目次に戻る

外法都市 第拾参話其ノ壱

 ≪壱≫

 秋の彼岸近辺ということもあって、いつもは人気の少ない文京区にある目赤不動の境内は、訪れた若干の参拝客の祈りを捧げる姿と、そして墓に手向けられた花々と立ち上る線香の煙があちらこちらで見かけられ、静寂な中にも信仰の空気を強めていた。

 しかし、今ここに現れた五人組は、明らかにそれとは目的を異にしていた。
 社会見学だろうか…と訝しげな目で見つめる老僧に、その中の特に大柄な男子生徒は礼儀正しく挨拶をし、それにつられる様に残りの三人の女子生徒も次々と挨拶の言葉を投げかけてきた。一人挨拶に出遅れた赤茶色の髪をした青年は、一番小柄な女子生徒に頭を小突かれている。
 その微笑ましい姿に老僧は思わず目を細めると、警戒心を解き彼らに挨拶し返した。

<今時、随分と爽やかな連中だ…。特に…>

 肩を少し過ぎた程度の長さの黒髪を無造作に風になびかせ、穏やかな笑顔で老僧と目礼しつつ、その横を通り過ぎた女子生徒からは、深山に人知れず湧き出でる泉の如き清々しい《氣》が奔流していると、老僧は感じ取った。

 それが何を意味するのかまでは判らなかったが、常人とは明らかに桁の違う《氣》を纏っている少女の後姿を見送りつつ、危惧するような言葉を呟いた。

<まるで…ここの寺伝にある、江戸末期に跋扈した【鬼道衆】という異能を持つモノ共の伝説を思い起こさせるようじゃのう…>

 果たして、彼らの歩み行った先には、この寺の者でも殆どその存在すら知られていない、とある古びた祠が祭られている。しばしその場に佇んでいた老僧は、やがてこの寺域全体が清浄な結界に覆われ、内に清浄な空気を満たし始めているのを知る。

<…復活したのじゃな…鬼を封じ込めた祠が…>

 再び姿を見せた五人の顔には、何か達成したような満足感が輝いていた。
 そして…老僧の目を釘付けにした少女の華奢な右手には、来た時には無かった、控え目な紅色の鋼玉(コランダム)をあしらった指輪がはめられていた。その燃えるような紅色の光は、ゆっくりと傾き始めた夕日の色と溶け合って、一層少女の《氣》を妖しくも美しく彩っていた。

 老僧には、彼女が一体何者なのか知る由も無かった。だが、寺伝には【鬼道衆】が現れた時、勇敢にも彼らに立ち向かっていった若者たちがいたという記述もあった。

<もしや彼らは───だとすれば…>

 自分に出来得るのは、彼らの無事を祈ることのみだと、老僧は遠ざかっていく五人の影に向かってそっと手を合わせた。



「やっぱ、ひーちゃんに似合うよ、その指輪」
「そうかしら…。やっぱり高校生には贅沢すぎると思うんだけれど」

 指にはめた紅玉の指輪を、居心地悪そうな表情で龍麻は見つめた。

「うふふ、そうは言うけれど祠から現れた品々には、必ず何かしらのご利益がある筈よ」

 葵の発言通り、その指輪は今までのように祠に宝珠を封印した後に現れた品であった。

 龍麻は当初葵にそれを渡したのだが、『私はもう別の指輪があるからいいわ、それより龍麻が使ったらどう?』と、逆に返されてしまったのだった。


『でも、私は闘う時には手甲を嵌めなきゃならないし、第一…(第一私、アクセサリーって昔から苦手だったのよね…)』

『それだったら小蒔が使えば…』と言い掛けたが、小蒔の指にはこれも控え目ながらシルバーの指輪がはめられていた。それが誰からのプレゼントだったかというのは公然の秘密だった。

『龍麻ったら…。うふふ、女の子だったらもっとお洒落したっていいはずよ。それに闘う時に邪魔になるのだったら、その時だけ外せばいいだけのことでしょう』

 葵に言葉に後押しされるように、おずおずと自分の指にそれをはめた。なぜだか不思議なことにぴったりと自分の指にはまってしまったので、結局そのまま拒みきれず受け取ってしまう。


