掛ける。
ほのかに洩れる外光を頼りに周囲の様子を慎重にうかがう。するとまた一通、シャッターの下ろされた窓に封筒が貼り付けられていた。
龍麻は躊躇わずに近寄ると、その中身を確認する。
親愛なる緋勇龍麻君へ
ここまで来た、君の正義感・勇気に、僕は敬意を表します。素晴らしいです。
君は、そうやって、今まで君の友達と一緒に困難を克服し、切り抜けてきましたよね。
しかし、それは、あくまで人の助けを借りて馴れ合いの中で過ごしてきたにすぎません。
人は常に孤独です。そして、人は、常にひとりでは無力な存在なのです。
君が、果たして、君個人という存在のみでその存在理由を証明できうるのか。僕はそれを見てみたいのです。
君の《力》を僕に見せて下さい。君のその見せ掛けの勇気を見せて下さい。
では健闘を祈っています───
君の友Dr.Faustより |
背後で激しくガラスの割れるのと同時に、今までに見たことの無い異形の者たちが8体、虚ろな眼窩の奥に怪しい光を宿らせ、龍麻目掛けて殺到して来た。
「円空破ッ」
《氣》を波紋状の衝撃にかえ、2体の敵を吹き飛ばすと呆気ないほど簡単に腕や足がバラバラに千切れ、床に散らばる。途端、吐き気を催しそうな強烈な腐臭が漂う。
「時間をかけるのは色々な意味でこちらに不利…。それならば」
体内で練った《氣》を炎気に変貌させる。
「巫炎」
両の拳から炎をもって瞬く間に敵をなぎ払うその姿は、巫女舞を見ているかのように優雅であった。
焔光に込められた浄化の《力》で、最後の一体が跡形も無く消え失せると、代わって暗がりからは白衣の男が拍手と共に登場した。
「わずか1分以内に全滅させるとは、お見事───」
想像以上に若く、そして何処かで見覚えのある整った顔立ちをしていた青年は、慇懃な口調で龍麻に挨拶をする。
「始めまして。僕の手紙を受け取ってくれて有難う。お気に召してくれたかい?」
龍麻の冷ややかな視線を浴びても、男は薄ら笑いを浮かべた表情を崩さない。
「緋勇龍麻君、フフフフ。いや失敬。手荒な真似をして悪かった。君の《力》をどうしてもこの目で見てみたくてね。そうそう、女の子を預かっているという話、あれは嘘さ」
それよりも、と男は龍麻が倒した異形の者たちについて嬉々として説明し始める。
あれらは男の研究の一環として病院から手に入れた死体に少し手を加えたもので、彼はそれを死人(ゾンビ)と呼称しているらしい。
「死人達は、僕の習得した最先端の遺伝子工学と、西インドに昔から伝わる秘法の賜なのさ。君、ブードゥーについて知っているかい」
「…………」
黙殺する龍麻の態度を、無知からくるものと勝手に受け止めた男はブードゥーについて講釈を加える。
ブードゥーとは西インド諸島のハイチ島の黒人達に信仰されている宗教の名である。
彼等はロアと呼ばれる精霊を崇拝し、オウンガンと呼ばれる祭司やゾボと呼ばれる魔術師達は様々な魔術を使うと信じられている。
───霊を呼び出す、空を飛び回る、そして死者を蘇らせる。
ゾンビとは元来ブードゥーの魔術によって死者の国から呼び戻された者を指す言葉だった。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕の名は死蝋影司。品川にある高校の教師をしている。君の活躍を知り、君の助けを君の《力》を必要としている者さ」
よろしく、と言う死蝋に、龍麻は自分の《力》を何に悪用しようとするのかとにべもなく応じる。
「そんな顔をするなよ。僕と君は仲間なんだからさ。僕は君に協力したいと思っているんだよ。君の持つ超人的な《力》をもっと有効かつ合理的に使っていく方法を考えてあげようと思っているんだ」
まだ龍麻は高校生だから、受験や将来のことに忙しくてそんなことを考えている暇も無い筈。だから、自分の頭脳と人脈を活用して将来の手助けをしてあげよう。どうだい、いい話だろうというのが、死蝋の持論だった。
