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外法都市 第拾参話其ノ参

 ≪九≫

──目覚めよ…目覚めよ、菩薩眼の娘

<また…この声が…>

 ──目覚めよ、そして戻れ…我が元へ──

 寝苦しさから葵ははっと目を覚ます。

 が、そこは自分が眠っていた病室ではなかった。また前の場所に意識だけ飛ばされたのだろうかと一瞬思ったが、今度はより鮮明な風景が目に飛び込んできた。

<ここは…>

 古びた武家屋敷。周囲は田畑が広がっているそこは、今まで来たことも無い場所だった…筈である。それなのに見覚えがある気もする。

<誰か人が居るわ…>

 近隣の人々だろう。彼らはだが葵には全く気付いた様子は無く、噂話に夢中だった。

 ──…おい聞いたか。いよいよ戦になるらしいぞ
 ──ああ。何でも幕府が人を集めているって話じゃないか。
 ──京から陰陽師も招かれているという話も聞いたぞ。そうなればここも危ういな。

<戦、それに幕府って…。ここは過去の世界なの>

 ──御屋形様はどうなさるおつもりだろう?あんな女など捨て置けばいいものを…

<あんな女?>

 ふと目を屋敷のほうに転じると、たちまちに葵は屋敷の内部に意識を飛ばされた。
 その屋敷内でも最も奥まった座敷に着物姿の人影が二人、内一人はうら若い女性で、この人が近隣の者たちが言っていた女のことなのだろうかと、葵は推測した。

<どんな女性なのかしら、この人は…>

「姫、どうかお考え直しください。九角めの申し出を呑むことなど御座いませぬ」

 だが姫と呼ばれた若い女は、彼女に必死で訴えている家臣の者に対して背を向けたまま、終始無言のままだった。

「只今幕府が武士(もののふ)を募っております故、今しばらくのご辛抱を。必ずや九角めの首を取ってごらんにいれます」

<九角ですって…それではこの女性は>

 近づいてみて、葵は愕然とする。

<わ、私…?>

 格好こそ、時代劇で見るような姫君の着物を着ているが、顔立ちは自分と瓜二つだった。

 ふと、目線を上げた姫君と葵は視線が交錯した。その次の瞬間、葵はまた屋敷の外に意識を飛ばされていた。そして再び屋敷の方を見ると、屋敷の周りには沢山の武士が取り囲み、屋敷は火の柱に包まれていた。

<この光景は…前に織部神社で聞いた話とそっくり>


 呆然と屋敷が焼け落ちるのを見ていた葵は、自分の意識が再びどこかに移動している感覚に襲われた。

「…何でも発端は……かららしいが、話によると相手は人じゃねェらしいぜ。まッ、俺にとっちゃ、この刀が振るえればどっちでもいいんだけどよ」

 聞き覚えのある声を耳にして振り返ると、そこには青年が二人、誰かを待っているかのように道端に立っていた。

<京一君…?>

 面立ちは京一にそっくりだが、先程の姫君同様、格好は今の時代とは全く異なる派手な着流しを身につけ、髪は茶筅髷のような結い方をしていた。その彼の横にいる青年は、いかにも武道家という質素な着物に、手には厳しい手甲をつけていた。

「ん…?どうやらおいでなすったぜ。行くとするかッ、緋勇──」

<緋勇!今度は龍麻…?でもこの人は男性だわ…>

 葵は緋勇と呼ばれた青年をよく見ようとしたが、気が付けばすでにその場から二人とも姿が消えていた。代わりに鳥が飛び立つ気配を感じてそちらを振り仰ぐと、空には不吉な程カラスが群れ集っていた。

