≪壱≫
「女神(ドゥルガー)よ、殺戮と破壊を繰り返す女神よ…」
低音で男の声が、まだ幼い少女を催眠術を施すかのように語りかける。
「17(サラ)視えるか…お前の世界を視通す≪力≫を以って」
少女は瞳を閉ざし、ぎこちない口調で自らの感知できた光景を言葉にする。
「……女帝(エンプレス)のカードが視えます…。大いなる愛に満ち溢れた…」
男は満足そうに頷き、続けろと指先だけで指図する。
「その近くに白き力(ストレングス)のカードと、戦車(チャリオット)のカード、更に近くに太陽(サン)のカード…」
女帝を護る強いカード(守護者)の名前を挙げていき、やや少女の声は興奮を増す。
「光が…包んでいます。柔らかく温かい光が……。ああ、あなたはいったい……」
「ふふふ、大いなる≪鍵≫となる女帝…。今まで200人近い候補者があったが、いずれも違う存在だった…いや、お前を責めている訳ではないぞ、17(サラ)」
「…………」
男は部屋の明かりを点けるよう、同室にいた別の人物に合図する。
明るくなった部屋は、豪華な緋色の絨毯が目立つ外国貴族の居間といった様相だった。
その部屋の主に相応しく、男は外国のそれも時代がかった軍服を身に纏い、尚且つその場にいるもの全員、男を含めて日本人ではなかった。
「≪鍵≫となる人物の在処さえ分かれば。そして、それを手に入れさえすれば、我らゲルマン民族が再び世界を手にすることが叶う。総統(フューラー)が成し得なかった偉業を、我らが代わって成し得る日も───」
その言葉を中断させるように、小さな音をたてて部屋の扉が開き、おずおずと幼い少女が入室してきた。
「20(マリィ)か…何だ」
自分の演説を中断させられた不機嫌さを剥き出しにする男の耳に、猫の鳴き声が流れ込んでくる。
「何だ、その薄汚いモノはッ!」
「……拾ッタ…捨テラレテタカラ…。ジル様、オ願イ…。飼ッテモイイデショウ?」
20(マリィ)と呼ばれた少女は物を頼むというにはあまりにも強張らせた表情で、それでもジルと呼ぶ男に話をする。
「───捨てて来いッ」
「エッ!」
反射的に腕に抱いた猫をぎゅっと抱き締めながら、マリィは驚きの声を上げる。
「聞こえなかったか、捨てて来いと命じたのだ」
「デモ…」
このままじゃ、この仔猫(コ)は死んじゃうよと、言葉に成らない程の小さな声で弁解をする。その態度が気に入らなかったのか、ジルはマリィの頬に思い切り手を上げる。
小さな悲鳴を上げてその場に転倒するマリィを、同室に居た少年たちが愉快そうに笑い飛ばしていた。
マリィが半分泣きながら部屋を出て行く姿を、出来損ないめと罵声を浴びせながら見送ったジルは、その少年たちに向かい居丈高に命令する。
「19(イワン)21(トニー)、お前たちの出番だ。今から指図する場所に行き、速やかに目的を達成せよ」
目的が何なのかを既に知っている少年二人は、サラが今から口にするその場所を聞き逃すまいと、固唾を呑んで待ち構える。
「……場所は…シンジュク…マガミガクエン…」
その言葉を聴くや否や、二人は準備に取り掛かろうと、ジルに恭しく一礼すると素早く部屋を出て行った。
だが、サラの方はまだ瞳を閉じたまま、何かを探っているようであった。
「どうした…17(サラ)。まだ何か見えるのか?」
「……あともうひとつ…微かに見えます。………ドラゴン……いえ、旅人を表す愚者(フール)のカード…ですが…」
深い霧のようなものに遮られ、その先を見ることは出来ないとジルに恐る恐る言う。
「お前の千里眼の≪力≫を以ってしても視えないモノがあるとは…」
