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恋唄 第七話其ノ弐

 ≪伍≫

「ひーちゃん、今日も来なかったね」
「家に電話しても出ねェし、あいつが連絡も無しで三日も休むなんて珍しいな」
「何事も無ければいいが」
「醍醐、お前────ひょっとしてやつの言葉をまだ気にしてんのか?」

 先日、旧友である醍醐に積年の決着を挑み、そして敗れた凶津は『まもなくこの東京は鬼の支配する国になる』という奇妙な言葉を五人に言い残したきり、消息を絶っている。

「鬼だ鬼道衆だ──ッて、時代錯誤も甚だしいぜ。今がいつだと思ってんだよ。江戸時代じゃねェんだぜ」
「そりゃそうだけど、でもさ…」

 しかし、前回拉致された経験を持つ小蒔には、自分達の様な《力》の持ち主であった凶津の言うことをウソと決め付けるほど、楽観的な気分になれない。
 とはいえ、あの龍麻に限って…という信仰めいた想いの方が根強く、

「美里が今、龍麻の家の住所を調べに行ってくれてる。帰りに皆で寄っていかないか」
「うん、行く行くッ!京一は…聞くまでもないよね」
「当ったり前だろ」
「ただし、京一。龍麻が許可しない限り、部屋に上がっていいのは桜井と美里だけだぞ」
「ちッ、相変わらずクソ真面目な奴だぜ。折角女子高生の一人暮らしの部屋に入れるチャンスなのに」
「お前な…」

 要するにこの時点まで、まだ四人が四人とも事態の深刻さを現実のものとして受け止めていなかったのである。


 正門に向って四人がぞろぞろと歩いている姿を見て、担任のマリアが何処かへ出掛けるのかと声を掛けてきた。

「はい、私達これから緋勇さんのお家まで行こうと思っているんです」
「マリア先生は何か連絡聞いてませんか」
「いいえワタシの方にも…。とにかく緋勇サンにヨロシクね。何かあったらすぐ知らせて頂戴」

 四人の後姿を見送りながらマリアは溜息を一つ付いた。

<まさかこの間の職員室のことが…いいえ、そんなハズは…>

 物思いを巡らせながら視線を校門に向けると、他校の女子生徒がたたずんでいた。少女の思いつめた表情に胸騒ぎを覚え、マリアは気配を押し殺しそっと校門に近づく。


「あれ、紗夜ちゃん、今日はどうしたの」
「は、はい、あの緋勇さんのことで…」
「ひーちゃんなら休みだよ。だからボク達これからお見舞いに行くトコなんだ」
「龍麻に何か用だったら、私たちでよければ伝言するけれど…」
「………」
「紗夜ちゃん?」

 比良坂は意を決したような表情で、持っていた紙袋を京一に無理矢理手渡す。

「お願いです、緋勇さんを助けてくださいッ。場所は品川区…詳しい位置は荷物の中の地図を見てくださいッ」

 叫ぶように言うと、そのまま振り返ること無く走り去ってしまう。
 衝撃的な言葉に四人は呆然と立ち尽くすのみで、マリアもまた、

<龍麻の秘密を知った者がワタシの他にもいる──?>

 比良坂を追い掛けるのを諦めた四人は、仕方なく荷物の中身を出してみる。そこにはきちんと折り目正しく畳まれた龍麻の制服と紙に書かれた地図、そしてもう一つ、

「これは、ロケットかしら」

 先日紗夜が公園で落としたロケットが龍麻が制服のポケットからこぼれ落ちた。しかし四人には中に封じられた写真の人物について皆目見当がつかない。

「取り合えず、この地図の場所まで行ってみよう」

 うなずくと四人は駅に向って走り出した。四日前の龍麻を追うように…。




 ≪六≫

───…次は海外からの事故のニュースの続報です
 山中に墜落した乗客200名を乗せたニューデリー発のインド機は、今日二日目も地元の救助隊の懸命な救助活動が行われておりますが、墜落現場が深い密林に包まれている為、依然として救助活動が難航しております。
 旅客機は殆ど原型を留めておらず、乗客の安否が心配されます。
 この機に乗り合わせた日本人乗客で、身元が確認されているのは───


