≪拾四≫
別働隊のメンバーが下忍らと闘い始めたのを契機に、龍麻らが境内の奥へ侵入を始める。だが、進むにつれ次第に視界がぼやけ、辺りが闇に閉ざされていった。
「見てッ、ひーちゃん!」
小蒔が指差したのは、先程までは清々しいまでに青く晴れていた空が、灰色の雲に覆われていく光景だった。
「おまけにすごい妖気もお出迎えか…こいつはいよいよ悪の親玉が登場って雰囲気がぷんぷんとしてきたぜッ」
京一の言葉に違わず、目的の奥の院の前に辿り着いた一行の目に映ったのは、辺りを漂う妖気を心地よげに纏い、不敵な笑みを浮かべる一人の男──
「そろそろ来る頃だと思ってたぜ」
「…九角天童…」
「久しいな、緋勇龍麻…」
相手の名を共に口に上らせ、そして視線がぶつかり合う。
「ふッ、ようやく俺の顔を正視できる度胸はついたみたいだな」
「褒めていただいて恐縮だわ、あなたも相変わらず元気そうね」
まるで旧友と出会ったかのような二人の会話を中断させたのは小蒔の言葉だった。
「葵は…葵はどこにいるのッ」
「俺の後ろの建物の中さ」
「そこをどけ。お前一人では俺たちには勝てん」
醍醐は小蒔を庇いつつ、前に一歩出る。それに倣うように、京一や如月も武器を構える。
だが九角はそんな彼らを見て、小馬鹿にしたような笑い声を上げる。
「誰が一人だって?よく周りを見てみな」
九角が肩に担いでいた刀を一振りすると、辺りに立ち込める妖気はますます濃くなり、やがてそれらは五つの塊となって収束し始める。
「おいッ、こいつは何かの冗談じゃねェか?」
京一が驚きの言葉を吐き出したのは、今までの激戦の中で自分たちが斃した鬼道五人衆が姿を表したからだった。
「何で封印した筈のアイツらがまた出て来るんだよッ」
「これはこいつらの怨念よ。てめェらに復讐したいと願うこいつらのな。憎悪・悔恨・怨嗟の念が集い形を持ったものよッ」
九角は口を歪ませると、地の底に響くような声で彼らに命じる。
「さあお前ら」
───目覚めよ…目覚めよ───!!
五人の姿が朧になり、
──口惜しや、口惜しや…
──恨めしや、恨めしや…
──憎らしや、憎らしや…
そして妖気と共に一体化していく。
完全に姿が消えたその時、九角の手に握られていた鈴が空間を切り裂くように澄んだ音色を奏で、
──その血肉、生命の輝き…
──喰らい尽くさずにはおられるものか…
彼らは再び肉体を得た。自らの本質を剥き出しにしたような醜悪な肉体を晒し、今度こそ龍麻たちを殺そうという意志をたぎらせて──
「これが…鬼道の《力》…」
仲間の誰かがぽつりと呟いた。死を覆す《力》とは聞いていたが、実際に目の当たりにして、その壮絶さに圧倒される。
「そうよ、これが歪んだ欲望が生み出した、歪んだ《力》。人間の欲望が大地を覆う時、それに応える形で…。でも、その歪みは必ず報いとなって返ってくる。そうでしょう、九角天童。そのことはあなたが一番知っているのに」
「そうだ。だが俺もお前ももう抜き差しならねェ所まで来ちまってるんだぜ。覚悟は決めたか」
「そうね…あなたの言う通りだわ。だから、私はこの闘いに絶対に勝つわ」
負けられない、ではなく勝つと言い切る龍麻を、仲間たちも、そして九角までもが瞠目する。
九角は素早く鞘を払い、闇に白銀の刀身を浮かび上がらせると、龍麻らを挑発した。
「さァ、始めるとするか。よく見ておくんだな、外法ってヤツを」
「復活した鬼道五人衆が厄介だわ。でも全員で一体一体を相手する程悠長な闘いも出来ないし、ここは一体一体を各人で相手する必要がある」
七対六と、一応こちらの方が数の上では有利だが、相手が変生した以上、能力は上がっているのは今までの戦闘で学習済みのことで、迂闊に手出しはできないと龍麻はすばやく思考を巡らせる。
「でも…少なくともあの五人衆の弱点や闘い方は以前と大して変わらない筈」
その結果、水角には小蒔が【火龍】を放ち、炎角は如月が水属性の攻撃で、雷角はマリィが遠距離から術を、同じように岩角にはアランが、鬼道五人衆の中でもリーダー格に当たる風角には防御力とパワーが一番ある醍醐が攻撃をと、それぞれが担当する敵を言い渡す。
「残る九角は私と京一が相手する。それで良いわね」
龍麻の指令を聞き、全員は素早く自らに与えられた行動に移る。
