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邪神街 第八話其ノ壱

 ≪壱≫

 鳴瀧と約束していた午後7時までにはまだ時間がかなりあった為、龍麻は本でも読んで時間を潰そうと道場近くの公立図書館に立ち寄ることにした。

<そういえば、ゆっくり本を読むなんて随分と久しぶりね>

 何にしようかと書架の間を行ったり来たりするのにも思わず胸がときめく。
 たまには父の著書でも読んでみようかなと民俗学のコーナーに足を向ける。すると様々な本に混じって、背表紙に父の名前の出ている本を1冊発見した。

『日本古代から中世における怨霊思想とその変遷 著 緋勇當麻』

 相変わらず不気味な内容の本を書いているなと苦笑しながらも龍麻がそれに手を伸ばした時、同時にそれを取ろうとした人と手と手がぶつかり合ってしまった。

「すみませんッ」

 反射的に謝ってから、そちらの方を向くと、相手も学生服を来た男子高校生だった。

<…鳴瀧さんの指導のお陰で、大体は気配で人の存在ぐらいは察知出来るようになっているのに、こんな傍に居るのに気が付かないなんて。…そうね、あの骨董店の店番の人以来かしら…>

 見ると、相手の高校生は手に抱えていた本を数冊落としてしまっている。

「ごめんなさい、私も拾いますから」

 床に散らばった本は、しかしジャンルがばらばらだった。経済、政治はもとより、医学、古典、おまけに詩集まで…。

「すまない…」

 相手は静かな声で呟くと、龍麻から渡された本を受け取った。

「こちらこそ、ぼけっとしていて。あの、こちらの本も借りられるんですよね」

 龍麻は書架から父の本を抜き出し、本の山の一番上に置こうとする。

「いやこの本は、何故だかタイトルに惹かれて手が伸びただけなので、君が読んでくれ」

 均整の取れた長身の身体に、これも整ったややきつめの顔立ちの青年が、龍麻の方をじっと見る。

「いいんです、私、この本ならいつでも読むことが出来るし。どうぞ、あなたの方で読んであげて下さい」

 龍麻は自分の父の本を他人に読んで貰えることの方がずっと嬉しいので、青年の申し入れを軽く拒否するが、

「───って、もう5冊お持ちなんですね…」

 よくよく見れば、相手の手には既に貸し出し可能の5冊分の本が抱えられていた。
 少しがっかりした表情をつくる龍麻を、不思議そうに青年は見る。

「フッ、君はそんなにこの本を僕に読んでもらいたいのかな」

 呆れたような笑いを浮べる青年を前に、龍麻は父の本だからぜひ読んで下さいと言うのはいささか不躾に過ぎる行為じゃないかと赤面する。

 そんな龍麻の手に、詩集が一冊渡された。

「他の本は仕事、いや勉強の関係で必要なんだが、この本はただ僕の趣味で選んだだけだ。だから君がこの本を代わりに読んでくれ」

 青年の意外な申し入れに、龍麻は驚きながらも改めて感謝する。

「ありがとうございます。私、2週間後に必ずこの本を返却しに来ますから」
「…僕も2週間後にまた来よう。それじゃ」

 そのまま言葉少なに立ち去る青年の所作には、やはりみじんの隙も感じられない。

<何か武道でもやっているのかしら。そういえばあの制服、この近くのスポーツで有名な拳武館高校の制服に似ているわ>

 だが青年から渡された本は、およそ武道とは縁の無さそうな本だった。

「C.P.ボードレールって近代フランスの詩人よね。たしか耽美的な作風で知られる。意外といえば意外な選択だけれども…」

 そこはかとなく憂愁の雰囲気を漂わせる青年に似つかわしい本だと、龍麻は軽く心の中でうなずいた。



 約束の時間15分前に道場に到着した龍麻は、更衣室で手早く白い胴着に着替えると足早に稽古場に入る。

 普段は大勢の弟子達が鍛錬に汗を流している稽古場だが、龍麻との稽古の時にはその《力》を出来るだけ公にしないという配慮からか、必ず鳴瀧一人で相手することに決まっており、その日もいつものように既に黒の胴着を身に付けた鳴瀧一人が待っていた。

 軽く身体を解した後は、実戦形式での稽古を2時間ほどぶっ通しで続ける。型は一通り習得しているので、後は実戦でそれを応用していくことが大切だと言われた為である。

 並外れた《氣》の持ち主である二人であったが、女性の龍麻が清冽な水を湧き出す泉を連想させるような《氣》を乗せて優雅な動きを見せるのに対し、鳴瀧のは月光の下で凍てついた湖面のような《氣》を纏い、その所作はより鋭さと強さを併せ持ち、その性質は全く違っていた。
 しかし二人の動きは合わせ鏡で映したかのようで、言葉に出さなくともいつしかぴったりと呼吸を合わせている。

 初めて稽古を付けた時には、鳴瀧の動きに合わせるどころのレベルでは無かったのだが、この5ヶ月の間に龍麻は鳴瀧の教えを完全に自分の物にしてしまい、今は自分自身の武道の道を進もうとしているように、鳴瀧の目には映った。

<もともと緋勇家の血筋という素質も有るが、今の彼女の放つ《氣》の美しさは…>

 迷いを振り払った瞳で繰り出す《氣》は、触れるもの全てを浄化させるような気高い力に満ちている。

<…弦麻とも違う。やはりあの二人の子供ということは、これも宿星が為せる業か…>


「鳴瀧さん、さっきは何を考えていたんですか?」

 ペットボトルのスポーツ飲料を一口飲んでから、龍麻は鳴瀧に尋ねた。

「いや…本当に強くなったなと感動していたのさ。…これなら安心して日本を離れられる」
「えッ、そうなんですか!?」

 龍麻は目を見開いて驚く。
 だが、鳴瀧が何の仕事をしているのかはっきりとは聞いたことは無いが、多忙の身であることは龍麻にも理解していた。これ以上、自分の為に鳴瀧に無理を強いるのも我儘というものだった。