<子供の泣声が聞こえる。あれは、誰?>

『お願い、パパとママを助けて』

 涙を流し懇願する栗色のお下げ髪の少女を、周囲の大人達は邪険に払いのける。
 それでもなお縋(すが)りついて来る少女の頬が、何者かに思い切り叩かれる。

 ──こんな状況で、誰が他人の面倒なんか見るか──
 ──運の無い奴は死ぬしかないのさ──

<止めて、そんな言い方ッ。誰かあの子を助けてあげて…>


──プルルルル……

 電話の音が遠くから聞こえてくる。
 龍麻は意識を取り戻し始めたが、身動きはおろか瞼を開けることもままならず、暗闇の中で周囲の物音に耳を澄ますのが精一杯だった。

「もしもし──ああ私です。いつも研究に協力してくれて感謝していますよ。あれはいい素材だ──心配しなくても貴方の所に研究資料はお送りしますよ──いえいえお気遣い無く。共に人類の未来を憂いている者同士、これからも協力していきましょう。我々には共通の協力者がいることですし──それでは」

 受話器を置く音の続いて、比良坂の声が聞こえてくる。

<そうだ、あの時私は意識を失って…>

「また、あの男からの電話なの」

 咎める口調の比良坂を、死蝋は何処に行っていたと自分の方に抱き寄せる。

「お前は僕の物だ、誰にも渡さない。お前のこの髪も、この指も、この唇も──全て僕の物だ…紗夜」

 比良坂が抵抗しないのを確認すると、ようやく彼女を解放した。
「人間は脆い。すぐに呆気なく死ぬ。でも悪いのは脆弱な人間の身体なんだ。強い魂を入れる強い《器》が有れば、人間は今以上に強くなれる。そうすれば愛する者を失うこともない。死を恐れることも無い。──まったく、お前はいい素材を見つけてくれた」

 比良坂の顔色がさっと蒼褪める。

「そんな顔をして、心配しなくても研究は成功する」
「もう止めてッ、もうこんなことをするのは…」

 ヒステリックな声を上げる比良坂に、死蝋は少したじろぐが、

「どうした、愚かな人間達に復讐したくはないのか。僕達にこんな仕打ちをした奴らを見返したくないのか。忘れた訳じゃ無いだろう」

 そう言うと死蝋は、紗夜、お前は疲れているんだ、しばらくゆっくり休むといい、素材は手に入れられたんだからと、甘い声で慰めている。

<この男、やはり私を次の実験材料にするつもりね。…何とかここから抜け出して、こんな悪事から比良坂さんを救い出さないと…>

 この頃になってようやく瞼を開けるという指令を身体が受け付けてくれるようになった。
 龍麻は部屋の明かりに目が眩まないように注意深く徐々に視界を広げていく。
 次いでまだ痺れの残っている両手を指の先からゆっくりと解すように動かしていったのだが、手首を動かそうとした時、チャリッと金属音が奏でられる。

「おや、どうやらお前のお姫様も目覚めたらしい…。こんなに早く麻酔から覚めるとは、その身体は薬物に対する抵抗力も高いようだね。まあ、いいさ。その拘束具は君の《力》を以ってしてもそう簡単には外れない」

 龍麻は首に力を込めて頭を僅かに起こし、自分の現状を確認する。
 いつの間にか制服の代わりに白い薄物の衣を身に纏い、手術台のような所に寝かされている。通常の手術台との大きな違いは、やけに頑丈そうな鉄の拘束具が両手にがっちりと嵌めこまれていることで、勝ち誇った表情の死蝋の言葉通り、確かに自由に動かせるのは首から上だけのようだ。

「何故、私を狙ったの」

 龍麻はまだ全身の麻酔が抜けきっていない為、いつもよりややゆっくりとしゃべる。

「そうだな、折角だから教えて上げよう」

 上機嫌な死蝋は、これまでの経緯をぺらぺらと語る。

「今まではどうしても病院の死体、それも行き倒れ等、不明になっても余り騒ぎに為らないような物ばかりを素材にしていてね、いい加減うんざりしていたんだ。それに僕の研究も大詰めに近付いていたしね。そろそろ新しい種を生み出したかった。それにはやはり創造の神のやり方にあやかってイブが必要だった。だから、紗夜に命じて、今度は若くて美しい女性の素材を探して来させたんだ。何人か候補は有ったんだが、君が一番適格だと判断したのは紗夜なんだよ」
「比良坂さんが…私を…」