「鳥が騒ぐな…。天海殿が施した呪法もどこまで保つか。鬼どもめ…常世の闇より這い出て何をするつもりなのか」

<京一君、龍麻に続いて醍醐君まで…それに鬼っていうことは>

 醍醐そっくりの僧侶は祈りの言葉を口にすると、

「いずれにせよ刻(とき)は近い……急がねば」

<刻が近い、まるであの少女が言っていた言葉のよう>

『刻(とき)が満ちるのを待っているだけよ…そして…生まれ変わるのよ…新しい【器】としてね』

 ──そう、お前も生まれ変わるのだ、菩薩眼の娘として。美里葵…。そして来たれ我が元へ

<誰…あなたは誰なの?>

 ──目覚めよ

<あなたは…一体…>

 ──我は九角……目覚めよ

 葵は声の主が近づいていることを自覚しながら、逃げることもできずその場に凍りついたように立ちつくしていた。

 そして数時間後、置手紙を一つ残し、葵の姿は忽然と病室から消えていた。




 ≪拾≫

「これは…」

 龍麻は手紙を見て顔を曇らせた。

「ねえ、何て書いてあるの」

 アン子が覗き込んでくるのを手で制しながら、龍麻は葵の残した手紙を最後まで読んだ。

「どうして…“今までありがとう、さようなら”なんて書くのさ」

 小蒔は納得がいかないと叫ぶ。

「今朝病院に立ち寄った時には、元気そうだったのに」
「マリィ…けれどもあなたが病院に行った時には、もう葵はいなかったのね」

 泣きじゃくるマリィをなだめすかす口調で、龍麻は問いかけた。

「ウン…舞子オ姉チャンモ、イナクナッタノ知ラナイッテ。タダ、コノ手紙ガ…ベッドノ上ニ置イテアッタダケ」
「もしや鬼道衆に攫われたのか…」

 醍醐の推測を京一は即否定する。

「そいつはねェだろ。そんなんだったら、わざわざこんな手紙残さねェって」

 だが京一にも葵が消えた理由が全く判らなかった。

 今朝、龍麻は迎えに来てくれた京一と共に、いつもよりも早く学校に向かっていた。目的は葵に例の話をする為だったのだが、通学途中で桜ヶ丘に立ち寄ってきたという小蒔と出会い、更に学校近くで醍醐とアン子とも合流し、葵の姿が無い他は、いつもと変わらぬ朝の光景を繰り広げていたのだった。

 そこに突然マリィが息せき切らして駆け付けて来た。

『龍麻ッ!タスケテ龍麻ッ!!』
『どうしたの、マリィ』

 龍麻の顔を見るなり、マリィは大粒の涙を流す。

『葵オ姉チャンガ…イナイノ…ドコニモ』


「葵…もしかしたら…もう…覚醒してしまったのね」

<そうなると行き先は唯一つ…でも私にもその場所の所在地までは分からないわ>

 考え込む龍麻に、マリィは必死になって取り縋る。

「オ願イ、葵オ姉チャンヲ助ケテ!!」
「勿論よ。葵は私たちが絶対に捜し出して助けるから」
「龍麻……アリガトウ!」

 力強く頷く龍麻を見つめ、マリィも泣くのを止めて嬉そうに頷き返した。

「でも龍麻、美里ちゃんが何処に行ったのか、手がかりになるようなことは何も書かれていないじゃない、この手紙には」

 アン子の指摘に、龍麻は時間が惜しいとは思ったが、一度桜ヶ丘に行ってみようかと提案する。

「もしかしたら何か手がかりが残されているかもしれないわ」
「よし、それならすぐに向おう。マリィ、美里は俺たちが必ず捜し出す。だから家に戻って待っているんだ。一人で出歩くのは危ない」

「うん、いつ鬼道衆が襲ってくるか分からないもんね」

「分カッタ。デモ、何カ合ッタラマリィヲ呼ンデネ」

「ありがとうマリィ。それじゃ、気をつけてお家に戻ってね」

 龍麻らの忠告を素直に守ってマリィが遠ざかっていくと、龍麻は四人を振り返った。

「さあ私たちは急いで桜ヶ丘に向いましょう」


 全員が駆け足で桜ヶ丘に向う途中、今度はマリアに捕まってしまう。だが小蒔の必死の訴えが功を奏したのか、マリアは全員を欠席扱いにするということで、快く見逃してくれた。

「ありがとう、センセー。戻ってきたらチャンと怒られるから」
「馬鹿小蒔ッ。余計なコトを言うなッ!」
「馬鹿とは何よ京一〜。悪いことをしたら怒られるのが当然だろッ」