真っ先に敵と対決したのは、醍醐だった。白虎の《力》を解放し、威力が増した【掌底・発剄】を連続で風角に叩き込むと、風角の身体が以前よりも過剰に反応した。
「どうやら、こいつらには以前よりも《氣》の攻撃が効果ありそうだな」
五人衆の新たな弱点が暴かれた為、一気に戦局は醍醐らの方に有利に傾いた。
「いくぞッ【火龍】」
「【飛水流奥義・瀧遡刃】」
更に、以前からの弱点を的確に突いた攻撃に、水角と火角も抵抗らしい抵抗も出来ず、翻弄されっぱなしであった。
「Go to Blazes!!」
マリィの煉獄に燃えさかる炎を思わせる業火は、雷角のみならず、すぐ近くの岩角までも巻き込み、
「Rest in Peace!!」
アランが霊銃に聖なる《力》を宿らせ、止めをさす。
鬼道によって甦った鬼道五人衆は、結局束の間の生を全うしただけで、再びその身を常世へと追い返されようとしていた。
こうして終始優位な闘いを繰り広げていた対鬼道五人衆戦と対照的に、九角と対峙している龍麻と京一は、驚くべき剣技を持つ敵に苦戦を強いられていた。
≪拾伍≫
「二人掛かりでこの程度とは情けないな」
京一の神速の太刀捌きを見切り、龍麻の古武術で体得した技を九角はことごとく跳ね返す。
「勝つんじゃなかったのか」
九角の口元には薄ら笑いを浮かべる余裕さえある。
「ちッ、口惜しいがコイツは中々強えェぜ」
「京一…」
<やっぱり九角の強さは並じゃないわね。いくら外法の《力》を開放しているとはいえ、相当修練を積んできたのは間違いない>
そこには純粋に強さを求める、剣士としての姿も垣間見られるのだが、今の龍麻らにそれを理解しろと言うのは無理な話だった。
「とくと拝みなッ、乱れ緋牡丹!!」
「ぐッ」
技を浴びて、龍麻は後ろに吹き飛ばされるように倒れる。
「てめェ、よくも…」
京一が怒気をむき出しに、立ち向かう。
「【秘剣・朧残月】!!」
朧に霞む幻惑の《氣》の間から縫って繰り出されるその剣技ですら、またしても際どい所で受け止められてしまうが、京一はそれに構わず、数合鋭い剣戟を繰り広げる。
ぶつかり合う互いの《氣》に、その場に火花が激しく散る。
龍麻は京一が九角を引き受けている間に、地面から立ち上がりながら、次に打つべき手として後は何が残っているかと思考をめぐらせた。
<今までの自分の技は全く通用しなかった…。かといって──>
今の自分の《氣》の力では、とても外法を駆使している九角には通用しないというのも分かり切っている。
<後自分に残っている武器は…>
京一の闘いぶりを見ながら、はっと気が付く。
<そうだ、速さ…。相手に技を繰り出すのを許さない程の速さを以って当たれば、九角にも隙が生まれるかもしれない。そうすれば、京一の剣技もかわされることなく九角にぶつけられるわ>
しかし速さを生み出す以上、当然ながら防御には構っていられない。まさに危険な賭けだとは思ったが、九角を倒せる程の破壊力を生み出せない、今の自分にやれることはこれだけだと龍麻は決意した。
その時京一と九角両者の、まさに鎬(しのぎ)を削る闘いの均衡状態が突然崩れた。一層鋭い金属音を上げて京一の刀が九角の刀によって弾かれたのである。
「やべッ…」
「中々の使い手だったようだが、所詮俺の敵にはなれんようだ。さて、覚悟はいいか…」
京一は諦めずに飛ばされた自分の刀をさぐるも、それが思った以上に遠く飛ばされていることに気付き、小さく舌打ちする。
九角が悠然と刀を振り下ろそうとする、その時、
「京一ッ!!」
龍麻は躊躇わずに地面を強く蹴りつけると、一気に九角の懐に飛び込んだ。
京一を上回る神速の連撃を繰り広げる龍麻に、最初は自暴自棄になったのかと鼻で笑っていたが、龍麻の目は真剣そのものだった。その拳に宿る《氣》は、強さこそ以前より数段劣っているが、輝きに於いてはまさにこの世ならぬ清冽な光を湛えた一閃であった。
おまけに極限まで間合いを詰められているので、九角は剣を振るうこともままならず、ただその拳を避けるだけの防戦一方に追い込まれていった。
「くッ、何だこの技は…」
<まさに神代に謳われた、何処とも無く湧き上がる八雲の如き拳というヤツか…小癪な>
そして、京一もまた、龍麻の闘いを驚きをもって見つめた。
「ひーちゃん…」
だが京一は、龍麻の無謀ともいえる闘い方は、無謀ではなくて、この闘いを勝ち抜くための挑戦なのだと、そして、それは自分の攻撃を計算に入れた物であるということを瞬時に悟った。