 龍麻は思わず息を呑む。

「…そうさ、紗夜が君に近付いていたのは、君を観察する為だけだったんだ。僕の研究の素材として相応しいかどうか、それだけを見るためにね」
「……………」
「信じられないようだね。紗夜、緋勇君に何か言ってあげたらどうだい。彼女はまだ現状が理解出来ないらしい」

 紗夜はごめんなさいとただ震える声で繰り返すだけだった。

「比良坂さん…」

 考えて見れば、今まで何度か偶然街で会うことがあったが、それを偶然と言い切るには余りにもタイミングが良すぎたような気がする。だが、最後に会った時の比良坂の様子は、龍麻を観察しているというよりも自分の内面を告白しているという感じだった。
 あの言葉まで偽りだとは思いたくはない。

<私はあの時のあなたの言葉を信じている、これから何が起ころうとも。だからあなたも自分自身を信じて、あなたの思うように生きて>

 龍麻はただ柔らかに微笑みかける。比良坂はこんな極限の状態でもそのような表情を見せる龍麻に驚くが、すぐにその表情の裏の気持ちを汲み取った。

「龍麻さん…私。本当にごめんなさい」
「紗夜、何を謝るんだ。緋勇君の身体は人類の未来の為に役立つんだよ。感謝されこそすれ、恨まれる覚えは無い。さあ、紗夜、手術台のスイッチを入れておくれ。緋勇君、君は僕の想像以上に優秀な素材だ。きっと素晴らしい実験結果を披露できると思うよ」

 比良坂は躊躇いながらも、死蝋の命令に抗うことができないのか、自分の前方にある手術台のスイッチを弱々しく押した。

 低い震動音が、地下室に響き渡る。




 ≪七≫

「本当にこの場所でいいのかよッ、人の気配なんざまるでねェぞ」

 京一が苛ついた声を出す。

「でも、比良坂さんの地図だと確かにここの建物なんだけれど…」

 小蒔が地図をもう一度確認する。思い詰めた比良坂の様子と手渡された袋の中身からして、龍麻が拉致されたのは疑いようがなかった。
 葵はとにかく一度中に入ってみましょうと提案する。

「うーん、こういう時は女の方が行動力有るんだろうか」

 妙に感心する醍醐は、危険が有るかもしれないと自ら先頭に立って鉄の扉を開ける。

 中は薄暗がりでよく見えない。だが、葵は床に光る破片に目を留める。

「これって、最近割れたガラスかしら…」

 埃っぽい床の上に散乱するガラスの破片はさほど汚れてはいない。見れば近くに複数の足跡が残されている。

「この足跡は…、サイズからしてひーちゃんのって考えて間違えないよね」

 小蒔は自分の靴とサイズを合わせて確認する。
「ああ、しかも周りにはそれよりも大きいサイズの足跡が複数残っている…。ここで何かが起こったは確かだろう。それにしても、龍麻の奴、相変わらず凄い奴だ。見てみろ、殆ど立ち位置を変えずに相手を倒したらしいな」

 醍醐は良く見ようと、床近くに顔を近づける。
 龍麻の足跡周辺には、大人の男が倒れたような跡もいくつか残っている。さらに焼け焦げたような跡も…。

「龍麻の奴、こんな技使っていたかな」
「醍醐、格闘オタクも大概にしろよなッ。今は感心してる場合じゃねェだろ。それよりもその後の足取りを追う方が先決だ」

 醍醐はすまないと詫びながら床から離れようとしたその時、下から震動音が聞こえてきたような気がした。

「今、何か聞こえてこなかったか?」

 音が?と京一は首を捻り、葵と小蒔の方を見る。二人ともそんな音は聞こえないと言う。

「…そうか、俺の空耳か。それじゃあ、皆で龍麻の足跡を辿るとしよう」



「どうやらこの建物内に鼠共が入り込んだようだな。今日はついているな、向うから新鮮な素材がやって来るなんて。紗夜、そこの死人達の檻の扉を開けるんだ」

 しかし比良坂は首を振って命令を拒否する。

「もう、もう止めましょう。もう全て終ったのよ…」

 そう穏やかに言うと、龍麻の寝かされている手術台のスイッチを切り、手足に嵌められている拘束具を外そうと龍麻の傍に近付く。

「紗夜、一体何を…。まさか、お前、誰かにここのことを話したのか!!…紗夜、僕はお前の行動が理解出来ないよ」

 困惑している死蝋を横目に、比良坂は手前の左足の方から拘束具を外し始める。
「比良坂さん…」

 どうして、と言いたげな龍麻に、比良坂は儚い微笑みを浮べて語りかける。

「わたし、いつもあなたを見ていました…。あなたの笑顔──、あなたの強さ──、あなたの優しさ──。初めはあなたに近付く為だけだったけど、いつからか、そんなあなたに惹かれ始めていました」

