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変生〜後編 第拾壱話其ノ壱


 ≪壱≫

 夏休みの補習の合間、京一と醍醐は息抜きをかね、いつのものように屋上にいた。

 最初のうちは、補習のことだとか、仲間のことだとか、もっぱら京一から話題を振る他愛の無い話だったのだが、いつの間にか醍醐が最近の佐久間を話題にしてきた。


「知らねェよ。俺には男を観察する趣味はねェからな」

 きっぱりと言い返す京一に、醍醐はこれ以上この話を続けてよいものか逡巡したのだが、二人きりの今を良い機会と捉え、自分の思いの丈を話すことに決めた。

「なあ、京一。最近俺はよくこう考えるんだ。俺たちが持つこの≪力≫は何の為にあるんだろう…ってな」
「……」
「≪力≫を持つ者と持たざる者、その違いは一体何なんだろう」

 京一は腕組みをして聞いていたが、その表情からは常の明るさは消えていた。

「ちッ、お前はまたそんな辛気臭いコトを…」

 辛辣な感想を先に言ってから、今度は京一が自分の気持ちを醍醐に伝える。

「別にいいじゃねェか、別に有ったって困るモンじゃねェだろ。それにだ、人が持ってねェモンを持ってるってのは、気分がいいじゃねェか」

 最後の言葉は、薄笑いを浮べる京一の顔から本心かどうか伺えない。しかし醍醐は、現状を気負いもせずに受け入れられる京一のしなやかな強さを、今は堪らなく羨ましいと感じた。

「京一らしいな…」

 ぼんやりとした笑みを作る醍醐に、京一は美里も醍醐も、それに龍麻も余計なことを考え過ぎると忠告する。

「もっと肩から力抜けよ」
「そうだな、そうかもしれん。だがな、京一俺は──」

 人として生きていく上で、こんな≪力≫は本当に必要なんだろうか…。
 確かにこの≪力≫によって命を助けられたこともあった。
 だが、それは同時に平凡な生との決別を意味することでもある。

「俺は、愛する者をもこの≪力≫の為に失わなければならないとしたら…そんな≪力≫は欲しくは無い。欲しいと言う奴に、いつでも喜んでくれてやるさ」
「醍醐、お前…」

 京一は珍しく、次の言葉を告げることが出来なかった。

「俺は…これ以上何かを失うのはごめんなんだ、京一…」
「お前が凶津のことを今更悔やんだって仕方ねェだろ」
「俺は…今の佐久間に凶津を重ねて見ているのかも知れない…」

 だから、無性に不安でならないと醍醐が告白する。

「ちッ、しょーがねェヤツだぜ」

 京一は舌打ちを一つする。

「確かに、佐久間はお前のことを良くは思ってねェ。お前と自分との力の差ってモンを歴然と感じてんだろーぜ。お前が心配するのは分かるが、その気持ちが佐久間に伝わるかどうかは分からねェ。今の佐久間にお前の気持ちを受け入れる余裕なんてこれっぽっちもねェだろう。…あんまり甘ェコト言ってると、そのうち取り返しのつかないコトに…」

 ま、それが醍醐のイイトコなんだけどよ、と最後は気遣うような発言をした。

 京一の言葉に頷くでもなく、醍醐はただ風に吹かれながらぼんやりと聞いていた。
 そんな醍醐を怒るでもなく、京一もまた同じ様に風に身を任せていた。


「俺はなァ、醍醐…」

 そろそろ教室に戻らないとまずいという時間になってから、京一が口を再び開いた。

「何が起こるか分からねェ日常の中で、絶対に護らなくちゃならねェモンを抱えちまったお前の方が、よっぽど心配だぜ…」

<…あいつの場合は護られるよりも、自分が護る方を絶対に選ぶ、そういう奴だけどよ…>

「…風が、きつくなってきたな…」

 1998年の夏が本格的に訪れようとする、ある日の出来事であった。
 そんなに遠い過去ではないのに、今となってはひどく遠い日の出来事に感じられると、後に京一は実感することになった。




 ≪弐≫

「おッ、こっちだぜ、ひーちゃん、美里ッ」

 京一が大きな声で二人を招き寄せる。
 
 今三人がいるのは、先だって龍山に教えてもらった五色不動の一つ、目白不動の境内だった。
 正式名称は『神霊山慈眼寺(金乗院)』、寺社仏閣を見るのが好きな龍麻と葵は、つい当初の目的を横に置いて、この寺の寺名の所以(ゆえん)ともなっている弘法大師作と伝えられている不動明王像を眺めていた。

「随分と変わった不動明王ね、葵」
「ええ、炎を背に、右手に剣を左手に策(大繩)を持つのが一般的な不動明王なのに…」
「表情の変遷というのは制作年代を知る手掛かりとして、私も知っていたけれど。自ら斬った左腕から炎を噴き出すなんて…こんな造形は見たことも聞いたことも無かったわ…」