ついぞ例の無い出来事に、さすがのジルも驚きを隠せない。
「あッ」
サラが小さな悲鳴を上げる。
「どうしたのだ」
「い、いえ…もう視えません…」
サラの透視の≪力≫を秘めた瞳に映った、ある鮮烈な光景。だがそれは明らかに今の時代のものでは無かったからだった。
もっとも、少女とジルにはその遠い過去の光景を、よりはっきり視ることが出来たとしても、それが何を意味し、そしてそこに現れた者が何者であるのか、いずれも理解することは不可能であったろう。
≪弐≫
屋敷の奥を目指して、一人の少年、いや元服を済ましたばかりとはいえ大人の仲間入りを果たしたのだから青年と呼ぶべきであろう若者が、足音も荒々しく歩いている。
「若君、どうかこれ以上奥は。殿様以外は男子禁制で御座います。ましてや、元服を済まされたのですから…」
「うるさい、俺の邪魔をするのならば容赦はせぬ」
まだ若者は幼い顔立ちを残していたが、全身から漲る気迫が、押し止めようとした老女中を黙らせてしまった。
<奥まではこんなに遠い道程だったか…>
幼少時代には自由に行き来が出来たこの廊下が、今は何と果てしない物に感じるか。あの頃よりも体格は大きくなっている筈なのに、焦る心が余計距離を感じさせていた。
それでも、やがて目的の屋敷の最奥部に到達した。
重厚な杉戸の前には、見覚えのある童女が頑として座っていた。
「どうかこれ以上はお引取りを…」
「どけ、紗代」
しかし、紗代と呼ばれた少女は迫力に気圧されながら、尚もその場を動こうとはしない。
「いいえ、たとえ若君や殿のご命令であっても、この紗代、姫君の御命令以外絶対に聞きませぬ」
「強情な…」
押し問答を続ける二人の耳に、杉戸越しに鈴の音を転がしたような声音が洩れ伝ってくる。
「構いませぬ、お通しなさい」
「宜しいのですか、姫様」
「…………」
言葉が返ってこないのを、この姫君特有の了承の証と熟知している紗代は、黙って杉戸を開け、自らは下手側に退き若者を通す。それでも中に入っていく背中に、疾(と)くご退出をと促すのを忘れない。
部屋中御簾を降ろしてやや暗い中、若者は自分が捜し求めていた少女を見出した。
「どうして…どうして此処に戻ってきた?」
形式上の挨拶も交わさず、いきなり本題を切り出す。
「そなたは兄と暮すことを、あんなにも喜んでおったではないか」
しかし少女は瞳を閉じ、黙ったままだった。
「俺は…俺はそなたを、そなたを迎えに行けるだけの器量を備えようと、この三年の月日修行に身を投じていたのに」
「…宗崇様にはお分かりになっているのでしょう。それを今更何故にと私に問うのは、それこそ愚問という物では有りませぬか」
「頭で分かっていても心が納得が出来ないから、直接そなたの口から聞き出したいのだッ」
宗崇と呼ばれた若者は、じれったいとばかりに、やや乱暴に少女の手首を掴んだ。その行為にようやく少女は瞳を開く。相も変わらず吸い込まれそうな位、深く澄んだ黒い双眸だと、宗崇はこんな状況でも美しさに心打たれる。
「間も無く綸旨(りんじ)が下される筈です」
「表向きは、天皇家と幕府が仲良く手を結ぶという、な」
宗崇は少女の手首をそっと放すと、その場に腰を降ろした。
万延元年(1860年)、当時老中として絶対の権力を握っていた井伊直弼が桜田門外で暗殺されると、幕府は反幕府勢力を抑える為、朝廷(公)と幕府(武)が合体して政局の安定を図ることを目的に、公武合体運動を進め、時の天皇の妹宮、和宮親子内親王を、同じく時の将軍徳川家茂の身台所として翌年には降嫁することを取り決めていた。
「それもこれも、あの時の将軍の座を巡る争いが尾を引いている訳だ」