 龍麻は皆の話を聞きながら、そっと自分の目線を指先の宝石に向ける。その燃えるような赤い色の宝石は、遠い日の記憶を掻き立てさせた。

<血の色のような…赤色の宝石。あの忌まわしい儀式の時に使われた勾玉と同じ色を放っている…>

「…ちゃん……ひーちゃん…ねェ、聞いてた、今の話?」

 唐突に小蒔の声が龍麻の耳に飛び込んできた。ごめん、と済まなそうに侘びの言葉を口にする龍麻に、小蒔はため息を交えつつわざと軽く怒ってみせる。

「もうッ、しょーが無いな〜」
「イイじゃねェか。明日最後の宝珠を目黄不動に納めりゃ、全て解決するんだしよ」
「だといいが…」

 一仕事終えて開放感に浸る京一に反し、醍醐はあくまで慎重な発言をする

「じじいも鬼道衆を斃して五つの珠を不動に封印すりゃいいって言ってたろ」
「全く、お気楽もここまでくれば立派だよ。鬼道衆だって全滅したわけじゃないだろッ?九角って人のコトだってまだ判ってないし」
「う……」

 小蒔にやり込められて京一は口ごもる。ここでいつもなら龍麻が助け舟を出す所なのだが、龍麻は何故だか黙り込んだままだった。

<葵はここの所沈みがちだけど、ひーちゃんまで…二人ともどうしたんだろう?>

 ここ数日、小蒔は自分の窺い知らない部分で、葵が何か悩んでいるということには気が付いていた。だが、何度問いただしても、心配しなくてもいい、大丈夫と笑顔を見せるだけで、それを自分に打ち明けてはくれなかった。