「…うん、大丈夫。私には心強い仲間もいるし、今は別の修行の場所もいくつか出来たし。鳴瀧さんが帰国した時には、もっともっとパワーアップしておきますね!」

 鳴瀧の心の負担に為らないように明るい声と笑顔を見せる。

「ところで、この間アメリカの両親から荷物が届いたんです」
「ほう」

 鳴瀧にはその荷物が何であるか承知していたが、わざととぼけた声を出して見せた。

「その中には、実の両親の写真が…。京一、いえ蓬莱寺君は、私は母親にそっくりだと言ってくれたんですけれど、実際生で見たことのある鳴瀧さんはどう思われます?」
「そうだね、面差しは君のお母さんによく似ている。でも君の眼差しの強さは父親譲りだな。弦麻は誰からも頼られる男だったから…」

 鳴瀧はかつて共に修行をした仲間の顔を思い浮かべていた。彼等は現世に無くとも、彼等の忘れ形見を通して意志を通わせられる、そんな錯覚すら感じていた。

 深刻になりかけたムードを和らげようと、龍麻は慌てて話題を変える。

「えっと、それでですね、他にも何枚か写真を見たんですけれど、その中に鳴瀧さんも写っていたんです。鳴瀧さんて、若い頃と大分印象が違いますね」
「はははッ、今は中年になって夢も醒めたかな」

 龍麻は首を激しく左右に振る。

「とんでもないです。今の鳴瀧さんも凄く格好いいですッ!でも若い頃は、さぞかしおモテになったんでしょうね。すごい美青年でびっくりしました」

 素直に褒め言葉と受け取っておこうと、鳴瀧は笑顔で応えた。

「だが、残念ながら女気は無い青春でね。それは今の私を見れば分かるだろう」

 確かに、鳴瀧は独身で周辺に女性の影は全く無い。その分、親友の子供である龍麻に寄せる想いは、我が子を可愛がるように強いのであるが。

「すみません、馬鹿なこと言ってしまって。今日、ここに来る途中の図書館で、何となく写真で見た鳴瀧さんに似た雰囲気の、拳武館の学生さんを見たんで、つい…」

 鳴瀧の目に一瞬驚きの色が走ったが、そのことに龍麻は気付く様子は無かった。

「まあ【陽】の武術は代々緋勇家の相伝して来た物だが、私の継承している【陰】は血筋とは無縁の物だから、別に不自由はしていない。現に私も、先代の一番弟子ということで継承しただけだから、私も時期が来たら自分の弟子達の中から継承者を探すさ」



「…最後に一つお聞きしてもいいですか」

 もう遅いからと、鳴瀧の運転する車の後部座席から、龍麻が真剣な表情で尋ねる。

「私の習った武術は、何故【陰】と【陽】に分かれてしまったんでしょうか?」
「…難しい質問だね」

 鳴瀧は低く唸ると、自分なりの答えだがと前置きして話をする。

「それぞれ一人一人の人間の心の中には、誰しも陽(ひかり)と陰(かげ)を併せ持っている。では、それだけで人は完結した完璧な存在だと言い切れるのだろうか?答えは否だと思う。」

 息を呑んで聞き入る龍麻に、鳴瀧は言葉を続けた。

「現に我々人には男性と女性という相反するものが同時に存在している。元来男性は陽、女性は陰と言われているが、それもそんな簡単な括りで語れる程単純な物でもない。男性同士であろうと、女性同士であろうと、勿論異性の間であっても、異なる存在だと互いに知覚のしあい、それでも協調することによって、引いては自身を高め新たなる物を生み出すことが出来るのだ」

 ここで鳴瀧が表情を一変、柔和なものにする。

「武術も同じだと思うよ。さっき君と手合わせした時のことを思い出してごらん」

 龍麻は先程の稽古で、最初は別々の動きをしていた二人がいつしか同調していった時のことを思い出した。
 それは、いつもよりも知覚できる世界が広がったと感じられた実に不思議な体験だった。

「そして、一人の人間の持つ【陽】と【陰】というのは多くの場合ややどちらかに傾いている。それを敢えて逆手に取って、より強く【陽】の資質を持つ者と、より強く【陰】の資質を持つ者とに分け、その二人が《力》を合わせることで、常識では考えられないような力が発揮できるようになる。そのことに気付いた先人たちによって二つの流派に分かたれたのだと私は考えている」

 龍麻は鳴瀧の話を食い入るように聞いていたが、最後に少し寂しそうな笑顔を見せる。

「そうですか。でも、鳴瀧さんにとって自分の半身といえる【陽】の使い手は、やはり父だったんですね」
「ははは、君には嘘はつけないな。…我々の武術のルーツは龍の姿を模したものだと言われている。龍麻君、君にもいつか、必ず現れるよ。君の半身と呼ぶべき【陰】の龍が」

 鳴瀧は前方の車のバックライトを見ながら、自分の弟子の中で一番目を掛けている若者の顔を思い浮かべた。

 ───時が来れば、必ず彼等は出会う筈だ…我々と同じように。



 龍麻は部屋に戻り、さっさとシャワーを浴びると、濡髪をタオルで拭きながら、先刻青年から代わりに借りた詩集をペラペラと捲ってみる。
 しかし、数ページ読み進めるうちに、稽古の疲れからか、静かな寝息を立てて眠りについてしまった。