苦々しげに宗崇は断じる。
現在の将軍徳川家茂は、元は紀伊藩主徳川慶福と名乗っていたことからも明らかなように、将軍家の直系の生まれではない。前将軍十三代家定は、精神薄弱の上世継もいなかった為、その死の直前から後継者を巡って激しい対立が起こった。
譜代大名等はこぞって血統の良い慶福を押し、血気盛んな越前藩主松平慶永、薩摩藩主島津斉彬等は、賢明な人物を求めて一橋家の徳川慶喜を推薦した。譜代大名等は自らの覇権を守る為、彦根藩主井伊直弼を大老に据え、そしてその結果血筋の勝る慶福が14代将軍家茂となった。
しかし、その舵取りの役割を果たした井伊直弼が尊王派の手にかかって桜田門外の変で横死したことから、内憂外憂を抱える幕府が今まで以上に混乱するのは必死であり、それを回避する目的で選択されたのが、今回の公武合体政策であった。
「だが、それだけでは有るまい。お前が、龍姫が江戸に下る理由は」
龍姫と呼ばれた姫君は、その言葉にようやく少し反応を示す。しかしそれも僅かのもので、直ぐに穏やかな≪氣≫を纏ったまま、宗崇の言葉にじっと耳を傾けている。
「恐らく慶福(家茂)が、紀伊家出身ということで、そなたの血筋を知ったのであろうが…、しかしそれにしても、僅か十二歳の娘に何を…」
「もう十二歳で御座います。立派な大人だと、柳生の殿様も申されました。…私の瞳は生まれつき光も映し出すことすら適いませぬ。ですが、代わりに別の≪力≫を与えられております。そして、その≪力≫を欲する方が居られるということも…」
穏やかな微笑みが縁取る凛とした美貌は、確かに12歳の少女のものとは思えぬ気品と風格を備えていた。
「お前は全てを承知の上で、江戸へ赴くという訳だな。だが、龍斗はどうしたのだ?あいつも黙ってお前を幕府に差し出すのを承知したというのか?!」
「……兄上は…行方不明です」
静かに呟くが、しかし兄は生きていると断言する。
「私には分かります。兄上がご健在でおられることが…ですが」
「それが幕府に、いやこの場合朝廷にばれてもまずい、と」
宗崇の目に鋭い光が走る。この兄弟のことならば、恐らくこの世で他の誰よりも最も理解しているのが自分だという自負がある。何故なら、自分の母親は彼等兄弟の実母の乳兄弟であり、そして龍姫が幼少時代はともに大和国柳生の里で過ごしたのだから…。
「…愚かなことです。私の≪力≫をそのように思っているとは…」
龍姫は闇夜に響く経文のように深く切ない言葉を洩らしたきり、形の良い桜色の唇を固く閉ざした。
宗崇も、これ以、彼女の気持ちを乱すのは避けたいと、ただその幻のように美しい姿を瞼に焼き付けるかのように見守っていた。
二人の間にひっそりと時間だけが流れた。そこに遠慮勝ちに杉戸を叩く音が聞こえてくる。
「姫様、もうそろそろ…」
紗代は誰も近付いてこないように、気を配って見張っているのだが、それももう限界に近いようだった。
「…お別れで御座います、宗崇様」
彼女は間も無く京に戻り、そこで和宮降嫁の列に加わるという。
「もっとも私自身が江戸城に入るのは、更に先でしょうが…。当面は江戸の織部神社に身を寄せるよう、指示が出ております故」
「………ず…行く」
宗崇は呻くような声を上げる。
「宗崇様…?」
長い付き合いであったが、龍姫はこのように弱々しい宗崇の言葉を聞いた覚えが無かった。
「必ず、迎えに行く…どんな手段を使っても…」
その言葉に反応して、彼女の長い睫が別の感情でもって少し震え、そして宗崇の空恐ろしい言葉を塞ぐように、そっと指を伸ばし彼の唇をふさいだ。