 小蒔と京一のやり取りを見て、逆にマリアからそんなことをしている暇は無いでしょうと注意される。

「ふふふ、気を付けていくのよ。決して無茶なことはしないで」
「済みません、マリア先生」
「こらッ二人とも、さっさと行くぞ」

 謝る龍麻と醍醐に引っ立てられるように、小蒔と京一はその場から走り出した。マリアは今この東京に立ち込め始めた闇を鋭敏に感じ取りながら、心の奥でそっと呟いた。

<龍麻、無事で帰って来るのよ。……アナタにはまだ成さねばならないコトがあるのだから>


「あら、学校はどうしたの?」

 ものの5分も立たない内に、またも呼び止められる声に、

「何だよ、これも鬼道衆の陰謀か〜?今日は妙に妨害が多いぜ」
「ふふッ、ご挨拶ね蓬莱寺君」

 噛み付くような態度を取っていた京一は声の主が天野だと知るや、ころっと態度を変える。

「え、絵莉ちゃん!?」
「今日は集団脱走(エスケープ)かしら」
「そうなんです天野さん」

 悪びれる様子を見せず、龍麻はさらっと答え、そして天野に逢えて丁度良かった言う。

「こんな言い方失礼だと思いますが、でも無礼を承知の上で天野さんから是非一つ教えていただきたいことがあるんです」

 龍麻の言葉に、天野は奇遇ねとにっこり笑う。

「よくよくあなたたちとは縁が有るらしいわね」
「ちょっと桜井ちゃん、この人誰よ?」

 龍麻と天野が親密な会話をしている横で、アン子は小蒔に耳打ちする。

「えっと、この人はルポライターの──」
「ルポライターの天野絵莉よ。よろしくね、記者の卵さん」
「えッ?」
「あなたでしょ?真神学園の新聞部の部長さんって。噂はこの子たちから聞いているわ、遠野さん」

 自分の名前まで言われてアン子は驚くが、それはすぐに感動に変わる。

「天野さんって、あの犯罪心理のコラムを書かれている天野さんですよね…。わ、私ッ、天野さんの記事のファンなんです。うわぁ、感激だわ〜本物に逢えるなんて」
「絵莉ちゃんって色んなコトやってんだな」

 あのアン子がまるで好きな男性に告白しているかのように頬を赤く染めている姿に、京一は半ば珍しいものを見たという気持ちを抱きつつ、天野に対しては改めて感心してしまう。

「しがないルポライターですもの。ありがとう、あの記事を読んでくれて」

 謙遜する天野の言葉にアン子の感激ぶりは更に火がついたようになる。

「ちょっとアン子〜今はそんなコト行っている場合じゃないでしょ」

 ついには小蒔にたしなめられる始末であった。

「天野さん…。どうやら天野さんの方も私たちに用が有るようですね。それは前に調べるとおっしゃっていたことが分かったからですか?」

 即ち九角という人物の正体とその居場所を突き止めたのかと、龍麻は天野に問い掛ける。

「ええ、それでみんなにちょっと一緒に来てもらいたい所があるの」
「それは願ったり叶ったりです。本当にありがとうございます」

 龍麻は一歩真実に近づけたと、天野の情報収集能力に改めて敬意を表してる。だが、小蒔には、はっきりとした言葉で今の状況を説明してくれない龍麻にじれったさを覚えていた。

「でも今は桜ヶ丘に行かないと、葵が…」
「美里さんが、どうしたの?」
「美里が今朝桜ヶ丘病院から消えて、行方が分からなくなったんです」

 ああ、だから学校から抜け出したのねと、天野は状況を聞いて納得する。そして、龍麻が自分に対しても聞きたいことがあると言った理由もすぐに判明した。

「葵が向かった先なら分かるわ…」

 龍麻のその発言に、全員の視線が龍麻に集中する。

「だったら何でッ!」

 最初っからそのコトを話してくれなかったのと、ちょっと恨みがましい目で小蒔が龍麻を睨む。

「向かった先は分かる。けれどもその正確な場所が分からないの」

 小蒔に自分の言葉を説明し、そして天野の方に身体を反転させる。

「天野さん教えてください。九角天童は今、どこにいるんですか」
「……ふう。つくづく緋勇さんって不思議な人ね。こちらの考えていることを見透かしてしまう、そんな眼差しの持ち主なのね…」

 天野は感嘆の息をもらすと、自分が今日ここに来た目的は、九角に関係している場所を突き止めたからだと告げる。

「そこに行けば、美里ちゃんがいるってこと?」
「少なくとも葵に関する手がかりは掴めると思うわ」
「でもさー、絶対って訳じゃないし、桜ヶ丘にも行った方が…」

 疑心暗鬼の小蒔に対し、迷いを断ち切るように龍麻はきっぱりと言い切る。

「そんな悠長な時間は無いのよ。今の葵が彼の手に落ちたら…。私は天野さんの情報を信じる。だから桜ヶ丘には行かないわ」
「龍麻がそこまで言うとなると、俺たちも当然天野さんと同行する方がいいだろう。異存はないな、桜井、遠野」