<ボクじゃ…力になれないのかな…>

 小蒔まで引きずられるように、常よりも考え方が後ろ向きになってしまっていたが、

「今はとにかく、俺たちに出来ることをやっていこう。余計なことは考えるな…」
「そうだねッ」

 自分を励ますような醍醐の言葉に、小蒔は笑顔でうなずく。

「お前ら…」

 そんな二人の様子に京一は再度絶句し、龍麻と葵はようやく笑みをこぼす。




 ≪弐≫

「新宿に戻ってきたけど、随分遅くなっちゃったね」
「明日は江戸川区の目黄不動まで行かないといけないし。連日ご苦労様だと思うけれど」

 とっぷりと日の暮れた新宿の雑踏の中を歩きながら、龍麻が明日の予定を話し始めた。

「かーッ、江戸川まで行くのかよッ」

 江戸川という場所である人物を連想したのか、京一はやや大袈裟な位うんざりといった声を上げる。

「京一ったら…。まあ確かに江戸川区はここから遠いけれど…。そうだわ、それだったら今度はアラン君に道案内してもらいましょうか」

 時間の無駄も省けるしという龍麻の提案に、京一は速攻で前言撤回をする。

「…………これ以上俺の青春を犠牲にされてたまるかよッ」
「まあそういうな、京一。それよりどうだ、飯でも食っていかんか」
「賛成ッ」

 間髪いれず賛同する小蒔の言葉の後から、葵がやや控えめに断りの言葉を口にする。

「あの私…。ごめんなさい、今日はマリィと一緒に家族で外食の予定があるの。だから…」
「そっかー、それだったら仕方ないよね。でも葵…どうしたの。何かあったの?」

 楽しい予定を控えているにしては、今日は一日元気が無かったしと、小蒔は思い切って訊ねてみた。だが葵の反応は変わらなかった。

「ううん、何でも無いわ」
「そう、それだったらいいけど」

 否定する葵の態度を納得しきれないとは思ったが、小蒔はこれ以上追求するのは無理だということも親友として重々承知している。

「それじゃあ、皆は私に構わずに──」
「待って、葵」

 龍麻も、今日はこの後用事が有るのでもう帰らないといけないと切り出した。

「だから途中まで一緒に帰りましょう」
「本当に…?いいの、龍麻」

 快くうなずく龍麻に、葵はそれなら遠慮無くと嬉しそうに礼を言う。

「えーッ、ひーちゃんも帰っちまうのか」
「ごめんなさい」

 ぶつぶつ文句を言っている京一に、小蒔は肘鉄をかますと、

「それじゃ、二人とも気をつけてね。また明日学校でねッ」

 笑顔で二人が雑踏に消え行くまで手を振って見送った。


「ッ痛ェ〜。ッたく、乱暴なヤツだな」
「キミがデリカシーに欠けてるからだろッ」

 小蒔はそう一喝すると、表情をやや沈める。

「だって…今日は二人とも様子おかしいじゃない。でもさ…、上手く言えないけど、あの二人の悩みって、ボクたちがどうのこうの言える問題じゃないような気がするんだよね。でも…もしかしたら、葵とひーちゃんだったら互いの悩みを打ち明けるかもしれないって。」
「そうだな…。どんなに相手を信頼していても、やはり言い辛いことというのは存在するもんだ。だから、桜井に悩みを打ち明けないからって、それが桜井を信頼していないっていう意味じゃないぞ」

 醍醐のいたわるような表情と言葉に、小蒔は元気を取り戻す。

「うん。ありがとう醍醐クン」
「はぁ〜、ったく聞いてらんねェぜ。おい、とっととメシ食いに行こうぜ」

 横にいる京一は、龍麻にフラれた上に、この二人に当てられっ放しなので、やや拗ねたような顔を作っている。

「うん、そうだね!そういえばボクお腹すいてたんだ〜」

「はははッ、いつもの桜井に戻ったな。じゃあ三人でいつもの所に行こうか」

 龍麻たちが歩いていったのにやや遅れて、三人も同じ方角に人込みを掻き分けるように歩いていった。


 夜7時を廻った新宿東口は、仕事を終え駅に向かう会社員や、これから遊びに行こうとする人々でごった返していた。が、ある一点を中心にして、いずれも滅多に見られないレベルの美少女二人が連れ立って歩いているのをよく見ようと、立ち止まったり、中には通り過ぎてからわざわざ振り返って見ていたりとで、人垣で自然と潮を引くように道が出来上がっていく。

 だが、中心にいる龍麻と葵は、周囲の視線に構っていられる心境では無かった。

「葵、ちょっと遠回りになるけれども、人込みの少ない道を歩こう」
「ええ…」

 好奇の目から逃れるように裏道に入ると、ようやく人心地付いた葵はおもむろに口を開く。

「私って駄目ね。皆に迷惑ばかりかけて…いつも皆に護られてばかりで…。龍麻…ごめんね、あなただって…」

<あなただって、色々と悩みを抱えていると分かっているのに>

「葵、私は今葵と一緒に帰りたいって思ったからそうしただけで、変に気を遣わなくてもいいのよ」

 葵は龍麻のほうをゆっくりと振り返る。
 いつもと同じ穏やかな口調、そして穏やかな微笑を湛えた龍麻がそこにいた。

「ありがとう、いつもあなたはそうやって私を励ましてくれるのね…あなたにはそうして微笑んでくれるだけで誰かを救う《力》がある」
「そんな大層な《力》、私には…」
「いいえ、私には分かるの。あなたが東京に現れたのは、きっとこの東京(まち>が呼んだのだと…この東京の意志というべき何かが───」

 その時の葵の瞳には、常人には見えない『何か』を見ることの出来る光が宿っていた。

「私もっと強くなりたい…心も身体も…そうすればきっと」
「葵、今はゆっくりと話している暇は無さそうよ」

 葵が言葉を終える前に、龍麻が鋭く言葉を差し挟んできた。その口調と、そしていつの間にかこの場を覆う不穏な空気に、何が起こりつつあるのか葵も瞬時に理解した。


「あれは鬼道衆の…いつの間に」

 自分たちの前後を鬼道衆の生き残りの下忍たちの姿が、やや暗い外灯の下に浮かび上がっている。数はざっと十人余り。

「さあ、私たちが人込みを避けた辺りから包囲し始めたんじゃないのかしら。もっとも、人込みの中で襲われるよりは、遥かに思慮深い行動をしてくれたと褒めてもいいけれどね」