「………龍…姫…」
「…嬉しゅう御座います。私のように、一族の落ち零れと後ろ指指されていた者に、その様な言葉を…。ですが、私にはこの別れが永遠ではないことが分かります。必ず、また貴方様の元へ戻る日がやって来ます…。どうか、それまで、お健やかに…」
それは龍姫の優しさからくる慰めの言葉であったのかもしれなかったが、宗崇は彼女に秘められた不思議な≪力≫を誰よりも知っていた。
<彼女の予言は必ず当たる…。だが俺はそれをただ手をこまねいて待っているのはご免だ>
「運命は自分の手で切り開きたい…、必ず…迎えに行く…」
翌年の秋、和宮一行は遅れに遅れた婚儀をようやく済ませることになった。その一行に龍姫と名乗る少女が加わっていたのか…彼女自身のその後の行方は杳として追うことは出来なかった。
≪参≫
「…どうした、ひーちゃん。ぼーっと突っ立って」
京一に呼びかけられて、龍麻は夢見心地のような顔をはっと上げた。
「ごめん、何でも…。ただ、ここには初めて来たような気がしなくて…それに…」
「わはははは、それなら俺の案内は不要だったな」
豪快に笑う紫暮に、龍麻は慌ててかぶりをふって自分の言葉を否定する。
「とんでもない。紫暮君こそ、わざわざ朝早くにここまで案内してくれて本当にありがとう。お陰で助かったわ」
「いや、この辺は俺のトレーニング場だからな。朝の鍛錬のついでだ。気にするなッ」
紫暮に案内してもらった場所とは、江戸五色不動の一つ、目黒不動尊。日頃は関東最古の不動霊場として賑わっている境内も、早朝の時間ともなれば目立つ人影はまばらだった。
「それにしても、今朝は珍しい顔ぶれだな」
紫暮がそう言うのも無理は無い。今彼の目の前にいるのは、龍麻、京一、醍醐の三人だけだった。
「ここの所、連日遅くまで色々あったから、たまには、ね」
二人抜きの行動の裏には、さすがに葵や小蒔がこう連日どこかに出かけるとなれば、彼女らの両親も不審に思うだろうとの配慮が働いてのことだった。
「ま、たまには男の友情を確めあうってのも悪かねェってな」
京一の言葉に、龍麻も醍醐も頷いた。
「京一の言う通りだな。もっとも…龍麻は女だぞ」
<ちッ、別にお前が付いて来なくたって、俺とひーちゃん二人でも十分封印なんざ出来るッてのに。しかも紫暮まで…>
そういった厭味を込めての京一発言だったが、当の醍醐も、他の二人も何も気が付かなかったようだった。
<よりによって三人ともこういうことには一番鈍いヤツらばっかだからな…>
溜息をつく京一を横目に、紫暮はまた何かあったら遠慮無く声を掛けてくれと言い残し、自身は鍛錬の為、駆け足で境内から去っていった。
「さてと、それじゃ封印の祠とやらを探すとしようか」
醍醐の言葉に、それぞれが境内で目ぼしい所を探してみると、ほどなく龍麻が祠を発見し、二人を呼び寄せる。
「これが…封印の祠というやつか」
その古びた小さな祠の姿にいささか拍子抜けした様子の醍醐だった。京一は驚くのはこの先だぜと龍麻に封印をするように促す。
龍麻は二つ持っている宝珠を左右の掌にのせ、そっと祠に近付いた。すると右の拳に乗せた黒い宝珠が淡い光を発したので、それを祠に安置する。
「!!!」
驚く醍醐の目の前で、祠は強い光を一度発したかと思うと、その姿を朧なものに変えた。
「もう一つ驚くのが、こいつさ」
ひょいと京一が祠から摘み上げたものは…。
「な、何だよッ、この不気味な土人形はッ」
ゲッとした表情で龍麻と醍醐の方を振り返る。
「これは土偶よ、京一」
京一の手からそれを受け取ると、龍麻は即座に口を開いた。