 何か不安な予兆が、ちらっと龍麻と葵の胸の上をかすっていく。それはいつもとは違う人数で行動しているから…。

「おい、二人とも、何のんびり仏像なんて眺めてんだよッ!」

 寺なんて抹香臭い場所はおよそ肌に合わないと自分でも自覚しているのか、京一がやや苛立った声で再度呼びかける。

 その言葉に、二人はそれ以上の気持ちに蓋をして、慌てて京一が立っている場所まで駆け寄った。

「これじゃねェか、ジジイが言ってた祠ってのは」

 京一が指差した先には、確かに古びた祠が何かから隠されるようにひっそりと建っていた。龍麻がゆっくりと近付くと、手にしていた龍の彫り物の施された2つの宝珠の内、白い方の宝珠が柔らかな光を自然に発し始めた。

「あッ、宝珠が…」
「当たり、だな。そんじゃ、とっとと封印してくれ、ひーちゃん」

 祠の中央に光を放つ宝珠をそっと供えると、祠全体がぱあっと光を放った。
 その眩しさに、三人は目を一瞬閉じ、そして再び開くと祠は霞がかかったかのようにぼんやりとその存在を隠していた。

「結界が発生したのね…」
「何だ、コレ?」

 京一が祠の前に置かれている物体に手を伸ばす。それは足に付けるアンクレットのような物だった。
 躊躇うこと無く足にそれをつけた京一は、何だか身体の動きが軽くなった気がするぜと、満足そうな顔を見せる。

「…お寺の物を勝手に持って帰ってはまずいんじゃないかしら、京一君」

 葵が眉をひそめてその行為を咎めるが、京一はこれはここの封印を復活したご褒美だぜと嘯(うそぶ)く。

「まあ、確かに京一の言葉にも一理有りそうね。ほら、葵」

 京一が祠から現れた道具を取った途端、祠を包んでいた霞が一層濃くなり、やがて肉眼では黙示できなくなった。

「でもその愛らしい格好で街中を歩くの?京一」
「うッ、そ、それは、確かに…俺には似合わねェな…どう見てもこれは女が身に付けたほうが良さそうだ」

 慌てて京一は自分の嵌めていたそれを、龍麻に渡す。
 龍麻は黙って受け取ると、それを誰に装備させようか考えを巡らせ、無意識に葵の方を見る。しかし葵の顔はまだ冴えていない。

「…葵、どうしたの?」
「本当に、三人だけで来て良かったのかしら…」

 本来ならば龍山宅を訪問した翌日、五人で封印をするはずだったのだが、醍醐も小蒔も二人揃って翌日の学校を欠席した為、予定を1日順延した上での今日の不動巡りだった。

「連絡も取れねェし、そんならとっとと俺たちだけででも、封印した方が安全だろ」
「そうね、龍麻が宝珠を保管してくれていたのよね。…ごめんなさい、変なことを言って」

 それじゃ、さっさと次の不動に行こうと三人が門の方に向うと、すっかり聞き慣れている声が投げられた。

「それが五色不動の≪力≫ね」
「エリちゃん、偶然だなッっ────てワケねェか…」
「ふふふ、あなたたちが不動巡りするって白蛾先生から伺っていたから、それでここに足を運んでみたのよ。もっとも昨日来るかと思っていたけれどね。」

 天野は、以前取材を通じて新井龍山(=白蛾先生)と面識を持ったという。
 そして今東京で起こっている事件のヒントを掴むことが出来ないかと、風水や陰陽道にも詳しい龍山の元を訪ねたのだと言った。

「丁度一昨日の晩だから、あなたたちとは入れ違いになった訳ね。……あらッ、今日は三人だけなの?」

 ようやく天野はいつもとメンバーの数が違うことに気が付いた。二人ともちょっと用事が出来てと、龍麻はその場を取り繕う言葉でお茶を濁す。

「そう、本当だったら五人皆に聞いて欲しかったんだけれど…仕方が無いわね。どうかしら、少し時間を割いてもらえる?鬼道衆について新しい情報が手に入ったの」

 相談するまでも無く、三人は天野の話を聞くことに決めた。
 それじゃ、人が余り来ないところに移動しましょうと、天野は境内の外れに三人を誘導する。



「鬼道衆の目的についてなんだけれど──」
「奴らの?東京の壊滅じゃねェのか。当人たちもそうはっきりと言ってたぜ」

 京一の言葉に、残りの二人も水角や風角の言葉を思い返す。

「でも、それだけじゃないと思うの。鬼道衆がわざわざ水岐君や他の人をそそのかして事件を引き起こしているのには、何か別の意味があるんじゃないかって…」
「その別の意味を調査していって、織部神社と龍山さんという風水に関する権威に行き当たったということですね、天野さん」
「ええ、その通りよ。先日織部神社で江戸時代に書かれた興味深い書物を見させていただいたの。緋勇さん、あなた───」

 天野はまっすぐに龍麻を見据えたまま質問する。

「菩薩眼って言葉、聞いたことある?」

<ぼさつがん…、何処かで聞いたことが有るような気がするけれど…駄目だわ、はっきりとは思い出せない>

 いいえ、と呟く龍麻に、

「そうね、そんな言葉、今まで怪奇事件を追っていた私だって初めて聞いたもの。知らないのも無理ないわ」

 天野は納得したようにそう言うと、自分が聞いてきた限りの話だけれどと前置きをして菩薩眼について説明を始めてた。


 菩薩眼───別名、龍眼。
 元来は風水発祥の地、中国の少数民族客家たちによって伝えられてきた話で、地の龍つまり龍脈が乱れる時、その瞳を持つ者が現れ、人を浄土へと導くというものだ。