が、龍麻は依然冷淡な態度を崩そうとしない。
「ククク…可愛いよ、君って。僕と君はいいパートナーになれるよ、きっと」
死蝋は再び薄ら笑いを浮べ、更に持論を展開していく。
人が何処から来て、何処へ行くのか、考えたことは有るか。
もしかしたら、僕達はもっと別の進化の道を進むことが出来たのではないか。
「君の協力が有れば、その謎を解き明かすことも可能になる。君の強靭な肉体と揺ぎ無い精神力、そして超人的な《力》があれば、人は超人────いや」
───魔人ともいうべき存在に進化できる。
その《力》があれば、犯罪や戦争を無くすことも、この東京を護ろうとする必要も無くすことができる。
「君たちがもうこれ以上苦労することや傷付くことは無い。どうだい、僕と手を組まないか。そして人類の新たな未来を築こうじゃないか」
「断ります。私はあなたのように神を気取るつもりは有りません」
きっぱりと拒絶されて、初めて死蝋は怒りの表情へと変じた。
「無理するなよ、君達だけでこの東京を護れるとでも思ってるのかい。自分の《力》だけで他の人間まで護れると思っているのは、君の自己満足だよ。そのエゴの為に君の仲間が命を落とすことも有り得る。そうなった時…君はその罪を購うことは出来るのかい?」
「……それは…」
死蝋の最後の言葉は、龍麻の一番痛い所を突く。
反論できない龍麻に、死蝋は僕の研究を見れば、そんな甘いことは言っていられなくなると、この廃屋の地下にある自分の研究室に招き入れる。
案内された場所には中央に手術台が置かれ、周辺を簡易寝台や様々な実験用器具が囲み、そして奥には祭壇のような物までが設置されている、まさにマッドサイエンティストに相応しい研究室であった。
死蝋は棚から大きなガラス器を取り出し、龍麻に見せる。
「ご覧、これは水の中で五日間も生き続けている鼠だ。あっちの檻にいる二つ首の犬には、二頭の犬の脳を一つの体に合体させたんだよ。この犬は内臓なんかは共有しているが、同時に二つの脳を使うことができる…。この猿は一度死んだんだが、僕が生き返らせたんだ。どうやったと思う。…癌細胞さ。これを移植したんだよ」
自分の実験結果を披露する死蝋の様子は恍惚の一語である。
「ここにいる生き物は全て従来の進化形態に当てはまらない。新たな種といっていいだろうね」
しかし龍麻はこの哀れな生き物達を生み出した男に、嫌悪感を通り越してうすら寒い恐怖感を覚え始めた。
「この技術を人間に応用したらどうなると思う?水の中でも生きられる、二つの脳で同時に別々のことを思考できる、死から蘇ることも出来る…素晴らしいと思わないか。もはや死は恐れるに足らない」
龍麻は全身が総毛立つ思いだったが、それでも気丈に死蝋の申し出を拒む。
「まァいいさ。いずれ君にも理解してもらえるだろう。ようやく僕の研究も完成する。感謝しているよ、紗夜」
「え────?」
驚きの余り目を見開く龍麻の前に、比良坂がごめんなさいとおずおずと姿を現す。並び立つ二人の光景は、反射的に龍麻の脳裏に昨日のロケットの写真を蘇らせた。
<あの二人は、比良坂と死蝋───!?じゃあ二人は…>
「うッ」
背中に走る鋭い痛みに龍麻は小さく呻き声を上げた。
<これは、麻酔…>
わななきながら注射器を持つ比良坂の瞳は涙で濡れ光っている。
「比良坂さ…」
どうか泣かないでと言葉を続けるよりも早く、目の前に漆黒の帳(とばり)が下りてくる。
どさりと音を立てて龍麻が糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。
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