 龍麻は驚きの表情を見せず、余裕綽々といった言葉を口にするが、内心はまったく反対の方向を向いていた。

<彼らがこんな直接的な手段を取るようになってきたなんて…>

 しかも今この場にいる仲間は、戦闘能力の無い葵、ただ一人である。無事にこの場を切り抜けられるのか、不安が全く無いと言い切れないのが本音だ。

「緋勇龍麻、美里葵に相違ないな」
「龍麻…」

 自分たちの名を口にされ、葵が不安そうに龍麻に声を掛けてくる。

<こちらの身元はしっかりと把握済みって訳…。つまりこれからはもう逃げも隠れも出来ない、真っ向からの勝負あるのみ。…あの人との…>

「所詮は鬼道衆の生き残りが寄せ集められただけだから、私一人でも大丈夫。だから葵は手出ししないでそこから見物していてね」

『!!!』

 やや情緒不安定気味な葵を安心させる為、そして何より自分だけに敵の憎悪を向けさせる為に柄にも無い強気な発言をする。
 案の定、鬼道衆の面々は憎悪にたぎった《氣》を強め、龍麻一人に向かって殺到してくる。

「さて…と。それじゃ、近所迷惑にならない程度に闘わないとね」

 闘いの邪魔にならないよう紅玉の指輪を外すと、素手の拳にいつもよりは少し慎重に《氣》を練り、まずはやや人数の少ない自分の前方側の敵集団に立ち向かっていった。

「【巫炎】」

 道幅が狭さから、密集している敵数人に素早く狙いを定めると浄化の焔(ほむら>を放つ。その《氣》に呑まれていく敵群に構わず、更に奥にいる敵を今度は【円空破】で葬ると、

「葵、早くこっちに移動して」
「…ええ」

 退路を確保した上で、ひとまず葵を後方に待機させ、安全圏内に入ったのをちらッと横目で確認する。残っている下忍の数はまだ片手で数えるより多いとはいえ、これならば通常の技で十分に対処できると、龍麻は流れるような蹴りを攻撃の主体に切り替えた。

<これだったら、遠目に見たらただの喧嘩にしか見えないから、私たちの《力》がバレる危険性は減るわね>

「龍麻…。また私、龍麻に…護られるだけの存在になっているわ…」

 ぽつりと呟いた葵の耳元に、その時涼やかな鈴の音が聴こえて来た。
 否、その音色は闘いの渦中にいる龍麻の耳元にも流れ込んできた。

<まさか…。あの人が近くに来ているの…>

 一瞬血の気が引いたように顔が青ざめ、意識がそちらに取られる。その隙を突く形で、下忍の攻撃をまともに胴で受けてしまった。

「う…」

 詰まった声と共に、口中に鉄さびのような味がこみあがってくる。構わず【掌打】をすばやく叩き込み、攻撃してきた敵は沈めたが、その途端に血が一筋つっと唇の端にこぼれ、苦しげに肩を震わしてむせ始める。
 無防備状態になった龍麻に、残った三人の下忍が一斉に襲いかかろうとした。

「龍麻──ッ!!」

 葵は夢中で龍麻の名を叫んだ。ただ悲鳴を上げるしかない自分に絶望しながら…
 その時また、鈴が一度振られる音が聴こえる。今度は魂を揺さぶる声と共に。


 ──目覚めよ……の女……


「あぁ…、た…龍麻ッ…」

 激しい光の渦が葵の身体から発せられようとしたが、

「わ、私…」

<怖いッ──>

 葵はその場に膝から崩れ落ちると、その光は急速に収斂(しゅうれん>していった。
 だが敵がその光に目をくらませたのを幸いに、龍麻はまだ痛む身体を厭わず《氣》を全開にし、残った敵全てを巻き込む【掌底・発剄】を発動させる。


 敵が全て消えたその場で、葵は呆然と呟いていた。

「私…一体…。今の《力》は…」
「葵ッ!!」

 龍麻の声で、葵ははっと我に返る。まだ流血が止まっていない龍麻の様子を見て、

「……龍麻…怪我しているわ…早く治療しないと…」

 ようやくいつもの自分を取り戻すと、治癒術を施そうと手をかざしはじめた。龍麻は治癒術を受けながら、《氣》を巡らせて近くの様子を伺うが、幸い他に人の気配は感じられなかった。

<あれは…幻聴だったのかしら…>

「良かったわ…思ったより傷が浅くて…」

 治療が一段落つくと、葵はさっきの話の続きを聞いてくれるかと言ってきた。

「私、もっと強くなりたいって言ったわよね。」
「ええ…」
「あの時…何としても龍麻を助けなければって思って…。そうしたら聞き覚えのある声が聴こえてきて…」
「声…?」
「美しい鈴の音色と共に、胸が締め付けられるように懐かしい声が…」