「縄文時代に作られた呪術用の道具で、多くは女性の姿を象っているといわれているのよ。ほら、ね」
指し示した部分には、たしかに胸のふくらみを連想させるような造作がなされていた。
「女性固有の子を産むという行為を、当時の人々は神秘的な力として崇めていたのでしょうね。世界各地には大地母神として妊娠中の女性を象った像が数多く発掘されているわ」
「……もうちょっと色っぽいおねーちゃんの像だったら良かったのに…」
こんな宇宙人顔の人形なんてと、京一は落胆した表情をみせる。
「京一の言い分はともかく、龍麻、勝手に持って行っていいのか?」
「この間の2つの道具も封印の祠から授かったものなのよ。だから、これも封印のお礼としてありがたく頂いて構わないんじゃないかしら」
「そうか、龍麻がそう言うのなら…何かの役に立ってくれるかも知れんし。それにもうそろそろ学校に戻らんとな。今ならまだ1時間目に間に合うだろう」
無事に封印を済ませた三人は、朝もやの晴れてきた目黒不動を後にした。
同時刻、葵は一人学校に向う通学路を歩いてた。
「Good Morning美里サン。珍しいわね、今朝は一人なの?」
「Good Morningマリア先生。小蒔は朝練で後輩をしごくんだって、先に学校に行っているんです」
それから葵はマリアと連れ立って歩き始めた。だが、葵の表情に若干の曇りが見え隠れしているのをマリアは目敏く見つけた。
「元気が無いわね、どうしたの」
「え…、あ、はい。実は…」
葵は自分の気が塞いでいる理由を正直にマリアに話した。
この間の日曜日、母親と二人で太田区の文化会館で開かれたバザーの手伝いにボランティアとして参加したのだが、その時に大切にしていた腕時計を無くしてしまったのが、その原因だった。
「あれは父から高校の入学祝いに贈られたものだったので…」
「そう…。せっかくのボランティア活動に水を差されてしまったというワケね。ところで、そのバザーっていったいどういった目的のモノだったの?」
「世界中の恵まれない子供のため、その収益金を資金に孤児院を建てるという目的です。何でも今年設立された学校の母体となっている慈善団体が主催して行われたらしいのですが」
「…戦争や災害などで最初に被害を受けるのは、いつの時も子供たち。愚かな──いえ、悲しいコトね」
そう言って俯くマリアの顔は、深い悲しみに沈んでいた。
<マリア先生のおっしゃる通りだわ。それに…あの日バザーを手伝ってくれた中学生の子供たちも、もともと孤児だったのを今は保護されているのだと係の方が教えて下さった>
葵はそう考えると、大切にしていたとはいえ、時計1つ無くしたことで落ち込んでいた自分の悩みが卑小なものに感じられた。
それぞれが黙って物思いに耽っていると、そこに突然一台の黒塗りの車が乱暴に突っ込んできた。
「危ない、美里サン」
咄嗟に声をあげるマリアの目には、呆然と立ちすくむ葵を取り囲むようにして、車から数人の男が唐突に飛び出してきた姿が捉えられた。
「Stop!! Frieze(止まれッ!! 動くな…)」
その男たちの中でも、とりわけ小柄な、まだ小中学生といった年齢の黒人の男の子が、マリアと葵に乱暴に声を投げ付けてきた。
「What──are you doing? Who are you?(…何のマネ。何者なの?)」
「Shut up….Aoi Misato.Aren't you?(黙れ…。アオイミサト。お前のコトだな?)」
マリアの質問には答えず、少年は目の前の葵に視線を向けた。自分の名前が突然出てきたことに、葵は反射的に驚きの表情を作る。