──神よ── 我が愛する唯一のものよ
    我が魂の陥った この暗い深淵に在って 御情けを乞い奉る
    此処は見渡す限り 鉛に閉ざされた寒き世界
      夜もすがら漂うは畏怖と冒涜
                ──────C.P.ボードレール




 ≪弐≫

「龍麻、早かったのね」

 ブルー地のワンピースを涼しげに着ている葵が、新宿駅前での集合場所に一番乗りしている龍麻に声を掛ける。一方の龍麻は明るいオレンジのキャミソールにアイボリーのカプリパンツというラフな格好の上にオフホワイトのパーカーを羽織っている。

「あら、小蒔はどうしたの?さっき携帯に『葵と一緒に行くから』て連絡入ったのに」
「うちまで迎えに来てくれたのだけれど、何だか忘れ物をしたとかで、一度家に戻るって」

 そう言うと、葵は思い出し笑いをクスっとする。

「それにしても、昨日の蓬莱寺君はちょっと可哀相だったわね」



 期末テスト最終日の放課後、テストも終った気楽さから、龍麻は昨夜途中で寝てしまった為ほとんど目を通していなかった詩集を読んでいた。

 ──空は淀みなく晴れていた 波は静かに凪いでいた

「ふーん」

 背後に気配を感じたので振り返ると、そこには真面目な顔をした京一が立っていた。

「びっくりしたー。もしかして、京一も興味あるの?」
「ねェ」

 予想通りの答えが返ってきたので、龍麻はそれ以上は相手にせずに続きを読もうとした。

「波、波かー。波といえば海、海といえばおネエちゃん達の水着姿。しかし、今はまだ学校があるしな…。っと、そうだッ!明日プールに行かねェか、二人で!」

 突然の大声に龍麻は持っていた本をばさりと落とす。

「プール?」

 怪訝そうな顔を見せる龍麻に構わず、京一は穴場のプールを知っていると、今度は小声で話を続ける。

「其処は近所の短大生のお姉さま方がよく行くところでさッ。きっと水着の美女達が俺を待っている筈だ」

 本当はひーちゃんの水着姿を見たいんだ、と声を大にして言いたいところだが、そう言えば相手が拒絶することは判りきっているのでもっともらしい理由を口にする。しかし、龍麻はますます怪訝そうな表情を強める。

「そういうけれども、京一ってば肝心な所を忘れてない?だって明日は日曜日よ。近所の学校はお休み。となれば…」
「(あ、そっか)」

 迂闊という顔を見せる京一の背後から、小蒔がからかい口調で話に加わる。

「どーせ京一のコトだから、ひーちゃんの水着姿を見たいッていうのが魂胆でしょッ」
「(ドキッ)」

 スケベ心丸出しなんだよッと小蒔に毒づかれ、更に畳み込むように次の言葉が飛び出す。

「そうだ、どうせだったら皆で行こうよ!」
「えーッッ!!」

 抗議の声を上げる京一を無視して、小蒔は葵と醍醐を呼び寄せ手際よく話を纏める。

「…マジかよォ。俺の計画が…」



「私もやっぱり皆と一緒に行く方が楽しくていいわ」

 龍麻の言葉に葵は再度ふふっと軽く笑うが、ふいに表情を硬くした。

「…龍麻。皆が来る前に、私の話聞いてくれるかしら」

 龍麻が断る訳も無く、葵は胸の内に鬱屈していた悩みを話し出す。

「私にも《力》が目覚めたからといって本当に皆の役に立てているのかしら。龍麻や小蒔、京一君や醍醐君のように敵に立ち向うことも出来ないで、いつも皆に護られて後にいるだけ…。私には何が出来るのかしら、私…皆の足を引っ張っているだけじゃないのかしら…」

 ────…自信が無いの、自分に────と呟くと葵は口を閉ざした。

 話を聞きながら葵が抱いている無力感は、恐らく紗夜の一件がいまだ心に引っかかっているからだろうと龍麻は想像した。
 あの時何も出来なかったのは自分も一緒だった。だからこそ、その悔しさをバネに旧校舎や鳴瀧の道場で修養を積むことで解消してきたのだが、葵にはそういった直接的な手段が取れず、旧校舎では自然皆の戦闘を後方で眺めて過ごすこともしばしばだった。
 けれども────

「葵、あなたには確かに敵を倒す《力》は目覚めていない。それは本当のことだけれど、でもね…」

 龍麻は、葵を足手纏いだなんて思ったことは一度たりとて無いのは真実だった。

「…私は確かに前方の敵と闘うことで、後方の葵を護っているつもりだけれど、同じ様に私は葵に後方を護ってもらっているの」
「えッ」
「葵が後で私達を見守っていてくれるから私達は安心して闘える。それに、上手く言えないんだけれど、他にも治癒術を使える人もいるし、私も簡単な治癒術なら使えるけれど、でも、葵が居てくれるのが一番安心する。ほっとするの」

 葵の存在が、自分にとってどれだけ大きいのか、そのことを自覚したのは、夢の世界での闘いの時だった。あの時以降、口に出さなくても葵の気持ちが電気のように伝わってくる時が有る。
 そのことは葵も同じだったのだが、それも二人の背負う宿星故であるとは、この時はまだ知る由も無かった。
 龍麻の力強い言葉に、葵もようやく笑顔を取り戻す。

「ありがとう。龍麻にそう言って貰えると、私も勇気が湧いてくるわ」


 話が一区切りついた所で、小蒔と醍醐が連れ立って現れた。
 実は二人とも先程から集合場所付近に居たのだが、龍麻と葵が何やら深刻そうな話をしていたので、話が終るまで隠れていたのであった。