 ……人は復讐の心だけじゃ生きられない
 ……人は一生をその為だけに捧げることは出来ない…
 そう…思い始めたんです。

「わたし、間違っているでしょうか」
「ううん…やっと私、あなたの本当の想いが…紗夜……。私こそ…今度は私の夢を聞いてくれる?」
「ええ、龍麻さん。必ず…」

 本当に心を開きあった二人の会話を聞いた死蝋は、そんな関係は認めないと怒りを包み隠そうとしない。

「そうか、紗夜の様子が最近おかしいと思っていたが、それは全部緋勇龍麻、お前のせいだったのか!…許さん、許さないぞ!!紗夜、お前は僕だけのものだ、心も身体も!!!」
「止めて兄さん!」

 比良坂は龍麻の拘束具を外していた手を止め、死蝋の方に向き直った。その表情に迷いは無い。

「わたしは兄さんのものじゃないわッ。わたしは生きているのッ。わたしは自分で考えられるのッ。兄さんが創った怪物達と一緒にしないでッ。もうこんなことは終わりにしましょう。病院から死体を盗んだり、人をさらったり、こんなことして何になるの?兄さんは騙されているのよ。あいつらにいい様に利用されているだけだわ!!」

 龍麻は、いつも大人しい紗夜の中にこれだけ激しい感情が渦巻いていたことを知り、少なからぬ衝撃を受けた。
 だが、それ以上に衝撃を受けたのは、今まで一度も自分に逆らったためしの無い妹に、この期に及んで拒絶された死蝋の方だった。彼は半狂乱になって叫ぶ。

「お前も僕を裏切るのか?薄汚い人間達と同じ様に!!」

 比良坂はその言葉に動じず、兄に背を向けると再び龍麻の拘束具を外そうと試みた。悪戦苦闘した結果ようやく両足の枷が外し終えると、龍麻に微笑みかける。

「後は両手だけですよ」

 残された戒めを解こうと一心不乱に作業をする比良坂の背後で、死蝋が不気味な笑い声を上げた。

「…緋勇龍麻、お前さえいなければ、紗夜は僕だけの物だった。お前さえ…。ククククッ、そうだよ簡単なことじゃないかッ。緋勇龍麻、お前が死ねばいいんだ。そうすれば紗夜は帰ってくる」

 龍麻と比良坂が呆然と見守る中、死蝋は一つの檻の前に移動すると扉の鍵を荒々しく開けた。

「腐童ッ、こいつを殺せッ!!!」

 死蝋の声に呼応するように、先程のものとは図抜けて大きな死人が出てきた。
 咆吼を上げ近づいてくる腐童は、兄の最も自慢すべき研究成果であり、異様に盛り上がった筋肉が繰り出す破壊力の恐ろしさを比良坂は熟知していた。