 もう一人には敢えて聞く必要は無いと思い、醍醐は渋る可能性のある二人に同意を求めてきた。

「うん…。別に天野さんの情報を疑っている訳じゃないし」
「当然よ、天野さんは一流のルポライターなんだからッ」
「これで俺たち全員が天野さんに付いて行くことに決まりだな」
「けど、一応桜ヶ丘の方も当たっとく必要は有るんじゃねェか…誰か……」

 話がまとまりかけたところに京一は珍しく慎重な発言する。しかもアン子の方にさり気なく視線を送りながら。京一の意図をすぐに察した龍麻、醍醐、小蒔は右に倣ってアン子の方をじっと見つめる。

「な、何よッ、その目は…」
「遠野、ここは一つ頼む」
「お願いッ、アン子〜」
「あたしは嫌よッ。絶対にい・やッ!!」

 醍醐と小蒔が頼み込むが、アン子はつんと拗ね、そのままそっぽを向く。

<これはいつも一人置いてきぼりをくらっていた恨みつらみが相当溜まっていたみたいね…、弱ったな…。でもこの先に待っているのは今まででも最強の相手だから、アン子を危険に晒すわけにはいかないのよ…どうしたものかしら>

 いつも以上に頑なな態度のアン子を、龍麻もどう説得しようか考えあぐねていると、横から天野が助け舟を出してくれた。

「頼めるのはあなたしかいないのよ、遠野さん」

 憧れの人の頼みに、強気のアン子もようやく自分の意見を折ってくれた。ただしその見返りとして、しっかりと天野のサインをねだっていたが。

「ありがとうございますッ。これは家宝にさせていただきます〜」

 ようやく機嫌を良くしたアン子の、ラーメン一杯で情報を買ってあげるという温かい励ましを背に、四人と天野は、九角に関係の深い場所に向かって急行する。

「そこはどこなんですか?」

 龍麻の質問に、天野はルポライターとしてこれからこの東京を混迷に陥れていた数々の事件の核心に迫っていける喜びを胸に、こう答えた。

「世田谷区、等々力渓谷───」




 ≪拾壱≫

 等々力渓谷に向かうまでの間、天野は自分が調べた限りで得られた、九角に関する情報を四人に話す。

 それによると、九角家は関ヶ原以前より徳川家に忠臣として栄えた名門であったが、ある時幕命に背き、謀反を企てたとして一族郎党皆殺しの上、御家断絶の憂き目にあったという。

「その時の家長が鬼修というの」
「鬼修の名は、前に龍山先生の所で聞きました。彼は修験道を極める内に、鬼道の復活に成功させたのだと」

 醍醐の言葉に天野は頷いた。

「そう、鬼修は鬼道と呼ばれる外法を用い、江戸壊滅を目論み、その為に地の底から鬼たちを甦らせたと伝えられているわ」

 だが結局鬼修は、幕府が集めた武士たちの手に掛かり、その命を落とした。

「けれど…その九角の血筋は全て絶えた訳じゃない。生き延びた子孫たちは息を潜め、雌伏の時を過ごしながら怨恨の血筋を脈々と繋げてきた。幕府への…いいえ江戸の街への恨みを募らせながら」

 天野の話の後を引き継ぐように今度は龍麻が語り始める。

「緋勇さん…あなたまさか…」

 言葉を詰まらせて驚く天野に、龍麻は婉然と微笑んでみせる。

「天野さんの推測は当たっています。…ここはもう等々力渓谷ですね」


 等々力渓谷に足を踏み入れると、龍麻は懐かしくもおぞましい《氣》が渦巻いているのを徐々に強く感じ始める。

「天野さんや龍麻の話によれば、俺たちの相手は、祖先の復讐のためにこんな事件を起こしていたということになるな。それも江戸時代の怨念だと……。そんなものの為に水岐や凶津は踊らされたのかッ。そんなものの為に佐久間は命を落としたのか…」