「後はやっぱり京一だけだね。あの遅刻魔─ッ」

 悪態をついていた小蒔の頭を、京一の木刀袋がポカリと叩く。

「また俺の悪口言ってやがったな」

 へへへっと笑って誤魔化す小蒔を冷たく見ていた京一は、隣の醍醐を見て更に凍りつく。

「お前、気が狂ってんじゃねェの?何だよ、その格好は」
「学生が学生服着て何が悪い。現にお前だって制服だろうが」

 俺はいいんだよ夏服だから、と口の中でもごもごと言い訳してから、醍醐の学ラン姿を攻撃する。

「心頭滅却すれば何とやら、だ」
「ッたく、居直りやがって。見てるだけで暑苦しい。隣の美少年なんか、もう水着で来てるっていうのに」

 違うと抗議する小蒔の格好は、おへその見える白のタートルネックにジーンズの短パンと、確かに五人の中で一番涼しげな装いだった。

「二人とも、こんな街中の暑い所であつくなってないで、さっさと涼しい所へ移動しましょう」

 実は暑さに弱い龍麻は、今は人ゴミから一刻も逃れたい気持ちで一杯だった。

<日本の夏ってどうして、こんなに蒸し暑いの…>

その言葉を受けて、ようやく五人は目的地に向う地下鉄に乗り込んだ。


 ──青き空より抜き出したとしても 天の恩寵は何ひとつ届かない




 ≪参≫

「あっち〜、誰だよ、こんなコース選んだのはー」

 不満を漏らす京一に、ごめんねと龍麻が謝る。

 昨夜パソコンで調べて、一番所要時間の少なさそうな道程を選んだ筈、だったのだが。
 新宿から地下鉄丸の内線で赤坂見附まで行き、そこから銀座線で虎ノ門まで、確かに電車に乗っている時間は僅かに23分。しかし、その後は延々1.5キロ程炎天下を歩くことになる。

「いいじゃないか、プールに入る前の準備運動だと思えば」

 醍醐の慰めにも、京一は拗ねた顔を改めようとはしない。おまけに東京タワーを見るなり小蒔が昇ってみようとはしゃぐ始末で益々不機嫌さは増すばかりだった。


「増上寺もこの近くにあるのよ」

 広大な芝公園の一角に足を踏み入れた時、葵が龍麻らにそう説明した。

「東京タワーに寺か〜!?冗談じゃねェ、俺は早くプールに行きたいんだ」

 醍醐はまだ時間も有るし、俺は別に寄り道しても構わんがと発言する。
 後は龍麻の意見だけだね、と小蒔が話し掛ける。

「うーん。葵、増上寺って、確か徳川将軍の菩提寺だったよね」
「ええ、その通りよ。浄土宗増上寺は室町時代に建立されて、1598年江戸城拡張の際、現在地に移転してきたの。その後は菩提寺として、代々の将軍に尊崇を受けたのよ。今も境内の一角に将軍や御台所のお墓が残っているわ」
「みだいどころ?」

 そりゃ何だと聞く京一に、葵に代わって龍麻が説明する。

「御台所っていうのは、将軍の正妻のことを指すの。京一も大奥っていう言葉なら知っているでしょう?」
「知ってる、知ってる。若くて綺麗な女が集められた将軍のハーレムだよなッ。くー、俺も将軍に生まれたかったぜ」
「…話がずれているぞ京一」

 醍醐の冷たい言葉に、京一は夢なんだからいいじゃねェかよと言い返す。

「有名な御台所と言えば皇女和宮がいるけれども、彼女もここ増上寺に葬られているのよ」

 さすがに葵は詳しいねと小蒔が感心する。

「確か、以前本で読んだんだけれど、工事に伴って徳川家のお墓が発掘調査されて、皇女和宮の墓も調査された時、胸元に写真を抱いた姿で葬られていたそうよ。但し写真の方は一夜にして色褪せて誰が写っていたのか、今となっては謎なんだけれど、烏帽子姿の男性だったと報告書にあったんですって…。歴代の御台所は、多くが京都から公武合体名の元に政略結婚として形式上の妻として送り込まれた姫君ばかりだったけれども、彼女はどうだったのかしら…本当の気持ちは…」

 大奥、公武合体、和宮、この言葉に何かひっかかりを感じながら龍麻は話す。

「龍麻もこのお寺のことが気になるの?私もなのよ。何だか知らないけれども、遠い昔ここに来たことがあるような気がして…」
「うう、学年1位と2位の会話を聞いていたら、歴史の授業を受けている気がする…」

 小蒔の悲鳴に、龍麻は、ゴメンねそれだったら東京タワーに昇ろうかと提案する。

「やったーッ!って、あれッ?向うから誰か来るよ」

 小蒔の指差した通り、前方から周囲の光景とは大分浮きまくっているフランス貴族のような格好をした白皙の青年が、近付いてきた。


 彼は五人に気がつくと、親しげな口調で挨拶をしてきた。つられて返事をする小蒔に、青年は不思議な言葉を口ずさむ。

「この世界は、放蕩と死に溢れている。だが、それも美しき婦人達の前では無に等しい」

 この人何かブツブツ言っているよ、危ない人かな、と小蒔は葵に耳打ちする。

「君、今僕に何か言ったかい?」

 焦る小蒔を、じいっと青年は観察する。

「君は美しい顔をしているね…まるで髑髏の上に越しかけた乙女のようだ」

 京一は、暑さでこいつイカレてるな、小蒔を見て美しいとは、と暴言を吐くが、青年はその言葉を聞き流す。

「だが──美しいものほど、残酷で罪深きものはない…。──何という悲劇。時こそが人の命を囓る。 姿見せぬこの敵は人の命を蝕んで、我等が失う血を啜り、いと得意げに肥え太るのだ──」