「やめてッ兄さん!!」

 しかし、瞳に狂気の光を輝かせている死蝋には、比良坂の制止の声は聞こえていない。

「紗夜ッ、危ないから下がってッ」

 龍麻は叫ぶものの、両手が自由ならばまだしも、生憎今は足しか自由がきかない。
 ならば幾ばくでも衝撃に堪えられるよう、身体に《氣》を巡らせようとするが、

<だめ、薬のせいで身体がまだ言うことを聞いてくれない…>

 自分目掛けて振り下ろされる拳を為す術も無く受けるしかないと諦め、目をぐっとつむってその瞬間を待ち受ける。

 そして…

 ────地下室に女性の悲鳴が響き渡る…




 ≪八≫

「足跡はここで途切れちまってるな」

 地下室に下りる階段付近で、四人は龍麻の足跡を見失ってしまう。
 この辺りは中庭に面している窓が破られている為、床には昨夜降った雨水がまだ残っていた。

「やっぱり違う所かな。だってこの先には、人が居そうな雰囲気ないもん」
「そうだな。少し他の場所を…」

 醍醐がそこまで話をすると、階段の奥から震動音が再び聞こえてきた。

「やっぱり奥に何かあるようだな。いくぞッ皆」

 半壊している階段を下に進むと、暗い通路が一本伸びていた。
 足下に気をつけながら慎重に進んでいくと、今度は更に近くで女性の悲鳴が聞こえてきた。

『龍麻ッ!』

 四人は長い廊下を、人の気配のする扉目指して一斉に駆け出す。


 龍麻は悲鳴をあげたのが自分ではないことに、嫌な予感を感じて目を見開く。

「まさか…紗夜ッ」
「大丈夫ですか…良かった。龍麻に怪我が無くて。今、両手の枷を外してあげますね」

 笑顔を見せる比良坂の額には鮮血がこびり付いていた。しかしその血を拭おうともせず、龍麻の両手を縛り付けている枷を全て外し終える。

「うッ───」

 龍麻はまだ痺れの残る身体に鞭打って、比良坂の方に近寄ろうと手術台から降りようとする。一方の比良坂も、不自由な体勢の龍麻を支えようと両の手を差し出す。
 二人は互いに自分の腕に相手を抱き取ると、そのまま床に座り込んだ。

「紗夜ッ」

 比良坂は大任を果たしたというように、満足そうな笑顔を一つ作ると、そのまま目を閉じる。
 その様子を、死蝋はただ呆然と見ているしかなかった。

「何で、そんな奴を庇うんだ…」


 その時、勢いよく入り口の扉が開かれた。
 四人は部屋の中の想像を絶する光景に驚きの叫びをする。

「龍麻ッ!無事か!!」
「比良坂さん、何でここに…」

 龍麻は着ている白い衣と同じくらい蒼白い表情で、比良坂を腕に抱き床に座っている。

「…私は大丈夫…それより、お願い!紗夜のこと──!!」

 葵は比良坂が負傷していることを知り、慌てて駆け寄ろうとするが、その進路を腐童に遮られてしまう。

「早く、早く龍麻を連れてここから逃げてください…」
 比良坂は龍麻の腕の中でそう呟くと、そのまま意識を失ってしまう。


 四人の闖入によって、死蝋ようやく我に返る。
「紗夜の呪縛を解いてあげなければ…。その為には、お前達を殺してやるッ!行け、私の死人達よッ!!」
「くそッ、こんなザコ共に構っている暇はねェんだ。ひーちゃんの所に早く行かねェと」

 京一は『剣掌・旋』で、前方の敵を蹴散らし、がむしゃらに前に進もうとする。
 醍醐はそんな京一を制止するよりも、その背後を固めることに専念する。

「私の癒しの《力》がもっと強ければ…。いいえ、何とかして龍麻達までこの《力》を届けなければ」

 葵は自分の両手を宙に向けて仰ぐように広げた。

「風よ…」

 指先から春の日差しのような優しい光が龍麻達の元へと降り注ぐ。

「葵…ありがとう。────紗夜、ごめんね。少しここで待っていて…」

 比良坂の呼吸が少しずつ落ち着いてきたのを確認すると、龍麻は彼女を背後の柱へと預け、死蝋を見据えながらゆっくりと立ち上がった。

「あなたは、罪を償わなければならない…。紗夜の為にも…」
「クククッ、お前の身体には常人なら廃人になり兼ねない位の麻酔を射ち込んであるんだ。そんなボロボロの身体で何がやれる」
「………」

 確かに、先程の葵の回復術をもってしても、今の龍麻は立っているのですら精一杯だというのは誰の目にも明らかだった。

「今度こそこいつを始末しろ、腐童」

 仲間たちとの間を壁のごとく立ちふさがっていた腐童は、主の命にたちまち雄叫びを上げ襲い掛かる。

「ひーちゃん、避けろッ!」

 京一は怒声をあげる。
 最悪の事態を想像して、葵と小蒔は瞳を閉じた。

 しかし次の瞬間、鈍い音を立てて床に倒れていたのは腐童の方だった。

「今の技は一体…」

 いましがたの光景に醍醐は我知らずつぶやく。
 腐童の棍棒のような腕が龍麻に向って振り下ろされた刹那、彼女の掌からは闇路に冴えかえる紅蓮の花もかくやと、鮮やかな緋の《氣》が繰り出されたのであった。