<にしても、あいつ…平然と自分の身を盾にしやがって…。相変わらず無茶苦茶するヤツだぜ…>
「だったら、俺だって少し位無茶しても構わねェよな。まだ失敗する方が多いけど、どうやら【朧残月】じゃ通用しねェし」
呼吸を整えると、拳から刀身に向けて凍気を帯びた《氣》を注ぎ込む。
<この凍気ってのが上手く乗せられねェんだが…>
──それはお前に冷静さが欠けているからだ。もっと周囲をよく見ろ。心を一にするのだ
<ちッ。こんな時にクソ師匠の言葉を思い出すなんて最低だぜッ…でも、今は…>
雑念を払うように左右に頭を振ると、この一振りに賭ける、ただそのことだけを考えた。
「大分スピードが落ちて来たようだな、緋勇」
「ふふ…あなたこそ、避けようとする身体のキレが悪くなっているわよ」
龍麻は笑って見せるが、既に身体の方は限界を訴えてきている。
「でも、最後の最後まで諦めるわけにはいかないのよ」
「ほざけッ」
<だがこの女…どうしてこんな極限の状態になっても他人の為に自分を犠牲にすることを厭わないんだ…あの時も、そして今も…>
いつしか龍麻の動きに、九角の眼は完全に奪われていた。
<今だッ!>
龍麻の捨て身の攻撃によって九角に生じた僅かな隙を見逃さず、京一は狙いを定め、技を繰り出す。
京一の剣先から揺らめく先ほどと同じ幻惑の《氣》に、九角はまだ残っていた余裕を見せて避けようとする。
「同じ技を使うとは、焼きが廻ったな」
だが京一は、更に自分の《氣》を高めると、
「食らえッ【剣聖・陽炎細雪】」
今度は凍気を漲らせた幻惑の《氣》を九角めがけて剣先から発する。辺り一帯が、真っ白な《氣》に包まれた、その瞬間、
「これで止めだッ」
京一の太刀が正確過(あやま)たず、九角の鳩尾に叩き込まれた。
九角が地面に倒れると、身体能力の限界を超えていた龍麻もまた、背中から崩れるように倒れる。
「危ねェッ」
京一は咄嗟に空いている左腕で、龍麻を受け止める。
「あ、ありがとう…。やったね、京一」
荒い息を抑えながら、龍麻は京一に小さく笑顔を向ける。
「上手く行ったのは相棒のお前が頑張ってくれたからだぜ」
二人は笑顔を交わすと、龍麻は倒れている九角の方をじっと見た。
「暫くは起き上がれねェだろう。まともに技を喰らったからな」
「そうだね…」
抱き起こして回復させて上げた方がいいのだろうかと一瞬思ったが、誰よりも誇り高い男である彼が、それを是とするとは到底思えなかった。
<今は、そっとしておいた方がいい。自分が目指してきた物を失ったのだから…>
「どうやら、あっちの方もカタが付いたようだな」
京一の言葉に後ろを振り返ると、最後に残っていた岩角を醍醐が止めの【破岩拳】で斃していたところだった。
「これで、後は葵を助け出せば全てが終わるのね…これで…良かったのよね」
龍麻はまるで自分に言い聞かせるように呟くと、京一の腕を離れ、仲間たちの元へゆっくりと近付いていった。
≪拾六≫
龍麻ら七人は戦闘後、息つく暇も無く、直ちに屋敷内に突入し葵の姿を捜した。
くすんだ色に変じた、元は豪奢だったであろう障壁画の描かれた襖を次々と開けていくと、最も奥まった座敷に到達した。
そこには、最初に《力》が覚醒した旧校舎の時と同様の蒼い《氣》を、全身から立ち昇らせながら気を失っている葵がいた。龍麻は素早く近寄って抱き起こす。
「葵、しっかりして」
「葵オ姉チャン」
小蒔やマリィも左右から呼びかけるが、葵は微かに反応するものの、ぐったりと眼を閉じたままで、すぐに意識を取り戻す様子は見られなかった。
「…無理に動かすのも、葵の《氣》がこんな状態じゃかえって危険だし。仕方ないけれどもしばらくここにいることにしましょう」
龍麻の提案を止むを得まいと仲間たちは素直に受け入れた。そこで葵が意識を取り戻すのを待つ間、手持ち無沙汰の京一や醍醐ら男連中はほの暗い部屋の内部に自然と目を奪われていった。
「こんな訳分からねェ古びた道具を並べてるトコに連れ込みやがって、つくづく悪趣味な野郎だぜ」
京一は見慣れぬ古びた道具がそこかしこに置かれているのを見て、九角を揶揄する。
「だが…これらの道具はいずれも本物の、文化財級のものだよ。特に…」