 その言葉に龍麻は少なからぬ衝撃を受ける。

<幻聴ではなかったのね…鈴の音色と、そして葵の身体に起きた異変は…>

「でもやっぱり駄目だったわ。私…何だか急に恐ろしくなってきて…」

 葵の声が段々と震えを帯び始めてきた。

「今までの自分が消えてしまいそうに感じて」
「葵、あの時はきっと私を助けてくれようと思って、夢中になって《氣》がいつもより強くなって私と同調しただけよ、方陣技のように。お陰で私は助かったんだし、ね、だから気にし過ぎない方がいいわ」

 龍麻は明るい口調で、葵の気持ちを引き立てようとする。

「でも…」
「ほら、もうあそこの角を曲がったらすぐでしょ、待ち合わせ場所は。そんな曇った顔していたら、マリィもご両親も心配するわよ」
「……そうね、龍麻の言う通りね…」
「そうそう、分かってくれればいいのよ。じゃあ、私はこれで」

 楽しんできてねと笑顔を向ける龍麻に、葵も素直に感謝の言葉を述べる。

「ありがとう、龍麻。また…明日ね…」


 葵が角を曲がり姿が見えなくなると、龍麻の顔から急速に笑みが消えていった。

<あの人は葵の《力》を目覚めさせようとしている…。あの時の私のように…>

 あの時、龍麻は《力》を暴走させてしまった。その記憶はいまだ癒されぬ心の傷として龍麻の中で燻っている。

<葵には同じ想いを味わせたくない>

 きゅっと唇をかみ締めると、目の前にはいないあの人を見据えるように夜空を見上げた。そして不意に吹き付けてきた初秋の風の冷たさに身体をぶるっと一度震わせ、家路を辿っていった。




 ≪参≫

 翌朝、龍麻がいつもの時間に登校すると、教室には既に小蒔と醍醐がいた。小蒔は龍麻を見るなり、昨日の出来事について話をし始める。

「昨日葵から電話で聞いたんだけど、ひーちゃんたちも鬼道衆に襲われたんだって?」
「“も”ってことは、小蒔たちの方も」
「うん、ボクたちも。ボクたちは三人一緒だったし、あれからは何も無かったから良かったけど。でも、あんな街中でいきなり襲ってくるなんてさ」
「まったくノン気なヤツだぜ…」

 小蒔の背後に突然現れたのは京一だった。

「ボクのどこがノン気なんだよッ」

 呆れたような京一の口調に、小蒔はむっとした表情で言い返す。

「…その後も何か有ったのね、京一」

 龍麻の問いかけに、京一は苦々しくうなずく。

「ああ、あの後俺なんか家に着くまで二回も襲われたぜッ。それだけじゃねェ。家に着いてからもしばらく辺りをうろついてやがった。下手に気を抜くと寝首を掻かれそうだぜ」
「そんな…ボク全然気が付かなかったよ」

 小蒔は絶句する。

「無理もないさ。奴らは巧妙に気配を殺し、俺たちの周りを取り囲んでいる。姿こそ見えないが、俺も昨日から尾行(つ)けられている。今、来る途中にも気配を感じたからな」

 醍醐の言葉に、更に小蒔は顔色を変えた。

「………」
「いつでも俺たちを殺れるってワケか」
「…京一…」

 龍麻は言葉をいいかけたが、その時葵が教室に入って来た。

「おはよう、皆…」
「おはよーッ、葵。……どうしたの?顔色悪いよ」

 葵は普段通りの表情を浮かべていたが、たしかにその顔色はやや青白い。

「夕べから体調が優れなくて…。でも平気よ、家で薬も飲んできたし。今日の放課後は最後の不動に行くんですもの。私だけ一人休んでいられないわ」
「葵、でも身体が第一だと思うわよ。今日は家でゆっくり休んでいた方が…」
「うふふ、放課後までには具合も良くなっていると思うの、だから…心配しないでね」
「葵…」

 必死に訴える眼差しに、龍麻は仕方ないわねと一言だけ返す。

「よかった。ありがとう、龍麻…」

 チャイムが校舎内に鳴り響き、担任のマリアが姿を見せたため、五人は各々の座席へと戻っていった。

「…私ね、この間のローゼンクロイツ学院の時から気になっていることがあるの。だから」

 次の授業が終わったら少し話を聴いて欲しいと、葵が龍麻の耳元に囁きかけてきた。


 葵の言葉が気になったため、一時間目の英語の授業中、龍麻は葵の席の方に、ついつい視線を向けてしまう。熱心にノートをとって授業を受けている様子は、やや元気が無いとはいえ普段と代わり映えがない。