「これは紗夜の痛みの分…」

 死蝋に向ってゆっくりと歩み始める龍麻の身体全体からは輝く黄金色の波動が発せられ、漆黒の瞳も金色の光が宿っていた。

 龍麻への畏怖の念から、無意識の内に一歩、また一歩と死蝋が後ずさりする。だが背後を護るべき自らの尖兵は、京一らによって全て斃されていた。
 退路を塞がれていることを死蝋は悟ると、恐怖を無理矢理かなぐり捨て、雄叫びと共に刃を振りかざし龍麻へと突進する。

「葵ッ、あなたの《力》をッ」

 葵は龍麻の声を聞き、瞬時にその意図を察した。

<龍麻はやっぱりまだ身体を思うように動かせないのね…。だから《氣》の力で相手を倒そうと考えているのだわ…。さっきの技は恐らく比良坂さんの《氣》と同調させて出したのね。そして今度は私と…>

「はい、私の《力》、あなたに預けます」

 葵は、先程と同じように龍麻に向って両手を翳す。
 二人の《氣》が中空で絡み合う。

「破邪顕正の力をここに示さん」

 龍麻の凛とした声と同時に、二人の《氣》は黄金の龍となって死蝋に突き刺さる。




 ≪九≫

「比良坂さんの傷口は塞いだわ…もうこれで大丈夫よ」

 比良坂の治療を終え、葵は傍らの龍麻に微笑む。
 死蝋を倒した後、全身を覆っていた黄金色の光も一緒に消え失せてしまった龍麻は、力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。仲間達は龍麻に少し休むように言ったのだが、龍麻は何の役にも立たないけれど、せめて葵の癒しの術を受ける比良坂を支えさせてくれと頼み込んだのだった。

 葵が今度は龍麻の治療をしている間、小蒔は龍麻に尋ねる。

「ねェ、さっきの『破邪顕正』って言葉、どういう意味なの?」
「破邪顕正とは仏教の用語で、誤ったとらわれを打ち破り、正しい道理を示すことを指すの。まさに、今の死蝋に贈るには相応しい言葉かなって思って、咄嗟に口に出たのよ」
「へえぇ〜」

 感心する小蒔とは対照的に、相変わらず小難しい言葉を使いやがって、と京一はすこぶる機嫌が悪い。

「龍麻、気にするな。京一は龍麻が行方不明になってからずっと機嫌が悪かったんだ」
「…私、どれ位行方不明だったのかしら」

 今日で四日目だと醍醐から教えられる。

「そんなに眠っていたの…。それにしても、皆よくここが分かったわね」
「それだったら、紗夜ちゃんに礼を言ってくれ。紗夜ちゃんが俺達の所まで来て、この場所を教えてくれたんだぜ」

 その京一の言葉に反応してか、比良坂がぴくりと瞼を動かし、意識を取り戻す。

「龍麻…。ごめんなさい…。わたしと兄のこと、さぞかし恨んでいるんでしょう」

 優しく首を振る龍麻に、比良坂は自分と兄の生い立ちについて訥々と語りだす。


 今から十年以上前、海外赴任を終え帰国する途中、飛行機が密林に墜落し居たこと。
 その時、自分と兄は両親に護られ無事だったが、両親は炎上する飛行機ごと焼死してしまったこと。
 その後兄妹は別々の親戚に引き取られたが、高校を卒業した兄が自分を引き取ってくれるまでのそこでの生活は辛酸を極めたものであったこと。


「龍麻…、人は何を護る為に生きているんでしょう。わたしずっと考えていたんです、あの事故の時からずっと…」

 両親は兄に妹を護るように託して死んでいった。
 その兄は人として結果的に間違った道を歩んでしまっていた。だけども彼は彼なりに妹を護ろうと必死だったのは確かだった。

 振り返って自分はどうだったのだろう。
 両親を助けてくれなかった大人達に、親戚の冷淡な対応に不満を抱くだけ、人から護られるばかりで、自分からは何もしなかったのではないか…。