 涼しげな顔で、更に難解なことを言い出す青年に、小蒔も京一もキョトンとするばかりだった。
 龍麻は後ろで、ボードレールねとぼそっと呟く。

「ぼーどれーる、何それ?ボードゲームとは違うよね」

 小蒔も京一も顔を見合わせて、疑問符を飛ばす。

「シャルル・ボードレールはフランスの詩人だ。彼の高潔な魂を理解する人が居てくれて僕の心はアンジェラスの鐘の如く高鳴るばかりだよ」

 青年の答えに、小蒔は今度は国語の授業になっちゃったよとぼやく。

「それはそうと、お前、どこの誰なんだよ?」
「僕を知らないのかい?詩人という高貴なる僕を」

 京一からあっさりと知らないと言い返され、青年は相当ショックを受けた様子だった。

「何ということだ…僕の心は、シテールのように荒涼たる風が吹いている」

 自分の世界に完全に浸っている青年に当惑するばかりの五人だったが、葵がふと思い出したように声をあげる。

「そういえば、この近くにあるセント=クライスト学院に13歳で文壇デビューした天才詩人がいるって聞いたことがあるわ。確か名前は水岐──」
「おお、君こそは砂礫の砂漠にいる慈悲深き尼僧。そう、僕がその水岐涼だよ」

 天才だったんだ、通りで難しいこと言ってたんだね、と感心する小蒔に気を良くした水岐は、すぐ後ろに立っていた龍麻に視線を移す。

「君は海が好きかい?」

 特に嫌う理由も無いので、素直にはいと答える。

「そう、海はいいよね。君は僕の詩の感性が分かる人だ。今度君の為に詩を作ろう…。ペトラルカが理想の恋人ラウラに捧げたように」

 この発言には、それまで会話の内容に口を挟めずにいた京一がちょっと待てと割って入ってきた。

「おいッ、突然ひーちゃんに海が好きかいッじゃねえよ。そんなのどうだっていいだろ」
「海は偉大なんだ。全てを生み出し、そして全てを無に還す。そう万物の根源なんだ」
「君の言うことは、いちいち難しいよ」

 もう付き合うのにもげんなりしている小蒔だった。

「これは失礼、ではもう少し易しく言い直そう。海は全てを呑み込む、汚れた人間も、腐敗し切った世界も。この世界は、一度海へと還るべきなんだ」


 これと似た言葉を以前聞いたことがある、あれは渋谷で唐栖と闘った時の言葉だったと龍麻は内心ぞっとした物を感じた。
 醍醐も同じ様に感じたのだろう、一体何が言いたいと、やや険のある言い方で聞き返す。

「罪深い邪教を信じた報いを、この世界は受けなければ為らない。かつての紅の花に埋もれた美しい世界を壊した報いをね。もうすぐこの世界は、全て海の中に沈むんだ。誰も逃れることは叶わない…。この世界はもうすぐ、海の眷属によって支配されるんだ」
「悪いが、俺達はお前の妄想に付き合ってられるほど暇じゃねェ」

 埒が明かないと思った京一の、いかにもイライラした言葉に、さすがの水岐もそうか、と話を打ち切る。

「君達とはまた会えそうな気がするよ。そうだ、今日会えた記念に、これをあげよう」

 龍麻の手に手渡されたのは、テニスボールほどの大きさの青い透明な珠だった。

「この霊玉には水神の霊力が宿っているといわれている。大切にしてくれ」


 ──人間は自らの罪を償うが為に 理性の鍬を振るい───
    苦しみつつも それを耕し起こすために
    ふたつの白土質の土地を 与えられている───




 ≪四≫

「とんだ時間の無駄だったな」

 文句を言いながら歩く京一を先頭に、結局東京タワーに行くことを断念し、区立芝プールに直行することになった。
 かなりの人で混雑している入り口で五人分の入場券を購入すると、プールサイドで会おうと男女別れて更衣室に入る。

「うわーッ、夏休みでもないのに結構混んでるね」
「そうね、三人で着替えが出来る場所を探さないと…」

 葵の言葉とは裏腹に、女子更衣室の中は満員御礼状態で、ようやく見つけた空きのロッカーの前も二人分のスペースしか無かった。

「困ったわね…」

 困惑する葵に、龍麻は先に二人は着替えててと言う。

「龍麻はどうするの?」
「私は先にプールサイドに行って、京一と醍醐君に事情を説明しておく。それにこんなに混んでいたら、合流するのも一苦労だし。二人が着替え終わったら入れ替わりに私がここに戻るわ。その時はそこのロッカーに荷物を一緒に入れさせてね」

 流石にパーカーと靴だけは先に脱いでおくと、龍麻は一足先にプールサイドに向った。

<いくら何でも、あの二人もまだ着替え中よね…って、嘘、もう居るわ!>

 龍麻は更衣室の出入り口付近のベンチにいる京一と醍醐を発見し驚いたが、更にその格好を見て暑さのせいだけではないめまいを覚えた。

「おッ、早えーなと思ったら、まだ洋服のままなのか」
「うん、更衣室混んでいたから、先に葵達に着替えてもらってるの。それより二人とも…」
「俺達がどうかしたか?」

 京一も醍醐も共に極々普通の海水パンツを着用していた。それはまともなのだが、問題は所持品である。

「その手に持っているの、ナニ?」

 その言葉に、京一と醍醐は互いの所持品を見て目を丸くする。

「おい、京一。いくら何でも、プールサイドにまで木刀を持ち込むのはやり過ぎだぞ」
「そういう醍醐こそ、ゴーグルにシュノーケルッ!?プールにそんなのを付けてやって来る馬鹿は初めて見るぜッ」
「何をッ!この二つは泳ぐ時の必需品だろうが!!俺はプールに木刀を持ち込む奴の方がよほど馬鹿だと思うぞッ!!」