<夕べの出来事からは立ち直ってくれたみたいだけれど…でも…>

「…緋勇サン」
「は、はい」

 突然マリアに名指しされ、慌てて返事を返す。

「次の所を読んでくれる」
「次…次って…」

 慌ててページを繰るが、考え事をしていたのでどこを当てられたのかが分からない。

「…済みません…」

 恐縮している龍麻に、マリアは深いため息を一つつくと、読むべき箇所を指で指示した。ほどなく教室内に、いつものように流暢な龍麻の英語が流れ始める。

 それを耳にしながら、葵はぼんやりと昨夜見た夢に意識を飛ばしていた。
 はっきりとは思い出せないが、何か胸が締め付けられるような夢だったのは確かで、目が覚めたとき自分の頬に涙が零れていた。そしてもう一つ確かに覚えているのは…

<夕べと同じ涼やかな鈴の音色が流れていた。ただ、夕べと違っていたのは聴こえてきた声が男の人のものではなくて、優しくそしてどこか物悲しい女性の声だったこと。あの声は…>

 今現実に耳に流れ込む、龍麻の声と重なって聴こえる。

<龍麻に似ている…。あれは一体、どういう夢だったのかしら…>

 だが思い出そうとすると途端に頭の中に霞が立ちこめるような不快感が込み上げてきた。


 一時間目の授業が終わり、マリアはノートを提出するよう生徒たちに告げた。

「クラス委員長はノートを集めて職員室まで持ってきて」

 いつもならば即返事が返ってくるのに、今日は全く無反応であった。

「委員長…美里サン?」
「あッ…。はい、済みません……」

 ようやく自分が呼ばれていたことに気付いたように、葵が弱々しく返事する。

「どうしたの?顔色が悪いわ」
「…い、いえ」

 慌てて立ち上がろうとする葵をマリアは制し、

「美里サンはすぐに保健室に行きなさい。…いいですね」

 代わりに副委員長にノートの回収を命じると、教室から出て行った。
 そのマリアが教室から出て行くかいかないかの内に、小蒔が慌てて葵に駆け寄った。

「やっぱり具合が悪いんじゃない。ボクが付いていってあげるから保健室に行こッ」
「…ごめんね、小蒔…」
「えへへッ、気にしないでいいよ」

 小蒔は自分の傍らの龍麻にも、一緒に保健室まで付き合ってと言う。

「勿論よ。歩くのが辛いんだったら、遠慮無く私の腕に掴まってね」
「ありがとう…でも大丈夫よ」

 土気色の顔色ながら、葵はそれでも微笑んでみせた。



 保健室には誰も人がいなかったため、取り合えず一番奥のベッドに葵を寝かせる。

「それじゃ、昼休みにまた来るからゆっくり休むんだよ。あッ、そうだ、ひーちゃん」
「何、小蒔?」

 部屋の中がまぶしくならないように、カーテンを閉めていた龍麻が、小蒔の呼びかけに振り返る。

「この間みたいにひーちゃんが葵に治癒の術をやったら、少しは気分が楽になるんじゃないかな?」
「この間って、…ローゼンクロイツでの」
「うん。葵が使ってくれる治癒の術の《氣》ってすごく心地良いじゃない。だからさ」
「そうね…」

 龍麻がためらう様子を見て、葵はもう授業が始まるし遅刻したら悪いからと遠慮する。

「あ、別に遅刻するのがどうのって意味じゃなくて…。かえって気分が悪くなったらどうしようかしらって思っただけなの」
「そんなの、ひーちゃんに限って大丈夫だよッ。あッ、もしかしてボクも一緒に遅刻するのが悪いなって思っているの?そっか、次は数学だったよね…」