 醍醐は今まで鬼道衆が関わった事件を思い返し、口惜しさを露にした。

「恐らくはね、しかもみんなが驚くことがもう一つ。今の鬼道衆の頭目、九角天童は私たちと同じ高校三年生だということ──」
「何だと?」
「嘘ッ!」

 信じられないという反応をする醍醐と小蒔に、この先はまた私が説明するわねと、天野が話をし始める。

「世田谷区にある私立龍州の宮高校三年、九角天童。それが鬼道衆の頭目の名前。実際この名前に辿り着くのにはかなり苦労したわ。彼の祖父までさかのぼってようやく捜し当てたの。調査しても見つからないのも当然だったわ。だって名簿に彼の名が無いのだから」
「それってどういう意味なんですか?」
「九角はその学校に存在していながら存在していない。つまり学校側が九角の存在を知らないっていう意味よ、桜井さん」
「そんな馬鹿なッ」
「それだけじゃない。戸籍上にも存在していない…。どんな《力》が働いているのか分からないけれど、九角はこの東京の陰の中で人知れず生きているの。それも鬼道という外法の為せる業なのかもしれないけれど」

 常識の範疇を超えた話に、小蒔も醍醐も言葉を失う。

「…そこまでして徹底的に身を潜めるのは、それだけの必要があったということよ。ある者を護る為には」

 龍麻は呟く言葉は、渓谷を流れるせせらぎの音に紛れていく。

 天野は龍麻が自分以上に真実を掴んでいるのに、その彼女でさえも知り得なかった情報を手に入れられた自分をつくづく僥倖だと思い、そしてそれを彼女に伝える、それこそが自分に課せられた使命だったのだと思い至った。

「もっと奥へ行ってみましょう。そこが九角鬼修終焉の地と言われているわ」

 等々力不動。その奥に位置する古びた御堂が九角家の屋敷の名残なのだと天野が教えてくれた。

「それじゃあ境内に入りましょうか」
「ちょっとまったッ」

 ここまで一行を先導していた天野の前に京一が立ち塞がる。

「ここから後は俺たちだけで行かせてくれ」
「何を突然、ここまで来て…」

 不信感を表す天野だったが、醍醐もそれに怯まず京一の意見に賛同する。

「天野さんはここから引き返して下さい」
「どうして、醍醐クン。別にここまでボクたちと一緒に来てくれたんだから」

 小蒔は天野を帰すことに納得いかないと抗議するが、醍醐はそれもきっぱりと退ける。

「これだけは駄目だ」

 龍麻は何も言葉にしなかったが、その心は京一と醍醐と同じだと、表情で天野に訴えていた。天野は最後まで共に行動して、真実をこの眼で見届けたいという気持ちが強かったが、それ以上に彼らの負担になるようなことは何としても避けたかった。

「……私の役目はここまでのようね。了解したわ」

 後は彼らに任せるのが一番いい。この東京を襲っていた猟奇事件を解決してくれたのは、他でもないここにいる彼らなのだったから、そう天野は自分に言い聞かせた。

「気を付けてね、みんな。それから気を遣ってくれてありがとう」

 天野は足早に等々力不動尊から遠ざかって行った。その後姿を見て、小蒔は天野さんに悪いことをしたんじゃないかと、京一と醍醐を責める。

「お前な〜、まだ気付いてねェのかよ。見てみろよ、ひーちゃんの様子を」

 京一の指摘に龍麻の方を見ると、龍麻は額から冷たい汗を流している。

「ど、どうしたの、ひーちゃんッ!」
「この地の《氣》が陰に傾き過ぎているのよ。それでちょっと気分が悪くなっただけ」

 慣れればじきに体調は元に戻るから心配はいらないと、龍麻は小蒔に言う。

「それだけじゃねェ。ここに入った時から尋常じゃねェ殺気が飛んでくる…普通のヤツだったらとっくに失神してるぜ」
「うむ、この《氣》は只事じゃない。やはり天野さんを帰して正解だったな」
「あァ…。ちッ、こんな物騒な《氣》を溢れさせて、ヤツは何をおッ始めようってんだ…」
「それは、鬼道の完全なる復活よ…」