 引くに引けなくなった京一は、よしそれなら龍麻にどっちが馬鹿か審判してもらおうと言い、醍醐も遠慮無く言ってくれと龍麻に要求する。

「…悪いけれど、二人とも馬鹿…」

 普段は穏やかな性格だと専らの評判の龍麻だったが、この時ばかりはそんな性格をかなぐり捨てたような辛辣な言葉を吐く。
 京一は後で覚えてろよと低く呟く。


「よお、そこのヘンな三人組」

 そんな彼らに更に過激な言葉が背後から投げつけられる。
 自分も仲間に入れられているのは、この場合少し心外だと思いながら、龍麻は振り返る。

「そう、怪しげな格好をしているお前達しかいないだろ」

 威勢の良い言葉通り、茶髪をポニーテールに結び、健康的な浅黒い肌に良く似合うスポーティーなハイネックの水着を身に付けた、ややきつめの顔立ちの少女がそこに立っていた。
 彼女は三人に聞きたいことが有ると口を開く。

「この辺でオレとちょっと似た感じの女の子を見なかったか?性格は、オレの反対で大人しいんだけど」

 口の利き方も知らない奴に教える義理は無いと京一は息巻くが、醍醐は見覚えは無いと即答する。

「そうか…邪魔したな。あばよッ」

 そう言い残すと、さっさと反対側のプールサイドに大股で歩いて行った。


「すっげー、あれで女か…。何だか小蒔が可愛く見えてくるぜ」
「馬鹿なことばかり言うな。それより、あの二人はまだ来そうに無いな。どうだ、京一、俺達で先に泳いでくるのは」

 暑さに耐えかねた醍醐と京一の様子に、龍麻は自分は此処にいるからと、気持ち良く送り出す。
 京一は水を得た魚の如く嬉々として水の中で潜水を始め、醍醐にとがめられている。

 その様子を遠目にぼんやり眺めていると、今度は控えめな口調で声が掛けられる。

「あの…。申し訳御座いませんが…」

 声の主は、長い黒髪をポニーテールにして、淡いピンク色のワンピースを着用しているどこかで見覚えのあるような少女だった。

「わたくしとよく似た顔立ちの女性を見かけていらっしゃいませんか?」

 ああ、成る程と龍麻は頷くと

「ええ、さっき──」

 返事をしかけた所に被さるように、『雛ッ』と叫ぶ声が聞こえてきた。

「こんな所に居たのか、探したぜッ。雛が変な人に声を掛けられてないか、心配したぜ」
「姉様、わたくしはこの方にお尋ねしていただけです…」
「分かってるよ、妹は世間知らずだからな、アンタが良い人で良かった。世話かけたな」

 どういたしまして、と龍麻は笑顔で応える。その笑顔の眩しさに、姉の方がドキッとしてしまう。
 龍麻の方も、何だか初めて会った気がしない姉妹のことが、別れた後もずっと頭の中に残っていた。


 ぽんと肩を叩かれ我に返ると、京一が暑さにのぼせたかと声を掛けてくるが、それに応えるよりも早く、ハイテンションな声で龍麻を呼ぶ人物が現れた。

「わーい、ダーリンも来てたんだ〜」
「おッ、高見沢か!それにしても、お前結構、ナイスバディだったんだな」

 喜ぶ京一に、褒められた〜と高見沢も嬉しそうに返す。
 確かに明るいグリーンのビキニを着ている高見沢は、龍麻の目から見ても一つ年下とは思えないくらいのプロポーションだった。

「まさか、院長先生も来ているのかッ」

 醍醐の問い掛けに、京一は気持ち悪い物を連想させるんじゃねェと怯える。

「ブッブー。今日は看護学校の友達と遊びに来てるの〜。ねェ、ダーリン達も一緒に遊ぼ?」

 未来の白衣の天使ちゃん達と遊べると喜んだ京一だったが、舞子が突然アイスクリームが溶けちゃう〜と意味不明な言葉を叫び駆け去ってしまったため、それはぬか喜びに終った。


「ちッ、そんだったら、あっちの方で何だか撮影やってたみたいだから、それを覗きに行こうぜ。きっと美人モデルが水着撮影している筈だッ」

 無理矢理龍麻も連れ去る京一だったが、現場は既に後片付けのスタッフが居るだけだった。
 京一はがっかりしながら、葵と小蒔を待っている醍醐の所に戻ってくる。

「ちくしょー。こんなんだったら、やっぱひーちゃんと二人っきりで来ればよかった」

 耳目をはばからず恥ずかしいことを叫ぶ京一を、龍麻が怒るよりも先に別の声がたしなめる。

「相変わらず、馬鹿なコトいっているわね、京一は」

 誰だよ、と京一が不機嫌そうな顔で振り向くが、すぐに驚きの表情に変化した。

「ふ、ふ、藤咲ッ!」

 豹柄の紐なしのビキニを、成熟した身体に纏っている藤咲亜利沙が、龍麻に元気にしてたと声を掛けてくる。

「藤咲さん、お久し振りね」

 今日はやけに色んな人に出会うなと思いながら、横を見ると

「すっげー…」

 しげしげと藤咲を見つめる京一に、龍麻はこらッと怒るが、藤咲は別に減るもんじゃないから、見て構わないわよと言ってくる。

「それにしても、今日はアテが外れたわー」
「アテって何?」

 藤咲は、ここが短大生の穴場であるプールだと知って目当てに来る男(京一みたいな奴)を、逆にカモろうとして来たのだが、今日はロクな男がいやしない、とぼやいてみせた。
 しかも変な噂のせいで、最近港区中のプールで客足が減っている。さっきの撮影会も区が客を呼び戻すキャンペーンの為に行ったのだと言う。