 小蒔の脳裏には、嫌味な数学教師の顔が浮かび上がる。

「それだったら、ボクは一足先に教室に戻って先生に理由を言っておくよ。だから、ゆっくりしてていいよ、ひーちゃんも」
「ちょ、ちょっと小蒔ッ」

 龍麻が静止する暇も与えず、小蒔はぱたぱたと小走りで保健室から出て行ってしまった。その直後、廊下から2時間目の授業を告げるチャイムが流れてくる。

「まったく小蒔ったら…」

 ため息混じりに苦笑を浮かべると、どうすると葵に訊ねる。

「うふふ、そうね、もう二時間目の授業は始まってしまったようだし、折角だからお願いしようかしら」
「分かったわ…。でも効果は保証しないからね」

 龍麻は窓辺から葵が横たわっているベッドの脇に移動した。そっと自分の掌を葵の肩に当て、呼吸を整えると窓の閉められた室内の空気がにわかに動きを帯び、龍麻と葵の居る空間に集まり始める。やがて闘いの時とは異なる柔らかな《氣》を掌から放出し始めた。

<温かい…綺麗な《氣》…これが龍麻の…>

 背中から伝わる龍麻の波動を、目を閉じて葵は心地よく感じ取っていた。

 《氣》を注ぎ込む、言葉にすればそれだけのことだが、実際にやるのは至難の業である。

 人間誰しも大なり小なり《氣》というのは発して生きているものだ。だが、通常は無自覚のまま生活しており、それを意識して使うとなると特殊な修行が必要となる。

 龍麻は生まれつき他人よりも強い《氣》を持っていたが、それを思い通りにコントロールできるようになったのは、数ヶ月前から鳴瀧の元で修行に励んだからで、それも専ら攻撃に応用する、つまり《氣》の衝撃を相手に叩きつけるという、原理で言えば最も単純な形であった。

 だからこそ他者を癒す《氣》となると使える人間は限定されるし、重宝される訳である。今いる龍麻を含めた十五人の仲間の中でも、それに長けているのは葵と高見沢の二人だけだった。龍麻も自分自身を癒すことは出来たが、他人を癒そうとなると余程相手と相性が良くないとかえって反発を起こし、より破壊力を増すものに変化する可能性も多々あったので、使える状況はかなり限定されていた。

<それが怖いから非常時以外は他人に《氣》を注ぐのを避けていたけれど…>

 龍麻は葵の顔色が徐々に赤みを差してきたので、これなら問題なさそうだなと自分の《氣》を高めた。

<なのに…こうも容易く私の《氣》が葵に受け入れられるなんて。まるで…もとは一人の人間だったのように…>

「何だか不思議な気分。まるであなたと私が同化してしまう、そんな錯覚を覚えてしまうわ」
「葵…」

 龍麻は葵の言葉に驚き、慌てて手を肩から離す。葵はややおくれて瞼を上げた。

「…とても気分が良くなったわ、ありがとう」

「どういたしまして。さてと、いつまでもここにいたら葵も休めないだろうし、私もそろそろ教室に戻るわ…。葵はちゃんと寝ているのよ。そうじゃないと、今日の放課後目黄不動に連れて行かないから」
「もう、意地悪言わないで。分かったわ、ちゃんと大人しく休みます」

 龍麻の言葉につられて葵が軽く笑い返す。
 龍麻が立ち去り更に静寂さに包まれた保健室で、葵はまだ自分の身体に残る龍麻の《氣》を感じ取りながら、再び瞼を閉じた。

 そして再び、龍麻と同調していく感覚を再び味わいつつ、

<…一体私たちって…どういう存在なのかしら……>

 やがて意識をふっつりと途切れさせた。




 ≪四≫

 龍麻は保健室のある一階の廊下を歩いていた。すでに二時間目が始まって20分は過ぎている。急いで教室に戻らねばならなかったが、

<…ますます疑う余地が無くなってきてしまった……葵が…>

 その場で立ち止まると、廊下の窓から、体育の授業で賑やかな歓声の上がっている校庭を何とはなしに眺め、深くため息をつく。

<あの《力》を継承しているのは、ほぼ間違いなさそうね…>


「緋勇」

 不意に背後から声を掛けられ、慌てて振り向く。

「犬神先生…」
「どうした?サボりか」

 違いますと言いかけたが、確かに今教室に戻りたくない気分だったのは事実なので、顔を赤らめて黙り込む。

「…分かっている。美里を保健室まで連れて行ったんだろう」

 マリアに聞いたからと珍しく笑みを口元に浮かべて、犬神は龍麻をからかうような口調で言う。

「しかし…寝込むほど具合が悪いとは穏やかではないな」
「…はい」

 龍麻は深刻な表情をしてうなだれる。犬神はその様子を見て、今更授業に戻っても無意味だろうと、無愛想な口調のまま生物準備室に龍麻を連れて行った。


 初めて足を踏み入れたそこは、正直ごちゃごちゃと荷物が置かれた上に、あまり清掃もマメに行われてないのが一見して分かり、几帳面な人間だったらそれだけで顔をしかめてしまいそうな様相だった。だが、龍麻はここが見かけと違い、非常に清澄な《氣》で満たされている空間なのだと肌で感じ取った。