「客家という民族は、独自の文化を持つ人々でしたね。そして彼らは風水の概念をもとに生活し、それが故に少数ながらも英才が次々と輩出されていることでも知られてますね」

 龍麻はアメリカ時代、父の友人に客家出身の事業家が何人かいたことを思い出した。

「ええ、海外で成功している華僑の多くは、彼ら客家の出身だと言われているわ」

 話が少し逸れてしまったわねと、天野が再び菩薩眼の説明に話を切り替える。


「その瞳は気の流れを詠み、大極を視るといわれているの。──でも何故か女性にしか発現せず、その為風水に詳しい時の支配者たちは競って菩薩眼の女を探していたと言うわ」
「……………」
「それだけじゃない、その書物には鬼たちが菩薩眼の女を攫っている様子も書かれていたの…理由までは書かれていなかったけれど」
「時の支配者だけでなく、鬼までも…」

 驚く龍麻に、天野は江戸時代に人と鬼の間で、菩薩眼を巡る闘いがあったらしいということは確かだと言った。
 しかももっと驚くべき記述が、その書物には書かれていたのだと。

「当時、江戸の街の人々が、その鬼たちを何て呼んでいたか…。その書物にははっきりと書かれていたわ。───鬼道衆とね」
「それじゃ、俺たちが今闘ってる鬼道衆ってのも」
「…その可能性が高いわね。もし、鬼道衆が今までに起こした事件が菩薩眼の伝承に関わるとすれば、彼らの真の目的は東京の壊滅というよりも、この東京を混乱させ龍脈を乱すことで、菩薩眼を持つ者を覚醒させるということでしょうね」
「そんな…一人の人の≪力≫を覚醒させる為だけに…」

 葵は衝撃を受けて言葉を飲み込んでしまう。

「ふざけやがって…そんなくだらねェ理由で」

 京一は怒りを隠そうともせず、木刀を何度も自分の肩に打ち付ける。

<…時の支配者だけでなく、鬼道衆までもが欲する菩薩眼の≪力≫っていったい…>

 じっと考え込む龍麻は、自分の中に眠っている菩薩眼という言葉に反応した記憶を引き出そうと必死だった。


「…どうして≪力≫が発現したのかしら?」

 突然耳に飛び込んできた天野の言葉に、龍麻は慌てて気持ちを切り替える。

「ずっと考えていたの。何故あなたたちのような若者にだけ≪力≫が発現したんだろうって。何故我々大人たちではなく…」
「天野さん?」

 気遣う龍麻の顔を見て、天野はふふっと軽く笑い返す。

「でももう考えないことにしたの。あなたたちは選ばれたのだから…この東京(まち)に。…実はね、手をこまねいて観ているしかない自分に少し腹が立ってたのよ」
「そんなことねェぜ、エリちゃんだって立派に俺たちと一緒に闘ってくれてるじゃねェか」
「そうです。天野さんの情報があればこそ、私たちも安心して行動が出来るんです。そうよね、龍麻」
「確かな情報は何よりも強力な武器になる…そのことを一番ご存知なはずの天野さんがそんな弱気なことをおっしゃるなんて」
「あら、皆を励まそうと思ってたのに、逆に私の方が励まされちゃったわね。…ありがとう皆。私も出来る限りのことをするから、これからもよろしくね」

 自分はもう少し菩薩眼のことや、白蛾先生の言っていた九角という人物について調べてみるから、みんなも頑張ってねと言い残し、天野は一足先に寺を後にした。

「エリちゃんもああやって頑張ってくれてるンだ。俺たちもさっさとやるべきことを済ませようぜ」




 ≪参≫

 三人は目青不動に移動すべく、目白から山手線で渋谷まで戻り、そこから新玉川線に乗り換え2駅目の三軒茶屋で下車した。レトロな路面電車が走る東急世田谷線三軒茶屋の駅を横目に、やや雑多な駅前商店街を抜けて直ぐの所に、目的の寺はあった。

「こんな街中にある寺か…」
「うふふ、京一君ったら。ここのお寺は天台宗教学院は、もともとは応長年間に現在の皇居のある紅葉山に創設され、その後移転を繰り返して、明治42年現在地に移された由緒正しいお寺なのよ」

 そう葵に言われてみると、確かにここの寺域内には、周囲の空気とは違う清浄な≪氣≫が満ちている感じがした。

「よくそんなコトまで調べる気力があるな…」
「…またそういう言い方して…あッ」

 京一の方に注意を向けていた龍麻は、不意に人とぶつかってしまった。

「ご、ごめんなさいッ」

 ぶつかった相手は自分たちと同じ位の年かさと思われる、男子高校生だった。

「……………」
 
 相手は龍麻の詫びの言葉にも反応せず、無言のままだった。
 その青年は背後に京一よりはやや短い刀の鞘を収めている朱色の布でできた寸袋(すぶくろ)を背負い、おまけに顔には一筋の傷が走っているので、その風貌は一見するとぶつかったことに因縁をつけているように周囲には映った。