<間違いない…ここに葵と、九角天童がいる>

 不自然に膨れ上がる大地の《氣》を感じ取りながら、龍麻は奥にある御堂のほうを見据えた。




 ≪拾弐≫

 龍麻らが辿り着く数時間前、葵はすでにこの場所にやって来ていた。

「待ってたぜ」

 御堂の奥からよく響く声を出し、葵を迎え入れるのは、鬼道衆頭目の九角天童だった。九角は指先の動きで、ここまで葵を連れて来た配下の下忍らを下がらせる。

「よく俺の申し出を受ける決心がついたな」
「本当に、これで他の人には手を出さないでくれるんですか。……本当に」

 警戒心を身体一杯で表現しながら、葵は気丈にも九角に約束を確認させる。

「ああ、約束しよう。他の奴には手を出さねェ」

 九角が意外にもあっさりと葵の要求を受け入れたので、葵は勇気を奮ってかねてから疑問に思っていたことを訊いてみる。

「なぜ、いままでこんなことをしてきたの?罪の無い人たちを巻き込んで…」
「罪が無い…」

 葵の言葉を九角は声を上げて笑い飛ばす。

「罪がないだと?お前には聞こえないのか?この東京に眠る亡霊たちの怨嗟の叫びが。不実のうちに殺された者たちの慟哭が…」
「………」
「俺には聞こえるのさ。復讐しろ──と。破壊しろ──と。俺には聞こえるのさ、この東京を滅ぼせ…とな」

 その時九角の瞳が、えもいわれぬ虹彩を放った。その鮮烈な美しさは、普通の者だったらそれだけで魂を吸い寄せられるであろう強い魅了の力を帯びていた。

「人の世に於いて絶対の正義とは何か…一体何を正義たらしめ、何を悪たらしめるのか。それを決めるのは神でも仏でもない。それを決めることができるのは闘いに勝利した者だけだ。そうして歴史は作られる、勝者の正義という名の下に」

 吐き捨てるように一気に話すと、ゆっくりと葵の方に近付いて来る。

「その為には、お前の《力》が必要なのさ。菩薩眼の《力》がな…」
「他の人には手を出さないって──」

 葵は言葉を詰まらせ、その顔は蒼白に強張る。それを見て、対照的に九角は鋭い笑みを閃かせた。

「あァ、出さねェぜ。俺はこの東京(まち)が欲しいだけだ。この東京の全てがな」
「いや…止めて!!近寄らないでッ!!」

 九角の言葉の本当の意味を知った葵は、甲高い悲鳴を上げて九角を拒絶しようとした。

「助けて龍麻ッ!」
「龍麻…そうだったな…」

 この期に及んでもやはりあの女の名前を呼ぶのかと呟くと、葵に近付くのをやめ、再び部屋の奥の方にどっかりと座り込む。

「…楽しみは後にとっておくか。折角あの女の方から出向いてくれるんだ。忌むべき片割れを跪(ひざまず)かせてからでも遅くはない…」
「……忌むべき片割れ…」

<それは夢の中で少女が言っていた、半身という言葉と同じ意味よね>


 葵が冷静さを取り戻したのを見て、九角は再び話を投げかけてきた。

「時間はまだたっぷり有るな。美里葵、お前は菩薩眼の持つ真の意味を知っているか?」
「意味?」
「そうだ、菩薩とは仏教の開祖である仏陀釈尊の滅後、広く衆生を救済する為に遣わされた仏神のこと。菩薩眼とはその菩薩の心と霊験を有するものの証。菩薩眼を持つ者は大地が変革を求め乱れる時代の変わり目に顕現し、その時代の棟梁となるべき者の傍らにて衆生に救済を与える。これが風水発祥の地で生まれ、客家たちによって伝えられてきた菩薩眼の持つ真の意味だ」

 だが、時の為政者たちは菩薩眼の《力》を違った意味で解釈し始めた。それは日本に伝えられると、在来の信仰と相まって益々その意味は歪められながら喧伝された。
 即ち、菩薩眼の女を手に入れれば、それが天下を掌握し、富と名声を手に入れることに繋がるのだと。

「曰く、昔から菩薩眼を巡って幾多の悲劇が繰り返された。菩薩眼の歴史は戦乱の歴史。江戸時代、我が祖先もその為に徳川幕府と闘いそして滅んだ。実の娘である菩薩眼の女を護る為に…な」
「え…」
「徳川は既に片割れの《力》は手に入れていた。そして次に狙われたのが、九角家の長女である菩薩眼の娘だった。それを手中に収めるため、九角の人間を皆殺しにし、屋敷を焼き討ちにしたという。事実、徳川はその謂れが真であることを示すように、長き繁栄と発展を遂げた」
「そんな…それじゃ…」
「俺とお前は遠い祖先で繋がっている。共に生きる縁を持って産まれたのさ」