<まるで桜ヶ丘病院みたい…。やっぱり犬神先生って只の生物教師って訳じゃないのね>

 探るような目になっている龍麻に、犬神は先程の話の続きをおもむろに始めた。

「……人は、時として何かを護ろうとするために、己を殺し感情を押し込めることによって、それを維持していこうとする傾向がある。自己犠牲──って奴だ。本心を偽り、己を殺すことが他人のためになると思っている」

 犬神は煙草の煙を吐きながら、特に葵には見ていて危ういほどその傾向が強いと付け加える。

「…葵は自分の身を犠牲にしてまで…」
「それは美里だけに限らんだろうが…」
「えッ?」
「いずれにせよ、少なくとも当人には自覚がない分、逆に性質(たち)が悪い。しばらく美里から目を離さんことだ」
「……………」

 龍麻は犬神の言葉の意味を考え、黙り込んでしまう。犬神はその様子を横目に見つつ、ビーカーにコーヒーを入れ、目の前に差し出した。

「あ、ありがとうございます」

 面食らいながらも受け取り、遠慮がちに一口飲む。

<あったかい…>

 コーヒーのぬくもりがゆっくりと身体にひろがっていく。

「緋勇…人間はこの上なく弱い存在だ」
「はい…」
「だからこそ、他人と手を取り合い、すがり合って生きていこうとするんだろう…。緋勇…何もかも一人で成せると思うのは思い上がりに過ぎない。いずれ大きな過ちを生み出す原因になり兼ねんぞ」

 辛らつな表現を取ってはいるが、その時の犬神の声は常よりも優しかった。

「はい」
「分かればいい。…そろそろ二時間目が終わる頃だな」
「犬神先生…色々とありがとうございました」
「俺は何も手助けはしてないぞ。頑張るのはお前たちだ」

 深々と礼をして龍麻は自分の教室へ戻って行った。

 犬神はもう一本煙草を懐から取り出すと、それに火をつけた。
 紫煙に浮かぶのは、かつて巡り会った“彼ら”の面影。中でも取り分け印象深く記憶に留まっている女が一人…。

<緋勇龍麻──面影こそ“あの女”にそっくりだが、さてその本質は…。>

 いずれにしてもと、独り言を呟くと後はただ沈思に浸った。

 ───あいつはどういう道を選び取っていくのか…。



「おッ、ようやく戻って来たぜ」
「あッ、お帰り〜」

 京一と小蒔が龍麻の姿を見つけて、声をかけてくる。

「美里の様子はどうだ」

 醍醐も心配そうに葵の具合を訊ねてきた。

「そんなに大事になりそうな様子ではないけれど…」
「あいつは真面目だからな…今までの疲れが溜まったのかも知れん」
「そうね…今はゆっくりと休ませてあげたいわね」
「真面目といえば…ひーちゃんが授業を丸々サボっちまうとは思わなかったぜ。まさか途中で犬神にとっ捕まってたとか」

 冗談半分で言う京一の言葉に、龍麻は目を丸くして感心する。

「すごい。よく分かったわね」

 京一と小蒔は異口同音に驚く。

「ゲゲッ、マジかよッ!」
「大丈夫だった、ひーちゃん。それで説教されてたの」
「?そんな訳無いわよ。ちょっと色々…ね」

 いたずらっぽい笑顔をひらめかせる龍麻に、小蒔たちは龍麻が犬神によって何か悩み事の答えを見出すことが出来たんだと理解した。

<良かった…後は葵がここに元気な顔を見せてくれれば、言うこと無いんだけどな>

 小蒔の願いも空しく、葵はその日の授業が全て終了するまで教室には姿を見せなかった。

<< 前へ 次へ >>
目次に戻る