日頃の職業意識からか、如月は特に熱心に道具類を見ていたが、その中でも目を奪われたのが、床の間に安置されていた銅鏡だった。
「これは…僕の見立てに間違いなければ、本物の“景初三年”の鏡だ」
「けいしょ三年?それって……いつの時代の話だ?」
京一は聞きなれない年号に、素っ頓狂な声を上げる。
「三世紀の中国にあった魏の国で使われていた年号で、日本では丁度弥生時代に当たる。あの邪馬台国の女王卑弥呼が魏の国から朝貢の見返りとして賜った銅鏡に刻まれているのが、まさにその年号さ」
「卑弥呼か…やはりこれも鬼道に用いられていたのだろうな」
醍醐は感慨深そうに、如月に訊ねる。
「恐らくはそうだろう」
「こんなクソ汚い鏡がか〜。信じられねェな」
京一が無造作にひょいと鏡を持ち上げると同時に、葵は意識を取り戻し始めた。
「……いや……止めて…」
「あ、葵ッ!良かった、気が付いたんだね」
喜ぶ小蒔に、だが葵は応えようとはしなかった。
「いや…止めて…もう争うのは止めて…」
「葵…?」
葵の様子がおかしいと、仲間たちは顔を見合わせる。
「しっかりしろ、美里」
醍醐はやや声を強めて呼びかけるが、それも聞こえていない様子である。
「私のせいで…。私のせいでたくさんの人が死んでいく…」
葵は立ち上がると、皆から背を向け悲痛な声でこう叫んだ。
「私の、この呪われた《力》のせいで────」
その場に居た全員は一様に強い衝撃を受けた。そして真空状態になったかのように静まり返った部屋に、葵の呟きが涙と共に流れる。
「昔から菩薩眼を巡って幾多の悲劇が繰り返されてきた。あの人もこう言っていたわ…菩薩眼の歴史は戦乱の歴史だと。だから…私もきっと今にみんなを傷つけてしまう。この《力》で大切な仲間たちを……そう、小蒔も醍醐君も京一君も、そして龍麻ですらも……」
葵は胸元で自分の両手を祈るように強く、強く握りしめ、だから…と呟く。
「もう私のことは忘れて…」
葵から立ち昇る《氣》が急速に強さを増していく。
「もう私、みんなとは一緒に生きていけない…」
「葵…まさか…」
喉の奥に引っかかりながらも、何とか絞り出すようなかすれた声を出して小蒔が葵に話しかける。
「…お願い」
小蒔が近付こうとすると、葵はそのまま後ろに一歩下がり、拒絶の色を濃くする。
「止めるのよ葵!それ以上《氣》を高めたら葵自身が耐え切れなくなる!!」
更には龍麻の制止する声を無視し、葵は自身の《氣》を一層高める。
「お願い…龍麻、お願いよ、私は───」
「判ったわ…葵。好きなようにすればいい。ただし…」
すっと近付くと、葵の両手を龍麻が強く握りしめる。
「……離してッ…龍麻……」
龍麻の束縛から逃れようとする葵を無視して、龍麻は仲間たちに、葵と二人きりにさせて欲しいと言う。
「葵のことは私に一任させて」
「ひーちゃん」
抗議の声を真っ先にあげる京一に、龍麻は重ねて懇願する。
「ちゃんと葵と二人で…すぐに戻ってくるから」
「…分かった。美里のことはひーちゃんに任せる」
そう言うと、逆に他の連中を促して部屋から出て行った。
ぴっちりと次の間と隔てる襖が閉められると、龍麻は柔らかい笑顔を葵に向ける。
「葵、もう自分自身でも《氣》をコントロールできなくなっているんでしょう」
「あ……」
涙を流し、首を縦に振る葵の掌を、龍麻は自分の胸元へと向ける。
「葵、あなたの《氣》は私が受け止めるから…。だから…一人で行こうとしないで…、自分をそんなに責めないで…」
「で、でもッそんなことをしたら、龍麻が」
葵は必死で龍麻の手を振りほどこうとするが、しっかりと龍麻に握られたままだった。そして、最早臨界点をとうに過ぎた葵の、その掌から膨張した《氣》が一気に龍麻に向けて放たれた。
「龍麻…龍麻ッ──!!」
「大丈夫、私はあなたのお陰で…」
真っ白な閃光に包まれた龍麻の姿が、葵の目の前で変わっていく。
『あなたのお陰で…感情を持つことが出来た【器】なんだから…』
「あ、あなたは…」
「これは…?」
隣室に待機している仲間たちの目の前で、無意識の内に京一が持ってきてしまっていた銅鏡が自ら光を帯び始めた。
「一体何が起こってるっていうんだよ…、まさか…ひーちゃんッ!」
京一は隣の部屋に戻ろうと、隔てている襖を飛びつくようにして開けようとしたが、簡単に開くはずのそれはぴっちりと堅く閉ざされ、無理矢理ぶち破ろうとしても物音一つ立てずびくともしなかった。