<そしてもう一人、だがあの女は…>

「俺はずっとお前を捜していた。かつて我が血筋より徳川の手に奪われた菩薩眼の娘。その末裔である美里葵、お前をこの手に取り戻すためにな。祖先の意に従い、俺は鬼道という陰の呪法を甦らせ、その全てを以ってお前を捜していたのさ。それなのに…つくづく皮肉なものだ。よりによってあの女の傍にいたとはな」
「あの女って…」
「緋勇龍麻。あの女は我らの血筋たりながらも、もう一方の忌むべき《力》を秘めている、いわば宿敵という存在だな」
「龍麻が…」
「もっとも、お前同様まだ覚醒段階としては未熟なものだが…」

 そろそろ刻限だなと、九角は再び立ち上がった。

「客人を出迎える準備を丁重にしとかねェとな。その為に…お前には更に覚醒を完了させてもらうぞ」

 九角は聞き馴染みのない奇妙な呪を唱え始めた。耳を塞ぎそれを聞くまいとする葵だったが、次第に意識を薄れさせていった。




 ≪拾参≫

「…葵が九角の一族の血筋だっていうの?」

 天野が去り、いざ等々力不動に乗り込もうとしたその時、タイミング良く事前に龍麻から連絡を受けた仲間たちが集ってきた。そこで龍麻は乗り込むより先にこれから闘う敵のこと、そして菩薩眼のことについて仲間たちにざっと説明をした。

「そうよ。なぜなら菩薩眼の《力》は九角の血筋の者からしか現れない」

 下手に敵から話をされて動揺を誘われるよりは、自分の口から話をしておいた方が仲間たちも納得するだろうと、龍麻は踏んでいた。実際大多数の仲間たちは龍麻の話を冷静に受け止めていた。

「…翡翠が一番複雑な心境でしょうね」

 如月は、代々江戸を護る為に徳川家に仕えていた隠密の家柄である。言ってみれば九角の一族とは永年にわたる抗争を繰り広げてきた仇敵に当たる。

「でも、葵に疑いの目を向けるんだったら、むしろ私の方をこそ疑って欲しいの」
「どういう意味だい、それは?」
「ひーちゃんッ!」

 京一は龍麻の言葉を遮ろうとしたが、龍麻は首を横に振って、そして毅然として事実を告げた。

「私と鬼道衆の頭目九角天童は、いとこ同士という血筋の上では最も近い関係にあるから」

 その言葉の衝撃度は、先程の葵の話よりもずっと仲間たちに与える影響は大きかった。自分たちのリーダーが、よりによって敵のリーダーと最も近い存在であったというのを、この大事な局面を迎えて初めて知らされたのだから、無理もないことだが。

「だから、みんなが私を信用できないっていうのなら、私は皆とは行動を共にしない。私一人で九角に立ち向かう。でも…」

<それじゃ、駄目なの…。何も変わらない…何も生み出せない>

 ここまで自分を支えてきてくれたのは、仲間たちの存在があったからだ。それに件の犬神の言葉もまだ心の中で響いている。それらを前にしては、自分自身の自尊心なんて、いつでも捨て去ることができるつまらないものだと、龍麻は思った。

「できれば一緒に闘わせて欲しい。お願い、みんな」

 必死に頼み込む龍麻の姿を見て、如月は呆れたようなため息をつく。

「何を今更…。龍麻、僕が君を信用しない訳がない。それに君があらかじめ僕たちを呼んだということは、僕たちの《力》を頼りにしていると考えてもいいんだろう。違うかい?」
「龍麻、マリィヲ仲間ダッテ言ッテクレタ。ソレヲ破ルノハ、マリィ絶対ニ許サナイヨ。龍麻、一緒ニ葵オ姉チャンヲ助ケニ行コウ」

 他の仲間たちも、気持ちは一つだった。

「この間の旧校舎で約束したじゃない。アタシたちは最後まで一緒に闘うって」
「わはははは、そうだぞ。さあ緋勇、遠慮なく俺たちに命令を下してくれッ」

 龍麻はすぐ横にいる京一、小蒔、醍醐の三人を見る。彼らの顔は一様に、よかったという気持ちに溢れていた。

「ありがとう…」

 龍麻はこの言葉を言うのが精一杯だった。これ以上言葉を重ねると、眼に潤んできた涙まで一緒に零れてしまいそうだったから。


 龍麻は一度天を仰ぎ、涙をさっと振り払うと、いつものリーダーとしての顔を取り戻す。そして葵救出の作戦を直ちに実行する為、一三人いる仲間たちを大きく二つのグループに分けた。