「でも龍麻に会って分かったんです。自ら進んで護ることの大切さを…。わたし…龍麻に会えて本当によかった…」
「私こそ、紗夜に会えて本当に良かった。ありがとう」

 比良坂は龍麻の言葉に、頬を輝かせる。

「そうだ…、今度、どこかに行きませんか…」
「勿論、約束するわ。怪我が治ったら、必ず紗夜の行きたいところに連れてってあげる」
「えへへ…楽しみだなァ…」

 微笑みながら、紗夜は何だか少し…眠くなってきたと言って瞼を再び閉じる。
「龍麻の腕の中って、暖かい…」

 五人は紗夜の容態が急変したのかと慌てたが、どうやら安心して緊張の糸が切れただけらしいと胸を撫で下ろした。

「いつまでもここに居る訳にもいかん。そろそろ引き上げるとしよう」

 醍醐が先導して出口に向おうとすると、床に倒れていた死蝋がよろよろと立ち上がる。

「紗夜ォ、僕を独りにしないでくれよォ…。心配ないよ…僕がすぐ生き返らせてあげるからねェ」
「ちッ、壊れてやがる」

 京一は吐き捨てるように言うのと同時に、凍り付くような声が地下室に流れ込む。

「役に立たねェ奴らだぜ。せっかく色々手を貸してやったってのによ。でもって風角が言ってた小僧たちってのはお前たちか。面白え、こいつも縁(えにし)って奴か」

 醍醐が誰だ、出て来いと声を張り上げると、火柱と共に鬼面をつけた男が忽然と現れた。

「鬼道五人衆が一人。我が名は炎角」

 炎角は何やら感慨深げに言葉を続ける。

「この東京はもうすぐ俺達の手に落ちる。そうなりゃ、ここは阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。今日の縁が真なら、また再び相見えることもあるだろう。…それまでせいぜい長生きするんだな。もっとも、ここから無事に逃げ出せたのならば、だが────」

 そこまで言うと男は嘲弄する声を残し、幻のようにかき消え失せてしまった。

 待ちやがれと京一が追いかけるが、醍醐に腕を掴まれる。

「京一、天井が崩れかかっている。今はここから逃げることが先だ」

 言葉通り、周囲の実験器具や柱が炎の勢いで次々と崩れ始めていた。

「皆、早くしろッ。もうここは持たない」
「待って、醍醐君。比良坂さんが居ないの」

 葵の声に、先に出口に向っていた小蒔や京一、そして龍麻の足が止まる。

 京一はまだ身体の自由が利かない龍麻を支えようと言ってくれた時に、龍麻は紗夜を一瞬腕から離し、醍醐に自分の代わりを託したつもりだったのだ…。

 だが───
 炎上している部屋の奥に、比良坂は兄、影司を支えて立っていた。

「紗夜ッ、そっちに行っては駄目!」

 龍麻は来た道を戻ろうと試みるが、足が縺(もつ)れるばかりである。

「比良坂さん、早くこっちに!」

 仲間達の説得にも比良坂は儚く微笑むだけで、そのまま立っている。

「わたし達の犯した罪は、こんなことで贖えるものじゃないのは分かっています…。皆さんありがとうございました。龍麻…わたしもっと早くあなたに会いたかった」
「馬鹿なことを言わないでッ、約束は、私たちの約束はどうなるのッ?」

 龍麻の悲痛な叫び声を聞いても尚、比良坂はその場を動こうとはしなかった。

「ごめんね…兄さん。でもこれからはずっと一緒だから。ずっと…」

 優しく兄に話し掛ける比良坂の様子は充満する炎と煙に視界を遮られて、5人には最早はっきりと目視することは出来なかった。

 そして…

<龍麻…ごめんなさい。約束、自分から破ってしまって…。でも…あなたなら私の気持ち…分かってくれますよね>

 龍麻に詫びる言葉も届くことは無かった。


「駄目だ、もうこれ以上ここにいては危険だ。一刻も早く脱出しないとッ」

 断腸の思いで、醍醐は皆を外へと誘導する。

「嫌よッ。私は諦めない。たとえ私の命を投げ出しても2人を助けるッ」

 龍麻は取り乱した声をあげて、部屋の奥に向おうとする。

「ひーちゃんッ、もう止めるんだ。もう…」

 京一はそこまで言って、もう無駄だという言葉を引っ込めた。

「醍醐、美里と小蒔はお前に任せるッ。ひーちゃん、許せよッ」

 すっと左手を伸ばして、龍麻の右腕を掴む。反転した龍麻のみぞおちに、素早く木刀の先で当身を喰らわせた。
 いつもならば堪えられる一撃も今の龍麻には充分すぎる効果があった。
 龍麻はがくっと身を反らせ、気を失ってしまう。