「ここと向こう側は空間が完全に遮断されてしまったな。いわば、一種の封印状態にあるということだ…」
冷静に指摘する如月に、京一はそんな講釈はどうでもいいと怒鳴る。
「てめェは心配じゃねェっていうのかよ」
「蓬莱寺…。我々までが冷静さを失ったら、助け出せるものも助け出せなくなる…」
言葉はあくまでも平静を保っているが、それが必死の努力の成果であることは、如月の目が語っていた。
「そうだったな……済まねェ…」
「今は、龍麻を信じて待とう」
醍醐が京一の肩を叩き、それしか今の俺たちには出来ないからなと付け加える。
「ミンナ…気をつけてくだサイ。何か嫌な気配シマス」
アランが警告を発した直後、外から雷鳴のように全員を打ち据える声が響き渡った。
「表へ出て来い…まだ決着はついてねェぜ」
「───ッ!!まさか九角…あいつか」
慌てて表に飛び出した六人の目の前には、視界が霞むぐらい漂う瘴気の中、倒した筈の九角が平然と立っていた。
「ちッ…。往生際の悪いヤツだぜ」
「甘いな…これ位で俺が斃せると思ったか」
高笑いをひとしきりすると、九角は今度こそ貴様らを斃すと宣告する。
≪拾七≫
葵は自分の《氣》が暴走した瞬間、龍麻の《氣》と再び一体化した感覚を味わっていた。
<そうよ…私たちはもともと一つの存在だったんですもの…>
それはぬくもりと安らぎに包まれた心地良さだった。
<だったらこのまま…ずっと二人きりで…>
やがて二人の《氣》は絡み合いながら、どこまでも膨れ上がっていく。意識は宙(そら)を飛び、時空を超え、どこまでも広がっていく。細胞の隅々にまで、瑞々しい《力》がみなぎってくる。
───二人が一緒ならば何でも出来る…
不安がる物も恐れる物も何も無い、二人がいつも一緒ならばそれだけでいい、ぼんやりとそんな想いすら浮かんでくる。
<龍麻…>
<葵……見て…>
龍麻は目の前を指差した。そこには、再び九角と対峙している仲間たちが映し出される。
<あの人は過去の恩讐に捕らわれている…>
<そんな…こんな闘いは無意味だわ>
<…でもそれが彼に与えられた運命。それを断ち切るのは──>
<でも、嫌、私…争いの世界に戻るのは…>
<分かっているわ、葵、あなたの気持ちは>
だって、こうして触れているだけで、言葉を尽くさずとも葵の気持ちは自分に流れ込んでくるのだからと、龍麻は心で話しかける。
<だから…あなたは好きにすればいい。他人の思惑ではなく、あなたの思う通りにね>
龍麻はにっこりと微笑むと葵の手を強く握り返した。
<でも…龍麻、あなたは良いの?あなたには、仲間たちを見捨てることなんて出来ないでしょう>
その葵の言葉に導かれるようにして、巫女装束の少女が龍麻から分離するように現れた。
『だから、私が代わりに闘ってきてあげるわ』
<あなたは…一体?>
龍麻も葵も呆然として少女を見つめる。
『言ったでしょう、私は感情を持たない【器】だって。その私に感情というのを教えてくれたのが、美里葵、あなたなの。そして、数多の感情が集って生み出したのが、そこにいる龍麻という存在』
<私が…>
『あなたは、今までの菩薩眼の女の想いが凝って生まれたのよ…。そしてその龍麻を護って欲しいというのが、美里葵、あなたに寄せられた菩薩眼の女たちの悲願でもあるの』
<菩薩眼の女たちの願い…>
『それじゃ、私は行くわね。どうやら刻が満ちたようだから』
そう言うと、少女は軽やかな身のこなしでこの空間から空気のように姿を消した。
「お前はッ」
突然目の前に現れた巫女装束の少女に、九角は驚愕の声を上げる。
「……いや、お前を俺は知っている。我ら九角の仇敵、忌むべき《力》を伝えし、緋勇の巫女だな」
「九角の者よ…。まだそなたが血塗られた刃を振り下ろそうとするのなら、私が相手いたしましょう」
「くくッ、過去の亡霊が今更何を言う」
「笑止ね、過去の恩讐に踊らされている男がそんなことを言うなんて。そなたには渡さない…菩薩眼の娘も、そして次代の“私”も…」
すらりと剣を構えて、少女が九角を威嚇する。
「良かろう…ならば俺も礼を尽くして相手してやる」
九角は自分の刀を少女にではなく、天空にかざす。
「さあ来いッ。この地を漂いし怨念たちよ、この俺の中に巣食うおぞましき欲望よ───」
この俺を喰らい尽くせ─────!