「…おい、何ひーちゃんに因縁つけてんだよッ!」
「………………」
「おいってば、お前聞いてンのかッ」
「…ちょっとこの姉さんがエエ女やったから。えらいすんまへんな〜」

 京一が前に割り込んだことで、ようやく相手の青年は口を開く。
 その最初の印象と違う明るい言葉と愛嬌たっぷりの表情に、一同は脱力する思いだった。

「いきなりひーちゃん相手に何ナンパすんだよ、この関西人はッ!」
「わい関西人ちゃうんだけど…まぁ、ええか。兄さんたち、ここに用でっか?」
「お前には関係ねェだろッ!!」

 京一はこめかみに青筋を立てながら、相手の青年に怒鳴り散らす。しかし青年は柳に風といった感じでニコニコと笑っているだけだった。

<何か知んねェけど、こいつを見るとワケも無くムカついてくるんだよなーー>

「そっか、それもそうやな。でも気ィつけや、この辺りは鬼が出るいわれとるんや…」
「何を…」

 龍麻が問い掛ける間も与えず、含み笑いを浮かべたまま青年はせいぜい喰われんようになと言い、さっさと居なくなってしまう。


「…変わった人だったわね、今の人」
「秋になっても連日こう暑くちゃ、ちょっと思考が溶けかかったヤツが一人二人いるのも無理ねェぜ」

 辛辣な京一の言葉に、龍麻も葵も苦笑いをする。
 だが青年の言葉は、取りも直さずこの寺に封印の為の祠がある証拠だと、三人は気合を入れて境内を探し歩く


「あったわ、こっちよ、龍麻、京一君」

 葵の手招きに近寄ると、確かに目白不動とよく似た祠がひっそりと目の前にあった。

 先程と同様、残った青い珠を近づけると珠から淡い光が発し、そして供えた後も同じ様に祠は結界に姿を隠し、変わりに立派な日本刀が祠のあった所に置かれていた。

「直刀、ということは大分時代の古い刀ということね」

 龍麻が手にとってよく眺めるみると、その刀には水龍文の施された金具が取り付けられていた。

「俺はこんなごちゃごちゃとした飾りが付いた刀なんて、あんまり使う気がしねェぜ」
「これはどちらかと言うと、人を斬るという実用ではなくて儀礼用の刀だと思うの。これとよく似た形状の刀を、前に正倉院展で古代の貴族が身に佩(は)いていた物で観たことあるわ。それにお寺でもよく四天王とかが護持している刀もこの形ね」
「…ちッ、また俺には役に立たねェ道具かよ…」

 がっかりする京一に、龍麻と葵は封印の祠がくれた物なんだから、必ず何か大切な意味が有ると言って慰める。

「それに後3つは珠を封印しなければいけないし…」

 まだまだこれからが大変と、龍麻は表情を引き締める。

「まあ、どっちにしても手持ちの珠はこれで終ったんだ。…後のことは明日二人が来たら相談しようぜ」


 三人がようやく新宿、中央公園まで辿り着いた時には、もう日がとっぷりと暮れていた。

「今日はあっちこっち歩き回ったから、足が痛ェぜ…」

 京一がぼやくのに対して、龍麻も葵も涼しい表情を崩さない。

「…ひーちゃんが化け物じみたスタミナの持ち主だってコトは前から知ってっけど、美里、お前も華奢なくせにタフだよな〜」
「女性は男性よりタフだって言うものね」
「そうそう、男の人は余計な煩悩を抱えている分、すぐにスタミナが足りなくなるのよ」
「…もしかしてひーちゃん、俺の言葉に怒ってるのか?」

 さあねと、龍麻は澄ました顔を作る。そして三人はそれぞれ帰途につくことにした。


「そうだ、明日も醍醐のヤツが来なかったら、放課後あいつン家に行かねェか」

 龍麻の家の前まで一緒に歩いてきた京一が別れ際、龍麻に相談する。

「そうね、小蒔はご家族が一緒だけれど、醍醐君はお父様と二人きりで生活していて、しかもそのお父様もしょっちゅう出張に出ていて不在だって言うし…分かったわ。明日放課後に行きましょう」
「ま、何事もなけりゃいいんだけどな…」

 龍麻が居なくなった後、一人残された京一の不安を掻き立てるように、俄かに周囲の木々が風に煽られざわざわと葉摩(はずれ)を起こす。

<風が強くなってきたな。嵐が来なけりゃいいけどよ……>



 翌朝、HR時間間際になっても、やはり醍醐も小蒔も教室には姿を現さなかった。

<昨日あの後葵の電話で聞いた話から考えても、やっぱり小蒔と醍醐君の身に何か起こったんじゃ…>

 ただ小蒔が自宅にいることははっきりしているので、その点が救いといえば救いだったが、醍醐に至っては、あの後気になって彼の自宅に電話を入れてみたが、誰も電話口に出てこなかった。

 黙りこくる龍麻に、葵も憂いを湛えた表情を見せる。
 遅刻ギリギリで教室に飛び込んできた京一が、そんな二人に何か言葉をかけようとするが、その背後からマリアが現れた為、渋々自分の席に座る。