「あたしも詳しいことは知らないんだけど…。じゃあ、あたしはこれで帰るわ。アンタ達はせいぜい水遊びでも楽しんで頂戴」


 藤咲が居なくなった後も、京一と醍醐は何故か落ち着かない様子だった。
 誰かに見詰められているような気がする、と京一が言うと、醍醐もこの気配に覚えがあると応える。

「んふふふふふ〜」

 『裏密?』と男二人は声にならない叫びをあげる。しかし、付近にその姿は見つけられない。だが、おもむろに龍麻が話し掛けた相手に、更に二人は驚く。
 そこにはブルーにピンクの小花のプリントのあるワンピースを着た、中の上レベルの可愛い女の子が立っていたからだった。

「裏密さんも来てたのね」
「ふふふふ〜。ここに目をつけるなんて、流石ね〜ひーちゃん。んふふふふ〜、ここにはね〜出るのよ〜」

 藤咲の話が気になっていたので裏密にも話を聞きだすと、白い腹、灰緑色の鱗、瞬きしない濁った目をした化け物が出ると言う。

「海坊主か?」

 間の抜けた京一の言葉に、醍醐はここはプールだとため息混じりに呟く。



 裏密と入れ替わるように、ようやく葵と小蒔が更衣室から出てきた。

 葵は白にオレンジの縁取りのあるワンピースに、アクセントで同じ色のカチューシャとイヤリングを付けている。
 小蒔はイメージにぴったりの、スポーティーなスカイブルーのセパレートだった。

「おッ、二人とも結構可愛いじゃねェか」

 滅多に無い京一の褒め言葉に、小蒔も満面の笑みでサンキュと言う。

「醍醐もそう思うだろ、っておい、醍醐、何とか言えよ」
「……ああ、中々、似合って、いるんじゃ、ないか」

 ぎこちなく文節切りをして言う醍醐に、龍麻は思わず笑ってしまう。

「それじゃ、私も急いで着替えてくるわ。皆は遠慮無く先に泳いでて!」

 龍麻が更衣室に消えると、ひーちゃんどんな水着かな、と京一はうっとりと空想の世界で楽しんでいた。


「あら、あなた達も来ていたのね」
「その脚線美、その形のいい胸は…エリちゃんッ」

 天野の登場に、京一は直ぐに現実世界に気持ちを戻した。
 仕事で来られたのですかと訊く葵に、今日はプライベート、友達と来たのと笑って答える。

「いずれにしても、またあなた達とは会うことになりそうな気がするわ、じゃあ、緋勇さんにも宜しく伝えておいてね」

 天野の言葉に、醍醐と葵は、また事件が起こったのではと考え込んでしまう。そんな二人を尻目に、京一と小蒔は勢い良くプールに飛び込む。

「うーん気持ち良いッ。葵、早くお出でよッ」

 明るく呼び掛ける小蒔に、葵が今日は楽しまなくちゃと気持ちを切り替えてにこやかにプールに入る。
 醍醐もその通りだと思い続いてプールに入ろうとするが、

「おい、醍醐。ちょっとそのゴーグル貸せよ」

 京一は醍醐が付けていたゴーグルを素早く奪う。

「へへ、これで水の中で、おネエちゃん達の下半身がばっちりだぜ」

 制止の手を振り切り、京一は人の間を縫うように潜水していってしまった。仕方の無い奴だと溜息を吐く醍醐に背後から声が掛かる。

<うーん、中々の眺めだが、極上の美脚にはお目にかかれねェな〜>

 一度水中から出て、深呼吸をする京一の目に、後ろ向きで手摺に掴まりながらプールに入る青いビキニの女性が眼に留まる。

<ナーイスバディ発見!!>

 慌てて水に潜りなおし、その方角に向う。すると、すらりとした白い足と均整の取れた身体を持つ目当ての女性が、こちらに向って歩いて来る。

<ラッキーッ!!間近で見るチャンスッ!!!>

 あと10メートル、5メートル、三メートルと心の中でカウントダウンを始めた京一の身体が、突然水しぶきと共に水上に掬い上げられた。

「???」

 何が起こったのか訳が分からない京一の顔面から、目に鮮やかなスピードでゴーグルが取上げられる。

「没収!」

 声の主は龍麻だった。
 こちらに向って潜水してくる京一に、すかさず『龍星脚』の洗礼を浴びせたのであった。
 戦利品を手に醍醐らの居る方にさっさと合流する龍麻の後ろ姿に京一はぼーっと見惚れる。

「ひーちゃん、いいプロポーションしてるな…」

 醍醐にゴーグルを渡し、葵や小蒔らと水のかけっこをしてじゃれ合っている龍麻は、アクアブルーにトロピカルフラワーの柄の入ったビキニを着ていた。その身体つきは、並み居る敵を一撃で倒すパワーが有るとは信じられない位、女性らしく華奢に見えた。
 しばらくは離れて眺めていた京一だったが、意を決して皆の所に戻っていく。

「ようやく戻ってきたか、京一。って、おい、何をする」

 京一は醍醐の首に腕を廻して、水の中に沈めようとする。

「お前には、宝の持ち腐れだからな。も一回貸してもらうぜッ」

 その様子を見た小蒔も、京一の背中から乗っかり、醍醐を沈めようと加勢する。

「お、おいッ…。桜井、お前、どっちの味方なんだ…」

 勿論面白い方の味方だよッ、と二人分の体重を受けて悲鳴に近い叫びを上げる醍醐に構わずに、小蒔は笑顔を見せる。仔犬がじゃれあっているような三人の姿に、龍麻も葵も明るい声を響かせて笑う。