九角の姿が、闇よりも尚暗い瘴気に閉ざされていく…
「一体九角は何をしようってんだ、それにお前は…」
龍麻そっくりだが、目の前にいる少女が全くの別人であることを京一はすぐに理解した。
「蓬莱寺の者よ、九角は自らの血の持つ《力》を全て開放し、鬼へと自らを変生させるつもりよ」
「──!!」
見知らぬ少女から突然名を呼ばれたことも驚きだったが、それ以上に九角が変生するという言葉に強い驚きを覚えた。
「そなたらでは相手にならぬ。故にここは私が闘いましょう」
「俺たちじゃ足手まといっていうのか」
「平たく言えばそう。でも…そなたらには別にやってもらうことがある」
目の前で次々に繰り広げられる光景に圧倒され呆然とたたずんでいる六人に、少女は透き通るような声で、あたかも神の託宣を告げるが如く神々しさを以って語りかける。
「青龍・朱雀・白虎・玄武。そなたらはこの地に結界を張り、これ以上地の乱れが広がるのを防ぎなさい。私が今こそ、そなたらの宿星を全て解放してあげましょう」
首に掛かっていた勾玉を少女は一つ噛み砕き、その息吹を四人に降りかける。
「そして…あの二人を近くでいつも見守ってくれた心優しい娘よ」
屋敷内に放置してきた筈の銅鏡がいつの間にかその場に現れた。少女はそれを指し示し、
「あの鏡の向こうの世界に、あの二人はいる。いや自ら閉じ込っていると言っても良い。ですから強く呼びかけるのです。再び姿を見せることを願って…」
「ひーちゃんと葵が、この中に…」
小蒔は震える手で、宙を浮いている銅鏡を手に取る。
京一は、俺は何をすればいいんだと、逆に少女に訊き返してきた。
「恐らく九角の《氣》に惹かれ、魑魅魍魎どもも常世より這い出で蠢(うごめ)く。それらから仲間たちを護り抜け…『護りの剣の使い手』たる《力》を代々受け継いできた蓬莱寺の者よ」
「了解したぜッ。それじゃ、お前は遠慮なく九角と闘ってくれ」
少女は乱雑な言葉遣いをされたことに気を悪くするどころか、かえって氷の彫像を思わせる美貌をほころばせた。
「…頼りにしているわ」
その言葉を聞いて、ますます龍麻にそっくりだなと、京一は低く呟いた。
「いと憎き徳川の地よ──。いと恨めしき我が運命(さだめ)よ。我が悲願叶わぬなら、この現世(うつしよ)を我に相応しき鬼共の這う地獄へと変えるまで。見るがいい、我が真の《力》を」
少女は変生を遂げた九角とは最早会話を交わそうとはせず、一気に近付くと剣を閃かせた。九角は唸るような音をたてて、巨大化した体から素早く拳を振り下ろす。少女はそれを刃先で受け、鋭く切り返す。
神代から伝わる闘いとはこういうものなのだろうかと思わせる、激しさと、そして神秘さを感じさせる太刀筋に、九角は負けじと更に自分の《氣》を高め、辺りは空気までもがびりびりと肌を刺さんとばかりに振動し始める。
その強い陰の《氣》に呼び起こされた異形のモノたちが、少女が告げたように境内のそこかしこに姿を現し始めた。方陣技を唱える為に意識を集中しなければならない仲間らが、それらによって阻害されることがないよう、京一は愛刀を携え雄叫びを上げると片端から撃破していく。
京一が与えられた使命を果たすべく孤軍奮闘するのを横目に、醍醐らは宿星の導くままに四方に散り、その血の覚えている言葉を紡ぎ始めた。
「東に、小陽青龍」
「南に、老陽朱雀」
「西に、小陰白虎」
「北に、老陰玄武」
──陰陽五行の印以って、相応の地の理(ことわり)を示さん──
四人の《氣》が、それぞれの霊獣の姿となり、それぞれの方角を遮断する。
「よし、これで…ここから外は陰の《氣》の影響を受けにくくなった筈だ」
如月は結界が正常に働けば、いずれ九角の《力》も弱まるだろうと推論する。
「後ハ…龍麻ト葵オ姉チャンガ帰ッテ来ルノヲ…待ツダケダヨネ」
不安そうな表情で中央で闘っている少女と九角を見上げるマリィに、アランは大丈夫と声を掛ける。
「No problem.龍麻は約束破る人じゃありまセン」
「アランの言う通りだ。それまでは、俺たちがこの場所をしっかりと護ってやろう」
醍醐の言葉に三人はうなずくと、今度はそれぞれの《氣》を中心部に集め、方陣の威力を更に高めようと懸命になる。
四神による方陣が発動してから、小蒔は手に持っている鏡が一層熱と光を帯び始めたことに気が付いた。
「ひーちゃん、葵…。ホントにこんな鏡の向こうに…」
小蒔は龍麻との出会いから今まで、そして葵とのこれまでの友情を走馬灯のように頭に駆け巡らせた。
「葵は自分の《力》が呪われているっていっていたね。前にひーちゃんも同じこと言っていたけど…。やっぱりあの二人の絆って、ボクとの友情なんか太刀打ち出来ないのかな…」
そんなことは無いと、誰かが囁きかける。
「ひーちゃん…?その声は…。そうだったよね、あの時の醍醐クンだってちゃんと立ち直ってくれたんだし。葵だって大丈夫だよね」
小蒔は小さく頷くと、鏡に向かって葵に語りかける。