「それでは朝の伝達事項から────」

 その内容は二学期開始から同じ、行方不明になっている佐久間に関することだった。
 だが、事態の深刻さに反して教室内の生徒たちの反応は極めて冷めたものだった。そのことが龍麻には一層この場にいる居心地を悪くさせた。

「それから今日の欠席者も…醍醐クンと桜井サンの二人ね」

 マリアが出席簿に印をつけようとしたその時、前の入り口がからりと開けられた。

「桜井サン…」
「……遅れて済みません…」

 あれがいつも元気いっぱいの小蒔なのだろうか、と誰しも我が目を疑いたくなる程、その表情は萎れていた。

<心なしか少し痩せたような気もする──>

 マリアに促されて、龍麻は自分の斜め前にある席に座る小蒔の後ろ姿を眺めて、昨日から感じていた予兆じみたものが、確信へと変貌していった。
 机の下で、他の人に気付かれないようにぎゅっと拳を握り締める。

 マリアが教室から出て行くやいなや、龍麻以外の二人も同じ感慨を抱いていたのか、すぐに小蒔の席に近寄る。

「……あッ…おはよう…ひーちゃん…皆」

 小蒔は自分の席に座ったまま、顔だけをゆっくりと龍麻に向ける。

「小蒔おはよう…もう大丈夫なの」
「…あ、あのッ…ゴメン、心配かけちゃって。…葵も、わざわざ電話くれたのに」
「2日も連続して休むなんて、滅多に無かったから。それに、電話にも出られないってお母様もおっしゃってたし…本当に大丈夫?」
「………」
「よッ、どうした元気ねェな。お前は能天気さだけがウリなのによ」
「……ゴメン」

 龍麻と葵は同時に溜息を吐く。そして京一も表情と声のトーンを変える。

「ちッ、やっぱりヤな予感が当たッちまったか…醍醐の奴も来てねェんだよ、お前が休んだ日から同じように…な」

 その言葉の意味が理解出来ない小蒔に、京一が状況を簡潔に説明する。
 醍醐、という言葉を聞いて小蒔の表情に微かな怯えが走ったのを、三人とも見逃さなかった。

「病気で休んでいたなんてウソだろ。あいつに何があったか俺たちに話してみろよ、なァ小蒔」

 尚もだんまりを続ける小蒔に、京一は更に表情を真剣な物に変える。

「言えよ…小蒔。さもなきゃ俺は一生お前を恨むぜ」
「ボク…どうしていいか分からないんだ…」

 小蒔はそんな京一に気圧(けお)され一瞬呼吸を止めてから、まるで泣き出しそうな声で応える。

「小蒔、ここでこの話をするのは…。屋上に行きましょう」

 授業を堂々とエスケープするのもこの際構わないという龍麻に後押しされるように、小蒔は力なく屋上に向って一緒に歩き始める。そして当然のように、京一も葵も二人と行動を共にした。




 ≪四≫

 屋上に辿り着くまでに覚悟を固めた小蒔は、自分が遭遇した一昨日の出来事を、三人を前にしてありのままに語った。


 意識を取り戻した小蒔の目に映ったもの…それは力なく地面に自分の拳を落としている醍醐の後ろ姿だった。
 躊躇いがちに声を掛ける小蒔に、醍醐は振り向きもせずに独り言のような言葉を呟いた。


──俺のさっきの姿を見ただろう、化け物のような牙、獣のような爪…。そいつで俺は…佐久間を殺した
──何が何だか分からないよッ、ボクには…

 小蒔の悲鳴のような言葉に、醍醐はその場を黙って立ち去ろうとする。

──待って、待ってよ、ねェ醍醐クン!!

 だがその呼び声も振り払うように、醍醐は一目散に駆け出していった。

──俺は…桜井…俺は…

 その言葉だけが、土砂降りの雨音をぬって小蒔の耳に届いた。

──醍醐クンッ!…嫌だよそんなの───醍醐クンッ!!!


「…あの野郎…」

 小蒔の話を聞き終えると、京一は目の前にいない醍醐を咎めるような言葉を漏らした。
 落ち込む小蒔を慰めるように、そして京一の気持ちをなだめようと葵がそっと自分の意見を口にする。

「醍醐君は私たちに迷惑をかけないために…姿を…」
「それがてめェ勝手だっていうんだよ!あいつは前からそんなトコがあるんだ!!クソッ、そんなに俺たちが頼りにならねェのか」
「京一君、醍醐君だって今頃きっと一人で苦しんでいるわ」
「そんなコト、分かってるさ俺にだって…だけど腹が立つんだよ」

 葵と京一の会話に、先程からずっと黙っていた龍麻がようやく口を挿む。

「今は一刻も早く醍醐君を探し出すことが大事でしょう。彼の行動の是非は後でゆっくり考えればいいわ。ね、京一、葵」
「…あぁ、見つけ出して一発ブン殴ってやらなきゃ気が済まねェぜ」