「フフフ、随分と楽しそうね」

 全員の視線が声の主に集中すると、慌ててプールから上がって整列する。

「今日は学校では無いのだから、そんなに畏まらなくてもいいのよ」

 声の主は、自分達の担任であるマリアであった。マリアはその豊麗な肢体を強調する、真紅のハイレグの水着を着こなして微笑んでいた。

「さすがマリア先生ですね、よくお似合いです」
「本当、こんな大胆な水着着こなせるの、先生しかいないよねッ」

 龍麻と小蒔の褒め言葉に、マリアは、でも男の子には刺激が強すぎたかしらと言う。事実、京一と醍醐の二人は無言のままであった。

「先生みたいな水着美人が登場したら、他の女の人なんてかすんじゃうよね」
「フフフ、桜井さんたら。でも私はもうアナタ達から見てオバさんなのに」
「先生はオバさんなんかじゃありません。若くてこんなに綺麗なのに…」

 葵の否定する言葉に対しマリアは照れ隠しからかわざとおどける

「そんなにミンナで私を褒めるなんて、さては今度のテストの点数を甘くして欲しいとか」
「あッ、バレたか」

 小蒔もマリアに調子を合わせて、軽く舌を出し笑い返す。

「ところで、先生はカレシと来たんですか」

 小蒔の質問に、マリアは女友達と来たと即答する。そうなんだと納得しつつ、小蒔は龍麻に先生の好みの男性ってどんな人なんだろうと訊いてくる。

「…案外、犬神先生だったりして」

 さらっとした口調で言ったが、過去職員室でのやり取りを何度か目撃している龍麻は、二人には、隠してはいる何かがあると確信めいた気持ちがあった。
 案の定、マリアは龍麻の言葉に動揺を見せると、そそくさと去ってしまった。


「はあ〜、いいもん見たな〜醍醐ォ」
「………………」

 マリアがいなくなってから、京一はうっとりとした口調で醍醐に話し掛けるが、醍醐は今だ硬直したままだった。
 と、突然小蒔はマリアの大きい胸が羨ましいと言い出す。

「どうやったら、あんなに大きな胸になれるのかなッ、ねッひーちゃん」
「えッ、さ、さあ〜。食生活の違い、とか?」

 困惑する龍麻を横目に、京一はお前は半分男なんだから、今から頑張ったって無理と小蒔をからかう。怒った小蒔は逃げる京一を走って追いかけ、葵がプールサイドを走るのは危ないと注意したのも空しく、二人は足を滑らせてプールへ落下していった。そして二人を追うように、醍醐は頭を冷やすと言って、またプールの中に戻っていた。

<やっぱり男の人って、大きい胸の女の人の方が好きなのかしら>

 龍麻は自分の胸元を見てから、葵の方をじっと眺める。

<葵も女性らしい体型しているよね…>

 龍麻もまず人並み以上と言ってもよかったのだが、長いアメリカでの生活の中で、周囲を豊満な同級生のアメリカ人の女の子たちに(しかも実際は自分より2歳も年上のお姉さんに)囲まれていた。その為日本人である自分の貧弱な身体にある種コンプレックスを抱いており、中々それを拭い去ることが出来なかったのである。

「どうしたの、龍麻」
「ううん、私ももう一回泳いで来るね」
「そう。なら私は皆の飲み物を調達してくるわね」

 更衣室に戻っていった葵によろしくと声を掛けると、龍麻は腰に付けていたパレオを外し、ちゃぷんと水の中に入った。そのまま一人当てもなく泳いでいたが、突然誰かに足首を掴まれて水の中に引きずり込まれた。

「???」

 驚いて水の中で目を見開くと、太陽の陽射しが水に降り注ぎ蒼い光の輪を水面(みなも)に反映させ、あたかもステンドグラスのように彩られた水天井を真っ直ぐ見上げる形になった。

 その幻想的な光景に恐怖も忘れ去り、綺麗だな、と思ったのも束の間、今度は腕を掴まれ一気に水面にまで引き上げられ、一斉に照り付けられる外光の眩しさに瞼をぎゅっと閉じる。

「さっきのお返しだぜ。へへッ、驚いたか?」
「京…一…」

 犯人の名前を呟きながら、龍麻はそおっと瞳を開く。
 すると、してやったりという笑みを浮べた京一の顔が視界に飛び込む。龍麻もそれにつられたように笑顔を弾けさせる。

 無邪気に笑う龍麻の濡れた髪や肌についた水滴が、光を浴びてきらきらと宝石のように輝きを帯びる。
 眩しい位見事な美しさに、京一は龍麻を握っていた腕の力を思わず強く入れてしまう。

 その痛みに、龍麻は自分が今混雑しているプールの真ん中で京一にお姫様抱っこされている状態だということをようやく認識した。

「は、恥ずかしいッ。皆に見られる〜ッ。お願いだから、もう降ろして〜!!」

 顔を真っ赤にして足をじたばたとしながら暴れる龍麻に、京一はここで技を喰らって気絶するのも怖いので、まあ俺は見られても別に構わねェがと言いながらも渋々水中に降ろす。

「だから、今度こそは二人っきりで来ようぜ」

 耳打ちされた言葉に龍麻は更に顔を赤らめ、それが見られないように水に顔をつけて、綺麗なフォームのクロールで葵が戻ってきたプールサイド際まで泳ぎ去ってしまう。

<人魚みたいだな…あいつ。いつもこっちから触れようとすると、自分はすっとかわしやがる>

 腕にまだ残る華奢で柔らかかった龍麻の感触を思い返しながら、同時に龍麻の天真爛漫な笑顔を見られただけでも、今日は来た価値が有ったかなと自分に言い聞かせた。


 ──今、日が暮れて夜となる 暗き影、街を覆う
     在る者には平穏を 在る者には不安をもたらして───

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