「葵…心配しなくて良いよ。葵にはボクたちもずっと一緒にいるから、だから葵一人に辛い想いなんてさせない」
<………小蒔…>
「それに葵と強い絆を持っているのはひーちゃんだけじゃないよ。だってボクも感じるんだ…。ボクたちは遠い昔から固い絆で結ばれている……って」
だからきっと帰ってきてねと言うと、葵と龍麻のいない悲しみに堪え切れなくなった小蒔は、鏡面に一滴の涙を落とした。涙は鏡面を流れ伝い、そして鏡面に漣(さざなみ)を起こすと、音も無く吸い込まれていったが、小蒔はそれには全く気が付かなかった。
だが、その刹那、龍麻と葵を包んでいた空間で静かに波紋が生まれ、
<ああ…>
龍麻と葵は、ゆっくりとだが二人の《氣》が離れつつあるのを知った。二人を取り巻く世界が、すでに二人だけでいることを許さないから、というだけではない。
──私たちは二人きりでいてはいけない。私たちはこうして触れ合っているだけで、お互いの気持ちまで理解できる。けれど、傷つくのを恐れていては、自分から他人に触れようとしなければ、何も変わらない、何も生み出せない…
龍麻も、葵も時を同じくして同じ想いを強くした。今こそ二人の《力》が真に決別すべき時なのだと。
<龍麻…私、帰りたい、みんなのところへ…>
<ええ、それじゃあ、行きましょう。光さす、仲間たちのいるあの世界へ。私たちは生まれ変われるのよ>
「鏡がッ」
小蒔が手に持っている鏡の紋様が明滅し始めた。
「娘よ、危険です。その鏡からすぐに離れなさい」
少女が叫ぶと同時に、鏡面から眩しい光が幾筋も放射する。二、三度激しく光が震えたと思うと、乾いた音を立てて鏡は真ん中から真っ二つに割れてしまった。
そのあまりの強い閃光に目を閉じた小蒔の耳に聴こえてきたのは、
「小蒔…」
親友である葵の声だった。小蒔は無我夢中で声のする方に向かって走り出す。
「葵ッ!良かった、戻ってきてくれたんだね」
「心配かけてごめんなさい…」
時間にすれば少しの間しか離れていなかったのにも関わらず、ひどく懐かしい気持ちにさせる葵の笑顔に、たまらず小蒔は抱きついて泣きじゃくる。
「いいんだよ、そんなコト。それよりひーちゃんも一緒だよね」
「ええ、龍麻も一緒よ、ほら、あそこに…」
「ひーちゃん」
驚いて目を見開く京一の背後に、忽然と龍麻は立っていた。
「…ただいまって言うのも変かも知れなけれど、でも今はそんな心境ね。ありがとう留守の間みんなを護っていてくれて」
「ったく、もう二度と、勝手にどっか行くんじゃねェぞ」
口では文句を言うものの、無事に龍麻が戻って来た嬉しさから、京一は笑みが零れるのを抑えることができなかった。それは、龍麻も同様だったが、
「うん、と言いたいけれど、その前に」
京一に皆の背後を護ってくれるように言い置くと、龍麻は中心部に向かって走り出した。
「九角天童…、いいえ九角の亡霊よッ。今度こそ私たちの闘いに終止符を打ちましょう!」
凛とした表情で九角と対峙せんと近付く龍麻の姿は、いつしか巫女の少女と重なり合い、その手には少女の持っていた剣を構えている。
龍麻は手に嵌めている『四神甲』を通して伝わる大地の《氣》を剣に注ぎ込みながら、葵に呼びかける。
「葵の《力》も私に貸して!」
その言葉に天から啓示を受けたかのように、葵はひたむきに祈りを捧げた。この哀しい闘いを、自らの手で終わらせたいという意志を以って。
祈りは光となり、聖なる裁きとなって九角に降り注ぎ、打ち据える。
苦悶の表情を浮かべる九角の胸元に、龍麻はその身体ごとぶつかる勢いで剣を突き立てる。
剣が深々と貫いたと同時に、九角の身体からどす黒い瘴気が、その傷口から溢れ始める。龍麻は自分に絡みつき、喰らいつこうともがく強い陰の《氣》に顔を顰(しか)めながらも、尚も剣を握ったまま、大地の《氣》をさらに集めた。
「この刃には…皆のこの地を護りたいという想いがこもっている。それはこの場に居る私たちだけじゃない、この東京に暮らす人々の想い…それが大地の《力》となって、この地を息づかせている」
だから、この手を離す訳にはいかない──“あなた”の死を見届けるまでは…それが、私に課せられた使命なのだから
その時龍麻の身体から、失われていた黄金色の《氣》が再び発せられた。
それは大いなる浄化の《力》と転じ、乱れていたこの地の《氣》だけではなく、九角を突き動かしてきた幾代にも渡って受け継がれてきた恩讐の念をも呑み込み、消滅させていく…
「……ついに【器】として目覚めたか…緋勇龍麻よ………これでいい…」
満足そうに呟くと、九角は急激に迫る自分の死を冷静に感じ取る。
<夢破れ、俺はこのまま逝くのか。だが、それもいい──所詮、この世は戯言に満ちている…>
「これで…ようやく俺も長き呪縛から解放される…。俺は…ただ欲しかったのだ…我が一族の安息の地が…そして…」
逝こうとする自分を瞬きもせず見つめている龍麻を、自分も瞬きもせずただ見つめ返す。龍麻と自分が近しい関係であった何よりの証である、他人を魅了して止まない、よく似た光を帯びた瞳を。