 それじゃ小蒔の話をもう一度整理してみると、今度は龍麻が中心になって話を進める。

「佐久間君は、以前とは違った≪力≫を身に付けていたのね…そしてその背後には鬼道衆がいた、このことも間違いなかった」
「…うん、そうだよ…炎角っていうヤツが…」

『炎角ッ!』

 三人はその名前を聞いて、かつて品川で出会った時の忌わしい出来事を思い返した。

「………そう。あいつが…炎角が表に出てきたのね…」

 その押し殺した口調から、逆に龍麻が炎角に対して並々ならぬ怒りを今だ抱いていることは明らかだった。

「龍麻…比良坂さんの…」
「…ごめんね、葵、皆。今は紗夜の仇という、個人的な恨みをぶつけている場合じゃ無い…。とにかく、鬼道衆が絡んでいるということは、残念ながら佐久間君は異形の者に変化(へんげ)させられてしまったというのは紛れも無い事実ということになってしまったわね」
「まさか、醍醐クンもッ!」

 しかし龍麻はゆっくり首を横に振る。

「それは違う。醍醐君は元の姿に戻っていたのでしょう」
「…う、うん。でもあの時だって──」

「水岐君の場合は、葵の持つ強い癒しの≪力≫が働いたからよ。でもあの場にはそんな≪力≫を持つ人は居なかった…だから、醍醐君が変化したのはもっと別の理由が有るんじゃないかしら…」
「別の理由…」

 首を捻る一同に、葵は一つ提案をする。

「アン子ちゃんやミサちゃんに相談してみるのはどうかしら?あの二人だったら、もしかしたら私たちが見落としている所に気が付いてくれるかもしれないわ」
「そうだな…正直後のことを考えるとあんまし話したくないが、アン子の情報収集能力と洞察力は頼りになるし、裏密の占いも好意的に見れば外れたことはないか…」

「決まりね。そろそろ1時間目が終る頃だし、そうしたらまずアン子の所に行きましょう」

「…俺は後から行く。お前たちでアン子を掴まえておいてくれ。落ち合う場所は…そうだな新聞部がいいだろ。あそこなら人もこないし」

 まさか逃げ出すんじゃないでしょうねと、いつもの元気を取り戻しつつある小蒔が睨みつけるが、京一は必ず後から行くと約束した。


「……二人とも、私も後から行くわ」

 龍麻の申し出に、京一は意外そうな顔を作った。

「ひーちゃんが一緒なら京一も逃げ出したりしないだろうし…それじゃ、新聞部で待ってるね」

 葵と小蒔の姿が見えなくなったのを背中に感じながら、京一が龍麻にややぶっきらぼうに話し掛ける。


「…何だよ、ひーちゃんも一緒に行けばよかったじゃねェか。まさか余計な心配してんじゃねェだろうな」
「余計な心配をしているのは、京一の方なんじゃないの?ううん、それよりも京一にも醍醐君について何か他に心当たりがあるんじゃないかしら?」
「俺にも…と来たか。ひーちゃんも何か心当たりが有るんだな…」
「今となっては、というレベルだけれどもね…最近の醍醐君、何か様子がおかしかったから…。何だか焦っているみたいに、何かから逃れようとするみたいに見えたわ」
「あいつ、俺にまで黙っていなくなりやがって…あいつにとって俺たちは仲間じゃなかったってことか!!」

 京一は自分の拳を屋上の鉄柵に打ち付ける。甲高い音が震動を伴いながら響き、それが静まった頃、

「それは違うと思う…」

 龍麻は京一の言葉を否定する。


「…私にも同じような経験が有ったから分かるの。醍醐君の自分の内に秘めた≪力≫に対する怯えも、そしてそれが白日に晒された時の衝撃も…そして、その自分を拒絶されるのではないかという不安も…」
「……あいつの内に秘められた≪力≫か。そういえば──」

 そういえば、以前増上寺の地下にある神殿を目指していたときに、そのような話を聞いた記憶が有ると言った。


 あれは龍麻が葵の治療を受けている時だった。岩に腰掛けてその様子をぼんやりと眺めていた京一を呼ぶ声が、小さく聞こえてきた。振り向くと、そこには真剣な表情の如月がいた。
 彼が黙って手招きするので、そのまま二人は少し離れた場所に移動した。