「ごめんな、ひーちゃん」

 意識を失った龍麻を両腕で抱えながら、京一はその場を走り去る。


 部屋を飛び出すと同時に、背後の部屋で爆発が起きた。




  ≪拾≫

 廃屋が燃え尽きるのには、さほど時間はかからなかった。
 四人はその光景をただ呆然と見守り続けていた。

「比良坂さん…何で…何で死んじゃわなきゃいけないの」

 小蒔が嗚咽をあげる。
 葵もそれを慰めながら、自分も涙が止まらないでいる。
 醍醐は自分の無力さを噛み締めている。

 だが一番深刻な表情をしているのは、気絶している龍麻を腕に抱えている京一だった。

「ひーちゃん…俺を恨むだろうな…。でも、俺には我慢できなかった。紗夜ちゃんが命をかけて護ろうとしたお前を、みすみす炎の中に飛び込ませることなんて…」
「京一、お前はよくやってくれた。…龍麻だって分かってくれるさ、いずれ」

 醍醐がそんな京一に静かに語りかける。

「それよりも、今はこの場を離れないと…。これだけの騒ぎになれば、俺達にとって余り愉快なことにならない」

 皆の為に、醍醐は敢えて現実的なことを言って気持ちを奮い立たせようとした。

 ようやくその場を動き出した四人の前に、一台の黒塗りのベンツが止まった。
 警戒して身構えていると、中から壮年の男性が姿を現す。

「龍麻君…何てことだ」

 龍麻の名前を何で口にするのか、理解できない四人は一層警戒心をあらわにするが、男はそんな様子を歯牙にもかけず、

「君達も早くこの車に乗りたまえ。今はこの場を離れることが先決だ」

 そう促し、四人を無理矢理車に同乗させるとこの場を急発進した。


「君達は龍麻君の友人だね。龍麻君が世話になったようで礼を言わせてもらうよ」

 しばらく走ってから、運転席の男が四人に声を掛けてきた。

「おっさん、あんた何者なんだ」

 京一のあまりにもぶっきらぼうな口調に、助手席に座っていた醍醐が顔をしかめる。
 男はバックミラー越しに、背後の京一に視線を送る。まだ膝の上に龍麻を抱え、後のシートの真ん中に座っている京一の顔は今にも斬りかかってきそうな程険しかった。

「私か。そうだな君達が警戒心を抱くのも無理はないな。私の名前は鳴瀧冬吾と言って、都内で高校の理事長を務めている者だ。龍麻君のご両親とは古い友人でね、現在アメリカに居る2人に代わって、私が日本での親代わりのようなことをさせてもらっているんだ」

 ぽつぽつと音がしたと思うと、にわかに雨が降り出した。
 車の窓ガラスが濡れて、街の灯りがぼんやりと、空しく華やかな幻灯のように映し出される。

 葵は次々と彩りを変える車窓を眺めながら、さっきの出来事はこれと同じように幻だったんじゃないかと自分に言い聞かせたかった。だが、傍らに座っている京一の表情と、その腕に眠っている龍麻のやけに白い横顔がガラスに映し出されると、より一層悲しみが深まっていくばかりであった。

「…雨が降ってきてしまったね。君達、もう夜も遅いから、近くまで送ってあげよう。龍麻君は私が責任を持って送り届けるから…」
「俺はまだ、あんたを信用した訳じゃないぜ」
「…京一の言葉に俺も同感です。親切にしていただいて恐縮ですが…」

 鳴瀧は別段気を悪くした訳ではなく、むしろ感心したような表情で話を切り返す。

「君達が龍麻君をそこまで大切に思ってくれて、私は本当に嬉しいよ。それに私のことが信用できないと言うのも、それはそれで尤もな意見だ。では、こうしよう。君達が龍麻君を連れて行きたい、という場所まで私が車で連れて行こう。無論、君達も同行して」

 そういうことならと、京一は行き先を指示した。

「だったら、桜ケ丘中央病院に連れて行ってくれ」

 京一の意外な言葉に仲間たちは驚く。

「京一、キミが一番嫌がっていた所なのに、ホントにいいの?」
「今はひーちゃんの具合を良くしてもらうのが先だろ。俺の好き嫌いなんてのは二の次だ。それに…こんな時だからこそ、あの病院を頼りにしてんだよ」
「了解した。それでは今からそこに向おう」


 雨の中、車は桜ケ丘中央病院に向けスピードを上げて走り抜けた。

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