その瞳に微かに揺らめいていたのは、倒した敵に対する憎しみでも哀れみでも決してなかった。
同様に九角もまた、自分を斃した龍麻を素直に賞賛する。
「見事…だ…。人の《力》──見せてもらったぞ…」
だが末期の九角は同時に覚(さと)っていた。人の世に陽(ひかり)が照らす限り、陰(かげ)もまた消えることがないということを…。そして、より強い陽は、より強い陰を生み出すのだと…。
<そして、この女にはまだ…死ねねェだけの事情が…あるんだったな……もっと重い宿星って奴が…>
「……闘いは終わっちゃいねェ。いいか、お前らも──覚えておくがいい。人の世に復讐の念が絶えぬ限り、争いが終わることもない…」
──努々(ゆめゆめ)忘れるな…
陽と陰の闘いに終わりはないことを──
九角の身体がゆっくりと大地に、風に溶けてゆき…最期は一陣の風だけが吹き抜けていった。
そして──
あれ程の濃い暗雲に覆われていたこの地に、一筋の光が差し、それは急速に辺りに広がり始める。
「終わったな…長い鬼道衆との闘いが…」
「ああ…」
「本当にボクたちが斃したんだよね」
京一も、醍醐も、小蒔も、自分たちが成し遂げたことに対して、勝利の喜びに浸るという気持ちになるよりも、今はこの闘いを通して得たもの、そして失ったものへ、より強く想いを馳せていた。
そんな彼らの苦しい闘いの日々で得ることのできた、最も貴重な宝、それは…
「これで…終わったのね…。もし龍麻がいなかったら、私きっとどうなっていたか分からない…私…龍麻に会えて本当によかった」
「葵…」
葵の素直な感謝の言葉に、ようやく見せた龍麻の冴え冴えとした笑顔だった。
「…さあって、それじゃそろそろ帰ろうぜッ」
京一は伸びを一つすると、さっさと龍麻の元へと歩き始めた。
「うん、みんなが待ってるもんね」
「そうだな、よしッ、帰るとするか」
京一や小蒔、醍醐に続いて、それぞれの闘いを終えた仲間たちは、それぞれの感慨を胸にしまい龍麻の元に集っていった。
「みんな…今まで本当にありがとう…」
仲間たちを前にして、龍麻は改めて礼を言う。九角の言う通り、自分たちの闘いに終わりが無いとしても、だが、とにかく一つの区切りを迎えたことは確かだった。
「そして…これからもよろしくね」
その言葉に、仲間たちは全員歓喜の声を上げた。
≪拾八≫
かくして──少年たちは三百余年に渡る九角家の怨念が生み出した鬼との闘いに終止符を打ち、この東京を護り抜いた。
家人の失踪に伴い、それに関係する世田谷区等々力の柳生新陰流の道場を警察が家宅捜査した結果、多数の白骨化した人骨が庭先から、家長の変死体が道場から、それぞれ発見された。家長の孫の高校生の少年は、依然行方不明のままである。
江戸初期に断絶した筈の九角家が、なぜ柳生家と関わりを持っていたのかは、まだ解明されていない。
ただ一つ、言えることは──我々に九角天童と名乗ったあの少年も、時代の流れに翻弄され、祖先の怨念に縛られた被害者だったのではないか、ということである──。
こうして、長きに渡り東京を覆い、人々を恐怖に陥れた猟奇事件はここに幕を閉じた。
これまでの闘いを総括する文章をパソコンに入力していた天野は、やや疲れた眼を労るためにモニターから顔を上げた。
「もうこんな時間に…いつの間にか徹夜していたのね」
デスクから離れベランダに出ると、しばらくの間眼下に広がる雑然とした東京の朝の光景をぼんやりと眺めていた。いつもは賑やか過ぎるこの街も、この夜明けの一時だけは、静かに優しく何かが目覚めるのを待ち受けている、そんな印象を与えてくれた。
天野はやおらひっそりとため息をつく。
<この文章が公にされることは、恐らく無いだろう>
そう思いながらも、だが、天野には書かずにはいられなかった。それはルポライターたる自分が知りえることが出来た、もっとも大きな事件の真相だったからだろうか。
<いいえ、違うわ…。これは、人知れず身を挺してこの東京(まち)を護ってくれた彼らに対する、自分なりのオマージュ(敬意)なのだから…>
天野は澄み切った朝の空気で気持ちを引き締めると、部屋に戻り再び指をキーボードの上で躍らせる。
今はただ…この東京という街と、それを護る為に闘った若者が平穏な日々へと戻れることを祈るだけである。
今はただ、静かに見守ることにしよう…
時代に選ばれた若者たちの、その後ろ姿を───
緋勇龍麻は、今朝もいつもの時間、いつも通りの通学路を歩いていた。
その背中を呼び止めるのは、同じ学校の女子生徒の活発な声。彼女の左右には穏やかな笑みで龍麻に挨拶を交わす女子生徒と、立派な体躯の男子生徒が立っていた。
そして、いつの間にやら龍麻の隣には…
「よッ、お早うさんッ」
相棒と名乗る青年が立っている。龍麻は彼に満面の笑みを向ける。
「おはよう、京一。今日も一日良い日になるといいわね───」
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