『蓬莱寺君、一つ聞きたいことがある』
『何だよ、金ならねェぞ』

 的外れかつ素っ気無い返答に如月は少し黙り込んでしまうが、それでも質問をして来た。

『君、醍醐君とは古い付き合いなのかい』
『いや、真神に入学してから…あいつは1年の一学期の途中に転入してきたからそれ以来の付き合いだぜ』
『そうか…』

 如月がそこで口を閉ざしてしまうので、京一はやや態度を軟化させる。

『何だよ、遠慮せずに話してみろよ』
『……醍醐君から目を離さないことだ。彼のあの≪氣≫、僕の思い過ごしでなければ、あれは───』

 その時、小蒔が大声で如月に呼びかける声が被さってきた。


「結局、その話はうやむやのままで終っちまったんだが…その後は如月にわざわざ聞こうって気も失せたし」
「翡翠があの時そんなことを…そういえば…」

 龍麻は以前にお店に行った時に見せられた水鏡を思い出した。あれを前にして如月から聞いた話は、まるで───

「まさか…」
「ひーちゃん、何か分かったのか?」
「……とにかく、アン子の所に行きましょう。話はそれからよ」




 ≪伍≫

「あ、来た来たッ」
「遅かったじゃないの、龍麻、京一」

 小蒔とアン子の声に出迎えられて、二人は新聞部の部室に入った。
 アン子にまで2時間目の授業をエスケープさせてしまって悪かったと龍麻が謝ると、

「いいのよ、気にしないで。ふふふ、新しいパソコンの為…ううん、他ならぬ皆の為ですもの」
「???」

 小蒔が龍麻の袖をくいくいと引っ張って耳打ちする。

「(あのね、アン子ってば最初渋ってたんだよ。新しいパソコンがあれば仕事がはかどって時間もつくれるのにって。そしたら、葵がさ〜、次の生徒会の予算案に組み込んでみるって約束してね…)」
「(葵が…そんなこと言うようになったの)」

 龍麻は唖然としながら、だが葵も葵なりに必死で心配しているんだと理解した。

<まあ、こんな強引な手段をとるなんて思ってもみなかったけれど…人って環境によって変わるものなのね>

「龍麻、何一人でぼーっと考えているのよッ」
「ごめん、それでアン子はもう事情を聞いたのかしら」

 醍醐失踪の経緯はすでに葵と小蒔から聞いているとアン子は答えた。それで、後は龍麻と京一の合流を待つだけだったという。

「済まねェなアン子、手間取らせちまって…」

「…何だかアンタが素直に礼を言うなんて気味悪いわね〜。まあ、それだけ事態が深刻だということね。ありがとう、こんな大事なことであたしを頼ってくれるなんて…。あたしも出来る限り協力するわ」


 そしてさっそく、醍醐が異形の者に変化した理由を探ろうと切り出した。

「桜井ちゃんの話だと、醍醐君の姿は獣に近いってことよね」
「う…ん。前に水岐君が変化させられた時は、もっと怪物みたいな姿だったけど、醍醐クンのはそういう印象は薄かったような気がする。…あんまりはっきり見られなかったけれど」

 あの時は醍醐の姿を直視する勇気が無かったんだと小蒔がぽつりと付け加える。

「それは仕方の無いことよ。突然自分の友達の姿が変わるなんて、普通じゃ考えもしないもの…。と、これは失言だったわね。それで、人が獣のように変わる、そういった伝承は案外と世界各地に残されているのよ」

 例えば、人狼、満月を見て狼に変化するという有名なヤツもそういった部類に入る。

「日本では憑(つ)き物憑きと呼ばれる現象も、その1種に数えられるわ」

 憑き物憑きとは、狐や狼の霊が人間に取り付き祟ることをいう。
同じ関東の秩父地方に伝わる話では、狐やオーサキという山の神様の使いが人に憑いたという話が伝承として残されている。

「じゃあ醍醐クンがああなったのも、何かの祟りってコト?」
「それは分からないわ。今は人が獣に変化するという件で、関連性のある話を羅列しているだけ。もっと情報が無いと──」
「んふふふふふ〜、思念の渦巻く処、其は運命の女神(ファタエー)の御地よ〜」

 裏密が音も無く、突然新聞部に現れた。さっきアン子を探しに行った時に教室にいなかったから、声を掛けられなかったのに…と葵が訊ねると、

「トネリコの枝をつかった土占い(ゲオマンシー)で皆の姿が視えたの〜。ミサちゃん何でもお見通しよ〜」

 ここに来たのも当然のことだという発言をする。

「ということは、醍醐君の件も知っているのね」
「んふふふ〜ひーちゃんはだいたい分かってきてると思うけど〜、ここはミサちゃんも解決に協力してあげるわ〜」


 息を呑む一同の前で、裏密は水晶球を取り出し、聞いたことの無いような呪文を唱える。

「汝、魔界より出でて魔界に帰る者。星のダエモーンたる者の輝けるエンス・アストラーレを映し出し、凡庸なる我の前にそれを示さん…」

 すると水晶球に、何か白濁したような映像がぼんやりと浮かび上がってきた。それを視ながら、裏密は謎めいた言葉を紡ぎ始めた。

「虎に与えられし道(ヴィア)は損失(アミッシオ)に満ち──精神(こころ)は悲しみの檻(トリスティシア)とならん。ふたつの導き手たる者は、白き手(アルブス)より希望を──紅き手(ルベウス)より絶望を誘う」