「葵が敵の中に捕らわれている以上、全員一緒に突っ込むのは得策ではないわ。まずは敵を別働隊で撹乱して、その隙に残りのメンバーで一気に突入する。セオリー通りだけれど、私たちもこれだけの人数で一度に行動するのは初めてだから、奇策を実行するよりはずっと成功率が高いと思うの」

 そして敵の中枢に突入するメンバーは、龍麻・京一・醍醐・小蒔の主力メンバーの他に、

「今回は《氣》の乱れを制する必要もあるから、ここは四神の《力》を持つ、翡翠・アラン・マリィの三人に協力してもらう。敵の残存数がどの程度なのか全く分からないから、囮役の他のみんなには更に危険な賭けをさせるようで申し訳ないけれど」
「分かってるって、雑魚のことだったらどーんとオレたちに任せときなって。龍麻たちには指一本触れさせねェぜ」
「姉さま。油断大敵という日本語をご存知ですか…」
「雛も一々堅いこと言うなって。この際だし、思う存分暴れて織部の名に恥じない働きを見せてやろうぜ」
「……まあ、そう言われれば、そうですわね…」

 日頃、姉の暴走をたしなめている雛乃は、だが今日は珍しく雪乃に丸め込まれていた。

「うふふふ〜、ここなら実験材料もいっぱいあるし〜思う存分魔法の実験が出来るわ〜。ミサちゃん、とっても楽しみ〜」
「わぁ〜い、みんなで一緒って楽しいよね〜」

 決戦前の緊張感が全くない何人かの様子に、雨紋はため息を知らずについている。

「俺サマ、このメンバーと一緒に闘うの、ちょっと不安なんだけどよ…。いいよなぁ、アランはそっちの方のメンバーに選ばれて」
「Hahahaha、残念ネ、ライト。でも女性の数はそっちの方が多いデース。だからひがまない。Smile、Smileネ」

 お前の価値基準は女の子の数だったのかと、雨紋はアランに突っ込みを入れると、アランは「今日は量より質ネ」とうそぶき、余計雨紋をムカつかせていた。


「やれやれ、頼もしいんだか頼りねェんだか」

 烏合の衆のような仲間たちの会話を聞いて、京一は肩をすくめる。

「大丈夫さ。俺たちはこれまでの闘いを乗り越えてきた絆があるんだから」
「そうだよッ。みんな頑張れるよ、それに葵だって…きっと無事に戻ってくるよ」

 醍醐と小蒔は、前に醍醐が失踪した事件の時の出来事をまざまざと思い出していた。あの時、みんなが自分を信じてくれたから、自分もみんなを信じられた。みんなが頑張ってくれていたから、自分も頑張れた。
 だから葵にも、同じように一人悩まず自分たちの元に戻ってきて欲しいと心から思った。


 一方、龍麻は如月が持参してきた手甲を渡された。

「これは…初めてお店に行った時に見せてもらった」

 それは如月骨董店の至宝とも言うべき『四神甲』だった。

「あの時は敬遠されたけれど、今の君だったら装備できる筈だ」

 何よりこの場に四神の宿星を負った者が集っているのがその確かな証だと、力強く如月が言う。四神を意匠した見事な彫り物が施されている美しい手甲を龍麻は恭しく受け取り、しばし眺めていたが、決意を固め両手にはめようとする。

「ん…?」
「どうしたんだい」
「ううん、何でもないわ」

 龍麻はいつもだったら絶対に外してしまう指輪を右指につけたまま『四神甲』を装備した。すると陰の《氣》に押されやや弱っていた身体に、再び静かに《氣》が注がれてきた。

<これなら何とか闘える……いいえ、闘ってみせる>

「準備はいいか?」

 背後から京一が声を掛けてきた。

「ええ」

 短く龍麻は京一に答える。それだけで十分だった。何故なら、二人は互いを相棒と呼び合う関係だから。この期に及んで多くの言葉を尽くす必要は無い。

「行きましょう、みんな!」

 龍麻は右手を高く上げ、合図を送る。その手甲からは眩い光を放っていた。

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