「Come here!!(こっちへ来いッ!!)」
その言葉を合図に、大柄な黒ずくめの男二人が左右から葵の腕を掴んで、乱暴に車に連れ込もうとする。
「kidnappers….Don't be silly(誘拐ね…。バカなコトをッ!!)」
だが果敢にも単身マリアは葵を解放するように、傍若無人な犯行をしようとする男たちに要求する。
「Let's her go.And go away!!(そのコを離して。そして消えなさいッ!!)」
そこまで言った瞬間、マリアの表情が凍りついた。
「クッ…」
背後に冷たい銃口の感触を感じたからである。それを命じたのは、先の少年よりは年嵩は上だが、氷を思わせる色白の肌と冷たい表情ばかりが目に留まる、子どもらしさというのは微塵にも感じさせない男子生徒だった。
「Frieze.Take her with us(抵抗するな。そいつも連れて行く)」
自分より年上の男たちに尊大に命じると、自身はさっさと車の方に戻ろうとする。
その少年に合わせて、小柄な少年もマリアを侮蔑するような言葉を吐き出す。
マリアの瞳が鋭く輝いたと思うと、次の瞬間、小柄な少年の頬をしたたか叩く。少年は一瞬の空白の後、
「……Sit!! fucker(クソッ!!このアマッ)」
そう罵ると、身体全体に異様な≪氣≫を纏わりつかせた。銃口を突きつけられながらもふっと笑みを浮かべるほどの余裕のあったマリアの表情は、その光景を見ると一変して硬くなった。
<このコの≪力≫は…まさか…>
「Hey!! 21!! Let's run away!!(トニー、いくぞ!!)」
もう一人の少年が苛ついた声で再度命令すると、トニーと呼ばれた少年はひとまず自分の≪力≫の解放を止め、マリアと葵を強引に車に押し込み、現れた時と同様に、二人を拉致した車は猛スピードで現場を去って行った。
「………特ダネだわ…」
もう誰も居ないと思われた現場から、ひょこっと姿を現したのは新聞部部長のアン子であった。
<こ、これって誘拐よねッ。この写真を週刊誌に売り込めば───ううん、警察に売り込むのも悪くないわね。白昼の誘拐劇を目撃した美少女記者としてワイドショーとかの取材も来たりして>
妄想と期待をたくましく膨らませたアン子の得意も、しかしそう長くは続かなかった。
「あ、あ〜ッ!嘘ッ!!カメラが壊れてる…」
毎日ちゃんとメンテを欠かさなかったのに何でと眼を丸くし、次いで決定的瞬間を逃した口惜しさが湧き上がり、思わず地面を一蹴りする。
するとキンっという音が足元で転がった。その音の正体を親指と人差し指で摘み上げる。
「ん?何よコレ…」
見慣れないバッジがアン子の掌に握られていた。
≪四≫
最早この三人がつるんで授業をサボったり、遅れてくるのは当然だと同級生たちは思っているのか、龍麻・京一・醍醐が1時間目の授業を終えた3-Cの教室に入ってきたのを見ても、誰もそれをとがめたり、不思議そうな表情をする者はいなかった。
唯一人の例外が、彼らの仲間である小蒔だった。
「随分遅かったねッ」
「ああ、京一が───」
理由を説明しようとする醍醐を、京一が何で俺のせいにするんだと押し止めようとする。
「お前のせい以外、どんな理由があるんだ」
「きょーいちぃ。醍醐クンとひーちゃんの足だけは引っぱらないでよ」
二人の息の合った攻撃を受けて、京一は傍らに居る龍麻に助けを求める。
龍麻は弱ったような笑いを浮べながら、授業に遅れた理由を小蒔に説明した。
封印を済ませて学校に向う途中で、ある店の前を通りがかった京一が、腹が空いて目が回りそうだからここで飯を食っていこうと二人を誘った。