 他に何か視えるものはないかとのアン子の問い掛けに、

「四匹の獣、蝶の住む森、ちがう森じゃないわ〜。蒼く延びる細い木───」

 そこまでいうと、ふっと視線を水晶球から外した。

「う〜ん、終ったよ〜」

 何一つ具体的な言葉が出てこなかったことに対しては、裏密は占いとはこういうものだからと説明する。

「これをどう解釈するかは〜みんな次第〜。でも〜醍醐君が危ない状況であるのは〜間違い無さそうよ〜」
「そんな、それじゃ早く探さないとッ!!」
「落ち着けよ、小蒔」

 小蒔の興奮振りを京一がたしなめると、逆に小蒔は京一に激しく食って掛かかる。

「こうしている間にも…、京一は心配じゃないの?何でそんなに落ち着いていられるの!」

 その余りの勢いに、言われた京一のみならず、周囲の人間まで圧倒され黙るしかなかった。そんな何も答えない京一に腹を立てた小蒔は、

「…もういいよ。京一には頼まない!!」

 一人で勢い良く部室から出て行ってしまった。

「…何だよアイツ…。じゃあ俺も俺で好きにやらせてもらうぜ」

 売り言葉に買い言葉という表現がぴったり当てはまるように、京一も小蒔に続いて部室を後にしてしまった。


「…たく、仕様がないわね二人とも。あんなんじゃ見つかるものも見つからないわよ」

 アン子は龍麻と葵に、すぐ二人を追いかけた方が良いんじゃないかとアドバイスする。
 それならと葵がアン子と裏密に手短に礼を言うと、

「いいって、貴重な購買層を減らすわけにいかないから」
「醍醐君〜の無事を〜魔神にも祈っておくわ〜」

 龍麻と葵はそれは心強いと言い、そして二人の好意を背に部室を出た。

「…龍麻」
「分かってる。私は京一を追いかけるから、葵は小蒔をお願いね」



 丁度3時間目の授業が始まろうとしている廊下には、すでに人影はまばらだった。

<京一の性格からして、もしかしたらもう学校を出て行ってしまったかも…)

 3階の階段の踊り場でどこへ行くべきか自分の行き先を決め兼ね、たたずんでいると、そんな龍麻を詰問するような声が掛けられる。

「どうしたの、もうすぐ授業が始まるわよ、緋勇サン」

<よりによってマリア先生に見つかってしまった、まずいな…>

 急がないといけないのに、と心の中で思っていると、マリアが誰か人を探しているのと、内心を見透かすようなことを言ってきた。ここで嘘をついた所で、それが見抜かれるのも分かりきっているので、正直に話すことにした。

「はい、実は蓬莱寺君を探しているんです」

 詳しい事情は言わず、必要最低限の言葉でマリアに返答するが、その表情と言葉の真剣さに、マリアは一瞥で事情を察知したようだった。

「蓬莱寺クンなら、さっきこの階段を上がっていったわ。次の授業はワタシの英文ね…いいわ、目をつぶりましょう。学校は勉強だけをするトコロではありませんから」
「…先生」

「さ、早く行ってあげなさい。他のセンセイに見つからないうちに」

 感謝の言葉もそこそこに、龍麻は屋上への階段を駆け上っていった。
 屋上に出る鉄の扉を開けると、果たしてマリアの言葉通り、京一の姿をすぐに見つけることが出来た。


「ひーちゃんか…、俺に何か用か」

 何今更なことを言っているの、と口にはしないが、その瞳でじっと見つめる。

「…何となくお前が来るような気がして…さっきは悪かったな」
「私はいいけれど。…京一?」

「何で…何も言わねェでいなくなったんだ醍醐…。俺たちは仲間じゃねェのかよ…ひとりだけで苦しむこたねェじゃねェか」

 京一は先程のように物に当り散らし怒鳴るのではなく、もっと内省的な声で、醍醐の行動を、ひいては彼の悩みを救ってやれなかった自分を責めるように呟く。

<…京一、小蒔の言葉に少し傷付いたのね…>

 ふわりと龍麻は京一の傍に近付いて、やや肩を落としている彼の背にそっと触れる。

「……ひーちゃん?」
「京一の気持ち、私にだって痛いくらい伝わってくる。だから、小蒔にもそして醍醐君にもきっと…ううん絶対通じる…。 それに醍醐君…本当は誰よりも今一番私たちの助けを求めているはずだわ」
「…そうだな、あいつだって自分から逃げた以上、俺たちの前に顔を出しづらいだけだよな。きっとあいつは待っている、俺たちが来るのを…」

 京一は柔らかく自分を包んでくれる龍麻と寄り添うようにして、しばらくそのままで流れる雲を眺めていた。


「なんだか…逆だよな?」

 やがて照れ笑いを隠すように京一が言う。

「何が?」
「普通、こういう時は男の方が女を抱き締めて、大丈夫だって言うもんだけどよ」
「……じゃあ、そう言って」

 私だって本当は不安で一杯なんだから、とやや睨むように見上げる。

「私が行方不明になった時も、こんな風に心配してくれたの?」
「…お前ん時はこんなモンじゃ済まねェよ…もし、あの時もっと早くにお前が拉致されてたって分かってたら、何もかも放り出してすぐに駆けつけてたぜ」
「…じゃあ、今度もそうしよう」
「おいおい、勝手に行動していいのかよ、俺を呼びに来たんじゃなかったのか」
「皆だって同じ気持ちだもの…だから小蒔とも一緒に行動できるよね」

 京一はふうと溜息をつく。

「ひーちゃんには敵わねェな…。さっきの小蒔だってやっぱ俺と同じ気持ちだったんだよな。───ここはやっぱり俺から折れるか」

 それでこそ男らしいとぽんと背中を一叩きすると、龍麻は3-Cに戻ろうと京一に笑顔で促した。

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