生真面目な醍醐は、学校に遅れるからと断ったのだが、京一は龍麻の意見を聞いてからだと切り返した。
『うん、いいんじゃないの。私もお腹空いてたから』
予想外の答えに、京一は喜び、醍醐は唖然とした。
『それに…』
恥ずかしそうな顔をして龍麻が小さな声で続けた。
『一回こういうお店にも入ってみたかったの』
そのお店とは…独身男性の友、"安い・早い・美味い"がウリの吉○屋だった。
「た、確かに女のコだけじゃ入りづらいお店だけど…」
小蒔が引きつった顔のまま、言葉を続ける。
「朝から牛丼なんて…ヘビーな朝食だね…」
「私はさすがに牛丼は食べてないけれど…、醍醐君と京一はしっかりと食べてたわよ」
「そうだぜ、何だかんだ言って醍醐のヤツも、特盛の汁ダクをしっかり食ってんだから文句は言わせねェぜ」
醍醐は京一の言葉に反論しようとしたが、京一の言う通り自分も朝食を食べた結果一緒に遅刻した事実には間違い無いので、そのまま黙り込んでしまった。
醍醐の困った顔を見て、小蒔は話題を切り替える。
「まッ、いいよ。そんなコト。それよりちゃんと封印済ませたんだよね」
「ええ、そっちの方は紫暮君も助けてくれたから、ちゃんと済ませたわ」
「そっかー。へへッ、良かった。でもそうなるとボクだけか、封印に立ち会ってないの…」
「まだもう一つの封印も残ってるし、今度は桜井も美里も一緒に行こう…。と、美里はどうした?姿が見えないが」
「うん、それがね…」
小蒔が今朝葵も、そして担任のマリアも連絡無しで休んでいるのだと言う。
「二人とも連絡も無しだなんて…まさか──」
龍麻が顔色を変えた瞬間に、教室中に響き渡る程の勢いで入り口の扉が開けられ、アン子が四人の所に突進してきた。
「大変よ、事件事件───!!!」
京一はまたかと、やや引いた表情でアン子を迎える。
「何だよ、まさか新聞部が廃部にでもなったの…」
か?と疑問符を付ける余地を与えず、京一の頬にアン子から強烈なビンタがその言葉を封じるかのように見舞われる。音を立てて床に倒れる京一をシカトして、アン子は三人に衝撃的な事実を告げる。
「美里ちゃんとマリア先生が…誘拐されたのよ!!」
『えッ』
驚く一同に、アン子は自分が目撃した一部始終を話した。
「犯人は外国人の、まだ少年だったと思うけど、無理矢理二人を車に乗せて…。その時にミサトアオイと言ってたから、彼らの本来の狙い(ターゲット)は美里ちゃんに間違いに無いわね。マリア先生は単に巻き込まれただけって感じ」
いくら最近物騒になってきたからといっても、白昼堂々と路上での誘拐、しかも外国人が絡んでいるとなると、一介の高校生がどうこうするレベルの話では無いと醍醐は思ったのだが、
「もしかして営利目的か?」
自分なりに考えられる理由を口にした。だが、アン子はそう言った雰囲気は無かったと否定した。龍麻もアン子の意見に同調する。
「そうね確かに営利目的ならば、相手に高校生や学校の教師を狙うのはちょっと不自然ね。普通は子どもか、もしくは会社の経営者レベルを狙うもの。アン子、外国人って言っていたけれど、大体どの国の人か目星は付く?」
「うーん。一人は黒人の男の子、まだ小中学生って感じね。そしてもう一人、こっちの方がリーダーらしいけれど、見た感じロシア系…かな。ただしこっちも私たちよりは年下に見えたけれどね」
「どっちも子ども…アン子の話だと、他に黒づくめの男二人がいたにも関わらず、実質的には子ども二人がその場を仕切っていたという訳ね」
聞いた情報を整理しながら、どう対処すべきかを考え込む龍麻に、そういえばとアン子がもう1つ重大な情報を思い出したかのように口にする。
「…あたしにははっきりとは分からないけれど、ただ…」
「ただ?」
「マリア先生が反撃した後、黒人の男の子から奇妙なオーラみたいなのが湧き上がって、それでマリア先生も大人しく連れて行かれたように見えたわ」
「奇妙なオーラ…」
「ひーちゃん、まさか…鬼道衆…?」
小蒔が恐る恐る口にした敵の名前に、京一と醍醐も過敏に反応する。
「それはどうかしら?」
龍麻はしかしその可能性を断じるには、まだ根拠が乏しいと言う。
「確かに彼ら鬼道衆の手口からいって、≪力≫を持つ者を扇動し混乱させるというのは常套手段だったわ。でも──」
「何だよひーちゃん、勿体つけずに全部話しちまえよ」
京一の言葉に、龍麻はやや躊躇いながらも自分の見解を示した。
「残りの鬼道衆は一人。つまりもう後は無い…。そんな状況の中で、今更他人を使ってなんて悠長な手段を取ろうと思うかしら?今までだってその手段の繰り返しで、結局全て失敗に…終ったのだし」
最後に龍麻が苦い表情を見せたのは、鬼道衆に扇動された被害者たちの末路を思い浮かべたからかと、その場の四人は心の内で思った。
「それじゃあ全く手掛かり無しッて訳なの?」
がっかりする小蒔に、アン子は決定的な証拠があるとポケットからある物を取り出す。
「これは…バッチ?」
「まるで鉤十字(ハーケンクロイツ)だな」
醍醐の指摘通り、アン子が見せたバッチには赤い卍のマークが掘り込まれていた。
「そう卍のマークだけれども、一般的には醍醐君の言う通りにドイツ・ナチスのシンボルであるハーケンクロイツを連想するのが普通よね」
「ましてやそれを身につけていたのが、外国人というのなら尚更キナくさいわ…。アン子お願いが有るんだけれど…」
「ふふふ、皆まで言わずとも分かってるって、龍麻。このバッチのことを新聞部の資料を使って調べたいんでしょ。こっちとしても事件の真相を暴いて、いずれ真神新聞のネタにしたいから、調査の協力なら大歓迎よ」
取り敢えずこのバッチを調べることで犯人像に迫ろうという意見で一致した龍麻とアン子、そして当然の如くそれに従う京一・醍醐・小蒔の五人は、そのまま堂々と授業をエスケープし、新聞部の部室で調べ物に専念した。
これだけはっきりとした証拠が有るのだから、すぐに手掛かりの一つ位は得られるだろうという楽観的な見通しとは裏腹に、新聞部にある資料を片端から漁っても、有力な情報は何も浮かび上がってこなかった。
「無い無い無い〜ッ!どこにも無いわッ!!」
アン子が自分の目の前に山と詰まれた資料を憎々しげに睨みながら、ヒステリックな声を上げる。
龍麻はふと目線を壁に掛かっている時計に向ける。時刻は10時を廻った所…。既に誘拐されてから3時間以上経過していた。
<葵…マリア先生…>
その頃、暗く湿った一室に葵とマリアは二人閉じ込められていた。目の前にある鉄格子の向こう側にも暗い通路が延びているだけで、窓一つないそこでは、時間の経過も何も判別できなかった。
閉ざされた空間に漂う陰気な空気に、取り分け≪氣≫に鋭敏な葵が身を震わせて耐えようとするのに気が付いたマリアは、冷えるわねと呟くと自分の傍らに引き寄せ、子供をあやすように葵の頭を優しく撫でる。
「……済みません…先生」
「ワタシがいながら、みすみすこんな犯行を許してしまった。謝るのはワタシの方だわ」
そう慰めながら、マリアは先程の首謀者との一連のやり取りを思い出していた。
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